XIII
小雨を走るのが気持ちいい。
気持ち悪いけど、気持ちいい。
雨が顔を滴るし、防水のコートを着ても染みてくる。走っているのはたいていアスファルトの上だからほとんど滑ることなどないけれど、それでも足下には注意する。ランニングシューズだって、中までぐっしょり濡れてしまう。決して快くなどないはずなのに、なぜだか晴れている日よりも心が躍る。不快だからこそ、自分の身体が意識される。雨の冷たさを我慢する。雨と汗を含んだシャツが皮膚に纏わり付いて動きが重い。私は拒絶されている。しとしと降る雨の中で、私は世界の異物なんだ。その違和感が、気持ちいい。
風が強くても、雪がちらついてても、天気の悪い時は同じように違和感を感じる。世界から締め出される感じ。それに必死でしがみつく感じ。でも、小雨の時が一番いい。音の響きが違う。雨の匂いが鼻をくすぐる。唇から染みこんだ雨水の味、肌に感じる冷たさ。視界も悪くて、街の景色がいつもと違う。五感すべてで世界を感じる。五感すべてで拒絶を感じる。私はたったひとりだって実感できる。
私はたったひとり。それは嬉しいことではないけれど、忘れてはいけないことだ。
家族がいて、友達がいて、親しい人もいれば、そうでもない人もいて、いつも周りに誰かいて、それが当たり前で、私はその中で、いくらかの人には好意を持たれ、いくらかの人には嫌われている。私自身も他の誰かの友達で、好意をもついくらかの中のひとりや嫌悪するひとりになる。もちろんそれは幸せなことなのだろう。思い出そうとしなければ忘れてしまう幸福感の中で、私は生活している。それを否定しないし、拒絶なんて絶対しない。ぬるま湯のような日常は、あまりに心地いい。それなりに悩むし、厭なこともある。不安で明日が来なければいいと思うこともある。誰にも会いたくない時だってある。ポジティブもネガティブもまぜこぜにしてのぬるま湯だ。でも、そのぬるま湯に溶けきらない残りかすのような私の欠片があるのを私は知っている。
たぶん、それが本当の私、だ。
消えない、消えることのない私、だ。
雨に濡れながら走っていると、普段の私が洗い流される。何処かに紛れている小さな小さな本当の私が形を現わす。世界に決して溶けることのない異物の私が意識の中で肥大してゆく。何事にも干渉されない、絶対的、な、私、だ。私はそれを持て余しながらも愛おしく想う。そして、私は私に支配される。思考が停止し、感覚だけが鋭敏になって、見えない風景が見えているような気がする。聞こえない音楽が聞こえているような気がする。雨水の香りも唇に滲む味も、無味の背後に隠れた豊かさを予感させる。肌を伝う雨滴は、皮膚の裏側へと染みこんでゆくみたいだ。不安と安堵、期待と失望の境界が曖昧になる。言葉にできない感情がふつふつと湧いてくる。
私は、どこへ行こうとしているのかな。
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