XII
私はひとりの観測者にすぎない。少し離れたところから、駆けてゆく少女をただ観測する。今朝の場所、どちらからやってきたのか、どちらの方角へ向かっているのか。走る速度の変化や足音のリズム、汗を滲ませる肌や彼女の表情、その姿から推測される吐息や心臓の鼓動。そしてその朝の天候、気温や湿度といったバックグラウンド。私は五感と想像力を動員しつつ、彼女の走る姿を受け止める。
だが、それだけだ。
それ以上、何するわけでもない。
記録するわけでもなく、ただ、時間が経てば劣化してゆく記憶に焼きつけ、いずれ意識から遠のくだろう長期記憶の保管庫へとしまい込む。
ただ、なんとなく、ぼんやりとした観測者となる。
もちろん私は彼女に興味があるのだ。ただし、彼女自身に対してではない。彼女が走っていることに。そして、それをどういうわけだが気にかけてしまう自分自身の直感に。差し迫った問題があるわけでもなく、立ち上がる幾つもの疑問を解き明かそうと思うわけでもなく、理解できないことをそのままに、この状況をただ静観している自分自身の立ち位置と、それを促す少女の存在に。
だが、これは少女への干渉でもある。
直接接触しなくとも、見ること、見られることが事態を促す。
彼女は私がその姿を眺めていることなど、まるで気が付いていないかもしれない。しかし、自覚しているかどうかは些細なことだ。私が少女を眺めることで、少女の振舞いに僅かながらでも影響を与えているはずだ。それが世の理なのだ。
もちろん、観測は、観測者自身にも影響する。
私は少女を走り去る少女を目で追いながら、そして、彼女が彼女であることを認識しながら、その眼差しを自分自身へと還元させる。つまりは私は私を認めるために、少女へと視線を向けているのか。
歳を取り、自らの存在がどこか薄らいでゆくような気分にさいなまれることがある。他者の役に立ちたいなどとは思っていないし、誰かに自分の存在を認知して欲しいなどとも思わない。私は私として、ただここに有りさえすればいい。むしろ加齢は、社会との関係をシンプルにしてゆく。問題ない。だが、厭世を唱える主体が希薄になるのはどういうことか。たぶん、自らが自らの実在に不審を抱いているのだ。
私は少女との距離を測りながら、自らの座標を探っているのだ。絶対的な原点はない。常に変動する相対的な関係から、ふたりの間に隠れるパラメータを探り出す。あるともしれない方程式を空想する。彼女と私を繋ぐ空間に、何次元かのグリッドを構成してみる。日ごと曖昧さを増してゆく記録とはいえない記憶は、何本もの直線が多次元的に交錯する空間に纏わり付くようにプロットされる。
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