XI
時は、しはしば大きな河の流れに例えられるけれど、それはどうなんだろう。わかりやすくはあるが、僕にはあまりに単純なイメージで違和感がある。複雑でとらえきれない対象を、想像できる程度の比喩でごまかしているような。きっと大切なものを削り落としてしまっている。たぶん、僕たちの想像力では時の本当の姿を垣間見ることさえおぼつかないんじゃないかな。
僕たちにとって、時間は相対的な視点からしか見られないんじゃないだろうか。相対的、なんていうと、物理学のお話しみたいで、確かに科学的にも時間の相対性が謳われている。でも、ここで話そうとしているのはもっと個人的で主観的な印象だ。年齢を重ねるにつれて、時間の経過を早く感じる。多くの人がそう感じているのじゃないのかな。子供の頃は一日でさえずいぶん長かった。学校から帰っても、ひとしきり友達と遊び倒すくらいの時間があった。大人になって、仕事を始めて気が付くと1週間、1ヶ月、いつの間にか過ぎている。歳を重ねる毎にそのスピードは増してゆく。五十も過ぎれば、去年の出来事と思っていたら、もう3、4年経っていた、なんてことも少なくない。たぶん僕たちは、生まれた時から今この瞬間までの時間を常に1としてるのじゃないかな。10歳の時の1年は人生の十分の一だけど、50歳になる五十分の一だ。歳を重ねる毎、相対的に1年はより短く感じる。実はこれ、ジャネの法則と言うらしい。19世紀フランスの心理学者ポール・ジャネが考えついたということだ。一応、断っておけば、僕は僕自身の経験から自力でこの結論にたどり着いたよ。どうせ僕の考えなど先人がいるに違いないと調べてみたら、予想通りいたわけだ。だが、こんな理屈、僕だって思いつくんだ。ジャネ以前に思いついた人などいくらでもいるんじゃないかな。
それに対して時は相対的に見ることが出来ない。始まりも終わりも知らないのだから、悠久の連続の中で、微々たる時の狭間を間借りしている僕たちには、今、どこにいるのかさえわからない。時は常に絶対的だ。個々の主観は関係ない。自然だとか宇宙だとか、僕たちとは関わりなく変化してゆくものの中に、時はあるのだろう。僕らの時間に取り込まれることのない時の流れを覗き見ることが出来るのだろう。だが、それは想像も出来ないほどの大きさをもった時のごく僅かな表面に過ぎない。そして、そんな些細な時の端から時の正体を見ようとするのは所詮無理な相談だ。一片の鱗から龍の姿はわからない。自分たちが知っていること、自分たちが想像できることの範囲で、その姿を組み立てたところで、それはきっと似ても似つかない 形にしかならない。僕たちには、ただ、確かにそこにある、それだけしか、感じられない。ときにはそれすら、感じられない。
別にそんなもの感じようと感じまいとどうでもいいじゃないか。そんな呟きが聞こえそうだよ。その通りだよ、と、答えておこうか。刻まれた時間を繋いでゆけば、日々過ごしてゆける。限られた時間の中で努力をすれば、きっと充実感も得られるだろう。余計なことは考えない方が賢い。ただし、それは僕たちが僕たちのために作った正解だ。
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