12 終わり
この一年、私に何が起こっていたのだろう。私はどうしてこんな目にあったのだろう。なにか悪いことをしたのだろうか。前世の罰でも当たったのかな。
全て終わりにしようって思っていたのに、それすら許されないみたいだ。
終わりにする理由がなくなってしまった。
そして、失ったものはとてつもなく大きい。
でも、私が何かを失ったことなど、誰にもわからない。誰にも理解できない。
私はどうしようもない無力感に襲われた。
もう、彼女を――そう、彼女を――取り戻すことはできないのかな。
熱を出して寝込んでいるときにも、ぼんやりした頭で考えていた。アキちゃんを徹夜に付き合わせ、学校へ行き、講義やゼミに出席し、先生や友達と話し、トーセーに電話したり、メッセージのやり取りをしながら、私はこれからの先行きをちゃんと選ぶべきだ思った。私なりのこれからのことを考えた。たぶん、もう一方の私も同じように辿り着いてるはずだ……確信はあったけど、それが私自身の思い込みである可能性も否定できない。
私と私――彼女との間には、いつまでもそれくらいの隔たりは残されてしまう。
だから、水曜日には気がついていたけど、金曜日の夜になっても、その小さなノートを開くことができなかった。いつもの隠し場所にあることを確かめて、手にしようとして止めた。無意味な行為だ。今日であっても、明日であっても、その中に書かれている彼女の言葉は変わらないはずなのに、まだだって、まだ早いって。寝かせておけばページに綴られた言葉が熟成するのを期待するごとく小刻みに先送りした。食事をしてからにしよう、お風呂に入った後で読もう、ニュース見終わったらね……彼女の小さな日記をテーブルの上におき、切りのいいタイミングを少しずつ更新する。
読むのが怖かったのだ。
予想通りでも、予想が外れていても決して喜ばしいことではないのだ。
結局ノートを開いたのは土曜の朝だった。
私は入学試験の合否通知を開封するような気持ちで表紙を開く。
お互いが秘密の日記をつけていることも、たぶん、あっちの私が読んでいることも既に暗黙の了解事項になっていた。既に眼を通したページを一枚一枚捲る。自分で書いた記憶のない自分自身の筆跡を眺めるのはいつも不思議だ。
既読した最後のページ。
これを捲れば、きっとあるのだ。
私が、私の知らない私自身が、たぶん、やっとの思いで書いた言葉が。
私は指先に薄く汗を滲ませる。
何度も消しゴムで消した後がある。紙がよれよれになっていた。
目に映る文字を声に出して読む。
――リョーシーへ
終わりにしよう――
うん。
終わりにしよう。
やっぱりあなたは私だ。私はあなただ。私は私だ。
私は力が抜けた。
瞳が潤んだのは緊張が一気に緩んだせいだ。
でも、その一縷の涙が様々な感情を連れ出してきた。
私はカーペットの床にぺたんとしゃがみ込んだまま、うん、終わりにしよう、終わりにしよう、と呟いていた。
私が自分の日記に彼女への返事を書いたのは、出掛ける直前。
私は、彼女と私のノートをテーブルに並べて置いた。
色も大きさもデザインも同じノートだ。
私は自分の方の新しいページに「うん」とひとこと書いて閉じた。
もう隠しておく必要はないだろう。
並んだ二冊のノートは、双子の私たちが仲良く並んで寄り添っているようだった。
私ではない私がこの部屋に帰ってくるのは、たぶん翌日の夜になる。帰ってきて、隠してあったはずの私たちのノートが並んでいるのを見るだけで、きっと彼女は理解する――それが五月の終わりから六月の始まりだった。
それからの私たちは少し浮かれ気味だった。
決してハッピーな結末ではない。むしろバッドエンドだ。だが、長いスパンで考えたなら悪くない落としどころだと思う。皆にとって。そして何より私たちにとって。
でも、いろんな人に迷惑はかけちゃうかな。
トーセーやアキちゃんには理解してもらいたいけど、やっぱり無理だろうな。悲しませて、怒らせちゃうかもな。お母さんやお父さんはわけわからないんだろうな。だから、みんなにはちゃんとメッセージ、残さないとね。
一週間毎のお互いのノートによる会話は、不思議とかみ合っていた。いや、不思議でもなんでもないのか。結局は独り言みたいなものだもんね。体も意識もひとつなのだ。ただ、共有できない記憶がふたつ。それも端から見ればちゃんと時系列に整然と並んだ分裂すらしていないひとつの記憶を、私たちはわざわざ丁寧に切り分けているだけなのだ。
トーセーやアキちゃんは、私が気がつかないうちに募らせていたストレスを察してくれたけど、そうだったんだね。そうだったんだよ。私ね、やっぱり疲れちゃった。それに、面倒臭くなったんだ。
ねえ、いつにしようか。
二十一歳の誕生日は迎えたいな。
その時は、また、クリスマスみたいにトーセーからプレゼントをふたつせしめよう。
うん。
晩ご飯二回奢らせて、デートも二回して、全部全部二回して。
アキちゃんのお誕生日も少し早めに祝いしようか。
去年みたいにプレゼントの交換をする。
アキちゃんにはプレゼントふたつあげよう。
私からも。
私からも。
九月は、迎えたくないかな。
うん、夏休みの間がいい。
きっと私たちのこと、どんなに説明してもわかってもらえないよね。
私たちの選択は、絶対にベストではないと思う。でも、今日のこの時点でベターだったことを何年かしたらトーセーは受け入れてくれるかもしれない。でも、アキちゃんには無理かな。
まあ、仕方ないよね。
うん、それでもいい。
後のことは、知らない。
うん、気にしない。気にしない。気にしない。
もちろんこんなにスムースなやりとりがあったわけじゃない。でも、その時期のふたりの秘密の日記を切り貼りしたら、こんな会話が生まれる。だから、一週間おきだけど、私たちはほとんどリアルタイムで会話してたんじゃないかって、振り返って思う。彼女は私の傍にいた。私も彼女の傍にいた。私は私の傍にいた。
遠回しに言ってるけど、もうわかるんじゃないかな。
私は死んじゃおうと思っていたんだ。
自殺、ね。
面白いことに私たちのノートに「死ぬ」とか「自殺」なんて言葉は一切出てこない。
そんな生々しい言葉、必要なかったんだ。
一週間毎のスキップを維持しながら生活を続けることには慣れた。
でもね、案外たいへんなんだ。
もしも私がずっと家で引きこもって、世間との干渉を最低限に抑え込んでいるような生活をしてたなら全く問題ない。でも、私は大学生で、恋人も友達もいる。卒業後の進路を考えなければいけないし、その後のこともどうなるのかわからない。こんな状態もあと一年とか二年で確実に終わるってわかっていたならちょっと辛いときはあるけれど頑張って凌げたと思う。でも、いつまで続くかわからない。しばらくはトーセーも私のことを見守ってくれると思うけど、それだっていつまで続けられるかわからない。所詮、大学時代の恋愛なの。社会人になれば生活も変わる。きっと意識も考え方も変わる。トーセーにだって相手を選ぶ権利はある。私だって彼とは反りが合わないって感じることがあるかもしれない。一緒にいて我慢できなくなることだってあるかもしれない。もしも、このまま交際が続いてめでたく家族になったとしても、それってどうなんだろう。
トーセーのパートナーとして彼を支えることができるの?
子供ができて私はちゃんとその子を育てることができるの?
その子には私が普通でないことを打ち明けるべきなの?
それともずっと隠し通すの?
そのうちに本当に気が狂っちゃうかもしれない。今はまだ理性的な判断ができる。それぞれの私だけならまったくもって普通の大学生だ。だけどこの先何十年も、こんな状態に耐えられるのかな……今後の人生を想像し、雪崩のように押し寄せてきそうな問題を予感した。ずいぶん前からわかっていたけど、無理矢理無視していたんだと思う。
五月に熱を出して寝込んだ後、私は私と私の夢をたびたび見た。
それまでの夢にだって私と私が出てくることはあったけど、高熱が退いて、体調が戻ってから見る夢は、ふたりの私が向かい合って談笑する夢だ。
思い過ごしでしかないかもしれないけど、私が私を受け入れたような気がした。
私も、あっちの私もそれぞれがそれぞれを受け入れた。
だから、解決できると感じた。
無理しちゃいけないと思った。
もっと単純に考えなくちゃ。
そうして、無尽蔵に吹き出す不安を認知した。
その上での選択、だ。
選択肢は他にもあった。ひとりどこかに引きこもることも考えた。でも、全く以て現実的じゃない。虫ならよかった。目の前の目的だけを見ていればいい。もっとも虫なら記憶が途切れ途切れになってもあんまり関係ないか。でも、厄介なことに私は人間で大学生で父親の扶養家族で、一食一食お金がかかって、家賃がかかって、光熱費がかかる。お洋服だって買わなきゃいけない。たとえ心の病気ってことにしても、原因不明の精神病だ。いくつかの病院に行ってお医者さんに相談したけど、どこへ行っても同じような答えばかりだった。様子を見ましょうって保留にされて、結局何も変わらない。あらためて治療を受けることにしたとしても、的外れの診断をされて、的外れの検査や治療を受けたら、私、本当におかしくなっちゃうかも。きっとお金もいっぱいかかる。父にも母にも負担をかける。トーセーの言うとおりだ。人はただ生きて行くためだけに何でこんなにややこしい仕組みをつくっちゃったのかな。
だから、最もシンプルな選択肢を選んだ。
私たちは私たちを排除する。
うん、それだ。
それだよね。
なんだか軽く思われるかもしれないけれど、それほど軽い決断ではない。
だからといって深刻、というわけでもない。
とても中庸だ。
私なりに冷静な判断をした結果なのだ。
こんなことがバレたら他人は、他にも方法があるだろうって止めるんだろうな。命を粗末にするな、とか。それを言うのは簡単だ。ならばベストの方法を示して欲しい。私の置かれた事情を完璧に理解して、その上で一緒に考えて欲しい。薄っぺらなヒューマニズムこそ人の身勝手なんじゃないかな。蝶 一羽より人ひとりの命の方が重いというなら、その証拠を見せて欲しい。自分たちの生活に必要だったり、邪魔だったりする命は躊躇うことなく奪い、排除するのにね。命の目的が命を繋ぐことなら、過剰な営みは不自然だ……別に倫理を説くつもりはない。つまりは、自分のことを考えているとそんな哲学だか宗教だかにまで行きついてしまいそうほど、私はいっぱいいっぱいだった、ということ。だから、みんなはみんながそれぞれ考える幸せに突き進んで生きてゆけばいい。私はちょっとしたトラブルを起こしちゃったから途中で離脱するだけなんだよ。
痛いのはイヤだな。
苦しいのも避けたいな。
まだ少し時間はあるから、方法はそれまでに考えましょう。
で、もうひとつ問題よ。
どっちが実行犯?
う~ん。
う~ん。
これはなかなか究極の選択だ。
自らを手にかけるのはやっぱり躊躇われる。でも、眠って次に目覚めることがないのも、なんだか覚悟のないまま消えちゃうみたいでちょっと寂しい。どっちもどっちだ。じゃんけんして決めたいくらいだけど、残念ながら私たちはそういうゲームができない。一週間のタイムラグはフェアじゃない。
それも方法とこみこみで決めることになっていた。
やっぱり遺書も必要だよねと、ざっくりとした草稿案も秘密の日記に綴ったり。
そして、私の二十一歳の誕生日を迎える頃にはだいたい計画が固まっていた。具体的な準備と実行は誕生日のあと。正確には、両方の私がトーセーにお祝いしてもらった後。
今年の誕生日は月曜の上、やっぱり去年と同じで大学のレポート提出だとか前期のテストだとかが重なる時期だ。どうせいなくなっちゃうんだから、そんなの一生懸命やっても無駄なんだけど、あんまり普段と違うところは見せたくないし、根が小心で、どうでもいいところで真面目さが出てしまう私は提出物にも試験にもなんだかんだと力を入れてしまう。だから、同じ週の金曜日、全てが一段落したところで一回目のお祝い。翌日土曜はトーセーとデートして、日曜未明に交代して次の私が日曜のお昼にデートして夜には二回目のお祝いしてもらう。そして、そのあと具体的な行動の準備を進める。実行は八月後半。それまでに、アキちゃんとのプレゼント交換もしなきゃ。
八週間、四往復の交換日記的なやり取りしかなかったけど、計画はどんどん具体的になっていった。
二十一歳の誕生日が過ぎ、最初にお祝いしてもらうのは私の方だった。
そういえば、去年テストを受けたのも私だったな、ちょっと私が損してない? なんて秘密の日記に悪態をついておいた。大学前期の日程が終了し、私はその足でトーセーとの待ち合わせに向かった。
トーセーは金土日月と足かけ四日、私に付き合うことになっている。
「トーセーもたいへんだね、私みたいなのに付き合わされて」
「全くだよ。公認の二股だからね。しかも君と彼女は親友以上に仲良しふたりときてる」
以前は隔週の私と私を人格として区別しないようにと気をつかっていたトーセーも、私がしばしば、彼女とか、あの子とか、もう一方の私に三人称的な呼び方をしているのに気がついて、彼自身も私にあわせて来週のリョーシーを「彼女」と呼ぶ。
――双子の姉妹と隔週で付き合っている設定にして、なんとか慣れた。
ちょっと前にそんな事を言っていた。
その日の夕食は、トーセーの部屋の近くにあるカフェ・レストランに行った。レストラン、といってもバーカウンターがあって、深夜までバー営業もしている。これまでにも何度か連れてきてもらったことがある。付近が住宅地だからか、近所の人達が集まる場所にもなっていてどこかアットホームだ。トーセーも時々飲みに来るみたいで、スタッフや顔見知りのお客さんと立ち話をしていた。
とりあえず、ビールで乾杯をした。
「リョーシー、二十一歳だね、おめでとう」
「ありがと」
さて、プレゼント、だね。
小さな包みが私の前に置かれた。
「言われる前に予め言っておく。虫だよ」
うん。そうだと思ってた。
銀のコガネムシみたいな昆虫のチャームがついたネックレスが入っていた。
「コガネムシじゃなくて、それはスカラベ」
スカラベ?……エジプトの壁画とか出てくる虫だよね。
フンコロガシとも言う。
えっと……ファーブルだ。
よく知ってるね。
一般常識です。
「再生の象徴なんだってね、スカラベは」
うん、私も聞いたことがある。
誕生日ってさ、気分が一新される気がしないかな。二十一っていう数字もなんだかこれまでと違う感じがするんだよ。七かける三で二十一。小学校で九九を覚えたとき、中でもシチサンニジュウイチってフレーズがなんか新鮮でとっても好きだったんだよね。そんなわけで、これからの新しい一年のために乾杯。
その晩、私はトーセーの横で眠った。
翌日、私たちは春に連れて行ってもらった動物園の蝶が舞う温室を見に行った。これは私のリクエストだ。やっぱり生きている蝶々はきれいで可愛い。トーセーは、翌日の日曜も同じ場所を訪れることになっている。その夜交代する私も、同じリクエストをしていた。
「僕らは連日ここを訪ねる蝶々好きのカップルだね」
まあ、僕はどんな虫でも見ていて飽きることなんてないからいいんだけど。
夏休みの週末で、家族連れがたくさんいた。
土曜の夜は、私の部屋で手料理をご馳走してあげる。
動物園は、トーセーのところより私の部屋の方が少し近い。
私はあと何回、彼とこんなふうに過ごせるのだろうと考えていた。寂しくて悲しかったけど、仕方ない。
食事の後、一日中歩き回って疲れたのか、トーセーはとても眠そうだった。
「トーセー、今日はゆっくり眠っていいよ」
うん、悪い……。
本当は今夜も抱いて欲しかったけど、明日のリョーシーに元気な彼を渡さないとね。
私も疲れていた。だから、後片付けをして、トーセーの横に潜り込んだ。
そこまでは予定通りだったのに。
私は自分の部屋で目覚めた。
夕べの記憶は一週間前の記憶だ。七月最後の土曜だったから目覚めればもう八月になっている。トーセーが横で眠っていた。
今週もトーセー来たんだ。
目覚めたら、とりあえず日付を確認するのが習慣になっていた。前の週、余計に眠ってしまったり、余儀なく徹夜をしてしまうことが無いとはいえない。その週のうちに修正しておくことにはなっているけど、うまくいかない可能性もある。それに、彼女の、もう一方の私の一週間も確認しなきゃ。
私は、スマホのボタンを押してロックを外した。
え……。
まだ、七月だった。
どうして?
昨日の私と今日の私は同じ記憶を持った私だった。
眠る回数を減らさない限り、交代する日にちが後ろにずれることはない。この一週間、私は徹夜なんかしていない。
眠りが浅くて、カウントされなかった?
だが、これまでにそんな事は一度も無かった。
テレビをつけてみた。
朝のニュースの片隅に、七月の日付が出ていた。
パソコンを起動した。
パソコンの時計も、今日が七月であることを表示していた。
この一年の経験では解釈できないことが起こっている。
どういうこと?
私は混乱していた。
「おはよう、リョーシー」
トーセーが目を覚ました。
「トーセー」
「どうかした?」
「うん……代わってないの」
代わってない?
うん、代わってないの……。
翌日も代わらなかった。
翌々日も、その次の日も、私は代わらなかった。
一週間経って、もう七回眠っても、十四回眠っても代わらなかった。
でも、私のこの一年の記憶は点線みたいに途切れている。私のもう半分の記憶は蘇らない。記憶のスキップが起こらなくなったのは喜ぶべきことなのだけど、私は単純に喜べなかった。
私が半分消えてしまった。
半分の記憶を持った私がいなくなってしまった。
リョーシー、いなくなっちゃった……。
肉体はここにある。
意識もここにある。
ただ、記憶が半年分失われてしまっただけなのだけど、それだけのことなら、一風変わった記憶喪失でしかないのだけど、私はなくなった半分の記憶を持ったもうひとりの私がいたことを知っている。彼女がこれまでに残したメッセージが全部SNSに残っている。彼女の書いたノートがここにある。
一ヶ月たって九月になり、夏休みも終わってまた学生生活が戻ってきた。
私は何事もなかったように日常へと戻る。
私は彼女を喪ってしまったことをいっそう強く意識するようになった。
後悔した。
誕生日をちゃんとマークしておくべきだったかな。
誕生日から始まった記憶の交代だ。次の誕生日に、また何か起こるかもって用心しておくべきだった。最初の頃はトーセーが誕生日が何か関係してるんじゃないかって気にしていたけど、半年、一年と過ぎ、すっかり意識の外へと追いやられていた。原因を知りたいと思っていたけど、日々を上手にやり過ごすことに、もう半分の記憶の持つもうひとりの私と上手くやってゆくことに気を回しているうち、原因解明など二の次、三の次になっていた。
もっとも、誕生日をマークしていたところで何も対処なんてできなかったけど。
それでも、覚悟だけはできたかな。
トーセーは、記憶のスキップが起こらなくなったのに悲しそうな顔をしている私と、もうひとつ用意した誕生日のプレゼントを手に複雑な気持ちだったみたい。私の喪失感を少しは理解してくれたみたいだ。でも、少ししか理解できないみたい。双子の姉妹、なんて割り切ろうとしていたけど、やっぱり彼にとって私はひとりだったんだ。私は彼から預かったもうひとつのプレゼントがなんだか彼女の形見のように感じた。
アキちゃんには、私と私の計画していたことを一部始終打ち明けた。片割れを失ってしまった寂しさは、トーセーよりもわかってくれたみたい。アキちゃんは無自覚のうちに、私と私をなんとなく別の人格としてとらえていたみたいだ。だから、取り残された私のことを心配してた――大丈夫だよ、アキちゃん。私ひとりじゃなにもできないから。
十月になり、クリスマスを過ぎ、年が明ける。
彼女が再び現れないのはほぼ確定したと思っていいのかもしれない。
絶対ではないけれど、彼女は私の前にはもう戻らないような気がした。
私はふと彼女のことを思い出す。
SNSと小さなノートの向こう側にいた彼女のことを思う。
胸が苦しくなる。
涙が滲んでしまう。
ときどき秘密ではなくなった秘密の日記を読み返す。全ては彼女が私に遺した言葉だ。終わりの方には、ふたりで考えた遺書の草稿がある。「みんなへ」とはなってはいるけど、今になっては私へ宛てた彼女のメッセージだ。
『みんなへ
楽しかったよ。嬉しいことも悲しいこともあったけれど、概ね幸せだったよ。私はちょっと事情があってリタイアするね。それが一番いいと思うんだ。しばらくの間は迷惑かけちゃうかもしれないけど、ごめん。でも、私のことなんて忘れていいからね。
リョーシー/ヨシエ』
忘れていいからね、なんて、半分は私も考えて書いた言葉なのに、なんて身勝手なんだろう。
二十歳の一年間の思い出を十年先、二十年先、みんなはどれだけ忘れずにいるのだろう。自分自身の十年前、子供の頃を思えばほとんど忘れていても仕方ない。ましてや私は二十歳の記憶を半分しか持っていない。これから先、何事もなければ何十年か続くだろう人生の中で、すっかり忘れてしまってもしかたないくらいの僅かな記憶だ。いっぱい、いっぱい忘れてしまうだろう。でも、私は彼女と共に消えてしまった記憶のことはきっと忘れられない。私の記憶にない記憶が忘れられない。忘れられるわけがない……きっと。
それに忘れたくても、記録だけは残っている。SNSのメモも、秘密のノートも、消したり捨てたりすることはできない。少なくとも今の私にはできない。
私はひとりで勝手に消えてしまった彼女に憤りすら感じた。
でも。
本当に彼女はいなくなってしまったのかな。
私は彼女がどこかにいることを信じている。
だって、この頭の中の出来事だもの。この脳みそのどこか片隅に隠れているに違いない。彼女も彼女の記憶もここからは出て行けないはず、だ。
だから、ひとりSNSはそのまま続けていた。
あの子がいつ出てきてもいいように、伝えるべきことを毎日書き込んだ。ついでにみんなの近況も書き留めておいた。消えたのが私で、残ったのがあの子だったとしても絶対に同じことをする。
――リョーシー、今日はね、アキちゃんと会ったよ。アキちゃん、本当にキタムラくんとつきあい始めたって。これまでもときどき呼びつけて連れ回していたみたいだけど、キタムラくんからカノジョになってください、って言わせた、って……。
一年後でも、十年後でも、三十年後でもいい、私はいつか彼女が復活してくれることを望んでいる。冷静に考えればおかしな望みだ。でも、そうであればいいと思っている。
一週間のはずが、三十年たってたなんて、驚くだろうな……。
SNSに書き込みながら、私は、浦島太郞になって慌てふためくリョーシーを想像する。とても可笑しかった。そして、とてもとても悲しくなった。書き込んでいる画面が涙に霞んで見えなくなった……だって、リョーシー、そのとき隣にトーセーやアキちゃんがいる保証はないんだもんね。
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