XIV ROOM NO.303 : そして、今夜
私は自分の部屋の前に立つ。
また今日も帰ってきたんだなと思う虚しさ。
本当にここが私の部屋なのかな、という不安……そうじゃない。期待?
私は野菜や調味料や冷凍食品の入ったエコバッグを片手にしばらくぼんやり佇んだ。
空いた左手でインターホンのボタンを押してみた。
ピンポーンと、いかにもありきたりな電子音のベルが鳴る。誰も出てくるはずなどないのだけれど、扉の向こうに足音を期待する。
でも、勘違いしないでね。
誰かにいて欲しいとか、一人暮らしが寂しいとか、そんなセンチメンタルは残念ながら持ち合わせてはいない。たぶん、私は私が大好きなんだ。
中から足音がする。
もちろん、気のせいです。
ガチャガチャとチェーンの外れる音がする。
もちろん、幻聴です。
かちんと錠が解かれ、扉がそろりと開く。
もちろん、妄想、です。
扉の向こうから部屋の明かりを背負い、影になった私が顔を覗かせる。少し驚いた顔、少し嬉しそうな目、何か言いたげで言葉の見つからない唇。私たちの視線は上手く合わさらない。
――いらっしゃい、なのかな、それともお帰り?
――そうだね……いらっしゃい、が、いいかな。
それじゃあ……いらっしゃい。見慣れた我が家へようこそ。
そう。見慣れた我が家、だ。だけど、本当なのかな。カーペットもカーテンもテーブルもベッドも、棚に並んだ雑貨も今朝出かけたときと何ひとつ変わらない。でも、それはどこか思い出の写真を見ているような気分になる。
そうね、今のあなたはほんのりお客様モードだからね。まあ、自分の家としか思えないだろうから、いつものようにくつろげばいいわ。ご飯、もうすぐできるわよ。
ありがとう……あ、これ。
私はさっきスーパーで買ってきた食料品やら調味料やらをもうひとりの私に渡す。彼女は中を覗くと満足げに頷いて、しまっておくわ、とキッチンに立つ。
さて、どうしようかな。
私は少し考える。ここは紛れもなく私の部屋なんだけど、何だかどうしようもなく他人になってしまった気がする。ちりちりと音を立てるフライパンに向かってぱらぱらと塩胡椒する私自身の後ろ姿なんて、この上もなく新鮮なんだけど、そんなことを冷静に感じることができるほど私は見知らぬ遠い世界へ来てしまったような気がする。
それほど遠くでもないわ。
キッチンから私が答える。
以心伝心?
自問自答、ね。
冷蔵庫がバタンと閉まる音。
そうね……緩い螺旋をひとまわり、って感じじゃない?
知ったようなこと言うじゃない。
私を誰だと思ってるの?
ああ、そう……そうね……ん……そうなの?
自分の住処のようで、やっぱり些か違和感がある。だから躊躇いはあったのだけど、私は彼女の、あるいは私の言うとおり、いつものように部屋着に着替えることにした。スーツを脱いでハンガーに掛け、クローゼットにしまう。引き出しからベージュのハーフパンツと白いTシャツを出し、洗面台で念入りに顔を洗う。洗顔フォームもタオルもいつもと同じ場所だから、目を閉じていても間違えない。鏡を見れば変わり映えのしない私の素顔だ。やっぱり左右の反転している方が親しみがある。
うん、いいんじゃない。その調子。
お化粧を落とした私を見て、もうひとりの私がにやにやと笑う。
なんか、感じ悪いわよ。
それは自虐よ。
そんなひねくれた切り返しがいかにも自分らしくて気が滅入る。
テーブルには二人分の料理が並んでいた。
いつも私が使っているお茶碗だけど……うちに同じ物ふたつなかったはずよ?
そんなこと言ったらさ、うちに私、二人もいなかったんじゃない?
全く、だわね。
お皿も、カップも、普段使いの自分用がそっくりふたつ。どうせなら、もう何年も使っていないお客様用を使ってくれたらいいのに、なんて、心の中で呟いたら、間髪入れず、そんな気遣いあなただってしないでしょうと、彼女の嘲笑うような声がする。自分を見透かす自分なんて、なんとも厄介だ。
白いご飯に、フリーズドライのコンソメスープ。レタスとトマトのサラダの横に、さっき買ってきたばかりでまだ封を切っていないフレンチドレッシングの瓶が並ぶ。そしておかずは、鱈のムニエルジェノバソース添え。オシャレな響きで、一見、手が込んでみえるけれど、実はそうでもない。それに、自分に出すんだから付け合わせなんてないし。
いただきます。
私に話したいことある?
特にない。
私に聞きたいことは?
全くない。
あなた、なかんだかつまんないわよ。
それ、自虐。
私たちは顔を見合わせることも、暖かい微笑みを交わすこともなく、仏頂面で黙々とご飯を食べる。
何か面白い話でもしてよ。
ない。あなたこそ……。
ない。
空気の抜けたビーチボールみたいに会話は全く弾まないのだけれど、私はけっこう楽しかった。さほど好物というわけでもない白身のお魚をとっても美味しく頂いた。
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