七日で魚になる (2/7)

七日で魚になる(第2話)

加藤那奈

小説

5,430文字

どうして私は家に帰るのだろう。
それは、家があるからだけれど、そこに山があるから登るとか、ゴールがあるから走るんだとか、そんなレトリックは、ときどき格好良く感じるだけで、その実何も意味を成していない。
・・
すると彼女が笑う。
それには心当たりがあるわ。きっと秋刀魚を焼いていたから、じゃない?
(2017年)

IV 朝食: SAURY

 

何かいたんだよ。

彼は眠たげな目を擦りながらダイニングにやって来る。

彼女はいつものように背を向けてキッチンに立っている。彼女は彼が起きてきたことに気づいているのかいないのか、じっと鍋を覗き込んでいる。彼は、それを特に気にするでもなく椅子に腰掛け、話を続ける。ダイニングテーブルには瓢箪の形をした箸置きに箸。彼はそんなものには目もくれない。

昨日の夢の続きなのかな、あれは。もっとも昨日はただ青い海の中で溺れそうになっていただけだから、続きもなにもないんだけれどね。また、海の中にいたんだよ。あ、まただと思った。でもね、夢の中のぼくは夢を見ているぼくじゃないから、〝また〟と思ったものの、目覚めたぼくが〝また〟と思うのとは違う意味での〝また〟だったんじゃないかな……なんだかややこしいけど。とにかくぼくは透き通った青い海の中にいた。面白いと思わないかい?

鍋の中身をスプーンで掬い味見をする彼女は、ちらりと彼の方に顔を向ける。

何が?

何がって……二日続けて同じような夢を見るなんて、あんまりないでしょ。

そうね……ないかもね。でも、よくわからないわね。わたし夢なんてすぐ忘れちゃうから。あなただってそうじゃないの?

うん、そう言われればそうだけど……。

だから、本当は同じような夢だとか、昨日の夢の続きだとかをしょっちゅう見てるのかもしれないじゃない。大河ドラマみたいに何回も続いているんだけど、覚えているのは十回に一回あるかないかでしょ。ストーリーなんてぜんぜんわからない。それに、その一回だって途切れ途切れで、始まりから終わりまで覚えているとは限らないじゃない。

なるほどね。一理あるような気がする。気がするだけだけど。

わたしも言ってみただけだけど。

彼女は無責任に鼻先で笑う。

で、何かがいたって、夢のこと?

ああ、うん……何かがね。

昨日よりぼくには少し余裕があったんだ。海中なのに息を止めている感じでもなかったしね。ぼくは空を眺めるように青い海を眺めていた。ただ、上下の感覚ははっきりしないんだ。自分が真っ直ぐ立っているのか、横になっているのか、仰向けなのか俯せなのか、それとももっととんでもない姿勢をしているのか。本当のダイビングでも上下の感覚を失うことがあるって何かで聞いたけれど、あんな感じなのかな。重力に浮力と水圧が加わって――引力だとか遠心力なんかもブレンドされていたりするかもれない――ぼくの身体はなんとなく漂っているようなんだ。
今日のは昨日の海より暗かった。夜明け前みたいだった。空の端がほんの少し薄らぐような僅かに明るい方向がきっと上なんだろうなとは思うんだけど、その方向が徐々に変わるんだ。ぼくの身体が水の流れにゆっくり回転していると考えるのが順当だけど、絶対的な基準がないから確かめようがない。まあ、そんなのとりあえずどうでもいいんだ。それでね、ただ流されていても仕方がないから、泳いでみようと思ったんだ。
泳いだの?

彼女が手を止め、彼の顔を見る。

彼は、夢を思い出すように目を閉じる。

たぶん。

頼りないわね。

泳いだ、というか藻掻いたというか。バタ足したり、掌で水を掻いたりしてみたつもりだけれど、はたして前に進んでいるのか、これっぽっちも動いていないのか、ぼくの努力も空しく流れに負けて後退しているのか判然としない。目標となる目印があるわけでもないし、ほんのり明るい方角があっても、動いているのはぼくじゃなくてあっちの方かもしれないんだ。気持ちの上では一生懸命泳いでいるつもりなのに、考えてもごらんよ、ぼくは泳ぎが得意ではないから、自分の身体をイメージどおりにコントロールできているのかもよくわからない。

彼女は漬物が盛りつけられたお皿を片手に載せて、ダイニングテーブルの真ん中に置く。胡瓜、茄子、大根、にんじん。自家製の糠漬けだ――ビニールパックの漬物なんて、なんだか味気ないでしょう――だから彼女は琺瑯容器の小さな糠床を持っている。

今度、スキューバダイビングしてみない?

彼女は胡瓜を一切れつまみ食いしながら思いつく。

わたし、泳ぐの好きだけど、今までダイビングしてみようなんて考えたこともなかった。泳ぐのと潜るのは別物のような気がしていたしね。泳ぎの上手下手もそれほど関係ないみたいだから、きっとあなたも大丈夫。
そうなの?

季節も特に選ばないんだって。海水浴みたいに夏まで待たなくてもいいんじゃないかな。今度のお休みにだって行こうと思えば行けるわよ――あ、どうせあなたはいつもお休みみたいなものか……。

失礼な。

彼は口を尖らせ笑ってみせる。笑いながら考える。

いいけど……潜っていいけど、もうしばらく先がいいかな。

どうして。

どうしてだろう。まだ、駄目だと思う。

彼女はふふんと鼻を鳴らしてキッチンに戻る。彼の不明な物言いなど今に始まったことではない。

たぶんね、まだまだ夢は続くんだ。

海の夢?

青い夢。

彼は、キッチンに立つ背中を眺めて、しばらく目にしていない水着の彼女を想像する。いつか見るかもしれないダイビングスーツに身を包む彼女を思い浮かべる。

その夢の行方がわかるまで、本当の海には潜らない方がいい。潜ったら夢が歪んでしまいそうな気がするんだよ。だってね、海の中を知らないぼくだから、あの青い海を作り出せたと思うんだ。これまで目にした写真だとか映像だとか、勝手に空想したイメージだとか、そんな記憶の断片をつなぎ合わせてできた海なんだ。今は、本物の海が割り込む余地なんてない。そこに無理矢理本物を重ねたら、なにか、こう、その夢の意味が永遠に失われてしまいそうな気がするんだよ。

彼女は膳に乗せた朝食を彼の前に置く。

秋刀魚の塩焼きにみぞれ醤油、赤が多めの合わせ味噌を使ったキャベツの味噌汁にごまを軽く振った白いご飯。

春の秋刀魚はちょっと淡泊だからね……それは常々お魚の塩焼きに調味料などつけてはいけないと主張する彼女の言い訳だ。だけど彼はその言い訳に気がつかない。秋刀魚の細長い紡錘形をじっと見ているばかりで、箸を手にするのも忘れている。
どうかした?

あ、うん……こんな形だったかな。

何のこと?

何かがいたって言ったでしょ。こんな細長くってすっとした形だったような気がするんだ。まずいな、だんだん忘れかけている。でも、魚だなんて思いもしなかった。海なんだから魚、だよな……青い空間に影が現れたんだ……ぼくは自分の姿勢すら自覚できないまま、泳いでいるのか藻掻いているのか漂っているのか、とにかくふわふわと浮いていた。夢のぼくには全ての行動にちゃんと目的があったはずだけど、目覚めたぼくにはわからない。泳いだり藻掻いたりしたのは、ちょっとした確認作業だったのかもね。上下左右とか東西南北なんて、夢の摂理と関係ない。ぼくの夢ではぼくが原点なんだ。たぶん、そんなことを確かめていた――夢の中のぼくは無意識のうちに立体座標を想定していたんじゃないかな。

たぶん? していたんじゃないかな?

いや、なんとなく。僕にはそんな癖があるんだよ。

そうなの?

うん、いつの間にか高さ幅奥行きの三方向にマス目を区切って世界を編み目の中で眺めてるんだ。
職業病みたいなものなのかしら、それ。

どうだろう。違うんじゃないかな――きみも想像してごらんよ、青い水に充ち満ちた何もない空間に立体的なグリッドを描くとね、自分の座標を自覚するんだ。自分が世界の中心で静止していることを、少なくとも錯覚できる。もしもそこに何かが存在すれば、自分との距離やそいつの大きさなんかも想像できる。夢の中のぼくが目覚めたぼくと同じ感性をしているのなら、無自覚にそんな見方、してたと思うんだ。そしてね、ぼくは仮想した編み目をすり抜ける影を見たんだ。

青白い影が通り過ぎていった。仄暗い青の中からふうっと現れぐんぐん近づいてくる。ぶつかりそうになりながら、ぼくの脇を滑るように素早く、するっと、ね。ぼくは身体の向きを変えてみる。その影をぼくの座標系に捕らえようと試みる。だけど、水の抵抗で振り返るのもひと苦労だ。身体が意識に追いつかない。青白い影は、そんなぼくをからかうように、遠ざかっては寄ってくる。無秩序に座標を移動し、ぼくに近寄っては、顔やら頸やら腕やらに纏わりつくんだ――海なんだからきっとそれは魚だと、目覚めたぼくは推測するけど、夢のぼくにはもっと違うものに見えていたんじゃないのかな。

それはいいけど、冷めないうちに食べてねと、彼女が味噌汁のお椀に口をつける。

魚じゃないとしたら何だと思う?

彼は秋刀魚の身を解し、みぞれ醤油を絡めて食べる。

知らないわ。わたしに聞いても仕方ないでしょ。

彼は彼女の素っ気ない態度にむしろ安心し、だんだん日常を取り戻してゆく。意地悪な目に軽く睨まれて幸福感が満ちてゆく。

でも細長いお魚ならいくつか思いつくわよ。鰻や鰌はくねくねし過ぎ? え? 淡水魚は駄目? それじゃあそうね、太刀魚でしょ、サヨリでしょ。そうそう、兵児鮎って知ってる? 頭を下にして泳いでいるの。あれ、ヘンだよね。

身体を動かしすぎたせいなのかな、それまで呼吸をしているのかどうかなんて意識していなかったんだけど、急に息苦しくなったんだ。

それで、溺れた?

いや、やっぱり溺れることなんてできないよ。昨日と同じ。塩辛い水の味をじわじわ感じ、意識を失いそうになるのと引き替えにベッドの上で飛び起きた。やっぱりパジャマは汗でびっしょりだった。目覚め際、ほんの少しだけ潮の香りがしたんだけど……。

彼が不思議そうに茄子の糠漬けを箸で挟む。

すると彼女が笑う。

それには心当たりがあるわ。きっと秋刀魚を焼いていたから、じゃない?

2025年1月20日公開

作品集『七日で魚になる』第2話 (全7話)

© 2025 加藤那奈

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