IX
ボクの記憶は過去に向かってぼんやりしている。
記憶なんて、誰であろうとそんなものかも知れないけれど、どうなのかな。
昨日今日のことは覚えているにしても、3日前になると相当曖昧で、ひと月前だとほとんど忘れている。全く忘れているわけではない。小さな断片が散らばっていて、その中にはついさっきのことみたいに鮮明に蘇るものも少なからずあるにはあるけれど、でも、それがどれほど前の出来事なのかは皆目見当がつかないんだ。二ヶ月前のことも、3年前のことも、ボクには同じ程度の記憶の断片でしかない。
記憶の断片に時間的な連続性はない。どれが新しくてどれが古いのかはわからない。ひとつひとつがぼんやりとした記憶の靄にぷかぷか浮かんでいるだけだ。だからね、こんなことも考えられないかな……全部がボクの記憶だと思っているけど、中には、見ず知らずの誰かがしていた噂話をたまたま耳にしたボクがあたかも自分に起こった出来事のように勘違いしている、とか。あるいはいつか思い巡らせた出来のいい妄想をいろんな記憶の断片と一緒に並べて大切に保管しているだけかもしれない、とか。
ボクがこの小さな頭の中に保管している記憶が、ボク自身が実際に経験した出来事なのかはけっこう怪しい。
ボクのボクという自覚を含めて、すべてが作りものっぼいんだ。
まあ、だからどうした、それがどうした、だけどね。
本当はなにひとつ考えなくてもいいはずなんだ。世間だとか時間だとかの流れに身を任せ、その都度上手に反応していれば、きっとどこかに辿り着けるんだろう。
最初から目的地なんてないと思わないかい?
自分が選んだ目的だとか、目指す夢の到達点とか、そんなの怠惰を抜け出すための詭弁だと思わないかい?
世界はね、ボクらに何かを求めてなんていやしない。
何があっても、あるいは何にもなくても世界はただ世界で有り続けるんだよ。
それでもボクがボクを自覚して、偽物めいた記憶の景色を後生大事にとどめているのは、きっと違和感があるからなんだと思う。世界に馴染みきっていないんだよ。あくまで、これはボクの問題として、なんだけど。余計なことを考えて、わざとらしく考えて、世界の流れに逆らっているんだ。
ある意味、レジスタンス、だね。この上、もっともらしい理由や哲学、思想を滔々と語れたりしたら、エネルギー効率の悪さ極まれり、といった所なんだが、残念ながら、ボクの知性は愚痴めいた詭弁を弄するところで限界だ。なさけない。けど、ちょうどいい。
陽が沈む。
夜になる。
人気のなくなる街は歩きやすい。と、思うのはボクの勝手だ。
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