09 マユのこと
マユから電話があった。
――ちょっと相談したいことがあるから、近々、泊まりに行ってもいい?
――私んちに?
――うん。ダメ?
――ううん、かまわないけど……泊まりがけでする相談?
――まあ、そうかな。たまにはあんたんちに遊びに行ってみたいってのもある。久々でしょ。最近、そういうことしてないじゃない。だから、ゆっくり時間が取れる日に……行ってもいいかな。
――今は家で仕事してるから、散らかってるわよ。
――なんとなく、想像がつく。几帳面そうで、案外ずぼらだもんね。
――バレてた?
――バレるも何も、十年前から知ってるよ。
あ、そう……それじゃあ、そうね――私はスケジュールを確かめながら、次の週の週末を提案した――どうかな。
うん、それでいい。夕方食材持って行くから、私がご飯、作って上げよう。
それは楽しみ。
うん、楽しみにしているがいい。
約束の日の午後四時頃、マユが私のマンションにやって来た。駅前にあるスーパーマーケットの袋をふたつ、大きく膨らませてぶら下げていた。
重かったよ。
電話くれれば迎えに行ったのに……これから、どんなパーティーが始まるの?
ふたりっきりの楽しいパーティー。
料理上手といういかにも女子らしい特技を持ちつつ、マユはいわゆるギャル系だった。高校では校則があったから、制服を怒られない程度に着崩すことで我慢していたけれど、私服はちょっと派手目で大人びていて、実際どうかは別にするけど、いかにも遊び慣れているような雰囲気を醸し出していた。高校を卒業し枷が外れてからは、髪を染めて睫を盛ったりカラコン入れたり、メイクは少し濃いめにばっちり決めていた。大学は別々だったから、たまにしか会わなかったけど、だんだん華やかさに磨きがかかっていった。
とてもお嬢さま学校の学生に見えないよ――それが私の挨拶代わりだった。
そのギャップにみんな萌えるの。
みんな、というのはもちろん男のことで、見た目に違わず異性関係もまあまあ派手だったみたいだ。それをはっきり確かめたことはないけれど、会う度「今度の彼氏はね」を彼女の挨拶代わりに聞いていた。
ところが。
社会人になってからは、学生時代の弾けた感じはなりをひそめて、まともな、とてもまともなOLになっていた。その変わり具合をからかったとき、何かをあきらめたような顔をしていた。
どんなに頑張ってもね、私は割と普通の一般人なのよ、あんたと違って。
私と違って?
うん。
私も割と普通の一般人だと思うけど。
マユが、ふふん、と、鼻で笑った。
――座っていていいよ、邪魔だからぁ……。
私はキッチンから締め出された。
一段と手際よくなったんじゃない?
うん。料理はそれなり得意だったけど、さらに磨きがかかってるわよ。お料理教室とか通っちゃってるし、花嫁修業の一環、ていうことで。
花嫁修業?
なんだか似合わないことを言った。
うん、秋に結婚するんだ。それで、来年には仕事を辞めて専業主婦かな。
……。
どうしたの?
……。
一応、派手なリアクション、期待してたんだけど。驚いてはくれないの?
いや、驚いてるよ。驚きすぎて心臓が止まった。
それもなんだか失礼ね。
聞けば相手は一回り年上のビジネスマンということだ。
ビジネスマン、ていうと聞こえはいいけど、つまりはサラリーマンよ。上場企業で出世コースには乗っかってるみたいだから偉そうにしてるけど。うん、いい味になってきた。
なべがコトコト鳴っている。
マユ、その人のことあんまり好きじゃないの?
ん、どうして? 好きだよ。いやいや、ここはこう言うところか……愛してるわよ。
彼女の素直な台詞に私の方が恥ずかしくなった。
なんであんたが赤くなってるのよ。
マユは料理をしながら婚約者のことを聞かせてくれた。
私のずけずけした物言いが気に入ったみたい。私も、私の歯に衣着せない放言(暴言?)を聞いて、同級生の男の子みたいにシュンとなるあの人のことが信頼できた。あ、断っておくけど、お見合いよ。私の父の知り合いの知り合い。再婚なんだって。前の奥さん病気で亡くしたって。君なら、彼女も笑って許してくれそうだって。なによそれ、だよね。隠しておけないからって、亡くなった奥さんのこといろいろ教えてくれるんだ。彼にはかけがえのない人だったみたいね。今でも愛してるみたい。
だからね、彼、しきりに見合いを勧める知人の顔を立てて、形ばかりの会食をすることには承知したんだけれど、最初から断るつもりだったんだって。まあ、そこは私も同じようなものね。行き遅れを心配する父母へのささやかな親孝行のつもりだったからね。だって十二歳も年上なんだよ。そんな男と付き合ったことはなかったし、彼と同じ年頃のオヤジは会社にいくらでもいるけど、みんな冴えないしね。お互い、首尾よく相手に気に入られようなんて思っていなかったから、最初からとってもあけすけだった。それがかえって良かった、というか。まあ、でも、何がどう転ぶかわからないものよね。
食卓に皿がたくさん並ぶ。
なかなかのディナーでしょ。
こんもり盛られたサラダを中心に具のタップリの入ったスープ、肉料理がいくつか――たぶん、鶏、豚、牛それぞれが少しずつ、魚はムニエルとマリネ、小さなリゾットと小さなパスタはロッソにビアンコ……えっと、それから、それから……それぞれの量は少しだけれど、バイキングでいろいろな料理を小皿に並べているみたいだ。手間がかかって、なんとも不経済なメニューだ。
まあ、試食会だと思ってよ。今日の目的のひとつね。とりあえず、あの男には結婚するまで手料理はお預けってことにして不安と期待を募らせてあげることにしてるんだ。だから、なかなか料理の腕を発揮する機会がないの。自分では美味しいと思っていても他人の味覚ってわからないしね。うちの両親の味覚は信用してないから、誰に食べさせようかと考えたんだ。で、あんたなら、どうせお世辞、言わないし。ん?……言えないし?
なんだかとても失礼なことを言われた気がしたが、実際そうなのだろう。マユにおべっか使ってもしかたがない。
でも、これは相談じゃないわよね。
まあ、まずは食べてよ。夜は長いんだからね。
それは悔しいくらいに美味しかった。その腕が、どこぞと知れない不惑の男に奪われてしまうなんて、酷くもったいないと思った。
ね、その婚約者ってちゃんと料理の味がわかる人?
うん、わかる。食事にちゃんとしたレストランを予約するんだ。普通の人なら値段を見ただけで美味しいって錯覚してしまいそうな料理に対して、美味しいとか不味いなんてありきたりの表現はせずに、まるでイヤミな評論家みたいに評価する。それがなかなか的を得てるんだ。あ、こいつなかなかで手強いぞって、だから、もともと自信はあったけどもうひと磨きしておいた。健気でしょ。
意外ね。マユって、彼氏に尽くすタイプだっけ?
違う。男に尽くそうなんてこれまで思ったこともない。男は女に尽くすもの、でしょ。料理の腕を磨いておくのはね、彼のため、なんかじゃないから。奴に一言たりとも文句を言わせないように。いわば戦闘技術みたいなものだよ。そうそう。断っておくけどね、私、あの人のこと、婚約者だけど彼氏だとか恋人だとかと思ってないよ。
その考え方は、なんだかマユらしくない。私の知っている彼女はもっと感情を前に押し出す。それが本当だろうと嘘だろうと、感情が支配すべき場面ではそれを隠すことも誤魔化すこともしない。理性なんて感情の飾りくらいにしか思っていない。
え、それって私のことちょっと誤解してるんじゃない?……ん、いや、そうか、そう、だね……さすが、親友。
なんか調子狂ってるのよね、このところ。なんでだろ……なんで私、結婚なんてするんだろうってふと考えているときがあるよ。彼とは熱烈な恋愛したわけでもないしね。ちょっと打算的に聞こえるかもしれないけど、そこそこ稼ぎのありそうな男と出会って、これでいいかって思ったんだ。まあ、それなりの歳になったし、このへんで旦那を作って子供を産んで家庭を持つのがきっと私の役回りなんだって、悟ったというか。そうやって人は生きてゆくんだなぁって、ちょっと年寄り臭く考えたんだ。だから、私はあいつの配偶者になろうとね。そうして、配偶者としての役割をちゃんと果たしてみようかってね。そしたらさ、愛してるって台詞が自然に出たんだ……ビックリしたよ、自分で。今まで、のぼせてなければ言えなかった歯の浮くような台詞がさ、まるで、おはよう、とか、こんにちは、みたいなんだよ。ヘンだよね。
ああ、そうだった――私は彼女が滔々語るのを聞き、思い出した――この子は毎朝全力で「おはよう」と挨拶する子だった。口先だけの私と違う。
歳とったとか、大人になったとか、人として落ち着いてきたとか、社会というものを理解したとか、その場凌ぎの理由付けならいくらでも考えられるけど、そういうのもちょっとどうなのってね。私だって終盤にさしかかっているとはいえ二十代なんだし。なんて考えてたら、あんたの顔が浮かんだの。私もあんたほどじゃないけど、まだまだ子供なんだなって自覚した。
ちょっと待って。
私はマユの言葉を制す。
私って子供?
まさか自分で気がついていないとでも?
子供って思ったこともないけど、確かに大人になったと自ら納得したこともない。だいたい、そういう評価基準が自分の中にはない。
そういうところが大好きなのよ。あんたが男だったら、私、絶対彼氏にしてたのにな。あんなオヤジになんて目もくれず、あんたに尽くして、尽くして、尽くし尽くしてあげるんだ。不運だったわね、女に生まれて。
だからさ――マユが目をきらきらさせた――もう一回だけ、一緒に寝ようよ。
寝るって……ただ眠ることじゃないよね。
うん、もちろん。
……十年前みたいに?
うん。
……十年ぶりに?
うん。
だから、わざわざ泊まりがけ?
そう。十年ぶりにもう一度だけ、恋人ごっこして欲しい。私のマリッジブルーをあんたの腕の中でピンクに変えて……ってなんかエロいわね、この台詞。
自分で申し出ておいて、いざベッドイン、というときに緊張していたのはマユの方だ。初体験の時以来の緊張、などと強張った顔で不自然に笑っていた――だってさ、十年前の可愛らしい乳繰りあいとは違うのよ。これから、私たちはね、女同士でセックスするの。あのときは私たちバージンだったし、リビドーに駆られて寝たわけじゃないじゃない。でも、今夜はちょっと違うのよ。あんたはどう思っているかわからないけど、私は本当に抱いて欲しいし、抱きたいと思ってるの……性的な意味で。求めているものは、好きな男に抱かれるときとは少し違うような気もするけれど、私の中にはちゃんと性欲がある。あんたも私もこの十年で男を知ったの。男と体を交わして気持ちいいって思ったでしょ。それと似たものを今夜の私は求めてるんだ。
真顔のマユに私も緊張した。そして、背徳感のようなものに襲われた。あくまで、ようなもの、だけど。それは同性とのアブノーマルな行為だからではない。同性とはいえ、恋人以外との性行為なのだ。それに気がつくと、マユをだんだん意識してしまった。そして、ケイに申し訳なく思った。私は、今夜のことをケイに話せるんだろうか……このあいだの週末ね、あなたとのデートキャンセルして女の子と寝ちゃったんだ~……軽く冗談みたいに打ち明けられるだろうか。
ねえ、マユ。私、浮気する人妻みたいな気分かも。
人妻になったことなんてないくせに。でも、そうね……私もまだ人妻じゃないけど、きっと私も同じかな。
今夜のこと、婚約者に話せる?
どうだろう。でも、話すのが後ろめたいから浮気、なんでしょ。
そうだね、浮気、だからね。
食事をした後、お風呂は別々に入った。
高校生の時のお泊まり会みたいに一緒に入るのかと思ったら――お風呂いただくね~覗いちゃダメよ(笑)……女風呂を覗く男の気持ちが少しわかったような気がした。
風呂上がりのマユは可愛らしいキャミソールを着ていた――もう少し若いときに着てたやつだよ。この歳だとちょっと恥ずかしいね、でも、今夜は特別だから。
私はそんなに可愛いナイトウェアなんて持ってないから、普段通りのだぼだぼTシャツ。ちょっと申し訳なく思ったけれど、いいのよ、今夜の私は恋人の家に初めてお泊まりする彼女役、だから――だそうだ。
部屋の灯りを消して、私たちはベッドに入った。抱き合ってキスをした。互いの着ているものをひとつずつ脱がせていった。確かに十年前とは違う。キスのしかたを知っている。脱がせ方、脱がされ方を知っている。自分の体の感じるところを思い浮かべながら、相手の感じるところを探すことができる。
女の子って、やっぱり柔らかいんだね。
マユが私の乳房に手を当てながら、耳元で囁いた。私たちの体は、高校生の頃よりももっと女らしくなっていた。そして、今は、その柔らかさを男の体と比較しながら実感できる。
今の彼氏はあんたのことどう呼んでるの?
え……。
やっぱり名前では呼ばせてないんでしょ。お前、君、おい、こら……。
おい、こら、はない。最初は「君」だけだった。その後ね、名前をもらった。彼と私の間でだけ通じる私の名前。
その名前、私に教えてはもらえない?
うん、そうね……マユならいい、かな。
私はケイの顔を思い浮かべながら、暗黙のうちに契られたふたりだけの秘密を破った。
サイ=ルゥ……彼は短く「ルゥ」って呼ぶ。
さい、るぅ、るぅ、るぅ、さい、るぅ……さい、るぅ……へぇ、そうなんだ。
その音の響きに、マユは何か思い当たったようだ。
お似合いの名前だと思うわよ。きっと気に入ってるんでしょう?
うん、とっても。
今夜だけ、私もその名前で呼んでいいかな。
いいよ。
ありがと、ルゥ、愛してる。
私たちは、互いの愛撫に息を荒くしていた。愛し合い、そして、お互いの胸に頭を寄せて眠った。
翌朝、私はマユに起こされた。
朝食の準備ができる頃には起きてくるかと思ったけど、あんた、全然起きてこないし。早く起きなさい。
あ、うん。
起き上がると――当然だけど――私は裸だった。マユがベッドの脇に座って、にやにやしていた。私は急に恥ずかしくなった。
早く服着なさい。
朝食は、夕食と同じようにいろいろな料理が少しずつ、いくつものお皿に可愛らしく盛りつけられていた。
朝から豪華だね。こんなにいっぱい食べられないよ。
どうせ、今日一日空けてくれてるんでしょ。残ったものをお弁当にしてピクニックに行くからね。
どこ行くの?
私に縁のある場所、かな。ちょっとした聖地巡礼?
朝食の後、私たちは出かけた。
考えてみれば、あんたとこんな風に一緒に出かけるのなんて何年ぶりだろう。
私とマユは、遊び友達じゃなかったからね。
ふたりが出会った高校を訪ね、マユが卒業した大学を訪れた。日曜だから、学校の中には入れなかったけれど、昔、歩いた周りの街を散策し、彼女がお気に入りだったお店や思い出の場所を訪ねた。高校と大学の街は離れていて、電車を乗り換えなければならなかったから、たった二カ所でも移動にずいぶん時間がかかった。お弁当を大学の近くの公園でひろげて食べたのは、お昼にしては遅い時間だった。でも、小学校の頃の遠足みたいで楽しかった。
で、この後はどうするの?
もう一カ所付き合ってね。また、電車で移動だけど――実は、これが今日のメインイベント、だったりしてね。
マユの顔が一瞬表情を失い、私から眼を反らした。
私鉄に乗って郊外の駅で降りる。マユは住宅街で何かを探すように歩いていた。
この辺だったんだけどな……ごめん、忘れちゃった。建物だって替わってるかもしれないし、十年前の記憶だからな……。
どこに行こうとしてたのよ。
ん、私が初めて男に抱かれた場所だよ。
高二の時の?
うん、彼氏んち。話したよね、彼の家族が留守の時にね。ちょっと見たかったんだ。ある意味、女としての私が始まった場所だからね。前を通り過ぎるだけでよかったんだ。どうしてもってわけじゃなかったんだけど、なんとなく、ね。でも、まあ、これで気が済んだ。今日はありがとね。さ、駅前でお茶して、帰ろっか。
マユが深呼吸した。
これで、リセット完了かな。
リセット?
これまでの私をリセット。別にイヤなことがあったわけでもないし、忘れたいわけでもないけど、ただ、気持ちの問題。仕切り直しというか、なんというか。これで私は違うフェイズに移るわけよ――あんたと寝たかったのも、そのためだからね。リセットするのにあんたに力、貸して欲しかったんだ。高校の教室で出会ったときも、初めての前に裸で抱き合ったときも、あんたは気がついてないかもしれないけれど、私はガツンとやられてるんだよ、いい意味で。高校に入学したら隣の席に大人しそうな女の子がいた。でも、その子はね、私にとって凄まじい……そう、凄まじい破壊力を持っていたんだ。
お茶をして、電車に乗って、別れ際、マユはまたねと手を振った。もう少し先だけど、式にはちゃんと来てよね。それから、あんたの彼氏にごめんなさいって。
え、どうして?
恋人、寝取ってごめんなさい!
マユはその日、決して私を「ルゥ」とは呼ばなかった。
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