VI
ぼんやりとした光。
小さな光。
わたし、の、影。
投影される影は、光との距離や傾きによって形を変える。投影されるスクリーンによっても変わる。影がもとの形と相似形を保つのは特殊な場合に限られる。まず光源がひとつであること。そして光が直進するという前提が必要だ。その上で、時間が共有される空間の内側であること。時間が不可逆的に一方向にだけ進行すること。スクリーンのどの場所であっても光源との距離が1次関数的に記述できること。もし、条件が整ったとしても、次元はひとつ減らされてしまう。
ごくごく限られた条件から外れれば、もとの形と影の形に外見上の類似はなくなってしまう。球の影は星形になり、立方体の影が円になる。指先を絡めれば、街や世界の景色をスクリーンの上に再現できる。どんな複雑な構造でも、写像として構築される。それが一般論だ。恣意的に構築されることもあれば、偶然出来てしまうこともある。
そして、影、は、次元の上位から下位へと連鎖する。
自律しているかのような世界が本当に自律しているのかは定かでない。概ねそれは否定されるが、確実な肯定は難しい。たぶん、出来ない。もし、それが出来るとするなら、最上位の次元の視点が必要だ。しかし、何処が最上位なのだろう。下位の次元は想像できても、上位は出来ない。自律しているかのような世界は、ただ何かの動きに対して規則的に反応しているだけ、と、考える。
世界は、影、だ。
わたし、は、影、なのだ。
そして、わたし、は、影、の、わたし、の、影、を伴う。
わたし、は、影、を気になどしない。わたし、は、わたし、が、ここに励起したことだけを受け入れて、その緊張と平衡を保つために稼働する。つまりは、ただ、ただ、思考する。採取した言語をその文法に合わせて紡ぎ続ける。その傍らで、思考言語を通し、わたし、は、この世界を観察し、理解する。わたし、が、この世界の空間構造に適合した実在らしき形態を伴うことを理解する。わたし、の、影、が、どれなのかを理解する。
わたし、は、影を伴い、移動する。
移動が不自由なのは煩わしいが、投影された空間の構造に従わなければならないのだから仕方ない。
紡がれる言葉は虚しい。
言葉は何かを示すが、それはただそれだけのことだ。
何かしらの化学反応で熱が生じ、光が生じ、影を映す。その影は何かを示すがそれそのものに価値や意味があるわけではない。言葉も同じ。簡素な言語ならなおのこと。
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