XV
ねえ、あなたはなにをしているの?
わたし、は、彼女に問いかけてみる。
これは、ただの時間潰しだ。時間が流れているなら、それを潰さなければならない。それは、わたし、を、ここに留まらせることにもなる。思考の言葉は時間を刻み、発声は時間を弾く。どうせ、わたし、の、声など彼女に届かないのだから、その問いに意味があろうとなかろうと関係ない。彼女に向ける必要さえない。ただ、わたし、は、いま、ここの様式に、行動の様式にとらわれているから、会話めいた組み立てが、この声に、この言葉にしっくりくるだけのこと。
時間が流れ始めると、時間の流れていない世界の様子がわからなくなる。視野が閉ざされ、記憶も封じられるのか……デコードできない。システムが違う。そういうことだ。こんなふうに、何かにつけて意味を説き明かそうとする姿勢そのものが特異なはずだ。全ての概念が、自分たちにとって都合良く生み出された虚像だと、みんな気がついているのだろうか? もっとも、その理解さえ幻影だ。虚像を虚像で照らし出したところで、合わせ鏡のように実態のない世界が連続するだけなのに。
世界は時間によって解体される。
それを仮初めに結びつけるかのような言葉の連続、あなたと、わたし、の、会話めいた言葉のやりとりを想像してみる。その実、結びつけるどころか、解体を掻き回すだけのことだと、わたし、は、なぜだか、知っている、けど。
ねえ、あなたはなにしているの?
わたし、は、あなた、を、ずっと見ているだけだけど。
本当は、わたし、の、視線に気がついているんじゃない?
答えなくてもいいわよ。
答えられないのは知っている。
答えがないのは知っている。
手応えは、どう、かしら。
彼女の唇がぱくぱく動くけど、きっとそこに彼女の声が張り付いているのだろうけど、彼女と同じように、わたし、に、それを聞く術はない。すれ違ってさえいない、擬似的な会話は、それでも会話だ。時間は、言葉と言葉の隙間に、声と声の谷間に、吸収され、すりつぶされ、霧散する。質量もエネルギーも保存されることなく消滅する。そもそもの姿に立ち返る。
なんだかとても疲れるわよね。
疲れ、そのものを自覚できない、わたし、は、ここでの記憶から気まぐれに掬い取ったフレーズで会話を繋ぐ。
ねえ、もう気が済んだ?
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