XIV
行動には動機と目的があるはずだ。
意識的であれ、無意識の内にであれ、何かしらの目的があり、期待されるポジティブな結果がその向こう側にある。もちろんそれが成功するか、それが正しい推測かの保証はない。だが、自分自身にとって好ましい結果への期待こそが、行動の動機となるはずだ――私達はおおむねそのように考える。
一面それが事実なのかもしれない。
私達がここにいる理由や目的は、小さな世界に限れば意味があるけれど、世界の範囲を広げる毎にその意味は薄れてゆく。無限にも思える時間や空間の最大値を想像すれば、ひとつの存在の有無など無視しても差し支えない、いや、全く気がつかれもしないレヴェルだ。小さな物語は時として感動的だが、それは小さな世界が共有できる程度の物語だからだ。動機も目的も行動の結果も、すべて小さな世界で消費されてしまう。それはそれでひとつの価値ではある証拠なのだが。
だが、誰が仕掛けるわけでもなく、育ち始めた虚構の少女にそんなちっぽけな世界はつまらない。かといって、無限大の時空に稀釈されてしまうのも面白くはない。問題にしなければならないのは世界の量ではなく、質とか構造の方だろう。そして、それは私達の想像力の限界を超えたものであることが望まれる。
身体がこの世界に存在するのなら、少女の行動もその動機も目的も、この世界の則を越えることは出来ない。しかし、どんなに深掘りしたところでそれは私達に見ることの出来る表面なのだ。表面あるいは影。
GSKは夜空を見上げ手を差し伸べている。
GSKはバレエのようにつま先立ちでダンスをしている。
GSKは誰かを偲ぶように歌を歌っている。
彼女は誰かに合図を送っているのだ。
彼女は何かを招き入れようとしているのだ。
彼女の呼びかけるような仕草に呼応し瞬く星がある。
少女の声は、何キロも何十キロも離れた場所でも聞こえるらしい。
少女のダンスは、人々の夢の中へと投影される。
まさに今、私はGSKを目撃している。歌を聴いている。ダンスを見ている。
一晩に世界中の幾多の場所で、彼女の目撃が報告される。そして、その動機と目的を憶測するため、私達は妄想を膨らませ、面白半分呟き続ける。陳腐で安易なな物語は淘汰されて、彼女の抱える物語の本質だけがおぼろげな残滓のように取り残される。
高層ビルの屋上に立つ少女は、常に空を見上げ、地上を一瞥することすらない。私達の世界など眼中にない。差し伸べた手は、何かに触れているようだ。ダンスをしながら、彼女は私達の知らない世界を旅するようだ。
"高層ビルの少女について"へのコメント 0件