X
グイッてね、引っ張られたの。私は奈落に落ちそうになる。でも、なんとか踏みとどまるの。手首を掴まれたようだった。差し出した腕の向こうから押し下げられるような力が掛かってた。私を夜に引きずり込もうとしているかのよう。たぶん、そうなんだ。私は抵抗しなきゃいけない。引きずり込まれちゃいけないの。引きずり出さなきゃいけないの。この夜の裏側に隠れる何者かを。
全身に力を込めながら、私は私の存在する意味を少し解読できたような気がした。説明は出来ないけど、私がこの時間、こんな場所にいる必然を感じたの。
何者かの力は、強く緩く、間断なく私を引きずろうとする。私の身体はその力を予期しているかのように反応するの。そう、身体が勝手に反応する。私の意識や思考とは無関係に。呼吸するように。背中を反らし、足を突っ張り、体重のすべてをかけて力に対抗するの。腕の、腿の、あらゆる筋肉が硬くなる。わずかな力のカケラも逃さぬように、奥歯を噛み締め、眉間に皺を寄せる。でも、そのすべてが他人事のように感じるの。姿の見えない敵の潜む夜をじっと見つめる。その視野の端にドレスのフリルが揺れていた。渦巻くようにスカートが膨らんでいた。
ああ……。
私は気がついたみたい。
なんだ、いつものこと、なんだ、って。でもね、それだけ。気がついただけ。気がついたことを理解しただけ。感じていた必然が、確信を超えてありふれた出来事へとかみ砕かれた。疑問を持てないのも当然でしょ。これは、私にとっての日常なんだ。だから私は無駄な思考を停止する。ただ、どこかに宿る記憶に従い、その場に身を委ねるだけ。
私はその力の主を夜から引きずり出さなければいけないの。そして、その術を私は知っている。前後に左右に揺さぶる相手に、過剰に抗わず、緩めず、均衡を保つように腕を合わせる。そして、わずかな力の変化も見逃さないよう、感度を腕と指先に集める。拮抗する攻守は、時間の経過を鈍くするみたい。レースのリボンがスローモーションで揺れていた。長い髪が風に解け細くて緩いカーブを描き、呼吸は深く、その間を広げます。心臓は鼓動を小さく押さえつける。血液は穏やかに循環し、思考の停まった頭の中では、言葉が木の葉のように舞いながら、止まってしまいそうな時間の表面を滑っている。
ほんの一瞬のことだったのか、それとも何時間も経っていたのか、私にそれを計る手立てはなかった。私は夜闇の向こう側にその姿を見たような気がしました。月のおぼろのような仄明るい影が、ふと浮かんだように見えた……いえ、思えたの。たぶん、私はこの時を待っていた。腕にかかる力を揺さぶるように、緩め、引き締め、緩め、引き締め、加減を整えるように、感覚を研ぎ澄ませる。ところが……あっけなく終わってしまったの。私の腕を引く力が、突然失せてしまったの。何事もなかったように消えてしまったの。今夜はここまで……身体を少しだけ取り戻した私は、腕の余韻を確かめたの。
"高層ビルの少女について"へのコメント 0件