生成AIの生成物に自発的な遊びが現れる日は来るのだらうか
積 緋露雪著
論述
生成AIの欠陥はそこに遊びがないことである。生成AIは何事にも確率論的であるからこそまともに答えようとする故に、必然的にその生成物に遊びは含まれない。ツールとして生成AIを使って遊ぶことは可能であるが、生成AIが自発的に遊び心を持って何かを生成することはないやうに思ふ。また、これは永遠に訪れることがないやうに思ふ。仮に生成AIの生成物に遊び心が溢れるものが出来上がってもそれを以て仕事の能率には繋がるどころか、労働生産性にはマイナスなことなので、生成AIは遊び心がある方向に進化することはない。
といふことは生成AIの最も苦手なことは笑ひを生むことであらうか。今現在の生成AIの進化を見れば、さう肯ふしかない。そもそも論を言えば生成AIに誰も遊び心を求めてをらず、生成AIのコンセプトに笑ひなどといふおちゃらけたものを生成することはないようにすることに血道を上げてゐて、それは排除の対象として生成AIは考へられてゐる筈である。
しかし、仮に笑ひに特化した生成AIを作りたいといふ欲望を持った人がゐれば、それはとんでもなく難しい言語処理をする人工知能を考へなければならず、一朝一夕に笑ひが取れる生成AIが生まれるべくもない。笑ひとはかくも高度なことで、桂文枝が生成AIとの掛け合ひ創作落語を作ったが、そこには笑ひの主導権はあくまでも人間であって生成AIはお飾りの、敢へていへば腹話術の人形のレベルにも全く達してゐない代物で、晒し者としての生成AIが存在してゐただけに思へた。GoogleのGeminiの開発担当者は笑ひに関心があるやうだけれども、そのような生成AIが仮に開発できたとして、そこから派生するアルゴリズムの応用が面白い生成AIを生むかもしれないが、土台、笑ひ専門の生成AIとして閉ぢた汎用性のない代物が出来上がりさうである。
といふのも確率論で言語を繋ぐアルゴリズムはオヤジギャグのレベルには達してもそれ以上の笑ひを産む生成物を作り出すのは至難の業であることは、是非に及ばず、少し考へれば誰もが納得することなのではなからうか。
しかし、人間社会に遊びがなくなるとその社会は途轍もなく脆いもので、ちょっとしたことでクラッシュするのが落ちである。
つまり、誰も生成AIに遊び心を求めてゐないといふことが生成AIの進化の速度を上げる秘訣に違ひないのだ。
結論
生成AIは自発的な遊びがある生成物を生み出す技術を求める以上に現在ある生成AIの延長線上で進化することが過剰なほどに期待されてゐるといふことであり、生成AIに自発的な遊び心を期待することが所詮無意味といふ結論に達する。
しかし、その社会は途轍もなく脆い羸弱な社会とならざるを得ぬのである。
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