【このブログは、どういう文章なのか】
自分はクリスチャン。
クリスチャンの自分が思う、「信じる」とはどういう感覚なのか。
それを述べた文章である。
「なぜ信仰するのか?」
「なぜ信じるのか?」
「信じるとは、一体どういうものなの?」
無信仰の人の問いに答える。
また、スキップしてもいいので、
ぜひ【5.推し的存在】を読んでもらいたく思う。
※個人的な経験による主観の殴り書きであることを、最初に断りたい。
【前略(読まなくてもイイ)】
以下は神の存在を証明するものではない。
神を感じる、その感覚とはどのようなものなのか。
それを説明した文章になる。
つまり、「神は存在する」というより、
言い換えるのであれば、「仮に神が存在するとして、それを信じたり、感じるのはどういう気持ちなのか」である。
私はクリスチャン(改革派)だが、以下の内容はクリスチャンがキリスト教の神を感じる感覚とは限らない。
クリスチャンの感覚というより、(クリスチャンという)信仰ある人の感覚である。
つまりは、キリスト教的に正しい内容とは限らない(キリスト教的、クリスチャン的感覚はまた後日書く)。
宗教に詳しい人に言わせれば、The 純度100%キリスト教というより、日本人としてのカミの感覚、東洋の神観に近いとも言えるだろう。
クリスチャンとしての感覚も、日本人、東洋人としての感覚も混ざった結果である。
また、断りを入れておきたい。
私からしたら「神を感じる」というのは「幽霊を感じる」と同じ感覚である。
暗く、いわく付きの心霊スポットで寒気を感じて、なにかいそうと思う、その曖昧で主観的な感覚である。
というのも、私には神を信じたり、感じた結果のデメリット・ロスがない。
それはたとえ信じたり、感じたところで、私は盲信しないからである。
宗教は盲信したそのとき、リスク(危険に近づく可能性)が0.1mm以上は生まれるかもしれない。
しかし、どんなに熱心な信徒だとしても、純粋な意味で盲信することは不可能である。
それは、人間は必ず疑ってしまう生き物であるからでもあるし、キリスト教的に言えば、罪なる人はその罪ゆえに疑うからである。
私はそういう意味でも盲信しなければ、そもそも何事も盲信しない。
あと、「実在していたと認めるかどうか」はあんまり気にする問題じゃない。
日本では、無信仰としてきたけどやっぱり仏教学んでみる!って人が多いと思う。
仏教の性欲、食欲、物欲、人を傷つける心・言葉を気をつける、そういう道徳に惹かれる人たち。
そういう人たちだって、ブッダの実在を信じているとは限らないと思う
(仏教は神、カミに対する宗教ではないけれど)。
キリスト教でも、隣人愛(人に優しくする)、無償の愛(性欲、金銭欲によらず、純粋に愛すること)、自殺禁止とか、そういう教えに惹かれた!っていう道徳的、哲学的な興味の人もいると思う。
※
【1.神は超自然的存在かどうか】
※
私たちは「なにかを信じる」ということに抵抗がある。それは、友達を信じる、恋人を信じるときもそうである。それが、特に宗教となると、一段と増す。が、宗教とは一口に言えないのではないか。日本人は得てして神道、仏教を信じているのかもしれない。しかし、生活に馴染み、身に近く、気がつかなくなってしまっている。それが、身に近くない他者である新興宗教となると、日本人の古来の伝統を脅かし、均質性を損なう他者として、一種の移民を邪険に思う民族主義の気持ちを疑似体験しているようである。
「信じるとはなにか」
「宗教に入るとはどのようなものか」
その感覚を知るためには、私たちはオウム真理教事件を、一旦忘れなければならない。
新興宗教、カルト宗教の大事件は私たちの日本のみならず、他国でもある。
アメリカは、教祖の指示で900人以上の信者が、毒入りジュースを飲んで集団自殺した「人民寺院事件」。
死後宇宙船に乗って次の次元にいけると信じていた39人が、ヘール・ボップ彗星の接近に合わせて、ジュースを飲んで集団自殺した「ヘヴンズ・ゲート事件」。
アメリカのカルト宗教ドキュメンタリーは、Netflixに色々あるのでぜひ。
『ワイルド・ワイルド・カントリー(アメリカ)』、『すべては神のために(韓国)』。
アメリカと韓国はキリスト教が根付いている。
そのため、日本より新興・カルト宗教事件が多くても、その抵抗感は「宗教」自体じゃなく、「新興・カルト宗教」に向けられる部分があるだろう。
しかし、日本は下地になる宗教、信仰意識が薄い。そのために、オウム真理教などの事件があった際、宗教自体に向けられる。
歴史ある宗教だろうが、新興宗教だろうが、どちらも信者は心を委ね、すべてを受け入れるために、その時点で間違っていても気づかないはずだ、と。
信仰とはなにか、信じるとはどのような気持ちなのか。それを考える上で、強い抵抗感は邪魔になるはずである。アメリカ、韓国の人のように、私たちの下地を思い出し、参考にしたら理解が得られやすいだろう。つまりは、私たちの心の根にある、神道や仏教に対する親近感だ。私たちが抵抗感を強く抱く(悪い)新興・カルト宗教と違い、私たちは神道、仏教に信じる気持ちがあるのではないか。自分たちの心を探ってみるところからである。
※
「神を信じる」っていうのは歴史上の人物を信じるのと、ある種同じだと思うんだよね。
たとえるなら聖徳太子。
我々って聖徳太子はいただろうと考えてる。いると思ってる。疑う必要が、いないと思う必要がない。疑うメリットがないから。それは資料が残ってるし、疑われてる声があまり上がらないし、有名だし、なにより人間らしいから。
もっとも、聖徳太子は神様ともされているけれど、同時代に生きていた、実在するだろう偉人(蘇我氏、推古天皇etc)と関係する、政治の出来事やら、事件やらそこに存在する痕跡があるから。
聖徳太子がその時代に存在した物、人に触れた証があるから。
その痕跡があり、それを起こした聖徳太子がいるから、今の日本があると考えられてる。
もしもいなかったとしたら、冠位十二階とかその時代の政治とか、政治リーダーの空席とかどうしたんだい!って。
要するに世俗的に説明ができる。宗教的な説明いらずで、点と点がつながる。
宗教と違う、しっかりした言い方をするなら、西洋の宗教と違って世俗的だから信じやすい、ってなる。
けど、これって西洋世界でもそうだと思う。
たとえば、アニメとか映画とか小説とか、創作の世界でよくあるけど、たとえ神性を帯びてなくても、古代の古代、超大昔の国の王様は神って呼ばれる時代があったと思う。
神性を帯びてない、神類じゃない人類でも「神」と呼ばれることもあった。
これは日本でも、偉大な功績を残した人が神として祀られるとか、他の国でもある話だよね。動物でもあるよね、特に日本は蛇神とか猿の神様とか。
はたまた、2Pacが神聖視されたり(2Pacはアメリカのレジェンドラッパー、一番大御所的扱いされてるとしても過言じゃない)。
偉大なことをした人類が、次第に人によって神性を帯びていく。そして神になる。もはや、そこに神類かどうかという、超自然的存在なのかどうかは、さして問題にならない。
そもそも、我々は「神」とはなんなのかを理解していない。
つまりは、「神」とは超自然的存在なのか、それとも人間に付与される称号なのか。
まずそこがわかっていないのに、存在していない、U.F.Oみたいに(超自然的存在として)存在していない=いないみたいな信じてないにも関わらず勝手に神聖視するのはある種の矛盾でもあるし、手順を飛ばして合理的に考えてるようで非合理的になっている。
※
【2.神を信じる感覚】
カルヴァンは「人には神を感じる、認知する力、感覚が備わって生まれてきてる」って言ったらしい(een semen religionis、een sensus divinitatis)。
これって別に自分のことを無信仰と考えてる人でもあると思う。神社、お寺に行って、なんかそうげんな、傷つけたり汚したらバチがあたるような、そんな神秘性、神聖さを感じたことはあると思う。
天皇陛下に無礼をしてはならない、天皇陛下が傷つくことがあってはならないみたいな。
身近な喩えにすると、高嶺の花的な容姿も良くて、何事も完璧なクラスのマドンナに悪口を言ったり、手を触れたりしたら、なにかを壊してしまうような感じがするよね。
※
【3.神とはなんなのか】
「じゃあ、結局神ってなんなんだよ。
結論、明快に言うとしたらなんなんだ」
という人もいることと思う。
俺は二つの存在として思っている。
一つ目は完璧な存在、二つ目は推し的存在。
※
【4.完璧な存在】
一つ目。
これは一部の人が王を尊び、敬う理由と似てると思う。
国の王、皇帝は完璧な存在としてみられる。ひとの前で失敗することがなく、ひとに従わせられたり、否定されたりすることがない。強い力を持つ。しかし、それは強制的な力じゃなく、人々に愛される力によるもの。その愛されるゆえの強い力のゆえんは、権力を持つのに優しく人々を想うところ以外にある。それは自分の長所を代表、象徴するところ。たとえば、
イギリス王室は、貴族の模範となり、貴族の持つ力や財産が不道徳な方向へ行かぬよう、コンパスの役目にもなっている。人が汚い食べ方を避けたり、感情的になるのを気をつけたりするのは、人が人たらんとするものを失わないためである。貴族も同じく、自分たちが貴族らしさを失わないようにする。貴族らしさとは上品、洗練、華麗である。上品な食べ方とはどういうものか、話し方とはどういうものか。そういうものを、宮廷文化の代表者たる
王室が先導している。そして、自分たちの格上の存在が道徳的であれば、貴族も道徳的にならねばと躍起になる。そういう「目指すところ」なのである。また、アイドル的存在でもある。人はテレビ越しにアイドルを見て、「自分も顔良かったら」と想像する。アイドルの生き様は、その幻想を肩代わりしてくれる。そんな風にイギリス王室は、庶民の夢見る華やかな生活を、華やかな人々になり、極めることで理想を肩代わりしている。普通の人が試せないことを、YouTubeが代わりにやるみたいな感じ。気になるけどできない実験を、すしらーめんりくがするとか。テレビ番組やドラマ・映画である、幸せな家庭の日常を観ているようなものである。ショーケース越しに「あのジュエリー欲しいな」と思い、買うために仕事をがんばるようなものである。たとえば、これが普通の家庭だったら、幸せで豊かなところに嫉妬する。嫉妬するのは自分と近い存在だからである。そのため、自分と類比してしまうからである。しかし、王室の場合はどうだろう。王室の幸せそうで笑顔溢れる、また華やかで豊かな生活風景をみても、「(自分たちと違う)王室だかやまぁそうだよね」と納得がいく。自分と比べて悲しむことなく夢を見させてくれる。
これはイギリスの例で、我々日本は質素を美徳としている。我々日本の国民は、
皇室に人の優しさ、誠実さ、落ち着きなどなど、徳人として、精神の憧れをみているように思える。人々が自分に欲しいと思う雅、幽玄、優美、高貴を代表して持ち合わせる。また、精神的美しさと優雅を兼ね備えた完璧な存在が日本国民を代表、象徴することで、自然と日本国民我々もその二つを引き継いでいるようにもなる。憲法における「象徴」とは意味が違う。そして、たとえば世界を滅ぼすほどの強さと知識を持つ超能力者がいたとして、その自国民は超能力者がいることで他国に攻められなかったり、国際的地位を築けられたり、メリットが大きい。そのため、超能力者がいなくなった場合のデメリットも大きく、必死に守るようにする。
これは天皇陛下、王を護ろうとする心理、その完璧さ(=神聖さ)を大切にする(信じる)ことの理由だと思う。
天皇陛下のみならず、美しく、そしてオソレ多い神社、お寺を私たちは傷つけまいとする。お賽銭を奪う、尿をかける、器物を損壊する外国人に怒る。その心理もこれと同じだと思う。外国の神聖さ(宗教、宗教施設)は関係ないものだけれど、自分にあるとできる、寺社仏閣などは自分たちを代表しており、神聖さあるそれを壊すということは、自分たちの完璧性を傷つける。自分たちは完璧ではない、と物申す存在に思える。否定してくる。そんな感覚だろう。
この「完璧な人を上に置くこと」については、立憲君主制においても説明できると思う。
また、イギリス王室もそうだが、皇室は戦前から立憲君主制だった。つまり、政治にあまり関わらない態度だった。
大昔は権力を濫用して、民を虐げる強権的指導者だったり、横領したり、不道徳へ走る汚職貴族だったり。
今も、明らかに国益に害する方へ政治的判断を下す、とその民にとって思われる政治家がいたりする。
たとえば、日本を勝てぬ、得せぬ戦争へ放り込んだ、そして責任から逃れたと言われる近衛文麿。
人によって政治的な考え方が違うにしても、「悪い政治家」と多くの人が共通して思う人物はあると思う。
そういう者が政治の舵を取ったとき、国は不幸に陥る。そしてそういうとき、大体はその悪い政治家が、一番に権力を持つ立場のため、誰も防げない。
しかし、立憲君主制の場合はそうならない。それは政治の舵を取る者が、一番権力を持つ立場ではないから。
つまり、日本における内閣総理大臣が悪政を敷いたとしても、その上に防げる力のある者がいるということである。
ここでこう思う人もいるかもしれない。
「内閣総理大臣の上に権力持つ人がいるなら、結局はその人が悪政をしたら防げないじゃない?
本末転倒じゃない?」
たしかに「防げない権力者がいる」という点では変わっていないが、しかしご存知の通り、立憲君主制の君主は政治的権力を持たない。その心配がないということである。
戦後日本の皇室は一切政治に関わることを禁止されたが、
イギリス王室は憲法を護る立場にあって、そのため憲法に反する政治家に意見することが、一応可能ではある。
日本はそのように実際になにかをするという意味で護ることはできない。しかし、それでいいのである。言葉にしなくとも読める。それが日本である。
天皇陛下は「日本国の象徴」
「日本国民統合の象徴」という立場を守っておられる。
「象徴」という立場を保っておられる時点で、憲法を守っておられることを意味する。そして、さきに言った通り、上に立つ者は、その下の者の模範に自然となる。つまりは、上の者がなにかルール、規範を守る場合、それは自動的に下の者もその規範を守ることになる。憲法を守るとどうじに、憲法の護ることを意味する。憲法を守ることを象徴する。象徴された結果、護ることとなる。
また、内閣総理大臣も、政治家も精神的支柱としている
天皇陛下と皇室に無礼をはたらかず、また、
陛下臨御の国を壊さぬよう全力で努めようと考える。
たとえるならば、ヤクザ作品で、自分の組の者と仲違いしてしまったけれど、大好きな親分がおられる組を割るわけにはいかない、と考えを正す描写がある。
おられるだけで、その顔に泥塗らぬよう言動を気をつけ、そのおられる場所汚さぬよう、名をしょって名誉を守る。
おられるだけで、周りを秩序的にされる。おられるだけで規範的に、道徳的にされる。
そして、その精神的支柱というものは人それぞれである。例のようにヤクザの親分だったり、国の長だったり、好きな俳優だったり。それが実体のあるものだったり、架空のものだったり。しかし実体の有無に関わらず、共通しているのは、心の中にあることであろう。それを信じ、慕い、淑しとする心が重要である。人によって架空のもの、存在しないもの、または存在しても偽りの側面(表の性格など)かもしれなくとも、その人の心の中におられればよい。それは神を信じる人もおなじく。その存在を信じていようがいまいが、心の中で信じ、かよわせ、自らを幸せにしていればなによりとなる。
※
【5.推し的存在】
関わる人に優先順位をつける。
自分の心の中にヒエラルキーがある。
たとえば、1位に家族、2位に恋人、3位に親友、4位に友達。
最初は家族(実家)が1位だったりする。
けど、恋人と同棲が続いたり、新しい家庭を持ったりする。
そしたら、恋人が1位に昇格したりする。
または、友達と遊んでばっかりの彼氏に「私より大事なの?」と思ったりする。
彼氏のヒエラルキーの中で、恋人の私は友達より下なのかな?と思ったり。
こういうことは誰でもあると思う。
恋人が1位、あるいは上位の人は、恋人と関係悪化したら、それはそれはとても悲しくなると思う。
逆に、優先順位のヒっくい人と仲違いしても、屁でもないことだってある。
親友Aと友達Bが喧嘩して、どちらかと縁を切らねばならないとき、親友Aの方にいく。友達Bとあんまり遊んだことがない。友達Bと切っても、あんまり支障がない。
そんなことだってある。
こういう自分の中の「交友関係ヒエラルキー」をイジって、操作して、調整していくことで、
「人の悩みは9割」とも言われる人間関係で、悩むことが少なくなる気がする。
みんなは、推してる人は、なぜ推してるのだと思うだろうか。
好きだから。
たしかにある。
本当に好きなものほど、言葉で説明できない。
世界には呪いがある、
言葉にする時点で誰かにわかりやすいようしなきゃという暗示にかかる。
だから、好きなものを言葉にしたとき、心の中にあるモノの純度が低くなり、そして、言葉という小さい枠にハメるために、意味が小さくなる。
相手に伝えるため、想いを削り、言葉という檻に閉じ込め、箱に包んでプレゼントしなければならない。プレゼントは相手の欲を満たさなきゃならない。
そういう、言葉にできないものは、もちろんたくさんある。
「推してる理由」もこの一つだと思う。
推してる理由の一つとしてある、それは「交友関係ヒエラルキー」を調整すること。
恋愛体質の人は推しのいる人が多い、メンヘラはよく推す、なんて話もあるけれど。
たとえば、恋愛体質の女がいたとする。この女は彼氏が1位。しかし、この彼氏というのが高田馬場のゴミを集めたようなクズ。女は窓を開け、そこに座る。外に捨てられたゴミを見るためである。そのゴミは彼氏と同じ種族だからである。
そして、毎夜、流れ星に関係良好を祈り、ほほをよこぎる涙を拭く。しかし、流れ星のように頬伝う涙は、毎日流れるのに願いをきいてくれない。
もしもこういう女に推しがいるとすれば、推しと恋愛は別だとしても、交友関係ヒエラルキーを意識すればいい。1位に君臨する推しがいるのだから、それと比して彼氏は重要じゃない。推しさえいれば、そしてその推しの励ましの言葉や、慰めの歌詞が、彼氏で病んだ自分を元気づけてくれる。どっちが大事なんて比べることできないよ、と思うにしても、その答えは目に見えている。推しがいなければ、彼氏で病んだ心はズタボロ。彼氏がいなければ、病む心、そのズタボロはない。そして推しに傷つけられたり、他界や体制終了の報の方が何倍も心にくる。
推しに悲しむ前に、彼氏に傷つけられれば、推しに癒され、悲しませられる、推しで循環・完結する心は(元も子も)ない。
推しと比べたら、推しで病む心の痛さと比べたら、その下位にいる人たちで傷つく痛みは弱い。
彼氏で死ぬほど病む人は、彼氏を交友関係ヒエラルキーの上位に置いているからである。
それが理由のすべてじゃないにしても、理由の大きな一つである。
そしてこれらは、規則風に言えば、
「交友関係ヒエラルキーの上位であればあるほど強く、下位であればあるほど弱く、その度合いで傷つく」
である。
ここであえて神を出すとする。あるいは宗教。
ここまでの話を聞いた感じ、
じゃあ推しがいればいいんだな!
そしたらメンタルディフェンスになるな!
と思うかもしれない。
しかし、強いて神・信仰と推しを比べるならば、神の方が、傷つく可能性が低いということである。
推しというのは、それが意味するときの大半が生きている人である。もちろん故人もいるだろうが、アイドルや俳優、歌手などの生きている人。
生きている人を推すということは、生きている限り得てして失敗をする人間とともにある、ということである。
推しが浮気をすることもあれば、禁止の恋愛をしたり、怪我をしたり、会えなくなったり、活動をやめたり、亡くなったり。
そういうふうに、亡くなっている人、そもそも実在ではない人と比べたら、その悲しみの幅は広い。
もちろん、亡くなっている人であっても、たとえば「伊藤博文は、実のところ性豪でたくさん女を買ってたらしい」とか、知られていない話が掘り起こされたりもする。
その亡くなっている人であっても、生きている人であっても、その両者と比べても悲しみの種が少ないのは、神だろう。
あるいは君主(天皇陛下、国王)だろう。
普通の人と比べて失敗することが少なかったり、長所が多い。模範的。
わたしはドラマのキャラクターを推すことが多い。
たとえば、『ピーキー・ブラインダーズ』のトーマス・シェルビーはその一人である。
彼は完璧であり、その一言一言も重い。ギャングの長だから背景に力があるのだけれど、そうじゃなく、みんなを言葉で従わせる。家族でビジネスをしている。ファミリービジネスで、ギャング家業なのだが、危ない仕事も、そして家族の反対があっても、結果的にみんな動く。それはすべてを計算して、すべてに対応策を用意している、クライアンドリヒの信頼のようなものである。すべてが完璧であり、会話にしろつかみどころがなく、唯一彼に反発する妻も、彼の浮気を黙認している。
北方謙三作品好きが言うところの「ハードボイルド」「よっ、これぞ男の夢!」ってやつかもしれない。
そういうキャラクターを推すのは、メリットがある。そのキャラクターの長所を自分のものにする。つまり長所を取り込むことができる。違いを見つけるならば、キャラクターや尊敬する人物よりも、長所となる点、役に立つ教えが多く揃えられているのが、宗教というものである。
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