一つ、あなたに聞きたい。
仮に、仮にだが、人もまばらな往来、道行く者はあなたとその少し前を歩く人の二人。
日照りの強い日だったから、あなたの前を行く人が鞄からハンカチを取り出そうとする。その人は鞄に目を向けることもなく、手慣れた手つきで鞄の中をまさぐり、だがなかなか捉えられず
暫くしてハンカチを探り当てる。
後ろからそれを見ていたあなたは「不精するからもたつくんだな」などと訓戒めいたことを心の中で呟いたりなんかする。
いや、あなたの人格を得手勝手に決定づけてしまおうと思った訳では無い。これはただこういった状況にリアリティを持たせたかったという意図であって、まさか赤の他人である私があなたの人格を決めつけようなんて、そんな。
そうして、もたつきながらもハンカチを探し当てた彼は、照りつける暑さとその暑さの中、なかなか見つからないハンカチへの恨めしさ故、少し乱暴にハンカチを鞄から引っ張り出した。
その時だった。ハンカチの糸が少し解れていたのだろう、その解れた糸に財布のファスナー部分が引っかかり、まるで餌を咥えた魚のように引っ張り上げられ、もんどり打った。
コンクリートに叩きつけられたそれは何度か跳ねて、あなたの前に投げ出された。前を歩く彼はそのことに気付かず歩いていく。
まず一番に、落とし主に届けようとあなたの頭に過る。
まだそう遠くないところにいる。だが道を抜け大通りに出た落とし主は手を上げ、そこにタクシーが止まる。
「少し走ればまだ間に合う」、あなたはそう考えるだろう。
しかし、次にあなたの中の欲望が疼き出す。
「これがあれば」
あなたは別段、生活に困ってる訳では無いだろう。今の世の中に困窮した人間など人口と対比してみればごく僅かだろう。
もし仮に、ありえないだろうが、万に一つ「いや、ここにいるぞ」とあなたが声を上げるのならば、私は言おう。「働け」。こんな稚拙極まりない駄文を読んでいる場合ではない。
多くの人は、もちろんあなたも含めて、生活に不満はない、だが満足はしていない。少ない賃金を家賃、生活費、税金に充て、残る のは雀の涙。道楽に使える金は殆ど無い。
普段はきっとこんなことは考えない。
まあこんなものだろう、そうして酒を呷る。
「やっぱり仕事終わりの酒は格別だ、老子って人は偉大だなあ。足るを知る者は富む、至極結構なお言葉だ」
だが、今目の前に自分を満たしてくれるだけの金がある。
四万。
普段は高くつくからと言う理由で外に呑むにいかないで、六畳一間で一人、安酒を呑むので我慢している。
これだけあれば、そう思ってしまうのも無理はない。
固唾を飲む。ぎょろぎょろ眼球を左右し、周囲を確認する。幸い誰も見ていない。そこであなたは衣擦れの音さえ立てぬよう注意し、財布を懐にしまおうとする。
だがあなたはすんでのところで手を止めた。
そこで気付いた。見られている。誰に?
あなたは、あなたによって見られている。
正しく言えば、あなたを介した道徳心によって監視されている。
あなただけではない、全世界の人間の心に共通認識として横たわっていて、監視している。
道徳心とは名ばかりなものだ。そんな人間味のあるものではない。
あれは監視塔だ。かの建築家が建てた有名な全展望監視塔。
手を止めたあなたは、駆け出した。何かから逃げ出すような、醜悪で滑稽な酷い走り方。
落とし主が乗ったタクシーが出発する前になんとかたどり着いた。ドアの窓を叩くと、扉が開く。
「あ、あの、これ、財布落としましたよ」
息せき切って窓を叩いてきたものだから、一時は怪訝そうな顔を浮かべていた落とし主もその言葉を聞くと表情を弛緩させる。
「ありがとうございます。助かりました。いや、日本も捨てたもんじゃないな。こんな道徳心ある親切な方がいるなんて。では」
一つ、あなたに聞きたい。
自信を持って、これが道徳心だと言えますか。
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