凍えるような寒さの満ちる、暗い部屋。耳鳴りがするほどの静寂。それを打ち破ったのは、カチャリ、と控えめに開かれた自室のドアの音だった。
「……こんばんは、ウェンディ」
そろりと滑り込んできた夜中の訪問者は、私がまだ起きていたことに驚いたようだった。声こそ出さなかったものの、彼は少し肩を跳ね上がらせて動きを止めた。
窓からの月明かりに照らされたその顔には、悲壮感と恐れが混じっていた。尋常じゃなく青白く見える顔色は月光のせいだろうか。
ランプはとうに消してしまっていたから、私が寝ていると思うのも仕方のないことかもしれない。
「いいのよ、わかってる。入っておいでなさいな」
未だドアの前から動こうとしない彼に声をかけ、自分の腰掛けていたベッドの横を二度叩いて隣に座るように促す。
静かにドアを閉めて二人きりの箱に私たちを閉じ込めたウェンディが、戸惑いを隠しもせずに隣に腰を下ろした。ベッドが、突如増えた一人分の体重に呻き声をあげる。
夜中の逢瀬の必需品のような、甘やかな空気はここにはない。ここにあるのは、哀れみに似た愛おしさと衝動を抑えようと叫び続ける理性だけだ。きっと。
「……わかっていた、の」
「ええ。だってずっと、あなたを見ていたんだもの」
「それなのに、誰にも言わなかったのか。僕のことを」
ウェンディは、数ヶ月前にこの村にやってきた旅人だ。
雪深いこの地域を旅する途中、食料が尽きてしまった、どうか数日分の食べ物を恵んで欲しい、とこの村の長老の家の戸を叩いたのがこの青年だった。
ボロボロで所々擦り切れてしまっているコート、痩けた頬、伸び切った髪。酷くくたびれた様子の旅人に同情した長老の厚意で、彼はしばらくこの村に滞在することになった。
空いていた家を村人皆で掃除して彼の仮住まいに仕立て上げ、旅の道具を一式揃えてやった。
辺鄙な場所に位置するこの村への旅人など、随分めずらしかったのもあって、皆がすすんで世話を焼きたがった。
ウェンディは最初こそ、村人たちの施しを訝しみ口数も少なかったものの、数日もすれば皆に馴染んでいた。
彼はウェンデル、と名前だけを名乗った後、自分の苗字を知らないんだ、と切なげに笑った。だから村人たちは、彼をウェンディという愛称で呼ぶようになった。
彼は出された食事のうち、野菜や穀物などは口にしたが、精力がつくからとたんまり皿に盛られた肉類に手をつけなかった。初めは不思議がった料理担当の女たちだったが、何か理由があるのだろうと詮索することはしなかった。
髪も切り、十分な食事をとってようやく健康的に肉付いてきた彼は、村の人たちへの恩返しだ、と言って力仕事や子供の遊び相手を買って出た。真面目に働き、心優しい彼は村の老若男女問わない人気者になっていった。
一ヶ月ほど経った満月の夜の翌朝、村の中で一番端にある家に住む一家が冷たくなって見つかった。肉食動物に食い荒らされた草食動物の死骸のような有様だった。ウェンディを含む人々は慄きつつも、丁寧に彼らを供養した。亡くなった一家はウェンディと懇意にしていたので、彼は殊更悲しんでいた。
年長の者たちは、亡骸の様子から、食料不足で山から降りてきた獣にやられたのだろう、と予想をつけた。村の周りには、獣除けの罠や柵が張り巡らされた。
しかしその甲斐もなく、冬が深まるにつれて骸は次第に増えていった。皆、最初に亡骸として見つかった一家と同じような様子のモノになっていった。身体の中でも肉付きの良い部位が重点的に噛みちぎられているのが印象的だった。
ある時、村人たちの中には疑念が湧いた。今まで長い間この地に暮らしてきて、こんなことは一度もなかった。今年、唯一変わったことがあるとすれば、異邦の青年がこの村にやってきたことのみである。ということは、彼がこの奇怪で残虐な出来事の発端なのではないか、と。しかし村人たちのそんな疑念はすぐに消失した。
誰かが亡くなったと知った時のウェンディの悲しみ様や、丁重に供養する姿に、疑う余地はないと判断したのだ。実際、ウェンディは誰よりも悲しみ、誰よりも悲痛な面持ちをしていた。
元々そんなに大人数ではなかった村の住人。季節を跨ぐのも待たず、その数は両手で数えられるほどになってしまっていた。残された人々は、明日は我が身、と毎日を震えて過ごすようになった。
そして一昨日の朝、長老が亡くなっていた。今、村にいるのは、ウェンディと私との二人っきりだ。彼は相変わらず悲しそうで、苦しそうだった。
「だって、とても辛そうだから」
ウェンディが背にした窓から差し込む満月の光が、まるで主役は彼なのだ、と言わんばかりにウェンディを縁取っている。
彼の顔が、私の短い言葉に歪んだ。
「あなただって、好きであんなことをしたんじゃないんでしょ。仕方なくて、そんな風にしないと生きていけなくて。だから、皆を食べたのでしょう」
「……けれど、それは言い訳にはならない。『あんなにも優しくしてくれた人たちを食べたかったわけじゃないのに食べてしまった、だけど仕方なくだった。僕はそんな生き物に産まれたかったわけじゃない』……そんなの当たり前だ!だけど、だからなんだっていうんだ。僕がやらかしたことに変わりはない、君にそんな言葉をかけてもらう資格はない」
随分と語気が強かった。彼がこんな話し方をするのを初めて聞いた。自虐的な響きの言葉はしばらく部屋に散らばって、やがて消えていった。散らばった瞬間に、かき集めればよかったな、とふと思った。
風のない静かな夜だ。聞こえてくるのは相手と自分の呼吸の音だけ。
「こうして今夜、君の元を訪れたのも……君、わかっていた、なら、なんで。なんでわかっていて、逃げも隠れもしないの。起きていたなら、今日が自分の番だとわかっていたなら、何か反撃するための道具を用意することもできたはずなのに」
「……いいの。そんなこと、しなくたって。ウェンディ、あなたが私を連れて行ってくれるなら」
「私が、あなたになれるなら私は構わない」
私が、私たちが夢に堕ち続ける間、あなたはこっそり命をつなぐ。生きる為のそれがまるで罪であるかのように。間違いであるように。
そして、昼にはうまく取り繕った顔で笑って悲しんで、陰で苦しんで。
けれど。
二人きりになれた今だけは、この小さな部屋の中で毛布にくるまって、朝まで話しましょう。
数日前喋った誰かのことなんて、部屋の隅が冷たく腐っていくことなんて忘れて、たった二人で。
私の目がこれからずっと覚めずとも。いいの。それでいい。
長い眠りの前にどれほどの苦痛が全身に駆け巡ろうとも、体に食い込むのがあなたの牙なら問題ない。
あなたが心安らかに一晩を過ごせるなら。健やかな眠りについて、透き通る夜明けを迎えられるのなら。来る朝を、重苦しい日々の始まりだと思わなくて済むのなら。
そうして、私をあなたの中に飼って、ずっと遠くまで連れて行ってくれるのなら。
どろりと流れ出した言葉は、一度溢れるとなかなか止まることを知らなかった。
彼の瞳は、先程までゆらゆらと揺れていたのに、今はもう静かに澄み切っている。
そう、私はあの日。初めに、かの一家が全員亡くなったあの日。
あなたの長い夜の終わりを見てしまったから。
星空に悲しくないたことを知っているから。
月夜に悲しくないたことを知っているから。
彼が震える息を吐き出すのが聞こえた。
硬く温かな手が、私の手を壊れ物を扱うようにそっと取る。
謝罪と感謝をごちゃ混ぜにした彼の匂いにぶわりと包まれる。
好きよ、と当たり前のそれを初めて口にすれば彼が僅かに強ばるのが全身に感じ取れた。
ああ、世界で一番幸せな、最後の夜が始まった。
"愛する人狼に捧ぐ。"へのコメント 0件