ネプチューン

uminozomu

小説

92,164文字

戦場の英雄だった戦士が、海の底のネプチューンの絶望の宮殿にやってくる。そして絶望の宮殿の奴隷として、体まで作り変えられ、従属の喜びに浸っている。しかしその心の中に潜む希望が、ネプチューンの宮殿に危機をもたらす。
嗜虐と醜怪な幻想の世界、しかし本当に醜いものは・・・

光も差さぬ蒼黒い海の底のネプチューンの宮殿
うす緑にぼんやりと光る白い
なんの飾りもない丸い柱の建ち並ぶ
冷たい石造りの広間
顔の両側に眼があって
丸い口許に一本ずつのうごめく長い髭を蓄えた
魚の姿のネプチューンは
黄金に碧玉の飾りの付いた玉座に不自然に座ったまま
わたしに問いかける
「おまえがここに希望を語りに来たのなら
ここはおまえの来るべきところではない
しかしおまえがここに
絶望を語りに来たのなら
こここそおまえにふさわしい場所だ」
「わたしはここに絶望を語りに来ました」
「ならば良い
おまえを歓迎しよう」
金色の髪をして目だけが魚の
白い長いドレスの裾を引いた娘が二人
黄金に紫瑪瑙の飾りの付いた首輪をわたしに付ける
そして金色の小指ほどに小さい鍵を
首輪の鍵穴に差し込んで
白くて細い指でカチャリと音がするまで回す
その小さな鍵を指先でつまんで
ひとりの娘がもうひとりの娘の顔の前に差し出し
二人はたがいに目を見つめあって微笑む
娘の口から赤く長い舌が伸びて
もうひとりの娘の指先の鍵を舐めとると
またその舌は口のなかに戻り
ゴクリと喉を鳴らして娘は鍵を呑み込む
二人は声を立てて笑う
「おまえがその首輪をしている限り
おまえは絶望の囚人としてここにいることができる」
ネプチューンはそう言うと
またたくまに宮殿の奥に泳ぎ去って行く
娘たちの姿ももうない
緑に紺の縞の小さな魚たちが
顔の横をいっせいに泳ぎ抜けて行く
魚たちの通りすぎた向こうに
栗色の長い髪をたゆたわせた
透き通る肌になにも身につけていない3人の女が
わたしを見つめて手招きする
わたしが女たちのところに歩いていくと
3人の女はふわりと抱きついて
わたしの服を脱がせ
女たちと同じように
なにも身につけない裸にしてしまう
わたしがひとりの女の体に手をすべらせると
3人の女は透明なクラゲに変わり
ふわふわとわたしのまわりを漂い
流れ去っていく
下を見ると
床をうねうねと
目が濁って歯をむき出しにしたウツボがたくさん泳いできて
わたしの足許に絡みつき
ぬるぬるした体をすべらせながら
わたしの肌を這いのぼってくる
向こうからは
青い巻き毛の
深紅のチュニックを身につけた娘が
黄金の首輪を付けた
大きな角のある牡牛の鎖を引いて歩いていく
ウツボたちが口々に
耳許で囁く
「おまえのような醜いものは
決して魚にはなれはしない
おまえのような醜いものは
決して魚にはなれはしない
おまえはあのように牡牛になって
首輪を引かれて歩くのだ」
「いやだ
いやだ
わたしは魚になりたい
魚になってネプチューンに仕えたい
牡牛になんかなりたくない」
ウツボたちは見る間に
金色の長い髪を肩になびかせた
蒼い遠い目をした
体にぴっちり貼り付いた黒いなめし皮の服を纏ったひとりの女に変わった
女はわたしの首輪に金の鎖を付け
「牡牛ではなく魚になりたいのなら
わたしについてくるがいい
魚にしてあげるよ
魚が無理なら
せめて牝牛にしてあげる」
女は海草のようにゆらめく白く長い指でわたしの髪をつかみ
髪を引きずりおろしてわたしをひざまずかせる
「さあついておいで」
女は鎖を強く曳き
ゆらりゆらりと体をくねらせながら歩いて行く
わたしは白いすべすべした石の床に手をつき
膝をつき
鎖を曳かれて歩いてゆく
い並ぶホタテ貝たちがいっせいに泡をふきながら口を開き
「あんな醜いものが魚になりたいって曳かれていく
魚になんてなれはしない
魚になんてなれはしない
ああやって曳かれてながら
きっと牡牛になってしまう」
ホタテ貝たちは蝶つがいをばたばたさせる
そのたびに泡がゆらゆらと立ち上る
海の底の色の目をした緑の蟹たちが
笑い声もあげずにわたしの体を這いのぼり
小さなハサミでわたしの肉を引き裂く
わたしの胸の肉がちぎれ
耳たぶがぶらぶらする
体から流れる血は上へ上へとのぼっていく
呻き声をあげると
女が金色の髪をひるがえして振り向き
「その蟹たちはおまえを清めているのだよ
こうすれば牡牛にはならない
それに
生まれ変わればもうその醜い体はいらないのだから」
蟹たちはわたしの乳首を削ぎ落とし
わたしの叫び声を聞いて
そのときはじめて
ごぼごぼと泡を立てて笑った
「わたしはもっと恐ろしい悲惨を
笑って戦い抜いた
友の体がちぎれ去った戦場で
最後まで逃げはしなかった
そのわたしが
こんなことを怖れはしない」
金色の髪をした女が振り向いて
目をきらきらさせて笑うと
金色の髪を引き抜いてわたしに投げる
髪はふたたび二匹の
濁った目をしたウツボに変わり
一匹はわたしの陰茎に食いつくと
その鋭い歯をじわじわと立てながら
ゆっくりと削ぎ落とそうとする
もう一匹は尻の穴にうねうねと頭をねじ込み
そうしてわたしのハラワタを貪る
「さあ勇者とやら
おまえにはこうしてしっぽも生え
牡の標もじきに食いちぎられ
このまま牝牛になるのだよ
それがいやなら
とっとと歩くがいい」
鎖を強く曳かれて
わたしは身体中を食い荒らされ
呻き声をあげながら
女にしたがって這ってゆく
赤い鯛の群れがぐるぐるとまとわり
ぴちゃぴちゃと笑い声を立てる
やがて紫色のワカメの生い茂る広間にたどり着く
青い柱の建ち並ぶその真ん中に
見上げる大きなイソギンチャクがそびえている
イソギンチャクの体はピンクがかった肌色を
深みどりのイボが覆っていて
イボがそれぞれ呼吸しているかのように動いている
「さあ、ここが生成の聖なる女神の間だ
ひれ伏すがいい」
女はわたしの頭にその素足を乗せ
わたしの額を地べたに押し付ける
女の体ほどの大きさの
意地の悪そうな二つの離れた黒い眼をうごめかせた
八本の足を絡ませたタコが
わたしの背中の上に乗ってきて
わたしはその重みにつぶれ
這いつくばる
カニたちは体の下から逃げ去り
ウツボもすっと泳ぎ去る
タコはその長い足をわたしの体から流れる血の中に浸し
血の浸った足を足の根元の口に入れて
ずるずると血を舐めとっている
女はわたしの頭に足を乗せたまま
「さあ、這いつくばって女神にお願いするのだ
その醜い姿を捨てて
今すぐ魚になりたいと
お前のその体を美しい
たおやかな魚の姿にしてほしいと
その汚れきった体を今すぐ捨てたいと
女神にお願いするのだ」
わたしは這いつくばり頭を床に押しつけられたまま
「女神さまにお願い申し上げます
わたしはこの醜い姿を捨て
今すぐ魚の姿になりたいのです
どうか女神さまのお力で
わたしを魚の姿にしてくださいませ」
わたしの頭を踏みつけた女が
その足でわたしの腹を何度も蹴りつけながら
「この見るにたえない出来損ない
おまえは女神さまへのお願いの仕方もわからないのかい」
タコがわたしの頭にすべての足をからませ
ぎっちりと締め上げる
わたしの頭はきっとこのまま割れて
わたしの脳髄は流れ出て水の中をたゆたい
イソギンチャクの女神さまのお口に入れていただくのだろう
それもわたしのしあわせだ
わたしのいまわしい人間の記憶は
あのイボだらけのイソギンチャクの女神さまの中で
わたしの脳髄と一緒に溶けてゆくのだろう
そしてわたしの体は
魚たちがついばんでくれるのだろうか
魚たちにつつかれて消えてゆくからだのことを思い
わたしは夢の中のようなやすらぎに包まれる
わたしがその夢に沈もうとしたとき
タコがわたしの頭を締め上げたまま
ふいと浮かび上がった
「女神さまは情け深いお方
醜い上に礼儀知らずのお前の願いを叶えてくださるのだよ
でもその前に
お前のその汚れたからだを浄めないと
とても女神さまのお口の中にお前を入れられない」
ぴっちりとした黒いなめし革に身を包んだその女は
また金色の長い髪を一本引き抜くと
さっと振る
すると髪は金色の鱗をきらきら光らせた
いやらしい水色の目をした海蛇に変わる
女は海蛇の頭をつかむと
タコに頭をつかまれて宙に浮くわたしの背中に
海蛇の長いからだを鞭にして叩きつける
もはや身体中血まみれのわたしのからだが
海蛇の鞭で今度は
背中がぱっくりと裂け
新しい赤い血が流れ出す
女は今度はわたしの腹に海蛇の鞭を侍らす
そこからも新しい赤い血が
水の中にたゆたい
上へとのぼってゆく
女はつぎつぎとめったやたらと海蛇の鞭をふるい
鞭あとから流れ出す赤い血が
わたしのからだの周りをたゆたってのぼり
わたしのからだはあかくつつまれる
もう痛みすらない
傷はわたしに新しい悦びをあたえ
赤い血に包まれながらわたしは
恍惚とよろこびにひたっている
わたしのからだは今
浄められているのだ
なにもおそれるものはない
女神さまのからだの中で
魚にしていただくのだ

女は海蛇を放り投げる
海蛇はいぼだらけのイソギンチャクの女神の周囲を一回りして
そそくさと逃げていく
「さあ、お前の体は浄められた
お前を女神さまの体の中に捧げよう
女神さまがお前をどうするか
それは女神さまの御心しだい
きれいな魚にしていただけるよう
願っておけ」
体のあちこちが裂け
体中から流れ出た赤い血が
きれいな泡となって私のまわりをたゆたう
タコはわたしの頭を高く持ち上げ
ぬめりとした肌色の体の上で
緑色のいぼが呼吸するようにうごめいている
紫のワカメに取り囲まれた
イソギンチャクの女神様の真上に運ぶ
わたしの体の下で
うす黄いろにところどころ茶色のまだらのある
まるく並んだ触手がざわめき
いっせいに外側に開く
その中には
うす桃色の
年よりめいたしわを寄せてすぼめた口があらわれ
わたしを迎えるようにゆっくりと開く
タコは私の頭をゆっくりと放す
わたしの体は
その口の中に落ちてゆく

わたしは叫ぶ
「熱い、熱い」
落ちていった口の中は
しゅわしゅわと湯気の立つ
緑色のどろどろの鍋
私の体は足から灼けるように溶けていく
しかし
わたしが苦痛の叫び声をあげたのを
女神は聞き逃しはしなかった
わたしの体が足と背中からゆっくり沈んでいくさなか
急に鍋があふれるようのに水かさが上がり
わたしの頭は
しわだらけの口につかまえられ
そのまま
からだごと口を通って外に吐き出された
わたしの体は下に落ちていく

金色の髪の女が笑い声をあげる
わたしの体は
腰から下に
エビやヤドカリそっくりな脚が
たくさんみっちりとついている
わたしが歩こうとすると
たくさんの脚がざわざわといっせいに動き始め
わたしはすべるように動く
そしてその両側の脚の間に
陰茎がだらりと垂れ下がっている
「お前は女神さまの中で悲鳴を上げたのだね
それがどれだけ無礼なことがわかっているかい
そもそもお前は魚などにはなれなかった
そんなたくさん脚のある醜い生き物になる定めだったのだよ
でももうそれも中途半端に終わり
その姿のままずっと暮らしてゆくのだよ
みじめな笑いものとしてね
さあ女神さまに無礼をお詫びし
立ち去るが良い」
女の金色の髪はゆらゆらと逆立ち
その髪の一本一本がまたぬめぬめとして鋭い顎を持つ
ウツボの姿のなって私に向かってくる
ウツボはわたしの体の周りをぐるぐるとまわる
女は黒いなめし皮の服をゆっくりと脱ぎ捨てる
その肌はうすく透き通る蒼
乳房はたわわにたゆたい
乳首には緑色の目が開き
黒い瞳が私を見つめている
臍には紫がかった金色の南京錠がかけられ
脚の間にはヤドカリが這いまわり
その中央に唇が赤く光っている
わたしの数えきれないたくさんのエビの脚のあいだの
細く垂れ下がった陰茎はするすると立ち上がり
興奮をたたえて屹立する
女はわたしに歩み寄り
ウツボたちはそのままの姿で女の頭に戻り
しきりとのたうち回る
わたしの首の金色の首輪がゆっくりと締まり始める
「お前はわたしの体が欲しいのかい
女神さまへのお詫びも忘れて
立ち上がっているお前の脚のあいだのものはなんだい
お前には罰が必要だ
お前はきっと罰が好きだろうが
罰こそお前ののぞみなのだろうが」
首輪の締まる苦しさにわたしはうめき声をあげる
「お許しください女王様
わたしはとてつもない無礼を働きました
わたしに罰をお与えください
どんな罰でも喜んでお受けします」
「そうとも
罰はいつでも甘いものだ
罰だけが喜びを与え
生きるに値するものを与えてくれる」
女は口を開き
白い長い舌を出し
その舌から
細かい白い泡があふれだし
わたしの数えきれないエビの脚にかかる
わたしはその泡のかかる
なめらかな感触にうっとりとする
舌からはどんどんと泡があふれ
わたしの脚は泡にまみれていく
わたしは首輪の締まる苦しさとともに
ゆっくりと恍惚に浸っていく
わたしの細長い陰茎はいまや私のあごにつくほど屹立している
女が頭に手をやると
うごめくウツボは黒い革紐に代わり
女は革紐を私の陰茎に叩きつける
恍惚は激痛に代わり
またあたらしい恍惚の光がさしていく
なんどもなんども
女は黒い革紐を叩きつけ
激痛は恍惚の光となり明るく差し込む
やがてすべてのウツボがつながって
長い革紐となり
革紐の端が私の陰茎に巻き付き
もう片方の革紐の先を口に咥え
女は両手を軽々とかいて
高い岩の上に泳ぎのぼる
私の体は陰茎に絡みついた革紐に引っ張られ
ぐいぐいと昇っていく
女は革紐の先を
岩の突端の私の陰茎そっくりに屹立した岩に縛り付ける
わたしは縛りあげられた陰茎を上にして
頭を斜め下にして吊り下げられ
水の中にゆらゆらと揺れている
「お前は女神さまからいただいた
その数えきれないエビの脚がいやなんだね
女神さまの恩寵を嫌うなど
なんてもったいないことを思うのだ
でもその脚が嫌だというなら
わたしはやさしく慈悲深い
お前のその脚をなくしてあげよう
わたしの舌からあふれたあの泡は
甘く香ばしく
この海で一番小さく美しい青い魚たちの大好物なのだよ
青い魚たちは大好きな泡をなめながら
そのかわいらしい小さな歯で
お前のその脚をかじり取ってくれるだろう
そうすればお前のその脚は
すべてかじり取られてなくなる」
そう言うと女はすっと両足を広げる
脚の間のヤドカリたちはそそくさと動き
その間から真っ赤な唇があらわれ
その唇からぷくぷくと泡が出たかと思う間に
唇は開き
少し翠のはいった白い真珠がいくつも歯のように生えているのが見えた
わたしの吊り下げられた陰茎がどくどくと脈打ち
それによって痛みはますます激しくなり
締め上げる金の首輪の息苦しさとともに
わたしは頭に血が上りもうろうとなる
女は腕と足を両方軽やかに掻いて
泳ぎ去っていく
遠くから
薄青い光が差してくる
それは近づいてくると
光ではなく
小さな青い魚の群れ
青い魚の体は透き通っていて
白い骨が透け
くねくねしたやはり薄青いはらわたがおりたたまれているのが見える
「なんて恥ずかしいものがここにいるんだろうね」
「こんな醜いへんてこなものは見たことないね」
「でも脚からはいいにおいがするね」
「甘くていい匂い、たまらないね」
「こんな醜い恥ずかしいものに近づきたくもないけど
やっぱりこのいい匂いはたまらない」
「なめてみよう」
「なめてみよう」
青い透き通った魚は
わたしの数えきれないエビの脚に近づくと
その小さな口についた小さな鋭い歯で
私の脚をかじる
「おいしいねおいしいね」
「そうだね、なめるだけじゃなくてかじらないとほんとうにはおいしくない」
「そうだね、なめるだけじゃだめだかじらないと」
「なめるだけじゃだめだかじらないと」
小さな青い魚の歯はそのかわいらしい体に似合わず鋭く
わたしの無数の脚を少しずつかじる
私の醜いエビの脚は
女の吐いた泡のなめらかさを堪能できるだけ感じやすく出来ていて
青い魚が私の脚をかじるたびに
骨を直接削られるような鋭い痛みが走る
わたしは叫び声をあげ
脚をうごめかしてうめく
まだ人間のままの両腕を振り回して
青い小さな魚を追い払おうとするが、
私の腕は足には全く届かない
「この足は動くねぼくらを振り払おうとしてるね」
「そうだね食べられたくないらしい」
「でもこんなにおいしいものはなしたくない」
「もちろんずっと食べてたい」
「もっとかじろうもっとかじろう」
「そうとももっとこのおいしい脚を食べていよう」
痛みは恍惚とした快感にかわるどころか
からだをぎりぎりと削りとられる疼痛として心をさいなむ
「罰はいつでも甘いと言ったのに
この罰はただ苦しい
この罰はひたすらに痛い
助けてくれ
助けてくれ」
もはやなにも言葉にならない
わたしは陰茎を縛りあげた黒い革紐でぶら下げられながら
ぐらぐらと揺れ動き
革紐はますます陰茎に食い込むが
もうその痛みを感じるいとまもなく
絶え間なく少しずつ少しずつ体がかじり取られていく
青いちいさい魚の歯はほんの少ししか脚をかじらない
しかしたくさんの魚がいっせいにかじり
鋭い痛みが永遠のように続いていく
「もうお腹いっぱいだね」
「そうだねお腹いっぱいだね」
「もう食べられないよ」
青い魚の透き通ったからだのなかの折りたたまれたはらわたが
茶色い粉でいっぱいになっているのが見える
「今日はこれくらいにしてまた明日来ようか」

青い魚たちは少し脚から離れ尾びれをひらひらさせる
「見てごらん仲間がたくさん来てる」
「本当だあんなにたくさん」
「いい匂いを嗅ぎ付けたね」
「そうだねぼくらだけじゃなかった」
向こうのほうから青いちいさな魚の群れが押し寄せてくる
その透き通ったからだの群れは
群れ全体が大きな魚のように秩序だってやって来る
「あんなにいたらこの美味しいものをみんな食べてしまうね」
「本当だぼくらも早く食べないと」
「今のうちに食べてしまおう」
「今のうちに食べてしまおう」
青いちいさな魚たちは
また小さな歯でしきりと私の脚をかじりはじめる
「お願いだもうやめてくれ」
そのとき
青い大きな群れが合流する
青いちいさな魚たちは
お互いを押し退けあい押し退けあい
私の脚にからみつくように入り込む
カリカリと私の脚をかじる音が
水のなかに響きわたる
魚の青とカリカリという音が
わたしの痛みが絶望であることを知らせる
とてつもない痛みが
もはや通常の状態としてずっと続く
「これが痛みというもので
これが絶望なのだ
私はついに絶望にたどり着いた
真の絶望は甘くも美しくもない
これがわたしの望んだものだ」
私は革紐に縛り上げられた隠茎を中心に
ぐるぐる回って痛みを少しでもまぎらわそうとする
でも数えきれない魚たちの食いついた脚は
もう動かない
わたしはなにかつかもうと腕をぐるぐる回し
しかし手はただ水をつかむだけ
「このまま気を失えないのか
死ぬことも出来ないのか」
痛みから気をそらすものはなにもない
もはや青いちいさな魚たちが
わたしの脚を食べ尽くすのを待つしかない
しかし魚たちの歯は鋭くてもほんの小さく
すべての脚を食べつくすのに
あとどれだけの時間がかかるだろう
この苦しみはほとんど永遠に続くのか
そう思ったとき
わたしはやっと虚ろになった
頭のなかが遠くにいった

 

 

「大丈夫かあ」
わたしは若い兵士をやっと塹壕に引き込んだ
若い兵士は胸を撃たれ軍服の胸は赤く染まっている
「しっかりしろ今助けが来る
そうしたら軍医に見てもらえるぞ
もう少しだ」
若い兵士は私の手を握る
「痛いです
苦しいです
ぼくはもう
死ぬんですね」
「気をしっかり持て」
「いいんです
ぼくはこの国の自由を守るために命を捧げに来たのですから
仲間と家族を守り
そしてぼくたちみんなの自由と誇りのために
ぼくは戦い
死ぬのです
悔いはありません
家族も僕を誇りに思ってくれるでしょう
自由万歳
自由万歳
でも心残りはひとつ
一度でいい
恋がしたかった」
若い兵士は息絶えた

 

 

「おおっ」
幻影は再び痛みで打ち消され
虚ろになった心に激痛という現実が戻ってくる
魚たちはわたしの脚の半分はかじり終わったのか
その時
岩の上から
金の髪をなびかせて
あの女が泳いでくる
まだ服を脱ぎ捨てたままの姿で
私の目の前に
乳房の真ん中の緑色の目のなかにある黒い瞳で見つめる
足のあいだのヤドカリはしきりと動き回り
ヤドカリの間から
赤い唇が舌を出しているのがのぞいている
「素敵な罰だろう
おまえの脚はもうすぐ食べ尽くされる
おまえの嫌いな醜いたくさんの脚はもうなくなる
うれしいだろう」
「助けてください
もうこの罰に耐えられません
お願いです助けてください
苦しすぎます」
「ネプチューンの治めるこの絶望の宮殿では
おまえに選ぶ権利はひとつもないのだ
ネプチューンがおまえをここから去らせるのでない限り
それがおまえの望みか」
幻影が私の目の前をよぎる
「いいえ
わたしはこのままこの絶望の宮殿にとどまりたい
ここにいさせてください
ここにいるためには
この罰に耐えなければならないというなら
この苦しみに耐えましょう」
女は声をたてて笑った
乳房の目も
足の間の唇も笑った
「ここにいても
魚にしてもらえるとは限らないのだよ
それでもここにいたいのかい
絶望の宮殿では苦しみは無限にあるのだよ」
もうそれにこたえる力はなかった
青いちいさな魚が私の脚をかじり続ける無限の時間
絶望の宮殿の苦しみがどんなものか
わたしのからだはすでに知っていた
絶望とは救いのないことだと
わたしは今まで本当には知らなかったのだ
わたしは再び虚ろになりそうになる
その時
まだ人間のからだの上になにかを感じた
ヤドカリ
女の足の間にいたヤドカリが
わたしの上をはい回っている
ヤドカリからはツンとした匂いが漂ってくる
それが女の足の間の唇の中から漂ってくるのと
全く同じ匂いだと気づく
ツンとして少し爛れた匂い
わたしは虚かろはっとから戻り
女の裸の体に目をやる
女の足の間の唇が開き
真珠の歯が別のヤドカリを噛む砕いているのが見える
隠茎の革紐に縛り上げられた部分へ向けて
なにかが沸きあがる
それは革紐によって阻まれ
陰茎はそこで膨れ上がる
「おまえは永遠の苦痛という絶望の中で
欲情しているのか
それがおまえの絶望か」
女は大声で笑いながら髪を一本抜くと
それはまたたくまに海蛇となり
女はわたしの陰茎の膨れ上がった場所めがけて海蛇の鞭を振るう
わたしは青いちいさな魚に脚を食べられながら
新しい罰を受けている
女は優しかった
新しい罰が脚をかじられる苦痛を忘れさせてくる
海蛇の鞭は
わたしを悶絶から救う罰だった
絶望だけならば耐えられない
わたしははじめてそのことを知った
絶望から救ってくれるのは新な苦痛だけなのだ
陰茎に下される海蛇の鞭が
わたしに快楽を与えるにつれて
脚を食べられる永遠の苦痛が
次第に快楽に変わっていくのを感じる
わたしの陰茎はすでに破れ
黒い液体が流れ出している
きっとこのまま
この陰茎はそこから切れて
わたしは落ちていくに違いない
脚を食べられながら落ちていく姿を想像して
わたしはゆっくりと癒されていく
青いちいさな魚たちは
もうなにも言わず
競いあってわたしの脚をかじっている
わたしを苛む鋭く激しい痛みは
苦痛という名の快楽に変わっていく
青い魚たちはもうわたしのすぐそばにいる
そして数匹ずつ泳ぎ去っていく
それがどんどん増えて
青いちいさな魚たちはみんな泳ぎ去り
もう一匹もいない
脚を食べ尽くしたのだ
もう痛みはない
絶望はついに終わったのだ
わたしの腰から下はなにもない
絶望がわたしから去ると同時に
空虚がやってくる
絶望と苦痛がどれだけわたしを満たしていたか
わたしは思い知る
なにもなくなった腰から下を見ながら
わたしははじめて
虚ろな涙が溢れるのを感じる
その時
わたしの切れかった細長い陰茎は
最後の皮が切れて
わたしはゆっくりと落ちていく
わたしは落ちていく
わたしは落ちていく
わたしが海の底までやってくると
そこにはあの女が待っている
「さあおまえの醜い脚はもう魚たちが食べ尽くして
もう一本もない
おまえはもう
ひとりではどこへも行くことが出来ない
さあこれからどうする」
女は笑いながらわたしに近づく
そしてわたしの残った体を
胸をやわらかく撫でる
あたかもいとおしむように
ときおりわたしの小さな乳首をあやしながら
女はわたしの唇にやさしく唇を重ねる
甘いものがわたしのなかに満たされ
わたしは女の肩に手をまわす
女の乳房はゆっくりと立ち上がり
乳房の先の緑の目の中の黒い瞳が
少し笑っただろうか
わたしは乳房に手を触れ
そのあたたかさと柔らかさに驚き
そっと揉んでみる
「ああ気持ちがいい
おまえが欲しくなったよ
おまえもそうだね
わたしが欲しいだろう
いいよ
そうしよう
そうしよう」
わたしの陰茎の切れ端は屹立し
女はその切れ端をやさしく撫でさする
そしてそれを女の足の間の唇に
静かにあてがう
「さあいいね
ひとつになろう」
足の間の唇が開き
わたしの陰茎の切れ端をくわえる
そして唇は動き
中にある真珠のような歯が
わたしの陰茎の切れ端を
ゆっくりとかみ砕く
唇はしきりと動きまわり
陰茎の切れ端の先端をかみ砕き終わると
またゆっくりと
陰茎を食べ続ける
「ああおいしいよ
とてもおいしい
おまえのみじめなものは
噛み砕かれて
わたしのものになるのだよ」
女はうっとりとした目で
わたしの目を見つめる
もはやわたしは
陰茎を食われる痛みすら感じない
それは確かに痛みとして感じるのだけれど
すさまじい激痛はあるのだけれど
わたしの陰茎を女の足の間の口に食べていただける
自分の陰茎が女の体の一部にしていただける幸せに
わたしは震えて
うっとりとしている
「ありがとうございます
もっと食べてください
わたしのみじめなものを
体の一部にしてください」
女の足の間の唇は
陰茎の切れ端をすべて食べ尽くしても終わらず
陰茎の根元をかじり取る
唇がわたしの体に直接触れている
わたしは思わず声をあげる
唇はわたしの陰茎の根元を食べ進み
わたしの体に穴が開いている
そこでやっと
唇は離れる
女はまた白い長い舌を出し
白い泡をその穴に垂らす
するとわたしの穴のまわりに
うす桃色の花びらが開いたり閉じたりするようになる
もともと陰茎のあった場所に
穴が開き
そのまわりを花びらが
なにかを誘うように開いたり閉じたりしている
「さあこれでおまえにはもう用はない
どこかの海の底に捨ててこよう
おまえは動くことが出来ない
おまえは海の底でじっとしているしかない
どうにかして
この姿とは違う姿になれなければ
もうおまえは永遠に
海の底に転がっているのだよ
おまえの穴に付けた花びらは
せめてもの情けだ
それで何とかするといい」
女はわたしの金の首輪についた鎖を
無造作に引っ張ると
そのまま泳いでいく
わたしは首輪ごと女に引き回され
腰から上だけの体に
下に穴が開いた姿で
海のなかを引かれていく
すれ違う魚たちが泡を出して笑っている
「やっぱりあの醜いものは
魚なんかになれはしなかった
あのみじめな姿を見てごらん
ほんとうにひどいね」
貝たちまでも
蝶つがいをバタバタさせて笑っている
わたしは長いあいだ引かれていった
赤や青の不思議に光るサンゴ礁の生い茂る
ごつごつとした岩の下にやって来た
「ここがいいね
ここならそれでも
魚たちがやって来て
お前の相手ぐらいはしてくれるだろう」
女はそう言うと
自分の髪を一本引き抜くと
今度は髪は杭に変わり
女はその杭を岩に打ち込むと
その杭に鎖をくくりつけ
女の腹につけられた南京錠をかける
「もうこれでおまえはどこにも行けない
その腕で這い回ることも出来ない
永遠にここに転がっているのだ
誰かがおまえを違う姿に変えてくれるまではね」
女はそう言うと泳ぎ去っていく

わたしは腕を掻き
あたりを這い回る
わたしを杭につなぐ鎖は短く
わたしは杭のまわりをぐるぐると回るしかできない
岩の上の珊瑚は
ときにぼうっと赤く光るかと思うと
そして冷たく青く沈むように色を変える
そのまわりを
みどり色のからだにくっきりと朱い筋が横に入った魚たちが
いそいそと泳ぎ回っている
そのみどり色の魚は
わたしになにも気づかずに去っていき
今度はからだ全体が薄い赤から尾びれにかけて紅になっていく
はなやかな魚たちがやってきて
自分たちの美しさをだれかに誇るかのように
きびきびと珊瑚のまわりを泳ぎまわる
わたしはうっとりと赤い魚を見あげる
腕を掻いて魚に近づこうとするけれど
金の首環につけられた鎖がわたしの首を引き
まったく近づくことはできない
「わたしもあんな魚になりたい
あんな美しいすがたでこの海を泳ぎ回りたい
あんな魚になれたらいいのに」
赤い魚たちはわたしに気がつき
わたしを見ると
いかにも気持ち悪いものを見たように
目をそむけて通りすぎる
「あれはなんだろう
見たこともない醜いものだね
せっかくこのきれいな珊瑚のそばで
わたしたちの美しさがいちばん映える珊瑚のそばで
楽しく泳いでいるのに
あんなものを見てしまうなんて
いやだいやだ
ほんとうにいやだ
さあ早く行こう
あの気持ちの悪いものから
早く離れたい
さあ行こう」
赤い魚たちは
珊瑚の岩からすぐに泳ぎ去っていく
「行かないでくれ
美しい魚たち
いつまでもその
はなやいだ姿をみせていてくれないか
どこにも行けないわたしを
その姿で楽しませてくれないか」
どんなに呼びかけても
魚たちは見向きもせず
しずしずとその体をひねらせながら
行ってしまう
わたしはひとり
珊瑚の岩を見あげる
わたしの体の穴は
次第に広がっていく
まわりの肉がぽってりと厚くなり
中がじっとりと潤いはじめる
ときどき呼吸するように
小さな泡を吐き出す
穴のまわりの薄桃色の花びらは
しじゅう開いたり閉じたり
なにかを誘うように
動いている
魚たちはもう来ない
わたしは岩の下の砂の上に
寝そべっている
わたしのそばに
赤みどり色の蟹が
ちょこちょこと歩いてくる
なにをしているの
そう尋ねる子供の目をして
わたしの近くで歩みを止める
わたしはわたしの乳首を体をそのはさみで切り裂いた
あの蟹たちを思い出し
恐怖にすこし息がはずむ
しかしその赤みどり色のちいさな蟹は
興味なさそうにまたちょこちょことした動きで
歩み去っていく
わたしは落胆する
わたしの感じたのは恐怖ではなく
期待だったのに気づきながら
だれとも接しず
口をきくこともないこの海の底で
時間は過ぎてゆく
それがどれくらいの時間なのか
知るすべもない
その時間はわたしの中でだけ流れていく時間であり
わたしのまわりの海の底のすべては
赤と青に色を変えながら光る珊瑚と
ゆっくりと渦を巻いて流れる水の動きのほかは
時が止まっている
わたしの中で流れる時間が
ほんの一瞬なのか
永遠の長さなのか
わたしにはわからない
絶望の宮殿で流れていた時間は
ここでは消え失せ
時間が消え失せるとともに
わたしは
自分がここに存在するのかどうか
わからなくなる
わたしはここにいるのではなく
この海の底のすべては
わたしの見ている幻なのではないか
わたしはほんとうはここにいるのではないのではないか

 

 

「隊長いつまでここにとどまるのですか
ここを出て本隊と合流し
ふたたび戦いましょう
ここにいるのは時間のむだです」
まだ幼さの残る顔立ちの若い兵士は
まっすぐな目でわたしにそう訴える
ろうそくの灯りをともした薄暗い洞窟の中に座り込む
数人のやはり若いというよりまだ幼い兵士たちも
わたしの方を見ながらいっせいに頷く
ひとりだけいる
あごのひげが濃い壮年の兵士は
腕を前に合わせ
気づかわしそうな目をしている
「敵の兵団がここを囲んでいる
ここを出るのは危険だ
すぐにわたしたちを探して
援軍がたどり着くはずだ
それまで待つんだ」
ひげの濃い壮年の兵士が静かに口を開く
「わたしたちは奇襲部隊です
援軍がわが部隊の場所を見つけるのは時間がかかるでしょう
待ってはいられません
それに前線は劣勢で援軍をよこす余力がありません
早くわれわれが前線に復帰し
前線の部隊を支援しないと
このまま敗北です
すぐにここを出ましょう」
「危険すぎる
今ここを出れば敵の銃弾の餌食だ
たくさんの犠牲が出る
ここにとどまって援軍をまとう」
兵士たちはわたしのまわりに集まってくる
「犠牲は覚悟の上です
わたしたちは祖国を守るため
自由と正義を守るため
この軍に
加わりました
まだ学生ですが
命を捧げる覚悟はできています
ここにとどまって命が助かり
祖国の敗北を見るより
祖国の勝利にこの体を捧げるため
危険を冒すほうを選びます
自由と正義を守れなくては
この命を守る意味はありません」
若い兵士はわたしに胸を張って語る
その胸には気高い理想が高鳴っている
祖国
自由
正義
もう止めても無駄だろう
わたしが止めても彼らは出撃する
ならば行くしかない
出来るだけ犠牲を少なくするために
わたしが指揮しなければいけない
まだ学生や年若い兵士たち
どれだけ彼らの命を守れるか
「みんなの気持ちはわかった
出撃だ
大切なことは命を守って前線に戻ることだ
銃撃を避けるため
岩陰に伏せ
散開して進め
まずはわたしが先頭に進む
あとからついてこい
後方からの支援をたのむ」
あごひげの濃い壮年の兵士が
すかさず口を開く
「指揮官として
また歴戦の勇士としての隊長は
わが軍にかならず必要な方です
あなたにこそ
前線の戦闘に戻る必要がある
一番危険な任務はわたしが引き受けます
隊長は後方から
一番安全な状態で進んでください」
若い兵士たちもみなうなずいている
どうして今
死の間際に立たされて
彼らの目はこんなにきらきらと輝いているのか
死なせたくない
生きて家族のもとに
恋人のもとに帰したい
しかし
「わかった
君たちの気持ちはうれしい
第一陣がまず進み
われわれが後方から支援する
わたしは第二陣を率いる
散開して進め」
壮年の兵士に率いられた年若い兵士たちが
洞窟の入り口から走り出る
銃声が鳴り響き
狙撃兵の銃弾が岩に当たる乾いた音が響く
わたしは狙撃兵を狙って撃ちまくり
何人かが倒れる
しかし
敵の兵士は多すぎる
銃撃の音はますます激しくなる
進んでいた兵士が倒れるのが見える
母親にしきりと手紙を書いていた若い兵士はもう動かない
「進め進め
ひるむと狙われる
勇気を出して進むんだ」
またひとり
兵士が倒れる
わたしは敵を撃ち
どんどん殺して
味方の命を救おうとしている
また兵士が倒れる
まだあいつも幼かった
わたしは彼を撃った狙撃兵の眉間を撃ち抜いた

 

 

幻から目覚めると
わたしの体の開いたり閉じたりする花びらを
そっとのぞきこむようにしている
灰色のまだほんの小さな魚を見つける
わたしの体の花びらはすっかり大きくなり
わたしの体は人間の上半身と
花びらの下半身でできている
それ自身命があるかのような花びらの間に
穴がひそやかにいきづいている
魚はおずおずと花びらに近づき
花びらは魚を誘うようにゆらめく
魚は花びらに吸いこまれるように
花びらの奥に進んでいく
花びらは魚を包みこむように静かに閉じる
魚は取り憑かれたように
わたしの穴の
肉の少し厚く盛り上がった入り口を
そっとその小さな口でつつく
わたしのからだに電気が走る
なんなのだこの感覚は
もう一度魚はわたしの穴の入り口をつつく
わたしはうめき声を漏らし
穴の入り口はぎゅっと収縮したかと思うと
大きく開いて
穴の中がうねうねと
灰色のほんのちいさな魚を呑みこもうとするかのように
中へ中へと蠢く
花びらは魚を穴の中に送り込むように
外から根元へと動く
魚はそれに気づき
逃げ出そうと暴れだす
しかしもう動けない
どうしたのだ
わたしのからだはこの灰色のまだこどもの魚を
自分の体の中に呑みこもうというのか
だめだやめろ
しかし花びらはますます狭まり
魚は穴の入り口に近づいていく
魚ははげしくそのからだを揺すり
その体がわたしの穴のぼってりと肉厚な入り口に激しく当たる
わたしの全身がしびれる
この感覚が恍惚なのだと
わたしははじめて気づく
その恍惚のなか
わたしの穴の入り口はますます大きく開き
今まさに
魚を呑みこもうとしている
息が詰まる
「だめだだめだ
やめろ」
わたしは思わず大きく叫ぶ
その瞬間
花びらは開き
灰色のほんの小さな魚は
身を躍らせて逃げていく
わたしは心臓の鼓動を激しく感じる
自分にまだ心臓があったことに驚く
体全体に恍惚の余韻が残り
貪り足りなかった恍惚を追い求めている
水はすこしうずを巻き流れ
岩の上の珊瑚はまたぼうっと色を変える
陶酔が少しずつ醒めてゆく
それとともに
いま味わった感覚がたまらなく恋しくなる
もういちどあの陶酔を味わいたい
もう他のことはなにも考えられない
からだのすべてがしびれ
光が走るあの瞬間
あれはきっとまだ入り口に過ぎない
もっとすばらしい時間がやってくるのだ
それを感じたい
味わいたい
思うのはただそれだけ
でもわたしには自分ではなにもできない
鎖で繋がれ
どこにも行くことはできない
あの時間をもういちど味わうために
出来ることはなにもない
ただ待っているだけ
花びらをゆらめかせ
自分のこの穴に誰かが興味を抱くよう誘いながら
じっと待ち続ける
どれほど待つのだろう
わたしはこれほど飢えているのに
永遠にだれもやって来ないかもしれない
やってきても
わたしの花びらに
興味を抱いてくれないかもしれない
この醜い姿を笑い
あざけって通り過ぎるだけ
たいがいの魚たちがそうだったように
わたしはこのまま虚しく
永遠に待ち続けるのか
一度喜びを知ってしまったからこそ
それは耐えられない
ほんの少しの間ですら
それが悠久の長さに感じられる
これがずっと続くのか
これが罰なのか
ただただ待ち続ける長い長い時
これが絶望の宮殿の与える罰なのか
とても耐えられない

 

わたしは腕を掻き
鎖をつなぐ杭に触れてみる
この杭を抜くことが出来れば
わたしを見つけてくれるものを探しに
動いていける
望みは少しだけ
前にすすめるかもしれない
とにかく待つだけの苦しみよりはずっといい
杭はしかし
いくら力を込めても
微動だにしない
もういちど力を込める
微動だにしない
もういちど力を込める
微動だにしない
もういちど力を込める
微動だにしない
いや
ほんの少し今
動かなかったか
もういちど力を込める
微動だにしない
さっきのは錯覚だっのか
もういちど力を込める
微動だにしない
いや少し動いた
さっきよりほんの少し
もういちど力を込める
微動だにしない
もういちど力を込める
微動だにしない
もういちど力を込める
微動だにしない
もうこれ以上動かないのか
もういちど力を込める
微動だにしない
今度は杭の根元を指で削ってみる
固い
でも指でこすり続ければ
少しは削れていくだろう
わたしはひたすらこすり続け
そしてまた力を込めて杭を引く
少しまた動いた
わたしは杭を抜くことにあらたな情熱を傾け始めた
わたしはひたすら没頭した
杭は少しづつ動き始めた
希望はわたしに力を与え
杭の根元を指で削っては
杭を力を込めて引いた
どれほどの時間これを繰り返したか
杭はあきらかに
もうすぐ抜ける
わたしはもっと力を込めた
しかし
そのとき
わたしは見た
珊瑚の向こうをウツボが濁った目でわたしを見ながら
くねくねと通り過ぎてゆくのを
あのウツボは
あの金の髪の女の使いではないのか
ウツボはあの女に
わたしが杭を抜こうとしていることを知らせるのではないか
わたしは急に怖くなった
もしわたしがこの杭を抜き
動き回ったりしたら
わたしは女の与えた罰を
自分で逃れたことになる
ネプチューンがそれを知れば
わたしをこの絶望の宮殿から追放するのではないか
わたしは今
杭を抜くことで
希望を語ろうとしているのだから
わたしは絶望の囚人なのだ
わたしの首につけられた金の首輪は
絶望を語るものだけがつけることが出来るのだ
やめよう
やめよう
わたしは杭を力を込めて押し込む
もうこの杭は抜かない
わたしは絶望の囚人であり続けよう
わたしはそのためにここにやってきた
忌まわしい記憶を捨てるために
わたしは杭を離れ
もとのまま横たわった
このまま自分の意志で
長い長い永遠の時間を
ただひたすら待ち続けるのだ
誰かがやってきて
わたしに喜びを与えてくれるのを
そしてその誰かがまた去ってゆき
またわたしは待ち続ける
それをただただ繰り返す
これはわたしに与えられた
甘美な罰なのだ
逃れられない時間を
甘い喜びの時を待ちながら
待ち続けることを受け入れる
受け入れられないものにはそれは拷問であり
受け入れられる者にとってのみ
その拷問は満ち足りた時間となる
わたしは横たわり
次にやってくる誰かを待った
次に訪れるかもしれない至福を待った
今度も魚だろうか
もし魚をわたしの穴の中に飲み込んでも
すぐに離してやればよい
そうだ今度は飲み込んでみよう
魚を飲み込むとき
どんな感覚なのだろう
それはどれほどのよろこびをわたしにもたらしてくれるのか
魚を死なせないように気をつけさえすれば
わたしのなかで暴れる魚はきっと
とてつもない快楽をもたらしてくれるのではないか
その期待で
穴は息づき
呼吸するように小さくうごめいては
しっとりと潤っていく
魚たちは
わたしには目もくれず
わたしの上を泳ぎ去っていく
珊瑚には
うす緑の魚の群れがやってくる
巾広のからだのその魚たちは
ぱたぱたと体を揺らしながら泳いでは
ちらちらとわたしの体にその大きな目をやる
ひそひそとなにか話しているように思えるけれど
わたしには何を話しているのかわからない
そのうち5匹ほどの魚が群れを離れ
わたしの方へ向かってくる
魚たちは口を利かず
目配せしながらわたしを取り囲み
少しまた少し
平たい体をひらひら動かしながら
にじり寄ってくる
わたしは花びらをゆっくりとじらすように
流れるように動かし
魚たちの気を引こうとする
うす緑の魚のひとりが
わたしの上半身の人間の体の
胸をその尖った口先でつつく
わたしは驚きすこしぴくっと体をふるわせる
そうされるとは思ってもみなかった
ほかの魚もそれを見て
いっせいにわたしの上半身を口先でつつく
待ち続けやっと触れてもらえた体は
すこしの刺激にも激しく波打ち
わたしは思わず魚たちに腕をのばす
とそれを見て
うす緑の魚たちの平べったい体は痙攣し
その丸い
大きな目を見開かせたかと思うと
いっせいに体をひるがえして
泳ぎ去っていく
泳ぎ去った5匹は
群れに合流すると
またなにも言わず
すいすいと珊瑚の向こうに行ってしまう
「待ってくれ
もうなにもしない
なにをされてもじっと動かずにいるから
行かないでくれ
わたしにもっと触れてくれ
お願いだ
お願いします」

魚たちはもういない
魚たちが震わせた水の振動が
わたしの花びらをゆるゆると波打たせる
それが静まると
花びらは失望で動きを止め
垂れたままになっている
また待ち続ける時間が始まる
どこにも逃げ出さないと決めたいま
鎖をつなぐのはわたしだ
わたしはふたたび
ただただ喜びだけを思い浮かべる
からだに触れられる甘い快楽
それを思い浮かべただけで
花びらはふたたびひらひらと舞いはじめ
穴は潤っていく
わたしのすべては今
快楽への妄想だけで成り立っている
ほかにはなにもない
今は時間すらもなく
時おりわたしのはるか上を通り過ぎてゆく魚たちを見上げ
時間が過ぎていることを感じる
もう永久に誰も来ないのかもしれない
それでもよい
わたしは甘美な期待をむなしく抱いたままうち捨てられた
絶望の囚人なのだ
罰はそれを受け入れられえば
いつでも甘い
その甘い罰のなかで
わたしは永遠に時を過ごすのだ
見上げる水はいつも蒼碧に揺れ
光の束が差し込むことはない
その海の底で
わたしはただ待っている
喜びの来訪者を
もうどれだけ魚が通り過ぎたか
そのたびに花びらは期待にいっそう揺れるけれど
いつもなにも起こらず
魚たちは通り過ぎていく
水はいつもゆらゆらと揺れている
そして蒼碧の水に
影がさす
ゆらゆらとゆらめく影
タコだ
八本のあしをぬらぬらとうごめかしながら
肌色のタコがやってきたのだ
イソギンチャクの女神の間にいたあのタコよりずっと小さく
わたしの頭ほどの大きさで
色もずっと薄い
まだ子供なのか
タコはわたしを見つけると
八本のあしをいっさんに動かして
近づいてくる
わたしの隣に足をぬらめかせ
わたしを見る
わたしの花びらは媚びるようにひらひらと動き
タコを誘う
タコは赤い目をして花びらの動きを見つめている
そうだ
おいで
わたしの中に入っておいで
怖がらなくていい
遠慮はいらない
わたしに中に入り
わたしによろこびを与えておくれ
若いタコは
おずおずと一本の足で花びらに触れる
花びらはいっせいに開き
わたしの穴をタコにさらす
タコは八本の足をぬるりと動かし
自分の位置を変え
わたしの穴の正面に来る
わたしの穴の唇はひくつき
少しずつ開いていく
そんなに急に開いてはいけない
タコの興味を引くように
ゆっくりと開いたり閉じたりするのだ
タコは誘われて足を穴に近づける
そうだ
来てくれ
わたしに入ってくれ
タコの足が穴の唇をすっと掃く
わたしの全身に電気が走り
鋭い刃のような衝撃が走る
今まで知らなかったよろこび
それはこんなに鮮烈なのか
タコは穴を赤い目でじっとのぞき込み
穴の唇はくねくねとうねる
タコはついに
その足を穴に差し入れる
最初はおずおずとゆっくりと
わたしのなかに青い火花が閃いた
タコは次第に奥まで足を差しこむ
そして足を中でなにかを探すように回すように動かす
声を上げて歓喜にひたりたい
でも声に驚いてタコは逃げてしまうかもしれない
わたしは必死で歯を噛み締め
声を飲み込む
タコの足はさらに動き回る
タコの赤い目はさらに赤くなり
呼吸するように上下している
足はわたしの体をせり上げるように激しく動く
わたしのすべてはこのきっとまだ若いタコに操られ
すべてをタコに委ね
支配されている
支配されていると感じることで
わたしのよろこびは激しい官能に噴きあがる
タコの足は急に
動きを止める
タコの足は急にふくれ上がり
その瞬間
わたしの中に
なにかが放たれる
タコのその足はペニスの足だったのだ
わたしは悟る
放たれたものが体の中に広がっていく
わたしはこのタコと深くつながった
タコはわたしに満たされ
わたしはタコにすべてを委ね支配され
また満たされた
激しい官能は淡い光へと変わっていき
全身のしあわせとともに
わたしはゆっくりと目覚める
タコは急にそそくさと足を抜き
八本の足をうごめかしてふっと浮かび上がる
赤い目は
なにか戸惑ったようにわたしを見つめる
わたしは愛おしさをもってタコを見つめかえす
その若いタコは
その瞬間
急いで足をすぼめ
いっさんに泳ぎ去っていく
もうわたしには目もくれない
タコの姿はもう見えない
わたしはいつまでも
タコの去っていった水の向こうを見ていた
タコはもう二度と戻ってこないだろう
それがわたしにはよくわかった
そういうものなのだ
それははじめて知る感情だ
でもそれでいい
タコは目的をとげたのち
わたしはうち捨てられ
ひとりで孤独にうめく
そういうものなのだ
それもまた
わたしに与えられた罰であり
ネプチューンの絶望の宮殿では
罰はいつでも甘い
官能の甘いよろこびの夢をくり返し
くり返し思い出しながら
鎖に繋がれた体をただただ海の底に横たえ
永遠の時間
次のよろこびの夢を見続ける
ぼんやりと水はゆらぎ続けている

魚はやってこない
もうずいぶん長いあいだ魚は来ていない
わたしはただ水のゆらぎだけを見ている
水のゆらぎの中に
明るい青の光が遠くから射すかと思うと
またふっと消える
その光はわたしのところまでは射し込まない
光の届かない海の底
そこがわたしの居場所
時間はどれだけ過ぎたのだろう
水に大きな影がさす
見上げると
サメの大きな白い腹が通り過ぎていく
海の底で置き去りになっている動かないわたしは
サメの目には見えない
サメの白い腹は水を覆い
そしてまた消える
また水のゆらぎだけ
ゆらゆらとしている
しかしその時
ゆらゆらした大きな影があらわれた
タコだ
またタコだ
今度のタコは巨大だ
あのサメほどもあるか
巨大なたこはその巨大な八本の足を力強く動かし
まっすぐこちらに向かってくる
そして
わたしに上の水の中で止まり
その血走ったような真っ赤な目で
わたしをじっと見る
あの若いタコに目が似ている
父親なのか
あの若いタコがわたしのことを教えたのか
だからわたしを目指して泳いできたのか
だったら目的はひとつだ
花びらはさかんにひらひらする
巨大なタコは
いきなりその八本の足でわたしの体を押さえつける
そしてわたしの花びらの周りに足を回し
わたしの穴をしっかり固定すると
ペニスであろう足を
その吸盤のないペニスを曲げ
わたしの穴に向け狙いを定めている
そのペニスの足は巨大だ
若いタコのそれとは比較にならないたくましさ
わたしは官能の期待と
巨大さへの恐怖に体が震えだす
そのペニスはわたしの穴よりずっと太い
わたしはそのペニスで破壊され
体ごと引き裂かれるのではないか
そんなわたしにお構いなく
タコは狙いを定めたペニスの足を
わたしの穴にねじ込む
野太い足先がうねうねと動いて
わたしの穴の唇を開き
しきりと先を回して穴を広げながら
どんどんと穴を割りひらき
巨大なペニスを穴に侵入させる
体全体が引き裂かれる痛み
わたしは声を上げる
官能ではなく
痛みの叫び声を上げた
ペニスは内臓を押し上げ
今にも内臓を突き破りそうだ
わたしの穴は
巨大なタコのペニスに引きちぎられ
真っ赤な血を流し始める
わたしの穴から
赤い血が水の中にゆらゆらと広がっていく
わたしは今
タコにすべてを支配され
タコの欲望の道具にされている
わたしの意思はどこにもない
ここにあるのは
タコの欲望だけ
タコのペニスはぐりぐりと穴の中で暴れまわり
穴を引き裂いていく
わたしはタコの巨大なペニスに体を引き裂かれ
このまま命を落とすのかもしれない
痛みにのたうちながら
少しずつ
気が遠くなっていく
意識が遠のいていくにつれて
官能がゆっくりと立ち昇ってくる
タコの欲望の道具としていたぶられる
その絶望が官能として
薄れていく意識のなかに
うっとりと息づいてくる
ネプチューンの宮殿では
絶望に安心して身をまかせられるのだ
タコという支配者に服従しながら
支配者への畏敬といとおしさが
わたしのなかにあふれてくる
わたしはこのタコとの結合の官能の中で死ぬのだ
自分という人間に
それ以上の価値はない
この官能以上に生きる価値のあるものなど
なにもない
この激烈な痛みこそ
わたしに与えられた最大の幸福なのだ
タコのペニスが大きくふくらみ
先端からわたしの穴の中に
叩きつけるように精が放たれる
自分の中にそれを受け止めることが出来たことに
わたしは陶酔する
穴からは真っ赤な血が水の中に溢れ続け
立ち昇っていく
タコはわたしの穴からペニスを引き抜き
穴からはどっと血が溢れ
そして受け止めきれなかった精が
どろどろと穴からしたたる
タコはわたしのからだを拘束していた
ペニス以外の足をほどき
その赤い充血した目を
わたしではなく
わたしの穴と花びらに向けると
すぐに
その足を波打たせて
上の方に泳ぎ去っていく
わたしはただひたすら
力を失って横たわっている
花びらは力なくしおれ
穴からはまだ真っ赤な血が
ゆらゆらと水の中を漂っていく
もう巨大なタコのペニスに破壊されたこの穴は
なにも受け入れることはないのだろうか
わたしの中にあるのは
穴を引き裂かれた痛みとともに
官能の陶酔の残り
わたしは体ごと引き裂かれて死にはしなかった
しかし心は
タコの巨大なペニスに引き裂かれ
すでにタコのペニスに支配されている
もう自分というものはなく
タコのペニスの奴隷となり
そのペニスのもたらす苦痛と官能を思い浮かべるしか
わたしの心は存在していない
まだ穴からは血がゆらめき上っている
あたかもわたしの血は無限に湧き上がってくるものかのように
しかし
その血の中に
なにか光るものが混じっている
よく見ると
それはほんの小さな
透明な八本足のタコだ
その透明なタコはいくつもいくつも
わたしの穴から血とともに
湧き出してくる
タコの子は
それでも勢いよく足を動かし
わたしの周りを泳いでいく
やがてタコたちのあるものが
わたしの乳首にその透明な足の間の口を
吸い付かせる
タコたちはかわるがわるその口でわたしの乳首を吸い
わたしの両方の乳首はそれにつれて
赤く充血しはじめる
タコたちはすると
乳首だけではなく
両胸の根元から乳首までに吸い付く
それにつれて
わたしの両胸がやわらかくなりはじめる
タコたちは吸い続け
わたしの胸は少しづつふくらみ
乳房へと変わっていく
やわらかく
控えめな両の乳房
透明な小さなタコたちは
わたしの乳房をつくり終えると
次第に下へと下がっていき
わたしの体を吸い尽くそうとしている
タコに吸われたわたしの体は
ゆっくりとやわらかくなっていき
肌もすべすべとしてくる
それにつれて
垂れ下がったままだった花びらが
少しづつ力を取り戻していく
タコたちはとうとう
わたしの血を流し続ける穴に到達し
穴の唇を吸いはじめ
やがてぱっくりと裂けた穴の中を吸う

タコに吸われ続けた穴は
柔らかくなり
裂け目もふさがっていく
血は止まり
穴は傷つく前よりももっと柔らかく潤い
花びらは以前のようにひらひらと舞い始める
わたしは乳房をもった柔らかい体となり
穴は潤い
この穴になにかを迎え入れるのにふさわしい体に
この透明な小さなタコたちにしてもらったのか
その時
タコたちはわたしの体をはなれ
わたしの体の上に集まっていく
見る間に
タコの体は溶けていき
溶けた体が混じり合っていく
そして混じり合った溶けた体は
涙のような形を作っていく
それは透明で
わたしの体の上にふわふわと浮いている
その中に
次第になにかの形が浮かび上がってくる
それは
人間の赤ん坊だ
きっとまだ産まれたばかりの
赤ん坊
泣きもせず
静かに
なにかまるで落ち着いているかのように
透明な膜の中に漂っている
涙のような透明な膜は
ゆっくりと浮かび上がっていく
わたしは起き上がり
赤ん坊に手をのばす
しかし届かない
赤ん坊を包んだ膜は
わたしの手の届かないところに
浮かび上がっていく
わたしは金の首輪に繋がれた鎖をいっぱいに引き
手を伸ばすけれど
先ほど自分で深く杭を押し込んだ鎖はびくともせず
赤ん坊はもう上に浮かび上がって見えない
水がゆらゆら揺れるのが見えるだけ
あの赤ん坊はなんだったのか
わたしの産み出した子供なのか
わからない
もう一度あの赤ん坊が見たい
抱きしめてみたい
その気持が痛切に心にわきあがる
今は心が痛い
目から涙が溢れていくのがわかる
熱い涙が水に混ざっていくのだ
ネプチューンの宮殿に来て初めて
苦痛でも快楽でもない感情が押し寄せ
わたしを苛む
わたしは水を見上げ
両手を伸ばし
なにかを叫んだ
その声に答えるように
あの女が上から泳いでくる
今は黒いなめし革のぴっちりした服に身を包み
するするとわたしの傍らに立つと
金色の髪を一本引き抜き
海蛇の鞭で
わたしをいきなり鞭打つ
楽しそうに笑い声を上げながら
わたしのからだをひたすらに
力いっぱいに鞭打つ
わたしの乳房のある柔らかい体はしかし
皮膚がぱっくりと破れたりせず
真っ赤な鞭あとを残すだけ
わたしの体は
鞭を受け止める体に変わったのだ
それでも鞭打たれる体の痛みは同じだ
そして痛みにのたうち回るのも同じ
その痛みはすぐに官能の快楽を呼び覚ます
そのはずなのに
影がさしている
悲しみの影だ
今まで苦痛と快楽しかなかった心に
奥深くから湧き上がる悲しみの影がさしている
女は鞭をふるう手を止める
「お前はもう
いくらでも鞭を受けられる体になったのだよ
そしておまえもまた
あの赤ん坊の幻を見た
お前に鎖がついていなかったら
お前はあのまま
幻を追って海の上に上っていっただろう
おまえの心に悲しみが宿るのは
お前が希望を見てしまったからだ
それも良い
絶望の宮殿では
希望こそ真の絶望をもたらしてくれるのだから」
女はふたたび鞭を振り下ろす
わたしのからだのあらゆるところ
花びらや穴まで
力いっぱい鞭を振るう
その痛みは
わたしに深い悲しみを呼び覚ます
いくら鞭を受けても壊れなくなった体
その体に受ける鞭の痛みは
ひたすら悲しみをもたらす
涙が溢れ出す
その涙が
真の従属の苦しみの涙だとわたしは気づく
今までは絶望という快楽を追い求めていた心と体が
希望を知ることで
逃れられない従属の悲しみを知ったのだ
これが新しい絶望なのだ
わたしは乳房のある柔らかい体に鞭を受けながら
涙を流す
その涙とともに
穴はゆっくりと潤いを増していく
まるで悲しみの涙がわたしの穴を潤わせるかのように
わたしは深い悲しみに官能しているかのように
女は鞭打ちの手を止めると
鞭を離す
海蛇の鞭はまたたく間に女の金色の髪に戻り
女はまた別の髪を掴む
それはまたあのいやらしい濁った目をした
ウツボだ
女の手から放たれたウツボは
まっすぐわたしの穴へ向かい
なんの前触れもなく
穴に潜り込む
穴の中で身を捩らせ
ウツボは暴れる
また鈍い痛みがわたしを襲うが
穴は裂けたりしないどころか
穴全体が締まり
ウツボを締め上げ
ウツボは身動きできなくなる
それとともに
わたしは噴き上がる官能に身を委ねる
それは今までとは違い
与えられた官能ではなく
自分で産み出した官能なのだ
官能の色が
今までより明るく濃い
わたしは新しい官能に酔いしれる
女はウツボのしっぽを掴み
穴からウツボを引き抜く
穴の唇はめくれ上がり
穴全体がウツボを離すまいとするかのように
うごめく
「おまえの体は変わったようだ
これなら
宮殿でおまえを役に立てることができる
連れて帰ってやる」
女は杭を引き抜きその頭に戻す
鎖を掴むと
泳ぎだす
わたしはまた
海の中を曳かれていく
魚たちの嘲る声は
今は耳にも入らない
長い海底の時間から
また宮殿に戻れることに
わたしの心は浮き立っているのだ

宮殿の重々しい石造りの建物が見えてくる
列柱の立ち並ぶ入口を抜けて
宝石と彫刻の光り輝く広間には
美しい女たちが居並んでいる
女は鎖を曳いてわたしを従え
女たちの前に立つ
みどり色の髪をたゆたわせた
薄布の長い衣をまとった
魚の眼の女たち
赤い髪に
碧い透き通った肌をほとんど見せる
金色の衣の女たち
逆立つような真っ白い髪に
口が耳まで裂け
赤い目が光った
珠玉を縫い込んだ黒い衣の女たち
魚の尾を器用に動かしながら歩く
腰から下が魚の
ゆらゆらと揺れる巨大な乳房を露わにした人魚
そして女たちの間を楚々と泳ぎまわる
赤や緑の魚たち
女たちは
鎖を曳いた女にいっせいにかしづく
「牡牛たちの新しい道具を連れてきた
そのためだけに作られたような良い出来だ」
「あの醜い生き物を
こんなに役に立つものに変えるとは
さすがでございます」
口が耳まで裂けた黒い衣の女が
うやうやしく言うと
女たちはみんな頷く
「あとはおまえたちに任せた
好きなようにするといい」
鎖を黒い衣の女に渡すと
女はあっという間に上へと泳ぎ去る
女たちは立ち上がり
わたしを取り囲む
「さあ連れていきましょう
でもこれを閉じ込めておく檻がいりますね」
「首輪と鎖があっても
檻はいりますね
逃げ出さないとわかっていても
檻に入れておかないと
牡牛の娼婦らしくない
牡牛がその気になるには
奴隷らしくないと」
「そうそう
決して美しくはない道具だから
役に立たせるには工夫しないと」
「それにわたしたちだって
檻に入れておかないと楽しくありませんから」
「そうそう
やはりそれが大切」
女たちは口々にそう言うと
鎖を曳いてわたしを引きずっていく
長いこと引きずられて
引き立てられていったのは
宮殿のはずれのだだっ広い原
石畳の隙間からみどりの海藻が
ゆらゆら揺らめいている
薄暗い原に黄色く光るたくさんの蟹たちが
どこからか
黒く光る檻を担いでくる
檻は女たちの指図で
石畳の真ん中に置かれる
「これは大きさもちょうどよい
この檻に押し込めておくことにしましょう」
「それがいい」
「それがいい」
楽しげに笑いあいながら
女たちは檻の扉を開き
わたしの体を鎖ごと檻に放り込む
そして鎖を拾い上げると
檻の鉄の柱にくくりつける
そして檻の扉を閉める
巨大な乳房の人魚が大きく口を開くと
その口の中に
大きな南京錠があり
碧色の髪の女が長細い指先で南京錠をつかみ
鍵を外すと
檻の扉に鍵をかける
鍵は
また巨大な乳房の女の大きく開けた口の中に戻す
それが済むと
女たちは笑いながら
もとの宮殿の奥に戻っていく
わたしは檻の中にひとり残される
だれもなんの説明もしなかった
檻は
わたしの体をぴったりの長さと
起き上がれるだけの高さしかない
まわりの石畳からゆらゆらとゆらめく緑の丈の長い海藻は
透き通っていて
揺れるにつれてすこしきらきら光る
その海藻に囲まれて
黒い鉄の檻は冷たい
檻の天井も鉄格子なので
暗くはない
しかしその中で動くことも出来ない
わたしは鉄格子をつかみ
檻の外をのぞき見る
海藻の根元には
赤黒い貝をまとったヤドカリが
魚の死骸の腐肉をあさっている
青い細長い魚の群れが通り過ぎ
しかしこの檻には目もくれない
一匹だけ
群れからはぐれたのか
青い細長い魚が
檻の中に迷い込む
鎖に繋がれたわたしを
まるまると大きな緑の目を見開いて
不思議そうに見つめる
「ここでなにをしているの
どうして閉じ込められて
繋がれているの」
「わたしにもわからない
わたしはネプチューンの囚人なのだ
こうして繋がれるために
この宮殿までやってきた
これからどんな絶望が待っているのか
よく知らない
牡牛の娼婦になるらしいこと以外は」
最後の言葉を聞いた瞬間
魚は逃げるように泳ぎ去る
牡牛の娼婦というのは
そんなに忌まわしいもののようだ
わたしはこれから
そういうものになるらしい
しかし牡牛の影も見えず
わたしは檻の中に繋がれて
乳房のある柔らかい体を横たえ
狭い檻の中で
花びらをひらひらさせている
穴はしっとりと潤い
やってくるかもしれないものを
静かに待っている
わたしの体は
そういう体になったようだ
牡牛の娼婦というものに
ふさわしい体になっているらしい
しかしそのことに
悲しみを感じる心にもなっているようだ
ネプチューンの宮殿の絶望が
快楽ではなく悲しみと感じる
そんな心になっている
それも
牡牛の娼婦にふさわしい心なのだろうか
そうしていると
女たちが
金の首輪に
鎖を繋がれた牡牛を曳いてくるのが見えてくる
とうとうやってきた
その牡牛は茶色にまだらの斑がある
女たちの肩ほどの高さの
大きな牡牛だ
ひどく落ち着きがなく頭を回したり
足取りも前足をから踏みしたり
とても興奮しているのがよくわかる
牡牛は檻の前まで引き立てられると
憑かれたような
焦点の合っていない
白目の濁った目で
檻の中を覗く
牡牛がなにを考えているのかわたしにはまったくわからない
女たちは
巨大な乳房の人魚あの大きく開いた口から鍵を取り出すと
檻の南京錠を開ける
南京錠はまた女の口の中にしまわれる
「さあ待ちに待った日がやってきたよ
お前がこの宮殿にやってきて
はじめて役に立つ日さ
この牡牛の相手をするんだ
牡牛の娼婦になるんだよ」
口が耳まで裂けた黒い服の女が
笑いながらそう言うと
女たちは声をあげていっせいに笑う
赤い髪に金色の衣の女が
檻の鉄格子に絡めた鎖をほどき
その鎖の先を手に持ち引く
女たちは楽しげにわたしの体を狭い檻から引き出す
茶色い斑の大きな牡牛は
前足を踏み鳴らし興奮した様子だ
これからなにが起こるかわかっているのだ
今までに経験があるのだろうか
女たちはわたしを牡牛の後ろ足のあいだに
引きずっていく
足に間には
牡牛の巨大な赤黒いペニスが屹立している
それ自体に命があるかのように
呼吸するように動いている
緑の髪の女が
わたしの体を牡牛の顔の前に引き出す
牡牛はわたしの柔らかい乳房を見つけると
顔を乳房に近づけ
口を開き
ぶ厚く長い舌を出すと
わたしの乳房を舐め始める
その瞬間
わたしのからだに
甘い喜びが沸き立つのがわかる
牡牛は興奮のあまり
生くさい鼻息をわたしに吹きかける
それさえも
わたしのよろこびを呼び
この牡牛へのいとおしい気持ちが
ゆっくりとたち現れる
女たちはさらにわたしの体を引き出し
今度はわたしの花びらを
牡牛の顔の前に置く
花びらは揺らめきながら
開いたり閉じたりして
牡牛の顔を撫でる
牡牛はいっさんに
花びらの真ん中に顔を埋め
わたしの穴の唇を舐め始める
さらなるよろこびが
全身をかけめぐる
「うれしそうに身をくねらせて
牡牛に媚びている
もうすっかり娼婦らしい
もう牡牛のものになりたくて
うずうずしているみたいだ
さあすぐにも望みを叶えてやろう」
女たちはわたしの体を牡牛の後ろ足の間に引きずる
牡牛の赤黒いペニスはいきり立ち
足の間で揺れている
赤い髪の女が
指先に長い長い爪がくねる手で
その赤黒いペニスをゆっくりと撫で擦る
牡牛はぐおぐおとうめき声をあげ
感に堪えないように小さく震える
女が手を放すと
牡牛は後ろ足を曲げ
わたしの体にペニスを近づけようとする
「この牡牛はすっかりお前が気に入ったようだ
お前をこんなに欲しがっている
お前もこの牡牛が好きかい
このネプチューンの宮殿でいちばん卑しい
このにぶく重たい牡牛のものになりたいのかい」
女たちは笑うと
赫い髪の女はふたたび
牡牛の赤黒いペニスを
焦らすように撫で擦る
牡牛はぐおーんぐおーんと呻き
体を揺する
わたしの穴はすっかり潤い
唇はもう開きかけ
牡牛のペニスを待ち望んでいる
女が手を放すと
牡牛はふたたび後ろ足を屈め
ペニスを上下させる
女たちはわたしの体を持ち上げ
ペニスに近づける
わたしの体は逆さ吊りとなっていく
赫い髪の女がペニスをつかむ
女たちはわたしの体をさらに持ち上げ
女がつかむペニスにわたしの穴をあてがう
わたしは穴の唇に牡牛のペニスが触れるのを感じ
逆さ吊りの体に甘い期待のうずが起こる
「さあいよいよだ
おまえと牡牛をつなげてやろう
牡牛の娼婦として
立派に役に立つのだ
それがいまのおまえの望みだろう」
赫い髪の女が
わたしの穴に牡牛のペニスをゆっくりとねじこむ
わたしの穴は
牡牛のペニスを包み込む
ペニスを奥へ奥へと導き
わたしの穴はすべて牡牛のペニスで満たされる
牡牛のペニスはわたしの穴にぴったりの大きさで
痛みもない
逆さ吊りで頭に血が上る
それもまた
わたしのよろこびを増している
牡牛の娼婦
今のわたしがそれだ
牡牛は頭を上下させ
体を震わせている
赫い髪の女がわたしのからだを上下させる
ペニスが穴を出入りし
穴の唇はめくれ上がる
穴がこすれ上がる快感にわたしはからだをのけぞらせる
牡牛はきれぎれに呻き
息が荒い
牡牛は足を踏ん張り
ペニスが膨らむ
「さあ牡牛の娼婦
すべてを受け止めるんだ
それが娼婦の仕事
牡牛を喜ばせてやるんだ」
女たちは今は笑い声を立てず
じっと牡牛と
牡牛のペニスにつながってぶら下がったわたしを見ている
牡牛は首をいっぱいに反らし
精を放つ寸前に至る
そのとき
牡牛の体が透き通り
その体の中に
人間の男が牡牛と同じように
腹を下に向け
首を反らしているのが見える
その男は
もがくように手を掻いている
そしてその時
わたしの穴の中に
勢いよく精が放たれる
それは液というより
重い鉛として
穴を満たしていく
牡牛の体はもとに戻り
もう男は見えない
わたしの体はけだるい重さを感じ
力が抜けていく
女がわたしの体をペニスから引き離す
わたしは牡牛の足の間に
ふたたび横たえられる
牡牛のペニスの先から
残りの精がしたたる
それとともに
赤黒いペニスはしぼみ
細長い紐のようになっていく
女たちはわたしを牡牛の足の間から引き出す
牡牛は呆けたように前を見たまま固まっている
そして
わたしの穴から
丸い透明な泡がぷくりと出てくる
その透明な泡はゆっくりと浮かび上がり
次第に大きくなっていく
牡牛は目を上げ
そのたゆたう泡に目をやる
その泡の中に
人間の赤ん坊が眠っている
タコのときと同じように
赤ん坊が静かに眠っている
わたしは体を起こし泡に手を伸ばす
牡牛は足を踏み鳴らし
泡に近づこうとする
泡はゆっくりと昇っていく
牡牛は前足を浮かせ
体が宙に浮く
鎖を掴んだ緑の髪の女が
鎖を強く引き
宙に浮いた牡牛を引き戻そうとする
鎖がいっぱいに伸び切り
牡牛は宙に浮いた前足を強く掻き
頭を上に反らす
牡牛は頭を強く何度も振り
鎖は蛇のようにゆれる
そして鎖は引きちぎられ
牡牛は前足を掻いて
身を捩り
後ろ足も宙に浮き
すべての足がもがき
泡を追って水を掻いて
昇っていく
泡は次第に速度を上げ
上へ上へと昇っていく
牡牛もどんどんと昇っていき
やがて見えなくなる
見上げる海の色は
いつものように青く
すりガラスのようにくぐもり
揺らめいている
「おまえはまた
希望の幻を産み落とした
牡牛は
希望を追って
絶望の鎖を引きちぎり
海の上に上っていった
もう
ネプチューンの宮殿に戻ることは出来ない」
口の耳まで裂けた
黒い服の女が言う
いったいあれがなんなのか
なぜわたしの体から
希望の幻が産み落とされるのか
わからない
わからない
泡の中の赤ん坊は
いつも静かに
やすらかに眠っている
死んでいるのではない
眠っているのだ
あの赤ん坊が目覚める
そのとき希望が泡を破って
絶望の宮殿の住人を
希望ですべて消し去るのか
その希望は
わたしの希望なのか
牡牛の希望なのか
なにもわからない
でもここでは
なにも理解する必要はない
ネプチューンの宮殿の絶望の奴隷には
苦痛という快楽があればよい

碧色の髪の女が
わたしをふたたび檻に押し込む
鎖を檻の鉄の棒に巻きつけると
扉を閉め
人魚の口から南京錠を取り出すと
かちりと閉める
女たちは黙々と
なにかうつろだ
女たちはおしゃべりもせず
黙って去っていく

それから
女たちはいくども
牡牛を連れてきた
わたしは牡牛の娼婦として
牡牛と繋がらされ
牡牛の足の間に吊り下げられた
牡牛が精をわたしの穴の中に放つとき
いつも
牡牛の体が透明になり
中に人間の男の姿が見える
しかし
もうわたしの穴からは
赤ん坊の眠る泡は産まれなかった
牡牛は女たちに曳かれて去っていき
わたしは
檻の中で
新しい牡牛のやってくるのを待っている
わたしは永遠に
牡牛の娼婦として
この檻の中で生きていくのか
それもいい
でもそれは安寧であり
絶望の宮殿では安寧は許されないのか

そして
またあたらしい牡牛がやってくる
今度の牡牛は
いつもの牡牛の倍ほどある
赤金色の巨体には
あちらこちらに吹き出物があり
前脚はいつもふるえていて
顔を落ち着きなく動かし
濁った白目がちの目を
あちらこちらに巡らせている
今日はいつもの女たちに加えて
黒い縮れた髪の
背の低いガッシリとした女が
口の耳まで裂けた赤い目の女とともに
二人がかりで牡牛の鎖を曳いている
鎖を引く二人はともに
黒い衣に赤い珠が縫い込まれた衣をまとい
力を込めて
しかしうやうやしくその牡牛を曳いてくる
あたかも牡牛の王を曳いてるように
わたしは檻から出され
牡牛の足の間に置かれる
その赤黒い吹き出物だらけの牡牛は
わたしの乳房をその分厚い舌でしきりと舐め回し
そしていきなり乳房に噛み付く
ほかの牡牛は決してそんなことはしなかった
この巨大な牡牛は
自分にはその当然の権利があるかのように
乳房に噛みつき
歯で乳房をもてあそぶ
それは陵辱そのもので
わたしは痛みとともに
あたらしい快楽が湧き上がる
女たちはいつものように笑い声をあげたりせず
黙って見つめている
牡牛が乳房から口を離すと
女たちはわたしを持ち上げ
捧げ持つように
息づくように細かく上下するペニスに
わたしの穴をあてがう
ペニスも赤黒く太く巨大で
そのままではとても穴には入らない
赫い髪の女が
わたしの穴の唇を両手で押し開き
女たちはいっせいにわたしを持ち上げ
ペニスを穴に押し込む
わたしの穴は裂けそうに広がり
ゆっくりとそ巨大なペニスを飲み込んでいく
そのペニスはわたしの内臓まで押し上げ
わたしの身体じゅう
ペニスに支配されている
女たちは手を放す
わたしは牡牛のペニスにぶら下がったまま
ペニスの動きにしたがって
ぐるぐるとまわる
牡牛はそれを楽しむように
自分の意志でペニスを動かしている
牡牛はなかなか精を発しない
長い時間繋がったままだ
碧の髪の女が
ペニスの根元の
睾丸をつかみ
やさしく撫でる
くりかえし
大切なものをいとおしむように
そっと撫でる
それとともに
わたしの中のペニスはますますふくらみ
牡牛は大きなうめき声をあげる
そして
ついにどくどくと
穴の中いっぱいに叩きつけるように
精が放たれる
それは膨大な量で
繋がった穴から赤みどり色の精が
溢れ出す
それとともに
ペニスはわたしの穴から滑り落ち
わたしの体は牡牛の足元に落ちる
わたしの穴からは牡牛の
赤みどり色の精がだらだらと流れ出し
あたり一面にひろがる
牡牛は足をさかんに踏み鳴らし
わたしは牡牛の大きな足に
踏み潰されそうになる
女たちはしかし
足元に広がってくる赤みどり色の精に
目を奪われている
女たちはうずくまり
争うように赤みどり色の精に手を伸ばし
精に掌をひたす
そして精で赤みどり色になった手で
顔を撫で擦る
舌を出し
手をなめる
牡牛の鎖を曳く二人の女の手から
鎖は離れる
牡牛はいっそう暴れ足を踏みしだき
短いうめき声を上げるが
女たちは精をなめるのに夢中で
放っておく
とうとう牡牛の足がわたしの腹を
思い切り踏みつける
そうして牡牛は何度も何度も
わたしを踏みつけ
わたしは灼けるような痛みにさらされ
穴からはどんどんと
赤みどり色の精が流れ出す
そして
赤みどり色の精が穴から出尽くし
それから
穴から大きな泡がぽっかりと
産まれるように湧き上がる
その泡はとても大きく
すぐには浮かび上がらず
牡牛の足の間を漂っている
透明な泡の中に
人間の赤ん坊が眠っている
赤ん坊はとても大きく
安らかに眠っている
女たちもやっと泡の中の赤ん坊に気付き
精を舐める手を止め
泡を見つめている
泡は牡牛の足の間を出て
あたりを漂い
牡牛も暴れるのをやめて
泡に見いっている
牡牛は泡に歩み寄ろうとし
のろのろと動く
赤ん坊は目をぱっちりと開き
目を覚ます
赤ん坊は起き上がり
泡の縁に開いた両手のひらをピッタリつけて
まわりの様子に見入っている
赤ん坊の目はとても大きく
ほとんど黒目が占めている
黒目の中の薄茶色の透き通った瞳孔に
水の中の青い光が映っている
その目は
女たちを見つめ
牡牛を見つめ
わたしを見つめる
女たちは見つめられると
その動きを止め
薄茶色の瞳孔を見つめ返す
牡牛も動きを止め
凍りついたように動かない
赤ん坊を乗せた泡は
まるで赤ん坊が動かしているように
ゆっくりだが自在に位置を変える
みどり色の髪の魚の眼をした女が
泡に歩み寄る
口が耳まで裂けた黒い髪の女が叫ぶ
「やめなさい
やめるんだ
泡に近づいてはいけない
泡はじきにのぼっていく
それ以上近寄ってはいけない
わたしたちにはどうすることも出来ないことがある
すべてはネプチューンにお任せするのだ
おまえは引っ込んでいるがいい
その泡に近づいてはいけない」
みどり色の髪の女は
その言葉に耳を貸さず
泡に近づいていく
泡は女の目の前に位置を変え
赤ん坊は大きな目で女を見つめる
女は腕をまっすぐ伸ばし
泡に手を近づける
そして
両手で泡をつかむ
赤ん坊がニッコリと笑う
そして
笑い声を上げる
女は泡を胸に抱きしめる
泡は女の胸の上でたわみ
女がもっと強く抱きしめると
泡はふっと弾け
消えてゆく
その瞬間
赤ん坊は
背の高い男の姿になる
男はとても若く
なにも身につけておらず
その光るような白い肌をさらしている
長い黒い髪が背中までたれ
がっしりと肩幅が広く
細い顎に細い鼻
そして目は大きく
ほとんど黒目だ
女はその若い男を抱きしめ
「あなたをずっと待っていました
さあわたしに口づけしてください
わたしがずっと待ち望んでいた
口づけをください」
男はその大きな両手で女の顔をつかみ
顔を寄せ
女に口づけする
長い長い口づけ
その間に女の姿は
次第に変わっていき
白い背中に茶色の腹
四角い体に細長い尾をつけた
エイに変わる
エイはゆらゆらと体を動かしながら
そのメスの性器を若い男のほんの小さな
ほとんど勃起していない陰茎にあてがう
そして体を揺らしながら
その小さな陰茎をメスの性器に飲み込んでいく
エイは茶色い腹をのたうたせ
ヒレをゆらゆらさせる
そして体全体をぶるぶると痙攣させ
その時
エイの体は透き通り
あたり一面に白い光を放ち
そして一瞬にして
細かい泡となり
光りながら昇っていく
女たちはその泡を見つめている
男も泡を見上げ
そのほとんど黒目の瞳で
黙って女たちの方を見る
次に赤い髪の女が
黙ってしずしずと若い男に近づく
男はふたたび女を抱きしめ
頭の後ろに手を当て
長い口づけをする
女はそのまま
足を男の体にからませ
体をすこし持ち上げると
女の性器を男の陰茎にあてがい
飲み込んでいく
女の白い背中がこまかく震え
そうして女は
赤い透き通った魚に変わる
赤いひれをひらひらさせながら
男の体の上で舞い踊るように
体をくねらせる
そして体がぴんと硬直し
その瞬間
細かい泡となり
上へ上へと昇っていく
すると今度はすぐに
まるで順番を待っていたように
金色の髪の
ほとんどなにも身につけていない女が
男に近づく
男は今度は
身をかがめて女に接吻する
女は膝まずき
男の小さな陰茎に唇をあてる
男は女の頭を両手でつかむ
女の口が陰茎を飲み込むように咥え
男の手が女の頭を前後にゆっくりとゆさぶる
そうしているうちに
女の体は
細長いウツボに変わる
そのウツボの目は
濁っていない
ウツボはクネクネと身をくねらせながら
男の陰茎に食いついている
そして体が真っ直ぐに硬直し
泡となって昇っていく
するとまた
次の女が男の近づいていく
そしてまた泡となって昇っていく
男は微笑みながら
女たちはを泡にして昇らせていく
そして
黒い髪で口の耳まで裂けた女と
巨大な乳房の人魚だけが残る
若者はふたりに微笑む
しかし二人は男に近づかない
すると
男は静かに
身動きもせず
じっとただづんでいた牡牛に振り返る
吹き出物があちこちに吹き出た
斑の牡牛は
男に近づいていく
男は牡牛に微笑みかける
そして鎖の端を拾い上げ
牡牛の首輪を曳く
さっきまで暴れていた牡牛は
従順な娘になったように
おとなしく男についていく
男は牡牛を曳いて
微笑みながら去っていく
その後姿に
光がぼおっと射している
「もうわたしにはどうすることも出来ない
ネプチューンの絶望の宮殿に
真の希望が産まれてしまったのだから
ネプチューンのところに行こう
あの方がこれをどうするか
伺いにいこう」
「わたしも連れて行ってください
ネプチューンのもとへ
あの若者を産み出したのは
このわたしなのですから
ここに置いていかないでください
ネプチューンのところに
わたしも連れて行ってください」
女はなにも答えない
そして黒い髪の口の耳まで裂けた女は
巨大な乳房の人魚を従え
去っていく
わたしは取り残される
もう誰もいない
あたかもなにか不穏なことが起こったことを知らせるかのように
みどり色の海藻は激しくゆらめく
青い魚の大きな一群が
みな体を激しくひらめかせ
急いで去っていく
そのあと
もう魚はだれも泳いではこない
土の上を這い回る
カニやヤドカリたちも

姿を見せない
その静けさの中
わたしは転がったまま
どうすることも出来ない
わたしは穴の唇に力を感じ
小さな泡が一気にたくさん
穴から湧き上がる
泡はわたしのまわりを取り囲む
泡の中には
兵士たちがひとりひとり
銃を持って立っている
みな若く
目がきらきら輝いている
兵士たちは
口々に叫んでいる
「一緒に戦いましょう
隊長の力が必要なのです」
「祖国は危機に瀕しています
自由と正義は
地に落ち
踏みにじられる寸前なのです」
「戦いましょう
希望はあります
戦場の英雄が戻ってきてくれれば
去ってしまった者たちも
力づけられて戻ってくるでしょう」
「あなたの力が必要です
私たちを見捨てないでください
わたしたちに
ふたたび希望を与えてください」
そう言いながら
兵士たちをのせた泡は
ぐるぐるとわたしのまわりを回って行く
わたしが黙っていると
泡の中の兵士は
ますます大きな声で
いっせいに叫ぶ
「わたしたちを見捨てないでください

わたしたちを見捨てないでください
わたしたちを見捨てないでください」
そう言いながら
泡はぐるぐるとまわりながら
昇っていく
わたしは昇っていく泡を
ただただ見つめている

女がやってくる
金色の髪に
黒い革のピッチリした衣を身につけた
あの女が
泳いでやってくる
女はわたしの前に立つと
金色の髪を一本引き抜き
海蛇の鞭をわたしに振るう
今までのように楽しげではなく
憎々しげに
力いっぱい
わたしの体のどこかを狙うとかではなく
とにかく手当りしだい
やたらとわたしの体を鞭打ち続ける
わたしの体を鞭で切り裂き
ばらばらにしようとするかのように
わたしは痛みでのたうつが
わたしの体は鞭跡がミミズ腫れのように腫れ上がっても
切れて血を流すことはない
乳房を得たこの体は
慰みものの娼婦として
どんな責めにも耐えられる
痛みはわたしに深い悲しみを呼び覚まし
そして官能に穴が潤っていく
女は苛立たしげに
鞭を打つ手を止める
「お前にとって鞭は
罰という名のご褒美だったね
馬鹿馬鹿しい
おまえにこんなご褒美を与えてしまった」
女は鞭を髪に戻すと
わたしの金の首輪に繋がる鎖を手に取る
「せっかく牡牛の娼婦にしてやったのに
永久に檻に繋がれ
牡牛の欲望を満たす器として
このネプチューンの宮殿に居場所を見つけられたのに
おまえは真の希望を産み出し
絶望の宮殿の掟を乱した
おまえはネプチューンの裁きを受ける
罰を与えられるのだ」
女は鎖を手にして
泳いでいく
わたしは泳ぐ女に曳かれ
水の中を進んでいく
魚はどこにも泳いでいない
宮殿の石畳の上にも
なんの姿もない
「おまえの産み出した希望を怖れ
みんな逃げ出すか
隠れるかしている
ネプチューンの宮殿に
今までこんなことはなかった
おそろしいことだ」
女はどんどん泳いでいき
ネプチューンの玉座のある
柱の立ち並んだ広間へとやってくる
そこには宝玉で飾り立てられた椅子が並び
真ん中の高いところが
ネプチューンの玉座だ
いちばん下座の椅子には
わたしを犯したのよりもっと大きなタコが
足を椅子からはみ出させて座っている
次には
白い大きなエイが
しっぽを折りたたんで
ヒレをひらつかせて座っている
次には
足の長い真っ赤なカニが
ハサミをしきりに開いたり閉じたりしながら
泡を吹いている
次には
ひらたく丸いマンボウが
上を向いて茫洋と座っている
ほかに
赤や青の透き通った魚や
大きなヒレをゆらゆらさせて
カサゴが椅子に座っている
金色の髪の黒い革をぴっちり身につけた女は
玉座の傍らに立ち
わたしはそのとなりに置かれる
向こうには
黒い髪の口が耳まで裂けた女が立ち
その横に
巨大な乳房の人魚がいる
水が大きくさざめき渦を巻くと
広間の奥から
青く光る大きな魚が泳いでくる
ネプチューンは玉座の上に
無造作に乗る
魚の顔に魚の目が両側に離れてついている
魚の口の口元には二本の長いひげが
生き物のようにうごめいている
胸ビレを腕のように玉座に持たれかけ
少し体を傾けてわたしを見る
金色の髪の女は
ネプチューンにひそひそとなにかささやく
ネプチューンはもう一度わたしをまじまじと見つめる
「おまえは牡牛の娼婦として
運命の牡牛と交わり
希望の息子を産み出した
このネプチューンの宮殿では
希望は絶望を深めるためのものに過ぎない
しかし
おまえの産み出した希望の息子は
絶望を打ち砕く力を持っている
ここに来たものすべてが
その胸のうちに抱えてきた希望を
すべて目覚めさせてしまうのだ」
「なぜわたしが
そんな希望の息子を産み出したのでしょう」
「それはおまえが
計り知れないほどの希望を
その体のなかに隠し持っていたからだ
おまえの深い絶望は
その計り知れないほどの希望によって作られていた
希望に絶望の殻をかぶせただけだったのだ
おまえはその希望を捨てないまま
この宮殿にやってきた
わたしはおまえの希望の強さを見抜けなかった
うかつだった
いままでたくさんの戦士がこの絶望の宮殿にやってきた
しかしおまえは今までの戦士とは違ったのだ
希望が激しい絶望の殻をかぶった戦士など今までいなかった
おまえの中には
おまえの目の前で倒れていった仲間たちが
死ぬ前におまえに託していった希望が
あふれるほどに眠っていたのだ
運命の牡牛がおまえに与えた運命と
おまえに託された夢と希望が結びついたとき
絶望の宮殿の止まった時間が動き出し
未来へと進み始めた
絶望は過去であり
希望だけが未来へと止まった時間を進める
未来へと進む時間は
すべてのものを滅ぼし
死へと向かわせる時間だ
絶望の宮殿では誰も死なない
時間が止まっているからだ
しかし今
希望の息子が産み出され
時間は動き出した
いま全ては
死と滅亡へと動き出した
おまえの産み出した希望の息子は
この宮殿を打ち壊す
すべては滅びへと向かっていく」
「わたしはどうすればよいのですか」
「おまえ自身が
希望の息子を自分の体の中に
引き戻すしかない
希望の息子の希望はおまえのものなのだから
おまえが希望を自分の体に引き戻さなければ
希望の息子を消すことは出来ない」
「どうすれば
わたしは自分の希望を引き戻せるのですか
わたしすら気づいていなかった希望を」
「それはわたしにもわからないのだ
進む時間の中で
わたしはどんどん老いてゆき
智慧すらも失われてゆくのだ
わたしに出来るのは
おまえを地下へと追い落とすことだけだ
このネプチューンの宮殿を去り
おまえはアルゴスの国へ降りてゆけ
目がおまえを見つめ
希望を見つけ出してくれるかもしれない」
「アルゴスの国へは
どうやってゆくのですか」
ネプチューンは黙って下を向く
そしてしばらくそのまま動かない
そして顔を上げる
「こうしてだ」
わたしの足の下の床が崩れ落ちる
わたしは真っ暗ななかを
ひたすらに落ちてゆく

 

 

わたしの体は
光の差さない硬い地面に叩きつけられる
わたしはもう
下半身に
花びらを感じない
足がある
手を胸に当てると
そこにはもう柔らかい乳房もない
足の間には陰茎もある
わたしの体は
もとの男の体に戻っている
わたしは起き上がり
あたりに目を凝らす
真っ暗でなにも見えない
なんの音もしない
風のそよぎもない
下は冷たいすべすべとした
磨き上げられた石のような感触だ
その暗闇の中
わたしは待っている
何かが現れるのを
あらわれるのはアルゴスなのか
なんなのか
わからないなにかを
暗闇に目を凝らし
ずっと待っている
なにもやってこない
なにもやってこない
どれくらい時間が立ったのかもわからない
なにも見えない
なにも聞こえない
肌に触れる空気も動かない
ただ磨き上げられた床のような
すべすべと冷たい感触が下にあるだけだ
わたしは目をつぶってみる
目をつぶると
遠くになにかほんの小さな光が見える
あわてて目を開けると
そこは暗闇だ
また目をつぶってみる
やはり遠くに何か小さな光が見える
その光はうす白く
ぼんやりと揺らめいている

わたしは目をつぶったまま立ち上がり
その光に向かって歩いていく
そうすると
光はこちらの方に近づいてくる
白くぼんやりした光は
だんだん形があることがわかる
それは鍵穴だ
鍵穴から白い光が差し込んでいるのだ
わたしは鍵穴に向かって歩いていく
目をつぶったまま
歩いていくと
その鍵穴の上に
ドアノブがある
そのドアノブの丸い形が
鍵穴の光にほんのりと写っている
わたしはドアノブを掴んで回してみる
ガシャリと音がしてドアノブは回る
ドアノブを押すと
ドアが開く
ドアの向こうには
真っ白い光があふれている
わたしはドアノブを離し
光の方に歩いていく

 

 

わたしは母と手をつないで歩いている
わたしは5才くらいの子供だ
大きな赤い丸い屋根の寺院が向こうに見える
石畳の広い道を
たくさんの人が同じ方向に歩いていく
男も女もみんな
小さな子供と手をつないでいる
みんな母と同じ灰色の丈の長いフード付きのコートを着ている
少しうつむいて
誰もなにもしゃべらない
子どもたちもなにも喋らず
同じように少しうつむいて
なんの表情もなく早足で大人についていく
わたしの靴は底が薄く
石畳の上を歩いていると
すぐに足が痛くなる
わたしは母を見上げて言う
「足が痛いよ
とても痛いんだ
もう歩けない」
母は何も言わず
わたしの方を見ようともせず
歩いていく
そして手をつないでいるのとは反対の手で
頭にフードをかぶる
わたしは足が痛くてうまく歩けず
母に引きずられるように歩いていく
わたしの目から
涙があふれ出す
周りを見ると
みんな同じくフードをかぶっている
そして無表情に大人について歩く子どもたちの頬に
みんな涙が流れている
そのとき
雨がしとしとと降りはじめる
うす赤い色をした粒の小さな霧のような雨が
しとしとと降りはじめる
灰色のフードの付いた長いコートは
うす赤い雨に濡れて
灰色がうっすらと赤くなっていく
わたしは引きずられてあるきながら
向こうの赤い大きな丸い屋根を見る
うす赤い雨の向こうにぼうっと見える丸屋根は
こんなに歩いているのに
少しも近づいていない
このままどんなに歩いても
あの丸い屋根にはたどり着かない
そう思えてきて
もっと涙があふれ
目の前が赤くかすむ
そのとき
赤い丸屋根の右側から
緑色の煙が立ち上っていく
煙は少しゆらめきながら
うす赤い雨の中を
ゆっくりと立ち上っていく
今度は丸屋根の左側から
黒い煙が立ち上りはじめる
緑色の煙と黒い煙は
並んで静かに丸屋根から空へ
立ち上っていく
母も顔を上げ
丸屋根から立ち上る煙を見つめ
立ち止まる
みんな同じように顔を上げ
一斉に立ち止まる
前の人たちが道の両脇に
ぞろぞろと避けていくのが見える
母もわたしの手を引いて
道の脇に避ける
道の真ん中に行列がやってくる
裾の短い赤い服に
真っ白い素足を露わにした
裸足の15才くらいの娘たちが
やはり赤いフードをかぶって
まっすぐ前を見ながら
二列で歩いてくる
娘たちがやってくるのにつれて
みんな次々に跪く
母もわたしの手をつかんだまま
片膝をつく
まわりの子どもたちも
大人と同じように
ひざまづく
わたしはただ恐ろしく
震えながら立っている
娘たちはひざまづく人々の間を進む
その一番うしろに
濃紺に金ボタン
襟やボタンのところに
たくさん金の刺繍の入った軍服を着て
同じような軍帽をかぶった男が歩いてくる
男の頭は人間ではなく
大きな金色に光る玉ねぎなのだ
玉ねぎはみんなに手を振りながら歩いてくる
玉ねぎには目も鼻も口もない
でもなにか笑っているように見える
玉ねぎはこちらの方を向く
そして
ただ一人立ちつくして
しゃくりあげながら黙って泣いているわたしと
目が合う
玉ねぎには目がないが
視線が合ったように思える
玉ねぎは立ち止まる
それとともに
娘たちも一斉に立ち止まり
玉ねぎの方を振り返り
向きを変えて
玉ねぎの前にひざまづく
玉ねぎは
一番前にひざまづく娘のひとりに
目のない顔で目配せする
その娘は立ち上がり
わたしの方に向かってくる
娘はわたしと母の前で立ち止まる
娘の真っ白い素足が
わたしには眩しく思える
娘はひざまづく母の頭の上に
そっと片手をのせる
母はわたしの手をつかんだまま立ち上がる
そしてわたしに手を引いて
玉ねぎの方へ進んでいく
母は玉ねぎの前に来ると
ふたたびひざまづく
わたしは立ったまま
玉ねぎの顔を見上げる
玉ねぎはわたしの頭に手を乗せる
玉ねぎが笑ったように思える
玉ねぎは娘の一人に顔を向ける
娘はうなずき
立ち上がる
それとともに
ほかに三人の娘が立ち上がる
娘たちは
母のところにやってくると
母とわたしを取り囲む
娘たちはいっせいにフードを取る
すると
フードの下から
玉ねぎがあらわれる
四つの玉ねぎが並んでいる
母はわたしの手を放し
両手でフードを取る
するとまた
玉ねぎがあらわれる
ほかの娘も
またひざまずくすべての人が
うす赤い雨に打たれて色の変わった
灰色のフードを取る
そこから
玉ねぎがあらわれる
見ると子どもたちの頭も
玉ねぎなのだ
わたしはまわりの玉ねぎを見回す
娘の玉ねぎ二人が軍服の玉ねぎの足元にひざまずくと
軍服の玉ねぎの股間から
小さな玉ねぎが生えているのが見える
二人の娘の玉ねぎは
うやうやしくその玉ねぎの茶色い薄皮を剥く
すると
その下から
白くぴかぴかした玉ねぎの皮があらわれる
別の二人の玉ねぎが
母の玉ねぎの手を取ると
母の玉ねぎは立ち上がり
灰色の服の前のボタンを外しはじめる
すべてのボタンを外したとき
二人の娘の玉ねぎが後ろから服の袖を引く
灰色の服は母の玉ねぎの体から滑り落ち
地面に落ちる
母の玉ねぎはなにも身につけていない
濃い肌色の体は
乳房が美しいカーブを描いている
わたしは久しぶりに目にするその裸身を
じっと見つめている
母の玉ねぎは
軍服の玉ねぎの前に進み出て
その前で横たわる
二人の娘の玉ねぎが
母の玉ねぎのくるぶしを高々と持ち上げ
大きく開かせる
軍服の玉ねぎは
母の玉ねぎの足の間にうずくまると
白い玉ねぎを母の玉ねぎの足の間にあてがう
白い玉ねぎをあてがわれた時
母の玉ねぎの足の間から
白い細長い蛆虫が湧き出す
その白い蛆虫は
白い玉ねぎを取り囲むと
その白い玉ねぎを
母の玉ねぎの足の間に引き込んでいく
その瞬間
母の玉ねぎが母の顔に変わる
そして大きく口を開くと
狼の吠えるような叫び声を上げる
そしてそのまま
また母の顔は玉ねぎとなる
その間に
白い蛆虫は
足の間だけではなく
臍からも湧き出し
体全体に広がっていく
白い蛆虫は
母の玉ねぎの濃い肌色の体の上を
もぞもぞと動き回る
もう体中が
動く白い蛆虫でいっぱいになっている
軍服の玉ねぎが
母の玉ねぎの足の間から
白い玉ねぎを引き抜くと
両手で白いピカピカした玉ねぎにたかる
たくさんの白い蛆虫を払い落とす
娘の玉ねぎは
母の玉ねぎの足を放し
母の玉ねぎの足は地面にドサリと放り投げられる
軍服の玉ねぎは母の玉ねぎに一瞥もくれず
また前を見て立ち去っていく
娘の玉ねぎもその後を
何ごともなかったかのように
ついていく
母の玉ねぎが
母の顔に戻る
その母の両目から
白い蛆虫がいっせいに湧き出す
鼻からも耳からも
白い蛆虫がいっせいに湧き出してくる
母は口を開く
「坊や、おいで
母さんのところにおいで」
白い蛆虫が急に体を伸ばし
長い蛆虫となって
わたしの体に巻き付く
「母さん放して
ぼく怖いよ
母さんのところに行きたくない」
「坊や、おいで
母さんのところにおいで」
白い長い蛆虫は
わたしの体を巻き取る
わたしは手も足も蛆虫に縛られ
身動きできない
蛆虫はわたしの体を持ち上げると
その時
母の足の間におおきな真っ暗な穴が開く
蛆虫はわたしを
その真っ暗な穴に落とす
わたしは穴の暗闇を
真っ逆さまに落ちていく

 

 

わたしは教室の机に座っている
教壇で
金色の髪の背の高い女の先生が
黒板にチョークで
ひたすらなにか書いている
先生はなにも言わず
ただひたすら書いている
先生の後ろ姿が黒板に吸い付いているように見える
黒板になにが書いてあるのか
それはわたしのよく知っている文字なのに
わたしには何が書いてあるのか
まったくわからない
わたしは隣の机の生徒を見る
黒い髪を垂らして前かがみの女子生徒は
ノートに黒板の文字を書き写している
反対隣の机でも
黒い髪を垂らして前かがみで
一心に黒板の文字を書き写している
まわりの机の生徒はみな
同じ姿勢で
机に向かってノートに書き写している
誰も何も言わない
「あの
先生
ぼくには黒板になにが書いてあるのかわからない」
わたしがそう言っても
誰も何も言わず
金色の髪の女の先生も
振り向きもしない
わたしは黒板に何が書いてあるのか
どうしても何もわからない
よく知っている文字で書かれているのに
なにひとつ解読できない
わたしはどうすることも出来ず
所在なくうしろを振り返る
すると
教室のいちばん後ろの床が動いているのが見える
いや
動いているのではない
教室のいちばんうしろの床と壁の間に
小さな隙間が出来て
そこから
無数の白い小さな蟻が
床の上に湧き出ているのだ
白い小さな蟻たちは
皆口々に
小さな四角い紙をくわえている
その紙には
なにか文字が書いてあるようだが
小さすぎてよくわからない
白い蟻は
どんどんと教室の前に向かって
進んでいく
床いっぱいに広がって
白い蟻がこちらに向かってくる
白い蟻はわたしの隣の机の生徒の
その足元に到達すると
その生徒の靴を登りはじめる
そしてあっという間に
足から体中這い上って行く
その生徒は身じろぎもせず
相変わらず机に向かっている
その生徒の体はあっという間に
体じゅう白い蟻に覆われ
もはや体は何も見えなくなる
人間の体の形をした
うごめく白い蟻の塊
その蟻はみんな小さな四角い紙を口にくわえている
人間の形をした
ちらちらと動く
小さな四角い紙のかたまり
まわりを見ると
反対隣の机の生徒も
同じように体じゅう白い蟻に覆われ
蟻のくわえた小さな四角い紙が
体の形に揺れている
前の生徒たちにも
次々と白い蟻が這い上り
教室中の生徒がみんな
白い蟻に覆われていく
人間の体の形をした
小さな四角い紙をくわえた
白い蟻がうごめいている
わたしは恐ろしくなって立ち上がり
ひたすら黒板に書いている先生に向かって
歩いていく
すると
教壇の横の教室の入り口から
顔を両手で覆って
大声で泣いている
5歳ぐらいの
赤いトレーナーにデニムのスカートを着た
茶色いちぢれた髪の女の子が入ってくる
女の子は教壇の真ん中で立ち止まり
こちらを向いて
顔を両手で覆って
泣いている
先生が板書の手を止める
そして
金色の髪をなびかせて
こちらに振り返る
先生は青い瞳をこちらに向け
わたしを真っ直ぐ見つめる
「おまえはこの子になんてことをしたんだ
おまえはまだ中学生だから
罪には問われないが
わたしはおまえを許さない
この子に代わって
おまえに復讐する」
わたしには先生の言っていることがわからない
「なんのことですか先生」
「わたしは卑劣なおまえを許さない
この子に代わって
おまえに復讐する」
女の子は相変わらず顔を手で覆って
泣き続けている
わたしはその時
はじめて黒板に書いてある文字が
すべて読めるようになる
「おまえがこの子にした卑劣な行為を
わたしたちは絶対に許さない
おまえが罪に問われないなら
わたしたちがおまえに
罪の償いをさせる
復讐する
復讐する
復讐する」
その言葉が繰り返し
黒板いっぱいに記されている
振り返ると
どの子のノートにも
おんなじことが繰り返し記されている
そして
白い蟻たちのくわえている白い紙が
ちらちら動き
「復讐する復讐する復讐する」
という文字が現れてくる
「それは僕じゃない
人違いだ
ぼくはぜんぜん関係ない
なのになんでぼくをそんなに
ひどく非難するんだ
それはぼくじゃない」
わたしは先生のほうに振りかえる
先生の姿はすでに
白い蟻に覆われている
蟻のくわえた白い紙は
大きく
「復讐する復讐する復讐する」
という文字が無数に現れている
その文字がありと一緒にちらちらと
動いている
わたしは
両手で顔を覆って泣き続ける女の子に向かって言う
「それはぼくじゃない
きみが一番知ってるだろう
それはぼくじゃない」
わたしはその時はじめて気づく
その女の子は
泣いているのではない
笑っているのだと
顔を両手で覆って
笑っているのだ
女の子の笑い声が
どんどん大きくなっていく
その笑い声につれて
白い蟻たちもいっそうちらちら動く
笑い声は教室じゅうに響きわたり
耳を塞ぎたくなるほどの大きな声になる
その時
女の子は顔から両手をどける
両手の下の顔には
大きな穴が空いている
穴は真っ暗な空洞につながっている
白い蟻たちがいっせいに女の子めがけて
動きはじめる
白い蟻たちは
女の子の足から体を這いのぼり
顔の真っ暗な空洞に
どんどんと飲み込まれていく
白い蟻が離れていったあとには
生徒の体も先生の体も
なくなっている
床をしゅらしゅらと音を立てながら
紙を口にくわえた白い蟻たちが
女の子めがけ進んでいく
女の子の顔の真っ暗な空洞は
どんどんと白い蟻を飲み込んでいく
わたしはその空洞に引き寄せられて
歩いていく
女の子の両手が
わたしの肩をがっしりとつかむ
そしてその手で
わたしのからだは持ち上げられ
その瞬間
わたしは女の子の顔の
真っ暗な空洞に飲み込まれ
真っ暗な中を
ひたすら落ちていく

 

 

そこは黒い雲に覆われた
広い荒野に見える
しかし
地面はすべて
黒く光る冷たい鉄のボールが敷き詰められている
そのボールの合間から
緑の草がところどころのぞいている
その黒く光るボールは
すべすべとしていて
足を乗せるとくるくると回転し
まっすぐ立っているのがむずかしい
まして歩くのはむずかしい
そして黒い雲におおわれたように見える空も
すべて黒く光る鉄のボールなのだ
それは空いっぱいを覆い尽くしている
黒いボールの冷たい輝きが
光となってあたりを照らしている
わたしは白い太い金網を組み合わせた
フェンスにつかまって立っている
フェンスの向こうには
黒い鉄のボールの間から
草の生い茂った野原があり
その向こうにまた同じように
白い太い金網の
低いフェンスがある
その低いフェンスの向こうに
白い木で出来た大きな舞台が
高く置かれている
その白い舞台の上に
白い一本の柱が立っていて
その一番上に横木がついている
その横木から
白く太い紐が長く垂れ下がり
その紐の先は
大きな輪にくくられている
その輪に向けて
白い木の階段が登っていく
その白い木の階段の下に
白い長い
なんの飾りもないまっすぐなドレスを着た
黒い長い髪の女が立っている
女はその場所から
フェンス越しのわたしを見る
「わたしは罪びとです
わたしはその罪のために罰せられ
絞首刑になるのです
わたしを絞首刑にするのは
わたしです
なぜならわたしが
わたし自身の罪をいちばんよく知っているから
わたしは売春婦です
淫売です
あなたの愛をかち得るために
身を売った売春婦です
わたしはあなたのために
自分の心を売った
あなたの愛をかち得るために
自分の心を
おもちゃのように弄び
汚しました
体も心もあなたに売りました
あなたの抱きしめたからだは
ただの売り物の身体でした
あなたが愛したのは
わたしではなく
あなたに身を売った
売春婦だったのです
そしてその売春婦はあなたに
ごみくずのように捨てられ
街のかたすみで惨めに泣きました
わたしはわたしのこころを殺した
わたしのわたしのからだを殺した
その殺人の罪で
わたしは絞首刑に処せられるのです
わたしは死ぬのです
わたしの罪のために
この耐えがたく汚れた
この淫売のこころとからだを
絞首台に
高くさらすのです
そうして
わたしの犯した愚かな罪を
世界のすべての人にさらすのです」
言い終わると
女はまっすぐ前を向き
白い階段を一段あがり
うつむいて立ち止まる
「やめろ
やめるんだ
わたしは君を捨てたりしない
いまでも愛している
そういつも言っている
なのになんで
捨てられたなんて言うんだ
いつも心からきみを
大切に思っている
だからやめるんだ
生きていてくれ」
女のなんの飾りもない白いドレスは
いつのまにか
真っ白い薄い絹の
たくさんの襞にかざられた
ウェディングドレスに変わっている
腰にうすいブルーのリボンが巻かれ
うしろで大きく結ばれている
ドレスは長く裾を引き
階段の下に流れる
頭にはヴェールをかぶり
白いブーケを手に持っている
女はまたわたしを見る
「わたしは花嫁です
こうしてヴァージンロードの階段をのぼり
いとしい花婿と結ばれるのです
花婿はあの輪に結ばれた白い縄
わたしはあの花婿と指輪を交換し
キスをする
花婿はわたしを抱きしめ
わたしを吊り下げてくれる
罪深い売春婦は
こうして幸せな花嫁となるのです
花婿はわたしの
すべての罪を浄めてくれるのです
こうしてわたしは
やってくる幸せに胸をときめかせ
はじめて恋をする娘のように
顔を赤らめ
この階段を昇っていくのです」
女はまた階段を登る
わたしは白い金網のフェンスを強くつかみ
叫ぼうとする
しかし
わたしの足元から
何かが這い上ってくる
それは大きな黒いカブトムシだ
鉄のボールと同じ色をした
黒く輝くカブトムシが
敷き詰められた鉄のボールの間から
つぎつぎと湧き上がり
わたしの体を登ってくる
わたしは両手でカブトムシを
ばたばたとはたき落とす
それでもカブトムシは
どんどんと足元から登ってくる
わたしは夢中でカブトムシをはたき落とす
女の声がする
「あなたはそうして
いちばん大切なときに
わたしを見ていない
あなたが必要なときだけ
わたしをそばに置いて
わたしがあなたを本当に必要にしているとき
あなたはわたしを見ていない
わたしはあなたに身を売ったのに
あなたは買いたいときだけ
わたしを買うだけ
ほんとうの淫売にするように
用が済めば
汚らわしいもののように
追い払う
あなたは今忙しい
わたしにかまっている時間はありません
しかたのないことです
わたしの花婿は
未来永劫
わたしの死の時まで
わたしを抱きしめていてくれます
花婿はわたしの首に腕を回し
こう言ってくれるでしょう
もう二度と放しはしない
死ぬときまで
このからだを放さない
愚かな売春婦は
待ってくれている花婿によって
本当の不滅の愛を得るのです
わたしは幸せの期待に身を震わせながら
この階段を昇っていくのです」
わたしはカブトムシをはたき落とすのをやめ
フェンスの白い太い金網の
錆びて切れたところから
金網をほどく
体じゅうカブトムシが這い回り
顔にも登ってくる
わたしは構わず金網をほどく
「今そこへ行く
待っていてくれ
その階段を上がってはいけない
ほんとうに愛しているんだ
信じてくれ
思い出してくれ
わたしはいつも君を見ていた
そうじゃないか
その階段を登ってはいけない」
女はわたしをじっと見る
「あなたはわたしを見ていました
その金網のフェンス越しに
いつも見ていました
そのフェンスを
いちども越えようとはせず
そのフェンスにつかまって
わたしを見物していたのです
檻の中の動物を見るように
わたしを見ていました
そのフェンスはいつでも越えられたのに
そのフェンスはわたしではなく
あなたがつくったものなのだから
あなたはいつでもフェンスを消せたのに
一度もそうしようとはせず
あなたはいつもそのフェンスにつかまって
わたしという人間を見物するだけだった
今はじめて
あなたはフェンスを越えようとしている
でももうすべては遅い
あなたはどうやって
このフェンスを立てたか
まだ気づきもしない
だからあなたはこのフェンスを消せない
だからもう間に合わないのです」
相変わらずカブトムシが体の上を
ざわざわと動き回り
顔の上にも動いている
目と鼻の上を動くカブトムシをはたき落としながら
やっと金網が
わたしの体が通れるくらいほどける
わたしは金網の隙間から
体をすり抜けさせる
金網にあたって
体の上のカブトムシがばらばらと落ちる
フェンスをすり抜けて
わたしは前に進もうとするが
足元の黒い鉄のボールは
わたしが足を動かすごとに
くるくると回転し
前に進むどころか
とても立っていられない
わたしはよろめいて倒れ
黒い鉄のボールの上に四つん這いになる
それとともに
体の上のカブトムシがざっと下に落ちる
カブトムシは
回転する黒いボールにはさまれて
赤い体液を吹き出しながら
ボールの奥に消えていく
もう下からはカブトムシは湧いてこない
わたしは四つん這いのまま
なんとか這い進む
「待っていてくれ
今行くから
待っていてくれ
お願いだ」
ウェディングドレスの女は
一歩また階段を登る
もうわたしを見もしない
「わたしはずっとそうして
あなたに近づこうともがいていました
でもどうしても近づけなかった
あなたはそんなわたしに
今のわたしがしているように
目もくれず
気づきもしなかった
もうすべては遅いのです
あなたはわたしのところには
たどり着けない
わたしがあなたにたどり着けなかったように
わたしはこの階段を昇り
花婿のもとへと
嫁いでゆくのです
あなたへの淫売の罪を浄め
わたしを永遠に抱きしめてくれる
花婿のもとへ」
わたしは
黒く光るボールの上に
這いつくばりながら
それでも必死で進んでいく
「待っていてくれ
絶対にそこに行く
君をもう一人にはしない
もう一度君を抱きしめる
必ず
もう一度」
黒い鉄のボールの隙間から
黄色い小さな花が咲きはじめる
小さな花のつぼみは
最初下を向いうつむいているが
咲くにつれて
すっくと上を向く
花はあちらこちらから咲いていく
あたりは黄色い小さな花で
いっぱいになっていく
それにつれて
つるつるしたボールの回転は鈍くなっていく
わたしは這いつくばりながらも
前へ進めるようになる
そうして
わたしはやっと
舞台の下に張り巡らされた
もう一つのフェンスにたどりつく
わたしはフェンスにすがりつき
立ち上がる
そのとき
フェンスは緑の
細長い葉をつけた
緑の草の蔓に変わる
蔓はわたしの手を
そして体をからめとる
蔓は青い匂いがする
やわらかくやさしく
わたしの体を持ち上げると
そのままするすると上へ上へと
伸びていく
わたしは蔓にからめとられたまま
上へと昇っていく
蔓はわたしを舞台に上に置くと
わたしを放し
そのままするすると
下に降りていく
「さあここまで来た
君を抱きしめにここまで来た
もうその階段を登らなくていい
君はわたしのもの
わたしは君のものだ」
階段を上りきり
縄に手をかけた
ウェディングドレスの女は
わたしの方に振り向く
「やっと来てくれたんですね
あなた」
そうして笑う
その顔
わたしはこのときはじめて気づく
わたしはこの女を知らない
見たこともない顔だ
一度も見たことのない
見知らぬ女の顔だ
「おまえは誰だ
わたしはおまえを知らない
わたしはおまえを知らない」
女はわたしの声を聞くと
目から赤い涙を流しはじめる
その涙はとめどなく溢れ出て
ウェディングドレスを赤く染めていく
ウェディングドレスはどんどん
真っ赤に染まり
もはや白い色を失っている
見知らぬ女は縄の方に振り向き
何も言わず
縄に首を入れる
白い縄が女の首に絡みつく
やめろ
やめるんだ
わたしの喉から
その言葉が出かかるが
わたしはそれを飲み込んでしまう
女は階段を蹴り
宙に吊るされる
その時
わたしを舞台に持ち上げた蔓が
いっせいに伸びてきて
蔓の先が階段を登っていく
緑色の蔓は
それに命があるかのように
蔓の先を震わせながら
伸びてゆく
蔓はどんどん伸びて
吊るされた女の体を
やさしく包みこむ
そして蔓はそのまま
女の体を捧げもち
上へ上へと伸びていく
それにつれて
女の首の縄が外れる
蔓は女の体を包み
どこまでも高く
昇っていく
空にびっしり並んだ黒い鉄のボールの
鉄と鉄との隙間から
一筋の光が差し
蔓に捧げ持たれた
赤く染まったウェディングドレスの女を
輝くように照らす
鉄のボールからの光に導かれるように
赤いドレスの女の体は
黒い鉄のボールのびっしり敷き詰められた
重く光る空へと昇っていく
女の体が近づいていくにつれて
鉄のボールのひとつひとつが
グルグルと回転をはじめる
女の体は
見上げるわたしの真上で
蔓に持ち上げられて昇り
回転する黒い鉄のボールにはさまれ
グシャリと体は無残に潰れ
頭も手も足も引きちぎれながら
回転する鉄のボールにしだいに呑み込まれていく
鉄のボールは回転を続け
女を呑み込んだ隙間から
赤い液体がひとすじまっすぐ
わたしのめがけて降りおりてくる
女の血のような赤い液体は
わたしの目の前の舞台に床に落ち
見る間に拡がって
赤い池がわたしの足元に
出来てゆく
次に回転するボールの隙間から
引きちぎれた肉の破片が
ぽたりぽたりと落ちてくる
肉片は
赤い池の真ん中に次々に落ちてゆき
次第に積み上がっていく
ちぎれた肉片は次々に落ちてきて
やがてうず高く積み上がり
ちょうど人の背丈ほどに積み上がったとき
肉片はもう落ちてこなくなる
積み上がった肉片は
赤い池の血のような水を
どんどんと吸い上げていく
それとともに
肉片はぶよぶよとうごめき
しだいに
人の姿をかたち作っていく
足ができ
腰が出来ていく
体は裸で
女の体だ
次第にくびれた腹から
胸が出来
乳房が出来上がっていく
しかしその体の仕上がりは
ひどくおざなりで
皮膚は肉が直接むき出したように爛れていて
時折肉片が体から床へ落ちる
すべてが歪んでいて
左右対称ではなく
女の体によく似た
肉の塊でしかない
やがて腕が出来あがるが
手は単なる肉の塊で
指はない
首が出来
頭ができる
黒い長い髪も出来てくる
しかし女の顔は
二つの目のひとつは
普通のところについているが
もう一つは鼻の横に斜めにある
鼻は潰れた肉の塊で
口には唇がない
その女はわたしをまっすぐ見て
口を開く
「さあ
わたしはこうして
生まれ変わって戻ってきました
あなたにも
わたしが誰だかわかるでしょう
もう知らないとは言わせません
今度こそわたしを抱きしめてください
あなたの恋人を
力いっぱい抱きしめてください」
そういう女の顎の下の肉片が
たれさがりポタリと下に落ちる
女は両腕を広げ
わたしに歩み寄って来る
わたしは恐怖にかられ
無言で女を突き飛ばす
わたしが突き飛ばした手の場所の肉が
ボロボロと落ち
わたしの手に肉片がついている
女の目からまた
赤い涙が流れ出す
涙は体に落ちて
それとともに
女の体はどろどろと溶けてゆく
人間のかたちを失い
肉の塊となり
床の上に積み上がる
わたしの前に
赤茶色の肉の塊が
生々しい臭気を漂わせ
盛り上がっている
その時
黒い鉄のボールの空の隙間から
その肉の塊に一条の光が注ぐ
その白いまばゆい光は
肉の塊を光り輝かせ
そのまま
肉を空へ吸いあげていく
空の黒い鉄のボールは
再び回転をはじめ
吸い上げた肉を噛み砕いて呑み込んでいく
そこから
またわたしの前に
赤い液体が降り注ぎ
赤い海の中に
さっきより細かい肉片が
ぽたぽたと降り落ちる
肉片はまた積み上がり
赤い液体を吸い上げ
そしてまた人間の姿になってゆく
その人間は
どろどろとした肉の塊が
かろうじて人間の形をしている
常に肉片がこぼれ落ち
その形はすぐに崩れそうにぐらぐらしている
しかし顔だけが
今度はしっかりと
人間の女の顔をしている
黒い髪で
大きな目をした女の顔が
わたしを見つめる
「さあ
わたしはこうして
また生まれ変わって戻ってきました
あなたにも
わたしが誰だかわかるでしょう
もう知らないとは言わせません
今度こそわたしを抱きしめてください
あなたの恋人を
力いっぱい抱きしめてください」
顔だけが美しいその肉の塊は
大きな目を見開いて
わたしにふたたびこう語りかける
わたしはこの顔に
見覚えがある気がする
肉の塊はふたたび腕を広げ
わたしを抱きしめようとする
肉の臭気が迫ってくる
わたしはまた肉の塊を
強く突き飛ばす
肉の塊はまた
どろどろと溶けていく
しかし
顔だけは溶けず
崩れ落ちた肉の真ん中で
わたしを見つめている
「あなたの恋人を
思い出して
わたしを救ってください
あなたがわたしを抱きしめてください」
そういうと
顔も溶けて肉の塊となる
そして空からまた光が差し込み
肉の塊を吸い上げ
同じことが繰り返される
出来上がった人間の形は
さっきより崩れ落ち
どろどろした半分液状の強い臭気を放つ肉が
かろうじて人間の形をしているだけだ
しかし
顔はさっきより美しい
その目は黒く深く澄み
憂いをたたえてわたしを見つめる
「さあ
わたしはこうして
また生まれ変わって戻ってきました
あなたにも
わたしが誰だかわかるでしょう
もう知らないとは言わせません
今度こそわたしを抱きしめてください
あなたの恋人を
力いっぱい抱きしめてください」
この顔を知っている
わたしはそれを確信する
しかし誰だかはまったくわからない
わたしはまた肉の塊を突き飛ばす
また肉の塊は
顔を最後まで残しながら
溶けていく
そしてまた
同じことが繰り返される
女の顔は
また別の美しい顔をしていて
わたしに同じことを語りかける
「さあ
わたしはこうして
また生まれ変わって戻ってきました
あなたにも
わたしが誰だかわかるでしょう
もう知らないとは言わせません
今度こそわたしを抱きしめてください
あなたの恋人を
力いっぱい抱きしめてください」
この顔を知っている
でもわたしは知らない
そうなのだ
この顔は
知っていて知らない顔なのだ
知っていて知らない
美しい女の顔
わたしはまた肉の塊を突き飛ばす
そしてまた同じことが繰り返される
また別の顔
知っていて知らない
見知らぬ知っている
美しい女の顔
わたしは肉の塊を突き飛ばす
また同じことが繰り返される
そしてまた同じことが繰り返される
そしてまた繰り返される
繰り返される
繰り返される
肉の塊の臭気はそのたびごとに強まっていく
すさまじい臭気の肉の塊と
美しい女
わたしはこの繰り返しから
永遠に逃れられない
わたしはもうこれを
受け入れるしかない
そう思ったとき
数十度目かの女の顔が
自分の恋人の顔であることの気づく
いつの恋人なのか
どこの恋人なのか
本当の恋人なのか
わたしは知らない
しかしこれこそ
わたしの恋人だ
わたしはこのとき初めて
このことに気づく
知っていて知らない女
それが恋人なのだと
「さあ
わたしはこうして
また生まれ変わって戻ってきました
あなたにも
わたしが誰だかわかるでしょう
もう知らないとは言わせません
今度こそわたしを抱きしめてください
あなたの恋人を
力いっぱい抱きしめてください」
わたしは
強い臭気を放つ
ドロドロと崩れ落ちる
すでに人間の形すらしていない
肉の塊を抱きしめる
「やっと出会えたね
わたしのいとしい人
もう二度と
あなたを放さない」
その瞬間
肉の塊は
白い透き通るような肌をした
女の裸の姿になる
柔らかい肌
すべすべした肩から腕
小ぶりの可愛らしい乳房
腰から尻の美しい線
すらりとした足
抱きしめたわたしの腕の中に
恥ずかしそうに顔をうずめた
理想の恋人が
そこにいる
恋人は顔をあげ
わたしを見つめる
わたしたちは
長いあいだ
黙って見つめ合う
ついに出会えた恋人たちとして
愛を確かめ合う
そして恋人は静かに目を閉じる
わたしは恋人の唇に
自分の唇を重ね
キスをする
わたしたちは唇をあわせ
そして舌をからませる
そうしてわたしたちの唾液が
混ざりあったそのとき
恋人の体が
ずるりと柔らかくなる
恋人の体は
どろどろと溶けはじめている
そして
わたしの体も
同じように溶けはじめている
抱き合った二人の体は
ゆっくりと
肉の塊へと溶けていく
そのとき
地面に敷き詰められた黒い鉄のボールが
回転を始める
鉄のボールは回転しばりばりと音を立てて
わたしたちの立っている舞台を
噛み砕いて呑み込んでいく
わたしたちの足元が崩れていく
わたしと恋人は
抱き合いながらどんどん肉が溶けてゆき
ふたりの肉が混ざり合っていくのを感じる
ふたりはもうひとつの肉の塊になっている
そうしてひとつになり
わたしたちは永遠に抱きあい
永遠の愛に生きる
足元の舞台は崩れ去り
今度はわたしたちの肉の塊が
黒い鉄のボールの回転に呑み込まれていく
呑み込まれながらわたしは思う
今度は逆に回転するボールから
ふたりの混ざりあった肉が吐き出され
いったいその肉の塊は
どんな姿を取るのか
わたしはそれを夢見ながら
鉄のボールに引きちぎられる

 

この部屋の壁は真っ赤だ
赤いペンキが一面に
しかしまだらに粗雑に塗られている
おおきなブラシで塗ったのか
筆跡がやけに幅が広い
床も天井も
同じように赤いペンキで塗り込まれている
狭い部屋には窓どころか
ドアもひとつもなく
わたしはどうやってこの部屋にはいったのか
それとも閉じ込められているのか
わからない
真っ赤な部屋の真ん中にひとつだけ
丸いうす茶色い木のテーブルがあり
そのまわりに
同じ色の木の椅子が4つあり
わたしはそのひとつに座っている
うす茶色い木のテーブルに
部屋じゅうの真っ赤な色が映り込んでいる
テーブルの上に
白い丸い皿が置かれ
その上に
真っ赤なザリガニが置かれている
ザリガニは生きているように
わたしの方に体を起こし
両のハサミを振り上げ
わたしを睨みつけている
皿の両側に
ナイフとフォークが置かれ
皿の向こう側に
ナプキンが
レストランのように綺麗に立ち上がっている
わたしはナプキンを取ると
膝の上に置く
そのときはじめてわたしは
自分がなにも身につけていないことに気づく
わたしはナイフとフォークを取り上げる
しかし
ナイフとフォークで
どうやってこのザリガニを食べるのか
わたしにはまったくわからない
わたしは皿の上のザリガニと同じ姿勢で
ナイフとフォークを手に持って
ザリガニと向き合っている
そのまましばらく
ザリガニと向き合っている
わたしは
ナイフとフォークをもとどおり
皿の両側に置くと
両手でザリガニをつかみ
まずはハサミの腕の根元を
胴体から引きちぎる
ハサミの爪を逆側に折り曲げ
爪を根元の透明な骨ごと引き抜く
そしてその骨についてきた肉をしゃぶる
それから爪のついた関節を逆に反らして
足から引き離す
ハサミがそこにないことに舌打ちしながら
ナイフを爪の横に当てて
爪を切り開く
そして爪の中の肉をフォークでそぎ取り
口に運ぶ
爪以外の残った足も
ナイフで切り開き
中の肉をそいで口に運ぶ
こちらには期待するほどの肉はない
わたしはもう一本の爪に手を伸ばし
同じように関節を外し
爪を反らせて抜き取り
肉をしゃぶる
うまい
うまいうまい
わたしは爪の殻をザリガニの体の
両脇にきっちりシンメトリーに
からだの両脇に置く
両腕を失くしたザリガニは
自信なさげに
こちらを見ている
わたしはそんなザリガニの体を
無造作につかみ
尾と胴を引き離そうと引っ張る
頑丈なからだは抵抗し
身を固くしているが
すでに胴はぐらぐら揺れはじめ
やがてすっぱりと
胴が尾からはなれる
はなれた尾のところに
胴の内臓のどろどろが着いているのを
わたしはしゃぶりとる
そして尾を皿の上に置くと
胴に付いているたくさんの脚を
根こそぎむしりとる
すると胴から緑色の内臓が
どろどろとあふれ
わたしはその内臓にむしゃぶりつく
その時
ザリガニの目がわたしを見ている気がする
しかしその目には
苦悶も怨恨もなく
遠くを見るように
わたしを見ている
そのまま胴の殻にこびりついた内臓を
舌でなめとり
舐め尽くすと
わたしは殻を皿の上に放り出し
尾をつかみ上げる
尾の腹のところをナイフで切り裂き
殻をぱりぱりと剥いていく
殻はつるりと剥け
わたしは尻尾をつかんで
殻の剥けた白い身を
いっきに頬ばる
口の中に
ザリガニの身の
甘い旨味がひろがり
噛み砕き
咀嚼しながら
わたしは思わず微笑む
そして食べ終え
尻尾を皿の上に置く
さっきまで皿の上で
ハサミを振り上げ
わたしを睨みつけていたザリガニは
今は食い散らされた残骸となって
皿の上に散乱している
わたしはなぜか
その残骸を一心に見つめる
わたしの胃の中で
そのザリガニの肉が
ゆっくりと消化をしはじめているのを感じる
さっきのザリガニは
わたしの中で
わたしと同化しはじめているのだ
そのとき
「あなたはひとりで全部
食べてしまいましたね」
女の低い声がする
驚いて目を上げると
テーブルのわたしの隣の椅子に
女が座っている
緑色の短い髪に
大きな目を見開いた
白い麻の簡素な服を着た女が
知らないうちにそこにいる
「あなたはいつもそう
家族のことは思い出しもせず
ひとりで生きている
今もこうして
わたしたち家族のことは忘れて
ひとりで全部食べてしまった
わたしたちとわかちあう
などとあなたは思い浮かびもしない」
「なにを言っているんだ
おまえは今そこにはいなかった
だからひとりで全部食べた
なにが悪い」
「わたしはずっと前から
ここにいました
あなたはそれなのに
気づきもしない
あなたはずっとそうでした」
「そうだよ父さん
ぼくのことも見てくれてない
ずっとここにいたのに
ぼくはいつも
こんなに父さんのことを見てるのに
父さんはぜんぜんぼくを見てくれない」
知らないうちに
わたしのテーブルをはさんだ正面の椅子には
やはり緑の髪をした
目を大きく見開いた
白い麻の服を着た男の子が座っていて
テーブル越しに
やたらと黒目の多い目をいっぱいに開いて
わたしを見つめている
そしてわたしに代わって
今食べて
わたしの胃の中で消化をはじめているザリガニが
返事をしている
この女と男の子は
ザリガニの妻と息子なのだろう
でも
わたしがこのザリガニを食べたのだ
わたしはそう抗議しようとするが
わたしは口を利くことができない
「あなたはずっと
わたしたちを見てくれていない
わたしたちはあなたを
こうしてずっと見つめているのに」
テーブルの真ん中に
大きな皿が現れている
その皿には
小指ほどの小さな丸い球体が
たくさん盛られている
その白い球体の真ん中に
黒い二重丸がついている
女はその球体を指でつまむと
自分の右目の下にあてがい
ぐりぐりとそこに球体を押しつける
するとその球体はすっぽりと
右目の下に押し込まれ
目となる
その目は
他の目と同じように瞬きし
わたしをその黒目で見つめる
「ほら
わたしはふたつの目では足りないぐらい
あなたを見つめています
なのにあなたは
わたしを見てはくれない」
女はまた皿の上から
球体をつまみ上げ
その球体を
今度は左の目の下に押し込む
それは目となり
まばたきをしてわたしを見つめる
女は次々と皿の上の球体をつまみ上げては
手当たりしだい顔に押し込んでいく
両方の頬に目が出来
額にいくつも目が出来
鼻の上に目が出来
耳の横に目が出来
唇の上に目が出来
口の下に目が出来
首にもいくつも目がある
女の顔のたくさんの目がまばたきして
わたしを見つめている
「わたしはこんなにたくさんの目で
あなたを見つめています
なのにあなたは
わたしを見てくれようとはしない」
それを見て
今度は男の子が
皿の上の球体をつまみ上げると
頬に押し込んでいく
力が弱いせいか
それはしっかり顔に押し込まれず
顔から浮き上がった目となり
そしてその目は
男の子の目よりずっと大きい
そして男の子も
皿の上からどんどん球体をつまみ上げ
女のように手当たりしだい顔に押し込もうとするが
顔が女よりずっと小さく
力も弱いので
目はきっちり押し込まれず
頬や口の下や額や
顔からいくつもの目がぶら下がっているような
そんな顔で
それでも目はじっとわたしを見つめている
「ぼくもこうして
たくさんの目で父さんを見つめている
でも父さんは
ちっともぼくを見てくれない」
わたしも皿の上の球体に手を伸ばす
「わたしは家族を見つめてきた
妻も息子もずっと見つめてきた
いとおしく見つめてきた
ふたつの目では足りないくらいに」
わたしもその球体を右目の下に押し込もうとする
そうしているのが
わたしなのかザリガニなのか
わたしにももうわからない
ただ
ザリガニがわたしの胃の中で
どんどん消化されていくのだけ感じる
わたしは力を込めて球体を押し込もうとするが
球体はわたしの顔には
まったく入っていかない
わたしは今度は反対の頬に押し込もうとしてみるが
球体はまったく入らない
手当たりしだい試してみても
どうにもならない
わたしは球体を手に持ったまま
いらいらと顔を横にふる
顔中に目がある「妻」と「息子」は
そんなわたしを
そのたくさんの目で見つめる
「ほらご覧なさい
あなたはそうして口先ばかり
あなたはわたしたちをもっと見つめる
そんな目を必要としていない
あなたは自分しか見ていないのだから」
「父さんはいつもそうだ
見ている見ていると言いながら
本当はぜんぜん見てくれてやしなかった
父さんにはそんな目はいるわけない
ふたつの目だけでも
見てくれたことがないのに」
「そんなことはない
わたしはこのふたつの目で
おまえたちを見つめてきたんだ
愛しいとおしみ
見つめてきた
いまさら何を言うんだ」
「嘘だ
ほんとうに父さんにいてほしいとき
いつも父さんはいなかった
だれかに助けてほしいとき
いつもかあさんとぼくだけだった
それなのに
いつも見てきた見つめてきた
そればかり言う」
「そうです
あなたはいつもいなかった
困ってしまって途方に暮れるとき
あなたはどこにもいないかった
なにか面倒くさそうに
相手にもしてくれなかった
そうして
わたしと息子の二人で
生きてきたのです」
わたしは
自分の腕がどんどん
赤くなっていくのに気づく
部屋じゅうに塗られたペンキの色よりも
どす黒い赤に変わっていく
そのうち
腕からはだかの肩へと
どんどん赤く変わっていき
赤はしだいに体全体をおおっていく
手はハサミとなり
腕は固くなっていく
腕は甲殻類の表面へと変わっていき
そのうち体全体が
ザリガニの体になっていく
わたしはハサミを振り上げ
威嚇する
すると
わたしは椅子の上にではなく
白い皿の上に
ハサミを振り上げて威嚇する姿勢で
立ち尽くしている
わたしを
顔じゅう目をつけた「妻」と「息子」が
その目で見ている
じっと
とても長い間わたしたちは見つめ合う
わたしは体がもう動かせない
皿の上で固まっている
わたしは視線を反らすことも
叫ぶことも出来ない
女の目が
ついにわたしから離れ
子供に向かう
「さあ
お父さんをいただきましょう
わたしたちを見てくれなかったあなたの父さんを
いただきましょう
そしてあなたの父さんを
わたしの愛する夫を味わい
胃の中で消化しましょう
そうしてわたしたちははじめて
ひとつになれるのです」
たくさんの目を持つ「妻」はこう言うと
わたしの腕をつかむと
肩のところで逆に反らし
ぐりぐりと回す
激痛が走るが
叫ぶことも何も出来ない
「妻」はわたしの肩から腕をもぎ取る
そして爪の指を外し
爪をナイフで引き裂き
わたしの肉を食べる
「息子」も同じように
わたしのもう片方の腕をもぎ取り
同じように爪を外し
爪をナイフで引き裂き
わたしの肉を食べる
そして女の手が
わたしの体を持ち上げ
腰で逆に体を反らせ
わたしの体を半分にもぎ取る
そして体を引き裂き
わたしの内臓と
脳髄をしゃぶる
体の下半分は
「息子」によって半分に割られ
肉をほう張られる
わたしの体は
「妻」と「息子」によって食われ
その胃の中で消化されていく
わたしは
皿の上に残されたふたつの目で
自分の体が食われていくのを見ている
わたしの体は
ふたりの胃の中で消化され
脳髄ごと
溶けていく
溶けていく
溶けていく
目だけが残り
それを見つめているが
やがて暗黒へと
落ちていく

 

 

青緑色のすこし光る
ごつごつした凹凸のある壁が
四方を覆っている
ずっと上の方に明かり取りの窓があり
そこから光が入っている
天井も青緑色に光っている
わたしは泳いでいる
ひたすら泳いでいる
水を力いっぱい掻き
全身で泳いでいる
壁に当たるとそこに手をついて折返し
また泳ぐ
水にも壁の青緑色が映って
透明に光っている
水は少し冷たく
力いっぱい泳いで火照った体に心地よい
わたしは気持ちよく
美しい水の中を
ひたすら泳いでいる
まるで魚になったような気持ちで
泳いでいる
水の中にはわたししかいない
わたしが水をかく音だけが
青緑色の壁に跳ね返って響いている
そろそろ休もう
次の壁に来たら
少し休もう
水から上がって
疲れた体を伸ばそう
そう思って
次の壁目指して
ひたすら泳ぎ
壁に手が触れると
水の縁に手を突こうとする
しかし
そこには壁があるだけで
縁というものはない
掴まるところはなにもない
わたしは驚き
立ち泳ぎしながらあたりを見回す
そうして見ると
壁のどこにも縁はなく
水から上がって休む場所もない
水のまわりに直接壁が立ち上がり
水のまわりを壁が覆っている
水から上がるどころか
掴まることも出来ない
そして
壁のゴツゴツした青緑色に光るのは
凹凸ではなく
青緑色のカブトガニが
びっしりと壁に貼り付いているのだ
カブトガニの大きな背中が
玉虫のように青緑色に光っているのだ
カブトガニは身じろぎもしない
なんの動きもせず
壁に隙間なくびっしり貼り付いている
しかしそのカブトガニには
生きている気配が強くある
わたしには
カブトガニたちの視線がわたしに
いっせいに注がれているように感じる
わたしは
掴まるところのない水の中で
いつまで立ち泳ぎしているのだろう
わたしは壁際を水をかいてゆっくり進み
掴まるところを探す
わたしは壁を一周し
少しでも掴まれそうなくぼみを探すが
そんなものはどこにもない
わたしはこの水の中に
閉じ込められたのだ
永遠に水から上がることが出来ず
いつか疲れて
水の中に沈んでいくのだ
わたしはそのことが
自分にこれから起こることとして
次第にはっきりと
認識できるようになってくる
「誰か助けてくれ
誰かいないか
誰かわたしを助けてくれ
聞こえないか
誰か
誰か
わたしをこの水の中から
救い出してくれ」
わたしは叫ぶ
わたしの声が壁に跳ね返って響く
その時
わたしの声を聞いたかのように
カブトガニが
その太くて長い触覚を
いっせいに動かしだす
壁じゅうのカブトガニが
その触覚を斜め横に
向かい合わせて動かす
わたしは
カブトガニの視線が
より強くなった気がする
これが
助けを求めるわたしの叫びへの
唯一の答えなのだ
わたしは茫然として
カブトガニたちを見る
「わたしは死にたくない
こんなところで死にたくない
わたしにはまだやりたいことが
たくさんある
どうしてここで
この水の中なんかで
死ななくちゃならないんだ
おかしい
狂っている」
わたしはまた叫ぶ
するとカブトガニたちの
触覚の動きが
またいっせいに
早くなる
カブトガニたちは
わたしの声を聞いているのだ
わたしを見つめ
わたしの声を確かに聞いている
わたしは
カブトガニたちと会話しているのだ
わたしは
弱々しく声を出す
「お願いだ
助けてくれないか
助けてくれたら
何でもする
なんでも望みを叶える
君たちを広い外の世界に
開放してあげる
君たちも
こんな壁の中に閉じ込められていては
つらいだろう
いっしょに
外の世界に出よう
助けてくれ
お願いだ
助けてくれ」
カブトガニたちは
わたしの声を聞くと
今度はいっせいに
触覚の下の
口を開いたり閉じたり
動かしはじめる
触覚を動かしながら
いまにも食糧にありつけるかのように
口を動かしはじめる
カブトガニたちは
わたしを助けてくれない
そうわかると
わたしは水の中で立ち泳ぎしながら
わたしの目から
涙があふれ出す
「助けてくれ
助けてくれ
お願いだ」
その時
壁から声が聞こえてくる
「わたしはおまえの父親を知っている
父親もつまらない人間だったが
おまえもつまらない人間だな」
その声は太く低い
威嚇するような厳しい響きがこもっている
壁の反対側から
また同じ声が聞こえる
「わたしはおまえの父親を知っている
父親もつまらない人間だったが
おまえもつまらない人間だな」
それは
カブトガニの声なのか
カブトガニがしゃべっているのか
わからない
カブトガニは相変わらず
その太い触覚を動かし
口をもごもごと動かしている
また同じ声が聞こえてくる
今度はあちらこちから
壁じゅうを回るように
声が響く
「わたしはおまえの父親を知っている
父親もつまらない人間だったが
おまえもつまらない人間だな」
いろいろなところから
重なって声が聞こえる
「死にたくないんだ
助けてくれ
お願いだ
助けてくれ」
わたしは声に哀願する
涙を流しながら
叫ぶ
あとどのくらい
こうやっていられるだろう
いつ力尽きて沈んでいくのだろう
「助けてくれ」
わたしの正面から声がする
「おまえの父親もそうやって
情けなく泣き言を言いながら沈んでいった
おまえもそうやって
父親と同じように
沈んでいくのだ
誇りもなにもなく
泣き言を言いながら
沈んでいくのだ
つくづくつまらない人間だ」
「違う
わたしの父親はこんなところで
死んだんじゃない
人違いだ
だから助けてくれ」
もう声はしない
カブトガニたちは相変わらず
触覚を動かし
口をもごもごさせている
青緑色に背中が光っている
わたしの体はしだいに力が入らなくなってくる
そのとき
水の下になにかを感じる
わたしは水の下に目をやる
そこには
黄色い光が無数に
光っている
水の底から
黄色い光がちらちらと
光っている
数限りない黄色い光が
水を透かして光っている
水の底から
呻くような声がする
「わたしはおまえなんかより
ずっと価値のある人間だった
生きているべき人間だったのだ
なのに
今この水の底に沈んでいる
おまえなどわたしにくらべたら
なんの価値もない人間だ
生きている価値などない
おまえなど
生きている価値などなにもない人間なのだ
さあ沈んでこい
わたしたちと一緒に
おまえもこの水の底に眠るのだ
おまえにはそもそも
生きる価値がないのだから
おまえにはここがふさわしい」
あの黄色い光は
目なのだ
この水の底に沈んだ者たちの
目なのだ
もう手にも足にも
力が入らない
このまま沈んでいき
わたしもあの目になるのだ
わたしには生きている価値などないのだから
カブトガニたちの触覚の動きが
いっせいに早くなる
もうだめだ
沈んでいく
わたしはカブトガニたちに目を向ける
「そうだ
おまえたちには目がないんだな
わたしのこの目をおまえたちにあげよう
そうしたら
わたしを助けてくれるかい
目をあげるから
助けてほしい」
わたしはうわ言のように
つぶやきながら
沈んでいく
そうして水の中に顔が沈んだ瞬間
目の前が真っ暗になり
わたしのまわりから
水の感触がなくなる
わたしの手足は
なにかじめじめした固いものの上にある
わたしの手足はそこから離れない
わたしの手足は
たくさんあるように思える
頭には触覚もあるらしい
触覚を動かしてみる
口も動かしてみる
わたしは
カブトガニになったのだ
わたしには目がない
わたしはあの壁に張りついた
カブトガニの中の一人になったのだ
わたしの目を手に入れたカブトガニは
今願いがかなって
あの水の中に沈んでいるのか
わたしの手足は動かない
わたしはこのまま
目を失ってなにも見ることが出来ないまま
この壁に貼り付き続けるのか
わたしは耳を澄ませ
もの音を聞こうとする
なんの音もしない
耳も聞こえないのか
いや
天窓から入る風のそよぐ音が聞こえる
他にはなにも聞こえない
水の音もしない
わたしは触覚を動かすのも
口を動かすのもやめ
音を聞いている
しかしなんの音もしない
わたしの次の犠牲者がやってくるまで
なんの音もしないのだろうか
わたしは誰かやってくるのを待ち望む
しかし誰も来ない
わたしは壁に貼り付いたまま
自分以外のカブトガニの気配だけは感じる
次の犠牲者はいつやってくるのか
何年もしてから来るのか
もう永遠に来ないのか
どれくらい待ち続けるのか
そして
次の犠牲者がやってきたら何が起こるのか
わからない
わからない
わからないまま
この壁に貼り付き続ける
こうしているのと
水の中に沈んで目になるのと
どちらが良かったのかわからない
あらたな犠牲者が来たとき
わたしはその犠牲者の目を望むのか
どちらにも救いのないまま
わたしは永遠にこうしているのか
わたしは心のすべてを閉じ
眠ろうとする
しかし
このカブトガニに
眠りはないらしい
なにも見えない暗闇の中で
じっと音だけに耳を済ます
その暗黒に
わたしは落ちたのだ
落ちたのだ
落ちたのだ

 

 

息子が泣いている声がする
わたしが少し目を離したすきに
息子は公園の反対側の丘のふもとに行ったようだ
わたしは走っていく
息子は
白いドクダミの花が一面に群れ咲いている
丘のふもとで泣いている
息子のとなりには
もう学校にあがっている年頃の
背の高い男の子が立っていて
息子の右手を両手で握って支えている
息子の右手の手首のところから
血が流れている
そんなにたくさんではなく
にじみでているくらいだが
息子は泣いている
わたしは息子に駆け寄る
「かまれたんだ
あの蛇にかまれたんだ
父さん
痛いよ
あの白い蛇にかまれたんだ」
見ると
右手の手首にほんの小さなかみ傷があり
そこから血が滲んでいる
「大丈夫か
それは大変だ
お医者さんで見てもらったほうがいいかな」
「むだだよ」
息子の手を支えている
おおきな男の子が口をはさむ
「この白いへびにかまれたら
もう医者に連れて行くヒマなんてない
間に合わないんだ」
「なにを言ってるんだ
こんなところに毒蛇がいるわけない
いい加減にしなさい」
大きな男の子は子供とは思えない
口が右側に歪んだ笑い顔をする
「無駄だってば
だってこの子はもうすぐ消えるんだ
消えるというより
正確には見えなくなるんだ
あなたや他のみんなの目から
見えなくなる
そして忘れられてしまう
もうすぐだよ
時間はない」
わたしは息子の肩をつかもうと手をのばす
しかし
手は空をつかむ
息子は確かにそこにいて
泣いている声も聞こえているのに
わたしは息子をつかめない
わたしはあわてて
腕をそこらじゅう動かしてみるが
息子はそこにいるのに
つかめないのだ
「どうなってるんだ
いったいどうなってるんだ
なぜそこにいるのにつかめない
それに君はだれだ
訳のわからないことばかり言ってるが
なにをしてるんだ」
大きな男の子は
わたしを
右の口の端だけ笑った顔で
子供の声で
でも大人びた話しぶりで話す
息子は
その
大きな男の子に腕を掴まれたまま
不安そうにわたしを見ている
「この丘のドクダミの花の下には
小さなとても小さな蛇が隠れているんだ
その蛇にかまれるとね
見えなくなるんだ
大人からはね
そしてこの公園で
ずっと子供のまま年を取らず
生き続けるんだ
なにも
食べなくてもいいんだ
ただただ
子供のまま
大人からは見えなくなって
この公園でずっと暮らす
この公園からは出られないんだ
この公園の外の世界は
ぼくたちには見えない
だからずっとこの公園で
子供のまま暮らすんだ
ぼくはたぶん三十年くらい
この公園で暮らしている
この公園にしかいないから
正確な年月はわからないけどね
毎日毎日
この公園で遊んでいる
子供にはぼくが見えるから
ときどきは一緒に遊ぶけど
大人にはぼくが見えないから
子供がぼくと遊んでいると
気味が悪いみたいで
たいていさっさと連れて帰ってしまう
でも親がいないときには一緒に遊ぶ
思い出すよ
三十年前この公園でひとりで遊んでいたら
とてもかわいい女の子と友だちになった
二人でボール投げして遊んだんだ
その子が今度はこの丘のふもとで遊ぼうって誘ったんだ
ぼくがついていって
このドクダミの花のところの来ると
ドクダミの花の下から
小さな白い蛇が出てきてぼくの手を噛んだ
それからぼくは
ずっとこの公園にいる
そのかわいい女の子は
やっぱり蛇に噛まれた子だったんだ」
大きな男の子は
なにか自慢気にとうとうと話している
とても本当の話とは思えないし
子供がよくする
空想の話なのだろう
こんな話しに付き合っているひまはない
息子を連れて帰らないといけない
わたしは息子に手を伸ばす
しかし
手はまた空をつかむ
わたしは苛立ってくる
これは現実なのか
最近疲れているから
白昼夢を見ているのか
大きな男の子は
また右の口の端だけで笑う
「この公園に今は仲間がいなくてね
仲間が欲しくてね
それでね
この子を誘ったんだ
悪いけどこれは夢じゃない
でももうすぐ夢になる
でも
あなたはもうすぐ
ぼくたちが見えなくなる
そうすると
あなたはこの子のことを忘れてしまうんだ
だから悲しくなんかないんだ
あともう少しすると
あなたはこの子のことを全部忘れてしまうから
悲しみなんか感じないんだ
だから心配いらないよ
ぼくの父さんと母さんは
一度もこの公園にぼくを探しに来なかった
ぼくはいつもこの公園で遊んでいたから
ぼくがいなくなったら
必ずこの公園に探しに来るはずなんだ
ぼくは毎日
泣きながら父さんと母さんや学校の先生や友達が
ぼくを探しに来てくれるのを待ってた
でも来なかった
たまに
学校の友達が公園に来るけど
学校の友達にはぼくはもう見えない
学校に上がると普通はぼくたちは見えない
あのかわいい女の子はそう言ってた
でもなぜか
ぼくには見えた
だから誘われたんだ
誰も
誰一人
いちども探しに来なかった
自分が忘れられたことを知った時はつらかったよ
毎日泣き続けた
一年くらい泣き続けたら
なんか馬鹿らしくなった
そのあと何年かして
父さんと母さんは小さな女の子を連れて
この公園に来た
もちろんぼくのことは見えない
でもぼくの妹にはぼくが見える
一緒に遊んだよ
でもこの丘には連れてこなかった
妹だからね
そのあと
妹が見えない男の子と遊んでいる話をしているのを
父さんと母さんは不気味に思って
もうこの公園には来なくなった
それからもう
父さんも母さんも見てない
いいかい
蛇に噛まれたからには
もうどうにもならないんだ
この子は
この公園でぼくとこのままずっと暮らすんだ
この公園に来る子どもたちとは遊べるからね
そんなに寂しくはないよ
心配いらない」
わたしは頭がくらくらしてくる
こんな現実がある訳がない
でも息子はやはり掴めない
これは本当のことなのか
そうしたら
どうにかして息子を連れて帰らないと
なにか方法はないのか
「どうしたらこの子を
救い出して
家に連れて帰れるんだ
教えてくれ
教えてくれたら
何でもしてあげる
君をここから救い出す方法も考えてあげよう」
大きな男の子はまた
右の口の端だけ歪めて笑う
「無理だね
なにせあなたはすべて忘れてしまうのだから
でもねひとつだけ方法がある」
大きな男の子は
このときだけ
両方の口の端を上げて笑った
「あなたも蛇に噛まれるんだ
そうすれば
あなたも最愛の息子と
永遠に一緒にいられる
誰からも見られなくなって
年を取らず
この公園で生きていくんだ
ぼくに蛇を仕向けたあのかわいい女の子
その父親はそうしたんだ
女の子に蛇を仕掛けたやつがいて
その子にぼくと同じことを言われた女の子の父親は
女の子を一人ぼっちにしないため
自分も蛇に噛まれた
そうしてこの公園で暮らしたんだ
大人で蛇にかまれると
子供からも見えないから
本当に女の子とぼくからしか見えない
女の子と二人で
その父親はずっと暮らしてた
ぼくがこの公園で暮らすようになったとき
父親は変だった
なんかいつもブツブツ言ったり
ぐるぐるただ歩きまわったりしてた
女の子は言ってた
この公園で暮らすようになってすぐ
女の子に蛇を仕向けた子を
父親は
首を締めて殺したって
死体は
ドクダミの花の下に埋めた
それから
その女の子は
父親と二人で
この公園で暮らしてた
女の子はじきにここの暮らしになれたけど
父親はだめだった
ぼくたちは子供のときにこうなったから
もともと外の世界はそんなに知らない
でも父親は
大人になってからこの公園で暮らすようになった
外の世界が恋しくて
どうにもならなかったみたいだ
ぼくがここに来たときには
女の子に当たり散らしてたりして
最愛の娘とも仲が悪くなってた
だから女の子は
ぼくを誘い込んだ
そんな父親と二人ではいやだったんだ
そしてある日
父親は娘に当たり散らした最後に
娘の首を締めて殺しそうになって
ぼくが父親を止めようとしたけど
大人だから
体が大きいし力が強いし
仕方ないから
大きな石を手に持って
その石を
女の子にまたがって首を締めてる父親の
うしろ頭に叩きつけた
頭からたくさん血が出て
父親は倒れた
そのまま死んだよ
女の子も間に合わなかった
死体は
やっぱり
この白いドクダミの花の下に埋めた
さあおいでよ
あなたも蛇に噛まれるといい
息子のことを愛しているなら
蛇にかまれて
永遠にここで一緒に暮らそう
そうすれば
君の息子を蛇に噛ませた
ぼくを殺すこともできる
もうぼくはこの公園で暮らすのは飽き飽きだから
殺されるのは悪くない
さあ
蛇に噛まれるんだ」
息子はもう泣いていない
大きな男の子の手を放し
わたしに取りすがろうとする
でも
手は空を切り
息子は不安な目で
わたしを見る
「父さん
父さん
ぼくなにか変なんだ
ぼくどうなるんだろう
助けて父さん
父さん
お願い助けて
ぼくは怖いよ」
一面のドクダミの花の下から
小さな白い蛇が這い出てくる
その蛇は
わたしをじっと見つめる
大きな男の子のように
蛇の目が笑っているように見える
蛇はわたしに向かって這ってくる
「さあ
もう時間がないよ
早く蛇に噛まれないと
もうこの子が見えなくなって
あなたはこの子のことを忘れてしまう
考えている暇はない
さあ
早く噛まれて
ぼくたちと永遠にこの公園で暮らそう
孤独以外には
もうなんの苦しみも悲しみもない世界で
この公園でこの子と暮らすんだ」
息子は不安げに見つめている
わたしは息子を抱きしめようとするが
手はむなしくすりぬける
「さあ早く蛇に噛まれるんだ
それとももしかして
蛇に噛まれるのはいやなんだね
あなたの息子を忘れてしまっても
かまわないんだね
息子より
自分の人生が大事なんだね
息子のためにこの公園で
一緒に暮らすのは嫌なんだね
そりゃそうさ
誰だって自分の人生が一番大切だもの
息子を失っても
自分の人生を守ることが大切さ」
「そうじゃない
わたしはこの子を愛している
心から」
わたしは息子にむなしく手を延ばす
息子もわたしに手をのばす
息子のこんな不安そうな顔は見たことがない
「頼む
この子を助けてくれ
なんとかならないのか」
大きな男の子は
声を出して楽しそうに笑い出す
「じゃあなんで噛まれないのさ
蛇に噛まれれば
この子はひとりじゃなくなる
でもあなたは
蛇に噛まれたくない
もうお別れだよ
この子になにか声をかけてやりなよ
さようならとか
別れの言葉を」
わたしは言葉に詰まる
息子は悲しそうにわたしを見つめている
「ほらほら
君の父さん
もうすぐ君を忘れてしまうんだよ
残念ながら
でもぼくと一緒だから大丈夫さ」
大きな男の子は
息子の肩に腕を回す
二人の姿がぼんやりとしていく
「待ってくれ
消えないでくれ
行かないでくれ」
大きな男の子は笑っている
息子はわたしを見つめている
そのまま
二人の姿は消える
そこにはなにもない
いつもの公園がそこにあり
白いドクダミの花が一面に咲いている
今あったことが
すべて幻であったかのように
いつもの景色だ
子どもたちは楽しそうに遊んでいる
きっと今のことは全部錯覚だ
悪い夢だ
わたしは気を取り直し
息子の姿を探す
わたしは公園じゅうを探し回る
いない
公園の外も探す
いない
わたしは探し回る
いったい息子はどこにいったのか
さっきの悪いまぼろしを振り払おうと
わたしは息子を探し回る
いない
公園じゅうの大人に
息子の姿かたちを伝え
見なかったか聞いてまわる
だれもそんな子は知らないという
でも
小さな子どもが
白いドクダミの花の咲いている丘を指差し
「その子ならあそこにいるよ
あそこでもうひとりの男の子と手をつないで
ずっと泣いている」
そこには誰もいない
わたしは白いドクダミの花の丘に
走っていく
そこには誰もいない
あれはほんとうのことだったのか
息子は見えなくなってしまったのか
わたしは地面に膝を付き
息子のいるだろうあたりを抱きしめる
「すまない
なんてことをしてしまったんだ
いま父さんも行くよ
そっちへ行く
待っててくれ」
わたしはドクダミの花の下を
かき回し
蛇を探す
でも蛇はどこにもいない
わたしは地面に突っ伏し
土をつかんで泣く
涙が止まらない
「あなた
なにしてるの
こんなところで
変な格好で」
妻がそこに立っている
わたしは急いで立ち上がり
「あの子がいなくなったんだ
息子が消えて
見えなくなったんだ
でも見えなくても
あの子はここにいる
どうしたらいい
あの子が消えた」
妻は
呆れたような
気味悪そうな目でわたしを見る
「あなた
何を言ってるの
息子ってなに
誰の子供
わたしたちに子供がいるわけないでしょう
最近あなたなにか変
おかしくなってる」
「なに言ってるんだ
わたしたちの子供だよ
あの子だ
息子だよ」
妻は気分悪そうに立ち去っていく

 

思い出す
その日から毎日この公園にやって来ている
見えない誰かと遊んでいる子供はいないか探し
息子に語りかける
息子の痕跡は
すべてなくなってしまった
妻も周りの人も
だれも覚えていないし
ものも記録も
なにもない
もうこの世に息子の存在した証はない
わたしの記憶の中の他には
なにもない
わたしだけが覚えている
わたしは幻覚を見る人間として
もう世の中から
相手にされない
わたしは今日も公園にいる
公園には今日は誰もいない
息子と大きな男の子しかいないのだろう
わたしは息子を思いながら
歩きまわっている
蛇は現れない
こうして公園に毎日やってくるわたしは
息子の世界の人間と大差ない
わたしは
蛇を待っている
わたしは
白い花はずっと前に散った
ドクダミの茂みにやってくる
そこに
ドアがあることに気づく
ドアは薄い木のドア枠と一緒に
少し宙に浮いている
周りはいつもの公園であり
ドアだけが
そこある
わたしはそのドアが
わたしのために用意されていることに
すぐに気づく
たぶんこのドアは
わたしにしか見えない
わたしがそのドアを開き
通り抜けるために
そこにある
わたしが今の生活に疲れているから
このドアは現れたのだ
わたしは息子を愛している
最愛の息子なのだ
あの子をひとりにしてしまったのを
本当に後悔している
でもほんとうにそうか
もういいんじゃないか
どうすることも出来ないなら
もう仕方ないんじゃないか
わたしの中にそんな声が聞こえる
息子はわたしを今見ている
わたしをじっと見つめているのだろう
「すまない
でも父さんはもう無理だ
許してくれ
おまえをひとりにするのを許してくれ
でも父さんはもうだめだ
耐えられないんだ
みんなから頭がおかしいと言われながら
毎日
ここにやってくるのは
もう耐えられない
お前を愛している
心から愛している
でも
父さんはもうだめなんだ
許してくれ
もう楽になりたいんだ
みんなと普通に暮らしたい
これから当たり前に
幸せに暮らしたいんだ
お前を置いていくのはつらい
本当に申し訳ない
許してくれ
でも父さんは
もうだめなんだ」
わたしはドアに近づく
ドアノブに手をかけ
わたしは振り向く
そこにはきっと
息子がいるのだろう
「さようなら
永遠に」
わたしはドアノブを回し
ドアを開ける
ドアの向こうには
いつもの当たり前の公園の景色が
当たり前に続いているだけだ
ドアの向こうには
なんの変化もない
そう
このなんの変化もない公園
わたしはドア枠をまたぎ
ドアを通り抜ける

 

 

その黒い長い服を着た男たちは
わたしを取り囲むと
手にした
背もたれの付いた木の椅子に
わたしの手足をつかんで
無理やり座らせると
わたしの足首を椅子の脚に縛り付け
両腕を背もたれの後ろに縛り付ける
わたしは男たちの強い力に
どうすることも出来ない
男たちは
白い石で出来た箱を大事そうに取り出すと
わたしの前に置き
そして
その箱を開く
その箱にはなにも入っていない
一人の男が
自分の黒い服の中から
鉄のハサミのようなものを取り出す
それはペンチで
先が弧を描いて曲がっている
それは「やっとこ」という名前の道具だと
そのとき思い出した
男たちは何も言わず
わたしの顎と鼻の下に手をかけると
わたしの口を力まかせに
引き開ける
上下の歯に指をかけ
わたしの口を開けたままにしておく
男たちの指は
内側が銀色の金属で
歯にちょうど引っかかるようになっていて
だからその指で口を開かれると
なにも動かすことは出来ない
わたしは叫ぶが
あーとしか声にならない
「やっとこ」を手にした男が
金属の指で固定された
わたしの開いた口に
「やっとこ」を差し入れる
男たちははじめて口をきく
「気をつけろ
根ごと引き抜くんだ
途中で折れないように」
「わかってる
一本一本慎重にやるよ」
男は「やっとこ」でわたしの前歯の一本をはさむ
そして
力まかせに「やっとこ」を動かす
その前歯は
あっという間にグラグラと動き出す
「あんまり急ぐな
根元で折れたり割れたりするともったいない」
「わかってる」
歯は「やっとこ」の動きにつれて
ぐらぐらになり
男は「やっとこ」を慎重に動かして
わたしの前歯の一本を
静かに抜き取る
わたしの口の中に
血の生臭い味が満ちている
わたしはああああと叫ぶが
血で喉が塞がれて声にならない
歯は
別の男の捧げ持つ白い石の箱に
カチンと音を立ててしまわれる
「やっとこ」が
今抜かれた歯のとなりの歯をはさむ
並んだ歯の支えを失ったその歯は
さっきより簡単にぐらぐらし始め
あっさりと抜ける
その歯も
白い石の箱に
カチンと音を立ててしまわれる
そうして
「やっとこ」がつぎつぎと
わたしの歯を抜いていく
男たちはもう
なにもしゃべらず
ひたすらわたしの歯を抜くことに
没頭している
歯茎の神経がだんだん麻痺してきて
なにも感じなくなり始めている
まるで現実のことではないように
わたしの歯は一本一本抜かれていき
わたしの口の中は
血の匂いであふれる
男たちはわたしに苦痛を与えるつもりはなく
ただ効率的にそしてしっかりと
歯を抜きたいだけなのだ
ぼんやりしていく頭の中で
そう思う
彼らは
わたしの歯が欲しいのだ
この拷問はなかなか終わらない
奥歯を抜くのはむずかしく
「やっとこ」はもっと熟練しているらしい男に手渡され
それでもだいぶ時間がかかる
わたしはもう
歯を抜かれる恐怖よりも
この拷問がはやく終わってくれることしか
考えられなくなる
奥歯が一本抜かれるごとに
ほっとしている
そうして
わたしの歯は
全部抜かれ
男たちは白い石の箱の蓋を閉じると
歩き去っていく
わたしは椅子にしばりつけられたまま
取り残される
わたしはそのまま
気を失う

 

わたしが目を開くと
若い女が
わたしの顔を
黒目の大きな目でじっと見つめている
わたしは女に抱き起こされている
女は黒い髪を前で切りそろえた
美しい女だ
赤い着物を着ている
「気が付きましたか
あなたは気を失って
ここにずっと倒れていました」
女が口を開くと
白い光るきれいな前歯が見える
「わたしは歯を抜かれたんだ
男たちに歯を抜かれた
全部抜かれた
どうしてだ
なぜあんなことをするんだ」
女は目をうるませ
ゆっくりと話し出す
「かわいそうに
やはりそうでしたか
ここに来たものは
こうして男たちに
歯を抜かれるのです
抜いた歯で
墓石を作るために
ここは墓場なのです
つぎつぎに死んだ人たちが運ばれてきて
墓に埋める
その死者たちの墓標を建てるために
たくさんの歯が必要なのです
ここに来る人間は
男たちにそうやって
みんな歯を抜かれてしまうのです」
「あなたはどうして
歯を抜かれなかったのですか」
「女の歯は
彼らは必要としていないのです」
そのとき
たくさんの犬が女のほうに向かってやってくる
十数匹のやせこけた犬が
のろのろと歩いてくる
女はわたしをそこに座らせると
立ち上がり
犬たちの方へ向かう
犬たちは女を取り囲む
女は着物の袖の中から
肉の塊を取り出す
女はその肉をちぎって口の中に入れると
よく噛む
そして咀嚼された肉の塊を指でつまんで口から出し
女を食い入るように見ている犬の口の前に出す
犬は口を開け
女は自分の咀嚼したものを犬の口に入れてやる
「この子たちも
歯を全部抜かれてしまったのです
だから食べ物を噛むことが出来ないのです
だからわたしがこうしてよく噛んで
こうして食べさせているのです」
女は肉の塊をちぎって口に入れては
咀嚼し
そして口の中から出して
一匹一匹犬に与える
犬たちは女を取り囲み
順番を待っている
肉の塊は女の着物の袖に入るくらいの大きさで
すぐに小さくなっていく
犬一匹に一口しかない
そして最後のひとかけらになったとき
女はわたしのところに歩みよる
その最後のひとかたまりを口に入れて
よく咀嚼し
口を開いて指で口からつまむ
わたしは黙って口を開く
女はわたしの口にその塊を入れる
そのよく咀嚼された塊は
女の唾液の味なのだろうか
ふしぎな味がする
わたしの唾液が女の唾液で溶かされた肉を
また溶かしていく
いま女の唾液とわたしの唾液が
まじりあっているのだろうか
わたしはそれを
呑みくだす
「また食べ物が見つかったら
また来るね
待っててね」
女はそう言うと
歩いて去っていく

女は一日に何度も現れる日もあれば
なん日も来ない時もあった
持ってくる食べ物はいつも少しで
犬たちとわたしには
いつも一口で終わりだった
わたしも犬たちと同じように
女の来るのを待ちわびていた
腹が空いているのもちろんだが
女の咀嚼した食べ物を
女の手から与えられるのを待ちわびていた
わたしも犬たちも
食べ物が女の口から与えられるのでなければ
決して満足しなかっただろう
女が来ないときは
わたしはあたりを歩き回った
腹が空いてふらふらなので
遠くへは行けない
女が食べ物を持ってきてくれるときを
逃すわけにはいかなかった
あたりは薄く黄色がかった
歯の色をした白い細長い墓標が
間をおいてどこまでも立っている
これだけの墓標が
全部歯で出来ているというのか
それはありえそうもないというのは
すぐにわかった
では歯はなんのために使われるのか
わたしはいつもそう考えながら
うろついていた
すると
墓標の向こうから
男たちのがやがやする声が聞こえてきた
わたしには歯はもうないから
男たちを恐れることはないのだが
わたしは墓標の影に身を隠し
声のする方を見た
すると
三人の男が
女を取り囲んでいた
真ん中の男が
女の両足を開いて抱きかかえ
女の足の間に腰を入れていた
女の赤い着物は
腰で割りさかれ
胸もあらわになっている
真ん中の男は腰を動かし
脇の二人の男は片手ずつ
女の胸をまさぐっている
女は横を向き
なにも反応がない
男の動きが止まり
男は体を離す
「もう一回
全員でひとまわりいいか
食べ物ははずむから」
女は黙ってうなずく
「それにしても
あいつらに自分の口から食べ物をやるために
全部歯を抜かせるなんて
おまえもおかしなことをするもんだ
なんの役にも立たない歯を
大事そうに抜くオレたちの苦労ったらないぜ」
女はなんの反応もない
男たちは三人代わる代わる
女を犯し
そして女に大きな肉の塊を渡すと
立ち去っていく
女はそのまま寝そべっている
はだけた胸だけ直す
わたしは
女の前に進み出る
女はわたしを見つめる
まるでわたしがずっとそこにいたのを
知っていたように
あたり前にわたしを見つめる
わたしは無言で
膝をつく
女の両足を持ち上げると
さっきの男たちがしたように
女を犯す
女はなんの反応もないが
今度はその間ずっと
わたしの顔を見ている
わたしはことを済ませると立ち上がり
そのまま立ち去る

 

女がやってくる
犬たちがのろのろと女のところに集まる
わたしも四つん這いで
女に近づいていく
もう
二本足では歩けない
このまま
犬になっていくに違いない
ほかの犬もわたしと同じだったのだ
わたしも
この犬たちと同じになるのだろう
それでいい
ただ女の口から食べ物を与えられさえすれば
なにもいらない

 

 

「いいか
標的は子供だ
たいていまだ5歳位だ
でも体中に爆弾を巻きつけている
起爆装置は胸に付いている
足にも爆弾を巻いている場合も多いから
脚を狙うのはだめだ
正確に頭、眉間を狙うんだ
頭を撃ち抜けば子供はそのまま倒れて
爆弾は爆発しない
少しでも外れれば
爆弾は爆発し
まわりの人間が巻き添えになってたくさん死ぬ
だから君を選んだんだ
君の射撃の技術が必要なんだ」
わたしは若い兵士をまっすぐ見つめてそう言った
その若い志願兵は
まだ二十二三、きっとまだあまり人を撃ったことがない
でも子供の頃から射撃に親しみ
学生時代に射撃の大会で優勝している
わたしの隊には狙撃兵の訓練を受けたものはわたしのほかにいない
わたしがこの任務にかかりきりになれない以上
この任務を任せられるのは
この若い兵士しかいない
「どうしても撃たなきゃいけないんですか
子供を保護して爆弾を外してやることは出来ないんですか」
若い兵士はすがるような目でわたしにそう言う
「もちろんそれは試した
でも子どもたちはそうする前に起爆装置の紐を引いてしまう
そう教え込まれているんだ
自分が吹っ飛ぶなんて知りもしないんだろう
それでもう
たくさんの人が死んでいるんだ
だから爆弾を巻きつけた子供を見つけ次第
頭を撃って殺すしかない
わたしもそうして
もう何人もの子供を撃ち殺した
でもわたしは隊長として
ここにずっとこの場所に貼り付いているわけにはいかない
だからこの任務を君に託すのだ
いいかい
これは重要な任務なんだ」
「でもどうやってその子が爆弾を巻きつけているかどうか
見分けるんですか」
若い兵士はうつろな目で言う
「この辺の子供は長い戦争のせいで
みんな痩せこけている
そんな中で
爆弾を巻きつけた子供は
不自然にでっぷりとしている
歩きかたも重そうだ
すぐにわかる」
「でっぷりとしてよたよた歩いてくる子供が来たら
撃つんですね
その子を撃ち殺す
それがわたしの任務なんですね」
「そうだ
気の重い任務だが
爆弾の爆発ですでにたくさんの村人や兵士が死んでいる
もうこれ以上犠牲を増やすわけにはいかない
重要な任務なんだ」
わたしたちのいるのは
平屋ばかりのこの村の
数少ない2階建ての建物の屋上だ
村の入口にライフルを構え
あたりに目を配っている
夏の午後の日差しはじりじりと容赦なく照りつける
わたしは腰から水筒を外すと
水を飲む
「君も飲んでおいたほうがいい
ここでの見張りはきついんだ」
若い兵士はそれでもうつろな目をして
下を見ている
「隊長
わたしは体が大きくなって銃が持てるようになってすぐから
父親に銃の手ほどきを受けました
わたしの父は銃の達人で
飛んでいる鳥を撃って外したことがない
わたしは父にあこがれて
一生懸命銃の腕を磨きました
そして大きな大会で優勝出来た
もしかしたら父を超えられたかもしれない
わたしはうれしかった
でも今はその銃の腕前を
子供を撃つために使うんですね
そんなことのために
わたしは銃の腕を磨いてきた」
わたしは若い兵士の方に手を置く
「つらいのはよくわかる
でも敵は
子供に平然と爆弾を巻きつけてくる
卑劣な奴らだ
あんな奴らが支配する国にしてはいけない
あいつらは強国の援護を受け
わたしたちは孤立無援だ
戦わなければ
もうこの国に自由も平和も正義もない
愛のない国にこの国をしてはいけない
だから戦わないといけないんだ」
「わかっています
だからわたしは
学校をやめて志願してきたのです
祖国を愛と平和を守るためなら
命を捨てるつもりです
自由と正義のために戦うために
ここにいるのです
でも
その戦いは
子供を撃つ戦いだった」
若い兵士はうつむいている
わたしは若い兵士に向き合い
両手で肩をつかむ
「気持ちはわかる
わたしだってつらかった
でもこの任務から逃げたら
自由も正義も永遠に失われてしまうんだ」
若い兵士は目を上げ
わたしを見つめる
手にしたライフルを握る手に
力がこもる
そのとき
若い兵士が下の
村の道の方を見て小さく叫ぶ
「あの子供」
村の道を
6,7歳の男の子が歩いてくる
男の子のよれよれの服の前側が
不自然に大きくふくらんでいる
歩きかたも
すれ違う村人たちの目を気にするように
あたりをおどおどと見回しながら
よたよたとして
しきりに服の前側を手で押さえながら
にじるように歩いてくる
「あれですね
あの子が爆弾を体に巻きつけた子供ですね」
わたしはその子供をじっと見る
どうもこれまでの子供と少し様子が違う
今までの子どもたちは
あんなにおどおどしていなかったし
体を押さえたりしなかった
しかし
見た感じは
明らかに爆弾を体に巻きつけている
あの子はなにか不手際があっておどおどしているのか
だとすると
急がないと危ない
いますぐに起爆装置の紐を引きかねない
「間違いない
あの様子だと今すぐに起爆装置の引きそうだ
急げ」
若い兵士はライフルを取り上げると
子供に銃口を向け
照準を合わせている
「眉間を狙え
そこが一番安全だ」
若い兵士は
ピッタリとその子供に狙いを定めている
しかし引き金を引かない
「なにをしている
今すぐ撃たないとあの子はすぐに起爆装置を引くぞ
まわりの村人がみんな死ぬぞ」
それでも若い兵士は引き金を引かない
わたしはあわてて自分のライフルを取り上げると
子供に照準を合わせる
そのとき
バーンと若い兵士のライフルが鳴る
子供は仰向けにパタリと倒れる
若い兵士の腕前は確かだった
眉間を正確に撃ち抜いている
「急げ
早く子供の体の爆弾を取り外さないと危ない」
わたしたちは急いで階段を降り
子供の倒れている村の道へ急ぐ
子供のまわりを
村人が遠巻きにしている
みんな爆弾を怖れて
近づこうとしない
わたしたちは子供に近づく
子供は目を見開いたまま
空を見るように倒れている
銃弾の跡は正確に眉間の中央にある
若い兵士の狙いの正確さにわたしは驚く
わたしは慎重に倒れている男の子の
服をまさぐり
よれよれの上着を腰から上にはだける
そこには
麻袋がある
この中に爆弾があるのか
わたしはゆっくりと麻袋の口をほどく
すると
麻袋からサーっと
麦がこぼれる
こぼれた麦は男の子の体から地面に落ちる
若い兵士がふるえる声で言う
「この子は麦の入った麻袋を盗んできたのでしょう
見つからないように服の下に隠して
落ちないように手で押さえながら
おどおど歩いてきた
家に帰って
この麦を母親や兄弟に食べさせたかったんでしょうね
でもわたしに見つかってしまった
そしてわたしはこの子を撃った
家族のために麦の麻袋を盗んだ子供を
わたしは正確に撃ち殺した」
遠巻きに見つめる村人をかきわけて
みすぼらしい服を着た若い女が駆け寄ってくる
女は倒れている男の子に抱きつくと
わたしたちにはわからない言葉を叫び
泣き崩れる
村人たちはやはり遠巻きに見つめている
女がわたしたちを
涙に濡れた目で見上げる
若い兵士は両手で顔を覆い
泣き声をあげる
女はわたしに近づいてくる
そして服のポケットからナイフを取り出すと
逆手に持ってわたしを刺そうとする
わたしは女の腕をつかみ
ナイフを取り上げ遠くに投げ捨てる
女は崩れ落ち
両の拳で地面を何度も叩いては
泣き叫ぶ
そのとき
倒れている男の子がむっくりと起き上がる
男の子の体の上の麻袋が地面に落ち
バラバラと麦があたりに散らばる
男の子が起き上がったことに
母親も若い兵士も村人も
誰も気づかない
男の子はすっと立ち上がり
わたしの方に歩いてくる
男の子の目は空洞になっている
そして撃ち抜かれた眉間の穴に
目があり
その目がしきりに瞬きしながらわたしを見つめている
男の子はわたしの目の前に立ち
眉間の目でわたしを見あげる
男の子はわたしの右手を取ると
わたしの手を引いて
スタスタと歩きだす
母親も村人も若い兵士も消えている
わたしは誰もいない埃っぽい
暑さに陽炎の立つ道を
男の子に手を引かれて歩いていく
どこまでもずっと
歩いていく
すると
道の真ん中に
大きな階段がある
その階段は白い石でできていて
空へ向かって上っていく
男の子はその石段の下で立ち止まり
わたしを眉間の目で見上げる
わたしはその白い石段を見上げる
わたしは男の子の手を放し
ひとりでその階段を上っていく
その階段は
上がっても上がっても
どこまでも上っていく
わたしはひとりで
その階段を上っていく
どれだけ上ったか
そこに
白い石のドアがある
わたしははじめて立ち止まり
その白いドアのドアノブを見つめる
わたしは逡巡する
じっとそこに立ち止まっている
そしてやっと
わたしはドアノブに手をかけまわす
ガチャリとドアが開き
わたしはドアノブを引き
ドアを開けて通り抜ける

 

 

そこはネプチューンの宮殿の大広間だ
さっきのまま
玉座に魚の姿のネプチューンが座り
黒いなめし革の服を着た金色の髪の女が立ち
口が耳まで裂けた女と
巨大な乳房の人魚がいて
タコやカニやマンボウが座っている
わたしは乳房があって花びらと穴のある姿のまま
金色の髪の女の持つ金の鎖に
首輪が繋がれている
ネプチューンはわたしに聞く
「アルゴスの国で
希望は見つけられたか
その希望が
希望の子が何者かを知るただひとつの手がかりだ」
「いえ
希望はなにもありませんでした
絶望だけをずっと見てきました
わたしの記憶でない絶望と
わたしの絶望がまじりあい
深い絶望だけを見てきました」
ネプチューンはため息をつく
「では希望の子をお前の体に戻す手がかりはないのか」
「いえ
このネプチューンの神殿に来てから
わたしの中には絶望しかありません
わたしが産みだしたという希望は
だからわたしの希望ではありません
それは
わたしの仲間たちの希望です
わたしを海の上の世界に呼び戻そうとする希望が
希望の子の正体です
だからわたしが海に上の世界の戻れば
わたしとともに
希望の子は消えるでしょう」
ネプチューンは魚の体を玉座から乗り出して言う
「ではお前が海の上の世界に戻ればよいのだな」
この時はじめて
黒いなめし革の服を着た女が口を開く
「それは無理です
これはもう身も心も
牡牛の娼婦です
絶望の官能をむさぼり
それを待ちわびるだけのものに成り果てました
そうわたしがしっかり仕込んだのです
牡牛の与えてくれる絶望の喜びを捨てて
海の上の世界に自分からあがるなど
そんなことはこれには考えられないでしょう
絶望の奴隷の喜びを知ってしまったものは
もう希望には戻れないのです」
金色の髪の女の吐き捨てるような言葉に
わたしの体に燃え上がるような熱い液体があふれる
そうだ
そのとおりだ
わたしは牡牛の娼婦として
ずっと牡牛に支配され
鎖に繋がれ
檻に閉じ込められていたい
希望はいらない
絶望の官能を知ってしまった体は
もう牡牛の巨大なペニスしか欲しいものはない
「ではどうすればよい
このままでは希望の子によって動き始めた時間の流れで
わたしは年老い
智恵も失われ
滅びていくだけだ
絶望の止まった時間を取り戻さなければ
すべては滅びる」
黒いなめし革の服を着た女は
金色の髪を一本引き抜くと
水蛇に変わったその鞭で
わたしの花びらを
穴をさんざんに叩きのめす
花びらはしぼみ
むき出しになった穴は叩きのめされて
赤く腫れ上がるが
切れて血が出たりはしない
「見てください
もう鞭を待ち焦がれる娼婦です
絶望の喜びをむさぼっているのです
希望とともに自分から海の上にあがるなど
出来はしません」
口が耳まで裂けた女が
口を開く
「娼婦ならば
娼婦として
希望の子と交わらせればよいのです
そうすれば希望の子の体から希望を流し込まれ
これの体に希望が生まれます
ほかの女たちがそうして海の上に上がっていってしまったように
これも海の上に上がるかもしれない」
ネプチューンはふたたび身を乗り出す
「でもこれが
自分の生み出した自分の子と交わるかな」
黒いなめし革を着た女はふたたび
わたしの穴を
水蛇の鞭で叩き据える
「見てください
この娼婦はもう
官能を求めるだけのものです
自分の子と交わる官能の期待に
もう体がふるえています」
そのとおりだった
自分の産みだした希望の子と交わり
精を流し込まれる期待は
牡牛と交わる期待より
はるかに強く
わたしの体を駆け巡っていた
希望を流し込まれる不安よりも
官能の期待がずっと上回った
「それなら良いだろう
もうそれしかできることはない
今すぐこれを連れて行って
希望の子と交わわせるのだ
急げ
動き出した時間でわたしが年老いてしまう前に
希望の子を消すのだ」

 

黒いなめし革の服の女は
わたしの首輪の鎖を引いて
宮殿中をひきまわして泳いでいく
宮殿には
魚たちが静かに
まるで泡を立てないように泳いでいるかのように
ひっそりと泳いでいる
宮殿の石畳の上には
誰もいない
行き来していた美しい女たちは姿を消した
希望の子に出会えばみんな
その姿に魅せられ
希望の子と交われば
海の上に上がってしまう
誰もが希望の子に出会うのを怖れ
隠れているのだろう
魚たちだけでなく
カニも貝たちも
静かにしている
その中を
黒いなめし革の服を着た女は
泳いでいく
わたしは鎖で吊り下げられ
ゆらゆら揺れながら
誰もいない宮殿の上を引きずられていく
この事態を産み出したのが自分だ
という意識はわたしにはない
希望の子はたしかにわたしの穴からうかび出た
泡のなかから産まれた
しかし
わたしにはもう希望はない
このネプチューンの宮殿の生活が
希望を打ち砕いてくれたのだ
だから希望の子の希望はわたしのものではない
希望を捨てたわたしには
自分から産み出た若者と交わるという
官能への期待しかない
希望の子と交わるという
強烈な官能と引きかえに
わたしは海の上に浮かび上がらなければいけない
でも今はそのことはどうでもよい
破滅をもたらす官能への期待に
わたしの体はすでに燃え上がっている

 

青白い火がいくつも燃えている
そこはまるで宮殿の墓場のように見える
石畳の上に白い石の墓標のようなものが並び
そのまわりを
青白く燃える火が
取り囲んでいる
「ここは墓場ですか」
「ネプチューンの宮殿に墓などない
誰もが老いることなく
死ぬこともない
ただ海の上に浮かび上がるか
消えるだけだ
しかし今は時間が動き出している
だから宮殿に墓が用意されはじめたのだ
宮殿は意志を持ち
墓場を作り始めた」
「みんな老いて滅びていく
ネプチューンもそうなのですね」
「絶望の宮殿に希望がもたらされれば
そうなるのだ
だから希望を海の上に浮かび上がらせないと
みんなあの墓に入ることになる」
その墓場に
歩いてきた
あの吹き出物だらけの茶色い巨大な牡牛の首輪を引き
若者が歩いてきた
生まれたてのときより
遥かに体が大きくがっしりとしている
精悍な姿の色の白い若い男が
相変わらずなにも身に付けない裸で
歩いてきた
黒いなめし革の服を着た金色の髪の女は
わたしを引いて男の前に立つ
女は金色の髪を一本引き抜き
海蛇の鞭にして
巨大な牡牛を打つ
牡牛は低い唸り声をあげ
女に向かってくる
女は鞭を振り回し
牡牛を打つ
怒った牡牛は若い男の握る鎖を
引きちぎりそうないきおいで女に飛びかかろうとする
しかし若い男はいとも軽く鎖を引き寄せ
牡牛を押さえる
「この人はあなたを興奮させて
あなたがわたしを鎖ごと引き回すのが見たいのですよ
そうすれば少しはわたしが傷ついて
わたしの力が衰えると思っている
無駄なことです
落ち着くのです」
牡牛は鎖を強く引き寄せられて
すっかりおとなしくなる
黒いなめし革の服の女は
鞭を投げ捨てる
若い男は
女に歩みよる

そして女の目を見つめて話す
「あなたがその心のなかに
強い希望を持っているのを知っています
それはこの男がこの宮殿にやってきたことで
ますます強く激しくなった
あなたはもう自分をどうすることも出来なくなっている
もうわたしに従うしかありませんよ」
女は両手を前に差し出し
男に叫ぶ
「わたしに近づくな
わたしはこの絶望の宮殿に
永遠に住まうことに決めたのだ
だれもわたしを
海の上に上らせることなんて出来ない」
「この男と一緒にですね」
若い男は金色の髪の女の手を取る
「この男と一緒に
永遠にネプチューンの宮殿に住まう
でもそれは希望なのです
そう願うことで
あなたは希望を自分のなかに産みだした
だからもう
あなたはわたしから逃れられない」
わたしは女に叫ぶ
「あなたはわたしを知っているのですか」
「知らない
知っているはずがない
この宮殿では
すべての過去が捨て去られるのだから」
若い男は金色の髪の女の肩を抱く
女は手に力が入らない様子で
されるままに抱きしめられている
「あきらめなさい
こうしてあなたを抱きしめると
あなたの強い希望を
体全体から感じる
あなたは希望そのものだ」
若い男は金色の髪の女の唇に
キスをする
女は素直にキスを受け
ふたりは抱き合っている
「さあ
あなたのするべきことをしなさい」
唇を離し
若い男は言う
女は涙を流している
そして黒いなめし革の服をするりと脱ぎ捨てる
女は裸になる
女の乳首には今は目はなく
南京錠もなく
ヤドカリもいない
性器に歯はなく
あたりまえの女の美しい体がそこにある
「そうです
絶望の宮殿の女の姿を
もうあなたはしていることは出来ない
希望の女性だから
さあ
あなたのするべきことをするのです」
女はひざまずき
若い男の陰茎を両手でつかむ
男の陰茎は
もう弱々しくも小さくもなく
雄大な姿だ
金色の髪の女は
その陰茎をすっぽり口にくわえ
縦に動かす
女の口の中で
陰茎がますます雄大になっていくのがわかる
「もういいです
時間稼ぎをする必要はありません
さあ」
女は相変わらず涙を流しながら
陰茎を離し
石畳の床にあお向けに寝そべると
両足首をつかみ
足を大きく開く
「そうです
それでいい」
男もひざまずき
女の足の間に体を入れると
その雄大な陰茎を
女の足の間の性器に
ゆうゆうと差し入れる
そしてゆっくりと縦に動かす
女は
男の陰茎の動きに体が揺れながら
それでも反応がない
「わたしの陰茎ではだめなのは
わかっています
あなたは希望の女性だから
でも今は
これが必要なのです」
女はまた涙を流す
男の縦の動きが早くなり
女の体の揺れが大きくなる
そして
止まる
女の体の中に
精が流し込まれたに違いない
若い男は
女から体を離す
金色の髪の女は
そのまま寝そべっている
しかしそのとき
女の体は
ゆっくりと変わっていく
顔は消え
足も手も消えていき
そこに一匹の白いイルカが
寝そべっている
イルカははっと跳ね起きると
あたりを泳ぎまわる
ぐるぐると
なにかを探すように激しく泳ぎ回り
そして
その体はあっという間に
小さなたくさんの泡となって溶けていく
その溶けていく小さな泡がひとかたまりの
大きな泡に変わり
その泡の中に
裸の白い肌の女が座っている
女は泡の中からわたしを見る
その女は
わたしの恋人だった
わたしが戦いに向かう時に街に置いてきた
恋人だった
わたしが
心から愛し
いつか幸せに暮らしたいと願った
恋人だった
彼女はわたしを街で待っていてくれるはずだった
しかし恋人も
この絶望の宮殿に
わたしより先にいたのだ
まるでわたしを待っていたかのように
恋人は泡の中で涙を流し

わたしを見つめる
そしてゆっくりと浮かび上がっていく
わたしは言葉もなく
それを見送った
なにも言うべきことはない
そういうことなのだ
泡は浮かび上がっていき
そしてもう見えなくなった

 

「わたしはあなたに
希望を注ぎ込む気はしない
あなたはこの墓場で
絶望の囚人として暮らすといい
死者以外だれもやってこないこの墓場で
永遠の孤独を味わうといい」
若い男はわたしの前に立つと
こう言って立ち去ろうとする
わたしは男の足にしがみついた
「いかないでくれ
ここでわたしの穴にあなたの精を注ぎ込んでくれ
お願いだ
永遠の孤独など恐ろしくはない
絶望の囚人にはふさわしい罰だ
でも牡牛の娼婦となったわたしには
絶望より
破滅をもたらす官能の歓喜がふさわしい
わたしが産みだした
いわば息子といえるあなたと交わる官能が
わたしにもたらす歓喜さえ味わえれば
ネプチューンの宮殿が消えてなくなってもかまわない
それだけがわたしの求めるものだ」
若い男は
わたしを蔑みの目で見下ろす
「わたしと交われれば
もう絶望さえ捨ててよい
そう言うのですね
なんのためにここまで降りてきたのか
見下げ果てた人だ
この存在がわたしを産み出したのかと思うと
悲しくなります
でもあなたの言う通りにしてあげよう
わたしは希望の子なのだから
あなたが望むなら
あなたに希望を
注ぎ込んであげよう」
わたしは寝そべり
花びらをひらひらさせる
若い男は
わたしの花びらの前に膝をつく
男の雄大な陰茎を
わたしの穴にあてがう
わたしの花びらは期待にゆらめき
穴はペニスを咥えこもうとうごめく
大きさはタコのペニスや牡牛のペニスのほうが
はるかに大きかったが
それがわたしと同じ人間のペニスであることが
わたしを興奮させる
タコや牡牛と交わってきたわたしにとって
人のペニスを迎え入れられるのは
わたしへの最高のご褒美なのだ
若い男は
なんの感慨もなさそうに
穴にペニスを押し入れる
タコや牡牛のペニスでは得られなかった
あたたかい喜びが
わたしのからだの奥を満たす
わたしを快楽で破壊しようとした
タコや牡牛のペニスより
このペニスはわたしに
もっと充実した快楽を与えてくれる
豊かだ
わたしは今豊かだ
男は無造作に乱暴にペニスを出し入れする
穴の中の肉が
ペニスについていく
この一体感が
わたしをさらに豊かにする
もうほかになにもいらない
わたしは充足感の中で
注ぎ込まれる精を待つ
それがどんな破滅をもたらそうが
わたしのいまの豊かさには代えられない
もしかしたら
これこそ希望なのか
この豊かさが希望なのか
そして男はペニスの動きを止め
待望の精をわたしの中に放つ
わたしの穴の中に
吹き上がるように希望のこの精が放たれ
穴を満たしていく
わたしの中に光が走る
その白い光は遠いところから
ぼんやりとこちらにさしているのだが
どんどんと強い光になっていく
わたしは
光に満たされていく
わたしはこの光に酔い
もっと精を欲して
穴はペニスを締め上げる
男はペニスを抜こうとしているが
身動きが取れない
わたしは勝ち誇ったように
もっとペニスを締め上げる
男は苦悶の表情を見せ
その瞬間
ふたたびわたしの穴の中に
精が放たれる
わたしの中に
もっと光が強くなり
わたしは白い光の中にいる
わたしがもっとペニスを締め上げると
また精が放たれる
精はもはやとめどなく
わたしの穴に注がれていく
男の目はうつろになり
顔がゆっくりとしぼんでいく
穴の中にとめどなく放たれる精とともに
若い男の顔はしぼみ
しわがれた老人の顔のなっていく
そして
顔は次第に形が崩れていき
しわくちゃの袋となり
そして消滅する
次に腕がしぼんでいき
腕もしわくちゃになって消滅する
そうして足も
最後に体すべてが
ペニスからわたしの穴の中に放たれ続ける精とともに
しぼんでいく
最後にはペニスだけが残るが
それもしぼんでいく
そして精はもう放たれなくなり
わたしはペニスの残骸を穴から吐き出す
希望の子は
希望の精に満たされた入れ物に過ぎなかった
わたしは穴に注ぎ込まれた希望の精に満たされ
まばゆいばかりに白い光の中にいる
その光の中から
若い男たちが
笑顔で現れる
みんな軍服に身を包み
さわやかな笑顔で
わたしを見つめる
「隊長
もう一度一緒に戦いましょう
みんな隊長の帰りを待っているのです」
自由と正義のために身を捧げ
死をもまったく厭わない
若者たち
わたしを信じ
わたしの命令で命を落とすことを
なんとも思わないだろう
純粋に使命に燃えた若者たちが
どこまでも澄んだ目で
わたしを見つめる
わたしの穴から
たくさんの泡があふれ
そのひとつひとつに
兵士がいる
「隊長
お先に戻っています
隊長が戻ってきてくれることを
みんなに伝えておきます
待っています
早いお戻りを」
その泡は
海の上へ次々に上っていく
それを見送るわたしの体は
細かい泡となって
白い光の中で溶けていく
そしてその泡は
大きな泡となり
その泡の中に
軍服に身を包み
銃を両手に捧げたわたしがいる
わたしもゆっくりと海の上にのぼっていく
わたしはそのとき気づく
希望の子の希望は
わたしに託された兵士たちの希望ではない
わたしの希望なのだと
もう一度戦場で
自由と正義のために戦おうとする
わたしの希望なのだと
地獄の戦場で
もういちどわたしは戦うのだ
希望のために
わたしはそうして
上っていく

 

 

「隊長が一番戦況はご存知だと思いますが
改めて現在の状況を説明します
街道沿いはすべて敵軍に押さえられました
敵は街道を通って前線に補給できる状態です
もともとわが軍は敵軍より兵も装備も少ない
敵軍に前線への完全な補給路を確保されては
前線は持ちません
現在崩壊寸前です
前線が崩壊すれば
敵は一気に首都までを蹂躙するでしょう
そうなったら終わりです
だからわたしたちは
この山の中に潜み
敵の補給の車両を襲うゲリラ活動を遂行中です
幸い街道沿いの住民はわたしたちに協力的です
ここが敵の領土である今
彼らはひどく迫害されていますから
われわれは解放軍なのです
今のところ
ゲリラは成功し
補給路を断つことに成功しています」
森の中の掘っ立て小屋の作戦本部で
若い背の高い副隊長は
わたしに
なんの疑いもない真っ直ぐな目で
戦況を説明する
粗末な木のテーブル
丸太の椅子
そんな場所も
彼らの純粋な情熱で輝いているように見える
「わたしが不在の間
こんなに戦況は悪くなっていたんだな
部隊を長く留守にしてすまなかった」
若い副隊長は
背筋をあらためて伸ばし
わたしをまっすぐ見つめる
「いいえ
隊長はきっと
戦況に危惧を抱き
戦線全体の視察をした上で
本隊に
そして政府に今後の対策を奏上しに行った
わたしたちはずっとそう思っていました
それがどうなったかはお聞きしません
隊長の不在の間
わたしが指揮を取りましたが
こんな体たらくでお恥ずかしい限りです
でも隊長がお戻りになって
これから逆襲に転じられる
みんなそう思っています」
どうしてそんな風に
人を信じられるのか
わたしにはわからない
でもそう信じられているからには
わたしはその信頼に
応えなくてはいけない
「次の襲撃計画はいつだ」
「住民にスパイを置いています
その報告によれば
明日
補給の車列が街道を通るらしい
住民にまぎれて村に潜入し
敵の車列を銃と手榴弾で攻撃します
準備は整っています
隊長の指揮があれば
ますます心強いです」
若い背の高い副隊長は
地図を指差し
作戦を説明する
そのとき
銃声が響き
掘っ立て小屋の曇った窓ガラスが砕け散る
銃声はもう一度響き
今度は小屋の中の鏡が微塵に砕ける
「伏せろ
匍匐してドアに近づきドアを開いて
敵の注意を引くんだ
その間に窓からわたしが敵を狙撃する」
副隊長は言われたとおりドアに近づき
わたしは傍らに置いた長い銃を手にして
窓に近づく
副隊長はさっとドアを開く
その瞬間わたしはガラスの砕け散った窓から
銃声の響いた方に目を向ける
木々の後ろに黒い人影が見える
わたしはとっさにその人影に銃を向ける
狙っている時間はない
わたしはすぐに撃ち
窓の下に隠れる
撃ち返してこない
わたしは再び窓からさっきの人影の方を見る
誰もいない
わたしはまた窓の下に隠れる
だれも撃ち返してこない
しばらく待つ
わたしは窓から外を見る
どこにも人影はない
銃声もない
「敵は一人で
撃ち返されてあわてて逃げたようだ」
副隊長はわたしの方に伏せたまま戻る
「敵兵でしょうか」
「いや
敵兵なら一人では来ない
敵がここを察知していれば
もっと大軍を差し向けるはずだ
偵察兵だとしたら
逆に撃ったりはしない」
わたしは立ち上がり
窓から外を見る
副隊長も立ち上がり
わたしの横に立つ
「住民ですか」
「そのようだ
すべての住民が
好意的で協力的であるわけではないだろう
われわれに協力して
ごたごたに巻き込まれたくない村人もいる
その一人が
この小屋を撃った
とっとと出ていけ
そういう意思表示だ」
副隊長は不安そうに外を見る
「兵士たちは
森の中に目立たないように分散して
野営しています
食糧の調達で村人との接触も多い
村人の裏切りがあると
全滅の危険があります」
「村人の信頼に依存する作戦は危険だ
今はそうするしかなかったにせよ
これからは考えないとまずいな」
「そうですね
しかし明日の作戦は
予定通り決行しましょう
もう変更する時間はありません」
「そうするしかないか
不安はあるが攻撃のチャンスは逃せない」
副隊長はうなずく
わたしの心は不安でいっぱいだ
しかし戻ってきて早々のわたしには
作戦を変更するほど現状を把握していない
ここで反対しても
だれもついてこない
わたしはもう一度
副隊長の作戦を詳しく聞く

 

敵はわれわれのゲリラ攻撃を怖れ
日の出とともに
農家のトラックに擬したトラックで
補給部隊を前線に送る
これは
村人のスパイが情報を蒐集している
そのトラックを
村の外れを通る道路が森に差しかかるところで
銃と手榴弾で攻撃する
敵の警戒は厳しくなっていて
武装した兵を載せた車が前後を固めている
激戦は必至だ
まず村人に紛れた兵士が
手榴弾で攻撃し車を止め
村の高い建物に潜んだ狙撃兵が
車列の兵士を狙い撃つ
そして森に潜んだ主部隊が一気に車列を襲う
相手の応戦を早く仕留めなければ
その隙きに逃げられてしまう
わたしは隊長として
森に潜む主部隊を率いている
森は暗い
月の光もない
しかしそれは都合が良い
見つかる気遣いはない
ここで夜明けに通過する補給部隊を
襲撃する
兵士たちはなにも言わないが
士気の高いのはよくわかる
これは危険な作戦だが
死を恐れる兵士はいない
自由と正義と祖国のため
命を捧げる覚悟はできている
この若い兵士たちを無駄死にさせられない
作戦は成功させなければならない

そのとき
小さな物音がする
そして荒い息づかいも聞こえてくる
それはこちらに近づいてくる
わたしは銃を握りしめる
「敵ではありません
味方です
隊長
いらっしゃいますか
わたしです」
それは聞き覚えのある若い兵士の声だ
しかし声はかすれていて弱々しい
「どうしてここに来た
なにか異変でもあったか」
若い兵士の弱々しい声が近づいてくる
もう影も見える
「村人が裏切りました
わたしは農家の納屋に潜んでいましたが
その家の主人にナタで切りつけられました
ほかに村の男たちが武器を持って集まっていました
わたしは銃で農家の主人を撃ち殺し
村の男たちを次々に撃って逃げ延びました
わたしが他の兵士の救援に向かうと
どの家でも
仲間が家の人に襲われていました
わたしは村人を撃って助けようとしましたが
もうほとんど死んでいました
そのうちに
敵兵の部隊が村に侵入し
わたしは逃げました」
若い兵士の声はどんどん弱まっていく
わたしは声の方に近づき
血まみれの男がそこにいるのを見つける
「隊長
お久しぶりです
こんな形でお会いするとは」
「敵兵に撃たれたのか」
「そうです
スパイの情報は嘘でしょう
わたしたちをおびき寄せ
一気に叩き潰すための
村人は敵に我々を売ったのです
みんなあんなに親切だったのに
敵軍の支配の横暴さに憤り
わたしたちに敵を追い払ってほしいといって
食料を分けてくれていたのに
最近空気が少し変わった気はしていましたが
こんなに完全に裏切るとは
許せません」
血まみれの兵士は
わたしの手を握る
「敵はすぐにここを襲ってきます
すぐに逃げてください
そして必ず生き延びて
この敵をいつか打ち破り
自由と正義を実現してください
そのためにわたしが死んでいくのなら
この生命になんの未練もありません
自由万歳」
そういうと
兵士は力尽き
息絶えた
わたしはその若い兵士の手を
握り返す
この若者の最期の言葉は
家族のことでも
恋人のことでもなく
自由の理想だった
わたしは急いで立ち上がる
敵はこの若い兵士を追いかけて来たのだろう
すぐに攻撃が始まる
「全軍集まれ」
森のそこかしこに隠れていた兵たちが
集まってくる
「村人が裏切った
情報は罠だ
もうすぐ敵兵の部隊が襲ってくる
すぐに森の奥へ移動し
山を越える
祖国の国境守備隊のところまで撤退する
わたしはここに残り
敵兵を狙撃する
その間に逃げろ
副隊長
指揮を頼む」
兵士たちの間に動揺が走る
しかし急いで行動しなければ全滅する
副隊長がわたしの前に進み出る
「隊長は我が軍に必要な方です
わたしが残ります
隊長が率いてください」
「だめだ
この月のない暗闇の森で
敵兵を正確に狙撃できるのは
わたしだけだ
わたしが残る
急げ」
その時銃声が響く
敵は近い
臆病な敵兵の一人が
夜の獣に発砲したのだろう
「敵は近い
急げ
副隊長
頼んだぞ」
副隊長は静かにうなずき
無言で
合図だけで兵を率い
森の奥へと向かう
わたしは
森の向こうの
大きな岩の上に上り
草かげに身を潜める
ここなら森の道を通る敵がよく見える
敵はかならずこの道を通るはずだ
わたしは銃を構え
敵を待つ
森の下草が
ざわざわとしはじめる
森の暗闇に
動きが見える
彼らにも
ほとんどなにも見えていない
やはりこの
道らしきもののあるこの場所を通過しようとしている
最初の兵士が
わたしの射程に入る
まだだ
最初の兵を撃ってしまえば
警戒を強めてしまう
道を変えられてはどうにもならない
わたしは兵士たちが通り過ぎるのをやりすごす
兵士たちは
われわれの部隊を急襲する作戦なので
灯りを持たず
月のない暗闇の森を
無言で進んでいく
ときどき下草に足を絡ませた兵士がつまづく
それでも無言だ
兵士たちは訓練された精鋭だ
わたしは兵士がだいぶ通り過ぎたところで
一人の兵士に照準を合わせ
撃つ
兵士は無言のまま
もんどり打って倒れる
わたしは次々に撃つ
弾丸は面白いように当たり
次々に兵士が倒れていく
兵士たちは恐怖に駆られ
隊列を乱して逃げ惑う
暗い森には逃げ道はなく
焦った兵士は下草に足を取られ
つまづく
混乱した兵士たちを
わたしはどんどんと撃ち倒す
前に進んだ兵士たちと
ずっと後ろの方の兵士たちが
めちゃくちゃに発砲する
しかし暗闇の中で
わたしがどこから撃ってくるのか
彼らにはわからない
何人かの兵士が懐中電灯をつける
わたしはその灯りめがけて次々に撃つ
灯りは倒れ
もうだれも懐中電灯をつけない
わたしは手当たりしだいに撃ち倒す
兵士たちは射程から逃れようと
右往左往するが
どこから撃たれているかわからないので
わたしに次々と撃たれ
倒れていく
何人撃ち倒したか
自分でもわからない
しかしそのとき
わたしの潜む岩のそばに
弾丸が弾け
岩の破片が飛び散る
「あっちだ
あの岩の上だ」
兵士たちは
とうとうわたしの銃の火薬の発砲の閃きを見つけた
わたしの岩めがけて
次々に発砲音がひびき
弾丸が岩にあたって弾ける
こんなに早く
わたしの場所を見つけるなんて
やはり精鋭の部隊だ
わたしは撃ち返し
兵士が倒れる
しかしその何倍もの弾丸が
一斉に放たれて
岩に当たる
ここまでだ
ここを取り囲まれるのも
時間の問題だ
わたしは岩の上から
そっと忍び降りる
そして静かに歩きはじめる
急いで物音を立てると見つかる
銃声と岩の破片の砕け散る音が響いている
わたしはその音に紛れ
森の暗闇を逃げていく

だいぶ時間を稼いだ
これならわたしの部隊は
わが国境まで撤退できるだろう
わたしも急いで国境を越えよう

森の夜の闇は深い
鳥の声も虫の声もしない
しかし今のわたしには
この闇こそが安寧を与えてくれる
いくどもつまづきそうになりながら
静かに進んでいく
まだ誰も死なせていない
その思いが
わたしの心を強くする
それが束の間の安寧であることは
戦士であるわたしは知っている
これからもまた
目をきらきら輝かせ
希望に燃えた若者の死を
いくつも見なければならない
それを一つでも多く見ないために
わたしは銃を撃ち続ける
それが兵士であり
指揮官であるわたしの運命だ
わたしは戦い続ける
だからこそ今はこの森の闇の静けさが
わたしに休息を与えてくれる
わたしは夜の森を
安全な場所まで急ぐ

森の闇は
静かに白み始めている
闇だった森は
白い光に
ゆっくりと浸されていく
鳥の声がしきりとする
森は目覚めた
その時遠くで
銃声が一斉に轟く
どこかで戦いが起こっている
わたしは恐ろしい予感に胸を突かれ
その音の方へと急ぐ
白み始めた森の中を
わたしは走る
ひたすら走って
銃声の響く場所までやって来る
わたしは岩の上によじ登り
戦場を見下ろす
敵だ
敵の部隊が
森の開けた草原に散開している
そしてその真ん中に
敵に通り囲まれて
わたしの部下たちの部隊がいる
わたしの部隊は敵に囲まれ
銃を撃ちまくられている
待ち伏せされていた
敵はわたしたちを追い込む部隊と
わたしたちを待ち伏せし
迎え撃つ部隊に分かれていたのだ
わが部隊は包囲され
ひたすらに撃ちまくられている
反撃する兵士は
あっという間に敵の弾丸に倒れていく
もはや戦いではなく
殺戮が繰り広げられている
このままでは全滅する
わたしは岩の上の草むらに潜み
そこからわが部隊を包囲する敵軍の
背後から狙撃する
後ろから撃たれ
兵士が倒れる
わたしは次々に撃ち
兵士がばたばたと倒れていく
兵士たちはうしろを振り向き
わたしの存在を見つける
兵士たちはこちらに撃ってくる
しかし彼らには
この距離でわたしを狙い撃つ技術はない
わたしは応戦し
次々と敵を撃ち倒していく
指揮官らしき男が
指示を出している
一群の兵士が
包囲を離れ
森の中に消える
わたしを包囲して
近距離から撃ち殺そうというのだ
今だ
今わたしを撃つために手薄になった包囲網
そこを突破して
我が部隊よ逃げるのだ
わたしはそう願って
撃ち続ける
わたしの銃は
次々に兵士を撃ち倒していく
しかし
包囲され撃ちまくられ
指揮系統を失った部隊には
そうする力は残っていない
副隊長はもう戦死したのか
だれも手薄になった包囲網の場所に気づかない
そうする間にも
わたしの兵士たちは
希望と理想に胸を高鳴らせ
この戦場に身を投じた
輝く瞳の若者たちは
まるで屠殺されるかのように
無残に撃ち殺されていく
わたしは撃ち続ける
しかし
もう銃弾がない
わたしはたくさんの弾丸を装備してきたが
もうそれも終わりだ
最期の銃弾を撃ち終わり
あとは
味方の全滅を見ているしかない
そして敵がやってきた
わたしを取り囲み
四方から撃ってくる
もう応戦できない
わたしは草むらに駆け込み
森をひたすらに走る
敵の弾丸が森の木に当たって弾ける音が響く
とても逃げ切れない
敵はわたしを追ってくる
わたしは森の中を
銃声に追われながら走る
そして行き止まりだ
わたしの目の前は崖だ
蔓草の生い茂った鋭い斜面の崖が
わたしの前に
ぱっくりと口を開けている
後ろからは銃声が近づいてくる
わたしは
崖から飛び降りる

 

切りたった崖
しかしわたしは蔓草にひっかかり
かろうじて崖を転がり落ちる
体がぐるぐると回転しながら
わたしは崖の下に立つ木にひっかかり
木の下に落ちる
わたしは落ちているあいだ息ができなかったので
はじめて荒い息をぜいぜいとつく
崖の上から銃声が聞こえる
しばらくはじっとしていたほうが良い
それより
体が痛みで動かない
崖から転がりながら
からだじゅう打ち身ができ
軍服は破れ
あちらこちらから血が出ている
しかし骨は折れていないようだ
わたしは森の下草の上で寝そべる
羊歯の葉がわたしを包んでいる
銃もなにも
持っていたものはすべて
転げ落ちるときに失った
森には虫たちの声がしきりとするだけだ
鳥はさっきの崖の上の戦闘の銃声におびえて
どこにもいない
銃声はもうしない
わたしの部隊の若い兵士たちは
全員撃ち殺されたに違いない
わたしは
彼らひとりひとりの顔を思い浮かべる
みんな若かった
学生で志願してきた兵士も多くいた
みんな祖国を思い
自由と正義を守るために志願してきたのだ
愛する家族もいただろう
恋人もいたかもしれない
いや
まだ恋を経験しない若者もいたろう
みんなそれらすべてを犠牲にして
この地獄の戦場にやってきた
彼らは勇敢に戦った
命すら捧げ
恐れることなく戦った
そして
自由と正義を守る理想に燃えた若者たちは
理想と希望を胸に
全員死んだ
取り囲まれ
無残に撃ち殺された
あの崖の上の森の開けた場所に
彼らの
きっと目を見開いたままの死骸が
転がっている
その目には
潰えた希望の残骸がうつろに光っているのか
わたしは目を閉じる
わたしもこのまま
森の苔となったほうが良いのかもしれない
しかし
彼らの声がする
戦え
自由と正義を守るために戦え
彼らは
その虚ろな目で叫んでいる
わたしは立ち上がる
身体じゅうがずきずきと痛む
足は重い
しかしわたしは歩き始める
わが祖国の国境は今太陽が上ったほうだ
とにかく国境をこえて祖国に戻り
祖国が悪辣な侵略に蹂躙されるのを
防がなくてはいけない
それが死んだ若い兵士たちに思いなのだ
わたしは歩く

森は
人間たちの戦争など知らないかのように静かだ
鳥の声
木の間をそよぐ風
森には道はなく
生い茂るつる草をかきわけて進む
体は痛み
足は重い
おまけに小川のせせらぎのひとつもなく
喉の渇きに苦しむ
森はわたしには手を貸してくれない
わたしの任務の遂行など
森にはなんの意味もないのだ
わたしはそれでも進む
太陽の光が森の木々にさえぎられ
わたしの体を焼かないのだけが救いだ
今のわたしには武器もなく
軍服も破れ
兵士とはいえない
ただひとりの人間として
この森を歩いている
わたしを兵士にしているのは
この心だけだ
祖国への思い
死なせてしまった兵士たちへの思い
もう一度武器を取り
死んでいった兵士の分まで
戦わなければならない
彼らの信じた自由と正義のために
だからわたしは歩く
ただの人間から
もう一度兵士に戻るために
もう一度戦うために
森はそこを歩くものを
兵士かそうでないか
区別などしない
わたしはしかし
兵士の心を
兵士の魂を持って
この森を進む

 

不意につる草が途切れ
道らしきものがそこにある
間違いない
あまり人の歩いた形跡はないが
これは確かに人によって作られた道だ
この道を進めば
人のいる場所にたどり着く
喉の乾きをいやす泉や井戸が
そこにはあるはずだ
食べ物にありつけるかもしれない
ここは敵国だが
この森奥深くにはまだ敵国の支配は完全におよんでいないはずだ
なんとかなる
わたしはその道を
なかばよろつきながら
進んでいく
すると
森が開け
そこの集落が見えてくる
小さな畑があり
丸太に漆喰のちいさな粗末な
小屋のような家が数軒
離ればなれに建っている
そのそばから水が湧く音がしている
泉だ
わたしはその音に駆け寄る
その小さな泉では
五歳くらいの
髪を長く伸ばした女の子が
ひとりで
女の子には大きすぎる木の桶に
水を汲んでいる
急にあらわれた見知らぬ男に驚いた女の子は
桶を置いたまま
家の方へ走っていく
一番そばの粗末な小屋が
娘の家らしい
わたしは泉の水を手で掬い
飲み干す
何度も何度も
ほんの少ししか掬えないのがもどかしく
急いで掬っては飲む
そうしていると
家の中から
背の高い
いかつい体をした
娘の父親の年格好の男が現れる
男はわたしの方をじっと見つめ
わたしは身構える
武器はなにもないので
襲われたら抵抗できない
しかし男は
わたしの方に目配せし
口に人差し指を当て
「黙れ」の仕草をする
そしてわたしを手招きする
これは罠かもしれない
しかし
わたしはなぜか
この男を信じることにする
理由はわからない
この男の目かもしれない
厳しいけれど
その目に嘘は感じられない
わたしは男の手招きにしたがって近づく
男は小屋の戸をそっと開き
わたしを中に招き入れる
薄暗い小屋の中は
広い土間で
土間の奥に竈があり
薪がくべられ
なにかの煮えるいい匂いがしている
鍋のところに赤子を背中にくくりつけた
この家の主婦らしき女がいて
鍋の中身を皿によそっている
さっきの女の子は
娘だろう
母親に渡された皿を受け取ると
土間にひとりひとりゴザを敷いた家族の前に
皿を置いていく
土間には
老婆が一番奥に座っている
足が悪いらしく
なんの手伝いもできない様子で
かいがいしく動く孫娘を
笑顔で見つめている
10歳ぐらいの男の子は
父親になにか言われて
戸から外に出ていく
きっとさっきの泉から水を汲んでくるに違いない
男はわたしを土間に招き入れると
片隅から巻いてあるゴザを持ち出し
土間に敷くと
わたしに座るように促す
わたしはそのゴザの上に座る
女の子はわたしに気づくと
急に押し黙る
父親が女の子に何か言う
わたしのわからない言葉だ
女の子はうなずくと
わたしの前におずおずと進み出て
わたしの前にちょこんと皿を置くと
逃げるように走り去る
父親はそんな娘の姿を
笑いながら眺めながら
自分のゴザを広げ
どっしりと座る
皿の中は
少しの野菜と麦の入った
薄い粥が湯気をあげている
戸を開いて
男の子が水のいっぱい入った桶を持って
戻ってくる
男の子はかまどのとなりに桶を置くと
丁寧に戸を閉め
自分のゴザを広げ
父親そっくりに
ドスンと座る
女の子が男の子の前に皿に置く
男の子はなにか大声で言う
妹をからかっているのだろう
女の子はなにか言い返し
男の子はまた何か言う
老婆が笑いながらなにか言うと
父親も鍋のそばの母親も笑い出す
女の子は
誰も座っていない場所に
二人分のゴザを敷くと
そこにひとつずつ皿をおく
母親の背中の赤子がぐずりだす
女の子は背伸びして赤子の背中を撫でる
母親はみんなに匙をくばり
わたしに匙を渡す時
やさしく微笑む
わたしは一礼して匙を受け取る
みんな自分のゴザに座ると
老婆がなにか言い
みんないっせいに食べ始める
母親は赤子を背中から降ろし
抱き上げ胸をはだけると
乳をふくませる
父親はわたしに話しかける
「わたしは森の向こうに
獲物をよく売りに行くから
あなたの言葉が少し話せる
今は戦争もあって猟にあまり出かけられず
獲物が少ないから
こんな粗末な粥だけですまない
あなたは逃げてきた兵隊だろう
今はここも厳しく詮議され
敵をかくまったり出来ない

しかしこの村のものは昔から
客人は手厚くもてなした
わたしの父も祖父も
必ずそうした
だからわたしもそうしたいのだ
客人を追い出したりしたくないのだ
今はいろいろ変わってしまったが
わたしは昔のようにしたい
だから粗末な粥しかなくて恥ずかしいが
ぜひ食べてくれ
わたしにあなたを
もてなさせてくれ」
「ありがとう
いただきます」
よけいな言葉はいらない
わたしは匙でそのうすい粥をすくって
口に入れた
それはうまかった
あたたかく
よい香りがした
体の中に
その粥は幸せを与えてくれた
わたしは夢中で粥をほおばった
男の子が母親に何か言う
女の子が立ち上がり
男の子の空の皿を受け取ると
鍋のところに行く
しかしかまどの上の鍋には
手が届かない
赤子に乳を含ませた母親が立ち上がろうとするが
父親が立ち上がり
かまどのところに行って粥をよそって
女の子に渡す
女の子は粥を兄の前に置くと
今度はわたしの前に来る
もうおずおずしたりせず
笑顔でわたしの顔を見る
わたしの皿ももう空だ
わたしは皿を差し出す
女の子はわたしから皿を受け取ると
父親に渡す
父親は皿に粥を満たすと
女の子に渡す
女の子はそろそろと歩いて
わたしの前に皿を置く
「ありがとう」
わたしがそう言うと
女の子は顔中で笑って
なにか言いながら老婆の方を向く
老婆が何か言う
またみんなの笑い声が響く
女の子は父親の空の皿を見つけると
その皿を父親に渡す
父親は
その皿に
鍋の底から
少しだけすくう
鍋の中身が十分でないのがわかる
父親はその皿を手にして
女の子の頭を撫で
自分で皿を持って
自分の場所に座る
母親は
赤子に乳をやりながら
器用に匙を口に運んでいる
男は妻の前を通る時
皿の中身に目をやる
妻のために鍋の粥を残したのだろう
妻は夫を見上げて微笑み
何か言う
夫はやさしく答える
みんなまた食べ始める
女の子は匙に手をやらず
母親の抱く赤子をしきりと撫でている
母親がなにか言うと
思い出したように食べ始める
男の子が大声で何か言う
老婆がそれに答えるようになにか言うと
またみんな笑う
男の子はなにか得意げな顔をしている
また父親が立ち上がり
妻の皿を取ると
鍋から粥を少しだけよそう
老婆が何か言う
すると夫はもう少しだけ
よけいによそう
そして妻の前に皿を置く
妻は赤子に乳をやりながら
夫の手にそっと手を乗せる
男は女の子の皿を取ると
鍋から最後のひとすくいを
皿に注ぐ
女の子が何か言う
母親が笑顔で何か言う
たくさん食べないと大きくなれないよ
きっと
そう言ったのだろう
父親が
女の子の前に皿を置く
わたしは粥を食べ終え
そんな家族の様子を眺めている

あたたかい家族の食事

もうずっと昔に経験したきりのなごやかな幸せ

戦士となって失ってしまったもの
ここにずっとこうしていたい
そう心から思う
決してかなわないことなのだが
そう願う
男はわたしの方に向いて言う
「これだけの粗末な粥しか振る舞えなくて
恥ずかしい
でもこれが今は精一杯だ
許してほしい」
「大切な粥を分け与えてくれて
心から感謝します
ありがとう
あなたの幸せな家族に出会えて
ほんとうにうれしい
でもこれ以上迷惑をかけると
危険が皆さんに及ぶ
名残惜しいが
もう行きます
ほんとうにありがとう」
わたしは立ち上がる
みんながわたしを
やさしく見つめる
男は
小屋の片隅から竹筒を取り出すと
それに桶の水を詰め
わたしに渡す
「見つからないように
こっちから行きなさい」
かまどの後ろを男は示す

薪の積み上げられた裏庭に続く裏口がある
わたしはみんなに
深く頭を下げる
女の子が何か言う
それにつられて
男の子も
老婆も
母親も
一言ずつ
わたしに言葉をかける
わたしはもう一度みんなを見つめ
そして急いでこの家を立ち去る

 

 

「この崖の下の森はまだ
警戒が甘い
村には敵国の見回りが入っているようだが
われわれがここを通るかもしれない
という認識をまだ持っていない
ここから前線に出るにはかなり距離があり
遠回りで困難だが
成功する確率は最も高い」
祖国の司令部に戻ると
わたしは指揮官たちに
率直に作戦を提言する
「ゲリラ戦部隊が壊滅され
敵は国境の防衛線になんの危険もなく
部隊と兵站を送り込めている
このままでは
防衛線は時間の問題で
突破される
前線の後方から奇襲をかけ
敵に打撃を与え
時間を稼いで
同盟国の援軍を待つしかない」
あごひげを長くはやした総司令官は
そう言うと
地図に目を落とす
「同盟国の援軍は来るんですか」
「同盟国はみんな様子を見ている
われわれが時間の問題で陥落する
そういう戦況であれば
われわれを見捨てるだろう
だから敵に打撃を与え
戦況を改善する必要がある」
「同盟国の援軍が期待できないのは
最初からわかっていましたね
だから政治的駆け引きや譲歩で
戦争を回避するべきだった
しかし自由とか正義を掲げて
負け戦の戦いに突き進んだ
結局
指導部のメンツのために
戦争に突き進んだんです
それなのに
まだ同盟国の援軍に無駄に期待し
戦争を続けている
馬鹿げている」
総司令官の取り巻きが
顔を真っ赤にし
机を叩き
私をにらみつける
「わが国がずっと守り続けてきた
この自由と正義を
野蛮な圧政を敷く国に
明け渡せというのか
自由と正義は
血を流さないと守れないのだ
わが国はずっとそうして
戦ってきた
そしてこの誇るべき自由と正義を
守ってきたのだ
祖国のために戦い
命を落とした多くの兵士の魂にかけて
戦うのだ
最後まで戦い
われらの誇るべき
自由と正義を守るのだ
それが君にはわからんのか
この戦争の崇高さが
君には理解できんのか」
「若い兵士たちが
わたしの目の前で
たくさん死んでいきました
家族に愛された息子であり
恋人に愛された男であったかもしれず
そもそも恋も知らない若者であったかもしれない
そんな若い兵士が
自由と正義に身を捧げ
誇り高く死んでいきました
でももういい
もう死んでいく若者は見たくない
戦争を終わらせる方法があれば
精神的な犠牲を受け入れるべきです」
「いままで払った尊い犠牲を
無駄にしろというのか
自由と正義を守ることが
死んでいった彼らの犠牲に応える
唯一の方法なのだ
彼らが
わが祖国が自由と正義を手放すことを
望むと思うか
戦い続けるのだ」
総司令官はあごひげを撫でながら
悠然とわたしに語る
若い兵士たちは
この威厳と慈愛に満ちたこの最高司令官の
この語りに心酔し
命を投げ出していった
ここで逆らっても
どうなるものではない
わたしは作戦を遂行するしかない
「ではできうる限りの兵士と
装備をお貸しください
兵士を分散させ
あらゆる方向から前線の敵の背後を突き
敵の後ろから急襲をかけて
壊滅させる必要があります
特に武器弾薬は大量に必要です
これは調達できますか」
総司令官は
私の目を満足そうにのぞきこむ
「機関銃を用意する
手に入ったばかりで
まだ防衛線の部隊にも配備していない
敵はもちろんまだ持っていない
これで奇襲をかければ
効果は絶大だ」
機関銃が手に入った
それが戦争を続ける理由なら
無いほうが良い
わたしはそう思った
しかし
わたしは戦うしかない
戦士として
後戻りのできない場所にわたしはいるのだ

 

わたしは部隊を率い
森を静かに行軍する
若い兵士の叫び声がする
見ると首に蛭が吸い付いている
わたしは首の蛭を取ってやり
投げ捨てる
「できるだけ静かに行軍するんだ
敵に見つかるわけにいかない
われわれは敵に背後から奇襲をかけに行くんだ」
兵士たちは
森の行軍などしたことがない
まだ経験の浅い兵士ばかりだ
従軍して間もないのだろう
すべてがぎこちない
こんな兵士を前線に投入しなければならない
そういう戦況なのだ
われわれは
深い森の中を
粛々と進んでいく
進んでいくのはもちろん
道というほどのものではない
整備された道がないからこそ
敵が油断して警戒が甘いのだ
多くの兵士が歩きながら
森の下草に引っかかって足をもつれさせ
木の根に転んだりしている
運ぶ武器は重く
兵士たちの足取りは重い
しかし作戦を成功させるには
すばやくこの森を進み
敵の背後に出なければならない
わたしは若い未経験な兵士たちを叱咤し
森を進む
また兵士の大きな叫び声が聞こえる
わたしはそちらの方へ戻っていく
そこでは兵士がひとり
座り込み片足を投げ出し
その太ももを押さえ込んでいる
「どうした
転んで足を打ったのか」
その兵士は
まだあどけない
ニキビのめだつ顔をひどく歪ませ
うめき声を上げている
ズボンが破け出血している
ここには衛生兵はいない
わたしは手にした手のぐいを
太ももに縛り付け出血を止める
それしか方法はない
「歩けるか」
「はい」
立ち上がろうとするが
すぐに顔を歪め座り込む
足の骨が折れているのかもしれない
「このまま置いていってください
足手まといになりたくないんです
この作戦の遂行に
この戦争のすべてがかかっているのに
私のせいで一刻も行軍を遅らせることは
出来ません
このまま置いていってください」
まだ人を撃ったこともないだろう
あどけない顔の兵士は
そう言って私の顔を見つめる
「そんなことは出来ない」
わたしは隣に立つ兵士に命令する
「怪我をした兵士に肩を貸し
元来た道を戻るのだ
村があっても決して寄ってはいけない
敵に見つかる可能性がある
なんとか
基地まで歩いて帰るのだ
それが任務だ」
「いえ
ここに置いていってください
自分でなんとか戻ります
だれにも迷惑かけたくない」
「わが祖国はだれも見捨てない
それが誇りだ
その誇りのため
任務を遂行するのだ」
それでもわたしの指名した兵士は
不満そうな顔をしている
それでも
怪我をした兵士に肩を貸して
立ち上がらせ
しぶしぶ反対方向に歩き始める
「いいか
われわれはだれも見捨てない
それが祖国だ
さあ進もう
誇り高く
誰も見捨てない祖国のために
この作戦を遂行するのだ」
兵士たちの目が
ふたたび輝き出す
そうなのだ
誇りこそが
命を捨てて戦う兵士の力なのだ
人間はただひとつ
誇りのために命を賭して戦う
自由と正義への誇り
それが無限の勇気を生みだす
わたしたちはその誇りを胸に
森を進んでいく

 

 

作戦は成功した
誰もが信じられないくらいうまく
わが国境の防衛線を攻める敵の
背後に回り込むことに成功した
敵はまったく気づいていない
いっせいに
機関銃を撃ちまくる
まだ扱いに慣れないわれらが兵士によっても
機関銃の威力は強烈だった
敵の兵士がばたばたと倒れていく
敵の兵士たちは統制を失い
右に左に逃げ惑う
その兵士たちを
次々に撃ち倒していく
銃弾はふんだんにあり
補充しては
撃ちまくる
最初は機関銃の扱いに戸惑っていた若い兵士たちも
今はもう
目を輝かせ
口元に笑みすら浮かべている兵士もいる
「前進だ
敵は前線の部隊へと収縮を始めている
国境の部隊とわれわれで
敵を挟み撃ちにする」
われわれは前進し
逃げる敵の兵士たちを追う
応戦して撃ってくる敵は誰もいない
前進するわれわれの足元には
後ろから撃たれて
背中を見せて倒れている兵士たちの死にかかった体が
たくさん転がっている
「動くものはナイフでとどめを刺せ
そうでないと背後から撃たれる可能性がある
情けは無用だ
銃弾を無駄にしないため
ナイフで刺せ」
機関銃で遠くから撃ち殺すことに
笑みすら浮かべていた兵士たちも
自分の手で人を刺すのは躊躇している
すると突然
倒れていた敵の兵士が起き上がり
ナイフを手に躊躇していた若い兵士を撃つ
若い兵士は胸を撃たれて倒れる
わたしは手にした銃で敵の兵士を撃つ
撃たれた兵士は無言で倒れる
四十過ぎの髭面の男だ
長い間兵士として戦ってきたであろう
いかつい熟練兵の顔つきで
目を見開いたまま空を見ている
もう動かない
若い兵士たちはそれを見ると
めったやたらと倒れている兵士を
ナイフで刺しはじめる
そうして死体を乗り越えながら
前進していく
退路を絶たれている敵は
散発的に撃ち返してくるが
こちらが機関銃で撃ち返すと
すぐに撤退をはじめる
敵に降伏の機会をあたえず殲滅する
それくらいの戦果を挙げなければ
戦況を改善し
「時間稼ぎ」をすることは出来ない
要するに皆殺しだ
わたしは兵士たちに前進を急がせる
あと少しで
敵の主力を根こそぎ倒せる
「急いで前進せよ
敵に考える猶予を与えるな
ここで敵の部隊を殲滅しなければ
もう機会はない
前進だ」
向こうの前線では
味方が正面から逃げ惑う敵に一斉射撃をしている
もう逃げ道はない
その瞬間
突然敵の一斉射撃が始まる
機関銃を手に前進していた兵士が
ばたばたと倒れる
われわれを引きつけてから
いっせいに反撃を始めたのだ
経験の少ない兵士たちは
あわてて勝手に退却を始め
混乱しはじめる
「機関銃を撃て
武器はこちらのほうが有利だ
退却せずに撃て」
わたしは退却しようとする兵士から
機関銃を奪い取り
台座を置いて撃ちまくる
それを見て
われに返った兵士たちも
機関銃を撃ちはじめる
車の後ろなどから銃を撃っていた敵の兵士が
次々と倒れていく
しかし
もう退却しない
われらの味方が敵の背後からも迫っているのだ
敵は応戦してくる
こちらの兵士にも倒れる者がいる
「撃て
撃ちまくれ
撃たないとこちらの犠牲が増える
撃ちまくって敵を殲滅せよ」
わたしも機関銃を撃ちまくる
敵の反撃は減ってくる
「前進だ」
機関銃を持ったまま前進する
敵は物陰に隠れている
もうほとんど撃ってこない
十分近づいたところで
「敵の隠れているところに
手榴弾を投げ込め
思い切り投げ込め」
手榴弾が次々投げ込まれ
爆発する
敵はあわてて物陰から出る
機関銃が火を噴き
逃げる敵兵を撃ち倒す
すでに敵は混乱状態となり
やたらと逃げ回り
機関銃の餌食になっていく
皆殺しの始まりだ
若い兵士たちの目は血走り
口許を歪めて
ひたすら撃ちまくっている
敵兵を
虫けらのように殺していく
皆殺し
皆殺し
皆殺し

 

その時
自軍の後方から
兵士が駆け込んでくる
「後方から敵軍が迫ってきます
相当な大軍とみられます」
待て
早すぎる
こんなに早く援軍が背後から来るのは計算違いだ
敵はこちらの奇襲を知っていた
そうだろう
こちらに深追いさせて
後ろから挟み撃ちにする
これが最初からの作戦なのだ
敵がずるずる後退したのも
作戦だった
ただ
こちらが機関銃を装備していたのが誤算で
被害が甚大になった
しかし敵にはめられたとはいえ
十分な戦果だ
ここは戦果を手に撤退だ
武器も兵士も犠牲には出来ない
「後方から敵軍だ
森へ撤退
急げ」
まだ余裕はある
眼の前の敵に追ってくる余力はない
ここから急いで森を抜ける
敵は崖下の森には不案内なはずだ
追っては来られない

森へすばやく逃げ込み
味方の待つ国境の部隊へ帰還を急ぐ
若いまだ幼さの残る兵士たちは
今さっき殺しまくった感触に
まだ興奮が醒めていない
少し焦点の合わない目で
急ぎ足で森を進んでいく
誰もなにもしゃべらない
時々自分の手をみたり
機関銃を撫でたりしている
一人の兵士が奇声を発する
みんな顔をあげ
いっせいに
顔を見合わせ
なにかニヤついた顔をすると
また黙々と歩く
何度かそういうことが繰り返され
兵士全員がなにか躁状態にある
生まれて初めてたくさんの人を殺した興奮に
取り憑かれている
これで彼らも立派な兵士だ
これからは物怖じせずに銃が撃てる

その時
後方から声が上がる
「隊長
煙が上がっています
森が燃えています」
後ろを振り返ると
確かに森の上から
煙がもくもくと立ち上っているのが見える
黒い煙だ
きな臭いにおいが風に乗って漂ってくる
森を燃やしているのだ
多分石油をかけて森に火をかけた
だから黒い煙なのだろう
森を焼き払い
焼き尽くし
ゲリラの潜伏を阻止する
敵はこの深い森を
戦争のために焼き払うことを厭わない
そういう奴らなのだ
「進め
火がここまで来るには時間がかかる
それまでに撤退だ」
兵士たちの躁状態が一気に醒め
なにか怯えた様子になる
「急いで撤退すれば問題ない
急げ」
その時
われわれの進む前方からも煙が上がる
村が焼かれている
わたしは直感的にわかった
森にある村々が
敵に焼かれている
これにはきっと
戦略的な意味はない
見せしめだ
敵の侵入を見逃した村人への
見せしめに村を燃やしている
わたしはあの家族のことが目に浮かんだ
わたしに食事を与え
食事をともにしてくれたあの家族
実直そうな父親
足が悪いが明るい祖母
赤子を抱えた優しい母親
母親の代わりにかいがいしく給仕をした
小さな女の子
元気で声の大きな男の子
ひとりひとりの顔が浮かんだ
彼らを救いたい
どうしても救いたい
見殺しにしたら
一生後悔する
隊長として
私事に隊を離れることは
あるまじきことだ
しかし
絶対にあの家族を救わなければならない
「いいか
わたしは何人か連れて
先の様子を偵察する
わたしはこのあたりに詳しいから
わたししかいない
このまま進め
敵は村を焼き払うだけで
大した兵力はない
偵察したらすぐに合流する」
わたしは二人の兵士を選び
村へと急ぐ

 

 

あの村は燃えていた
家々は火に包まれ
黒い煙が上がっている
村人は森へと逃げてしまったのか
姿がない
村外れのあの家は
まだ燃えていない
「敵に見つからないように
二人は村を見回れ
わたしはまだ燃えていないあの家を見てくる」
わたしはすこしホッとして
家に向かう
家は人影もない
みんなもう逃げたのか
わたしは家の戸を開き
中へ入る
土間は薄暗い
しかし
そこに人が倒れている
うつ伏せに手を前に投げ出して
倒れている
奥を見ると
人が折り重なって
倒れている
わたしはあわてて駆け寄り
手前に倒れている人間を抱き起こす
正面から頭を割られ
顔は血まみれで
よくわからない
わたしは手で血をぬぐう
父親だ
父親が
目を見開いたまま
死んでいる
奥に倒れている方へ向かう
土間の片隅に
祖母があお向けに倒れている
首に細い紐が巻きつけられている
目を大きく見開いたまま
口を叫ぶように開けている
土間の中央には
一番下にあの小さな女の子が
そしてその上に男の子が
その上に覆いかぶさるように
母親がうつ伏せに
胸に赤子を抱きかかえている
母親は後ろから頭を割られ
その血が下の子どもたちに流れて
土間に血溜まりが出来ている
赤子も男の子もあの小さな女の子も
首を刺されたようで
首から血を流している
わたしはひとりひとり抱き起こし
土間にあお向けに並べる
祖母と父親の体も抱きかかえ
全員を並べる
みな血まみれで
大人は目を見開いたままで
子どもたちは
血まみれでも
眠っているように
安らかな顔をしている
わたしは膝を突き
全員の顔を見回す
あの仲の良い
明るい家族が並んで死んでいる姿を
わたしは見つめる
もう誰も動かない
もう誰も話さない
もう誰も笑わない
もう全員死んだのだ
ある日突然
殺されたのだ
わたしはその事実が
受け入れられない
なにも考えられず
ただ膝を突いて
六つの死体を
見つめている
それは間違いなく死体なのだ
わたしが戦場でたくさん見てきた死体なのだ
それと同じ死体なのだ
わたしが殺したり
敵に殺された死体と同じなのだ
でもわたしは
そのことが受け入れられない
わたしはただひたすら
死体の前で膝を突いている

「隊長
敵は村の家を端から焼き払っています
ひどいもんだ
罪のない村の人の家を
ただの見せしめのために焼き払う
本当にひどい奴らです
敵は次の村を焼き払うのに移動したようです
村人は森に逃げたようで
誰もいません
この家は村外れのなので
敵兵も見落としたんでしょう
良かった」
二人の兵士が戸から家に入ってくる
そして
中の光景に息を呑み
黙る
二人は中に入ってきて
六つの死体の並んでいるのを
見つめる
「ひどい
家族全員殺されてる
なんてひどいことを
敵の奴ら人間じゃない」
二人の兵士は
涙を流している
「敵じゃない
敵兵なら銃で撃ち殺せばいい
ナタかなにかで頭を割られたり
刺されたり
首を締められて殺されてるからには
敵兵じゃない」
二人の兵士は
涙を流してながら
並んで横たわっている家族を
じっと見ている
「わたしはこの家族に
食事をもてなされた
ここに死んでいる父親は
わたしが敵の兵士だとわかっていたが
昔から必ず客人を手厚くもてなす
その古くからの風習どおりにしたかった
だからわたしを客として
食事に招いてくれたのだ
仲のいい家族だった
みんながみんなを思いやる
やさしい家族だった
しかし
わたしが来たことが
村人に知れた
子供だろう
珍しい客人にはしゃいで
黙っていろと言われていても
しゃべってしまったんだろう
この村は敵の詮議が厳しかったらしい
だから
敵をかくまった家があることが敵兵にわかると
集団責任を取らされて
村人全員に大きな不利益が生じる
敵は村人を虐げ
ひどい目に合わせてたんだろう
だから村人は怯えていた
この家族が敵をかくまったことが知れると
なにをされるかわからない
だから村人が殺したんだ
ナタやナイフを手にこの家に押しかけ
手当たりしだい全員殺した
子供も赤ん坊も
怯えた村人は
全員殺した
同じ村の仲間を
こんなに無残に殺したんだ」
兵士の一人のまだ若いほうは立ったまま
もうひとりの少し年上の方はしゃがみこんで
しゃくりあげている
「ひどい
村人をそこまで追い詰めるなんて
なんて憎むべき敵だ」
「わたしさえ来なかったら
この家族は死ななかった
わたしさえ黙ってこの村を通り過ぎていれば
この家族は今でも笑っていただろう
わたしがこの村であの女の子に出会わなかったら
この家族はいつものように食事をしていたろう
でもわたしをこの家族はもてなしてくれた
客人としてもてなしてくれた
そのために今
全員殺された
もう誰も動かない
もう誰も笑わないんだ」
「この村人たちを救いましょう
やつらのひどい圧政から救い
自由と正義を取り戻しましょう
もうこんなことが繰り返されちゃいけない
戦いましょう
自由と正義のために
命を捧げて戦いましょう」
ふたりはわたしをまっすぐ見つめる
「まだわからないのか
この家族は
自由と正義のための戦いの犠牲者なのだ
わたしたちが戦わなければ
この家族は死ななかった
厳しい生活でも
ちゃんと暮らしていけたんだ
わたしたちが戦うから
戦い続けるから
この家族は殺された
この家族は
戦いの犠牲者なのだ」
「しかし
戦わなければ
自由と正義は勝ち取れません
村人をひどい圧政から救うことは出来ません
そして
わたしたちの家族を圧政にさらすことになります」
「本当にそうか
本当にそうなのか
戦いをやめて平和が来たほうが
みんなが安心して暮らせるんじゃないのか
もう本当にたくさんの犠牲を払ってきた
たくさんの兵士を
わたしは死なせてきた
まだ若い兵士だ
父親に愛され
母親に愛され
兄弟がいて
楽しく遊ぶ友だちもいる
恋人もいたかもしれない
まだ恋も知らなかったかもしれない
そういう若者が
自由と正義のためにたくさん死んでいった
そしてたくさんの兵士を殺してきた
わたしの殺してきたのは
悪の帝国の手先の悪逆な人間なんかじゃない
なんの罪もない若者だ
同じように家族に愛され
恋人もいたかもしれない
そんな若者を
わたしは自由と正義のために
無残に殺してきた
この家族を殺した村人のように
わたしは愛すべき人たちを虐殺してきた
これ以上この忌まわしいことを続けるのが
それが自由と正義のためなら
わたしはもう自由も正義もいらない
そんなものは投げ捨てて
戦いをやめ
平和な世界が欲しい」
「降伏の屈辱を受け入れろというんですか
そうして愛する家族を
圧政の餌食にするのですか
この戦いに命を捧げた兵士たちに
なんて言いましょう
理想を投げ捨てるくらいなら
死ぬまで戦うべきです」
「そうだ
屈辱だ
われわれ男たちは決して屈辱を受け入れない
屈辱を受け入れるくらいなら
戦い続け
死を選ぶ
それが男の誇りだ
その男の誇りを守るため
わたしたちは殺し合う
自由とか正義とか
結局すべては男の誇りなのだ
屈辱を受け入れるくらいなら死を選ぶ
そんな男の誇りが
男たちを戦いに駆り立て
お互い殺し合うのだ
だったら誇りなんていらない
誇りを失えば戦いが終わるなら
もう殺し合わなくて済むなら
誇りなんて投げ捨てよう
屈辱を受け入れれば戦いが終わるなら
屈辱を受け入れよう
奴隷になれば戦争が終わるなら
奴隷にだってなろう
男の誇りのために殺し合うのはもうたくさんだ
世界中の男たちが誇りを投げ捨てれば
すべての戦いが終わり
世界が平和になるなら
世界中の男たちがみんな去勢されてしまえばよい
戦いのない世界のためなら
去勢された奴隷の屈辱だって受け入れよう
もう殺し合いはたくさんだ
もう殺し合いはたくさんだ」
うす暗い部屋の中に
きらきらとした光が差しはじめる
壁もかまども消えていく
海だ
波がきらきらと光っているのだ
海がわたしの向こうから
ひたひたとこちらに向かってくる
もう小屋は存在しない
ただそこには
波が打ち寄せる海がある
波はゆっくりと
六人のからだを波にさらっていく
横たわったからだは波に浸かり
海へ海へと引き込まれていき
海へと消える
波はわたしの足許まで打ち寄せ
わたしの足を濡らす
ここにはもう誰もいない
二人の兵士もいない
わたしはきらきらする波の向こうの
青い海を見やる
その海に
ゆっくりと
なにかが浮かび上がってくる
中央に
魚の姿をしたものが玉座に座っている
その周りに
みどり色の髪をたゆたわせた
薄布の長い衣をまとった
魚の眼の女たち
赤い髪に
碧い透き通った肌をほとんど見せる
金色の衣の女たち
逆立つような真っ白い髪に
口が耳まで裂け
赤い目が光った
珠玉を縫い込んだ黒い衣の女たち
魚の尾を器用に動かしながら歩く
腰から下が魚の
ゆらゆらと揺れる巨大な乳房を露わにした人魚
わたしは海の水を蹴り
玉座に駆け寄り
ひざまずく
「ネプチューン
もう一度わたしを
絶望の宮殿に迎え入れてくれるのですね
希望とともに海の上にあがったわたしを
こうして迎えに来てくれたのですね」
魚の顔の
目が左右に離れた
口許の長いひげをうごめかすネプチューンは
碧玉の玉座からわたしを見つめる
「おまえは真の絶望を知った
もう決して希望を語ることはないだろう
おまえはいまこそ
絶望の宮殿にふさわしい
おまえを迎え入れよう」
「ありがとうございます
もう魚になりたいなどとは申しません
ネプチューンの絶望の宮殿の慰みものとして
永遠に笑いものとなり
地べたを這い回りましょう
それが真の絶望を知ったわたしの望みです」
黒いなめし革のぴっちりした服を着た
金色の髪の女が近づいてくる
彼女はわたしより早く海の上に上がり
わたしより早くここに戻り
わたしを待っていてくれた
もう彼女と永遠に離れることはない
女はわたしに
金色の首輪をつけ
鍵を締める
巨大な乳房の人魚が口を開け
長い舌でその鍵を舐め取ると
ゴクリと呑み込む
「これでもうおまえは
これからずっと
この宮殿の囚人でいられるのだよ
感謝おし」
金色の髪を一本引き抜くと
それは水蛇の鞭に変わる
緑色の薄い服を着た赫い髪の女が
わたしの軍服をするりと魔法のように脱がせ
わたしをはだかにする
黒いなめし革の服を着た金色の髪をした
わたしの恋人は
わたしを水蛇の鞭でしたたかに
何度も鞭打つ
鞭の跡から血が噴き出す
わたしはこうして
絶望の宮殿にふさわしく
浄められていく
「さあ
もう二本足で立っている必要はない
牝牛のように歩くがいい
おまえはこれから
永遠に
絶望の宮殿の慰みののとして生きるのだから」
わたしは四つん這いになり
彼女に鎖を引かれ
歩いていく
彼女が金色の髪を二本引き抜き投げる
するとその髪は濁った目の二匹のウツボとなり
一匹はわたしの陰茎に食いつき
食いちぎるばかりに噛み付いている
もう一匹はわたしの尻から体に入り込み
わたしの内蔵を食いちぎる
わたしは苦しみの叫びを上げる
「おまえはこうして
この宮殿にふさわしい体になっていくんだ
ここで絶望とともに暮らすのに
ふさわしい体になっていく」
わたしはこうして金の鎖に引かれながら
海の底へと沈んでいく
ネプチューンも女たちも
海の底へとゆっくりと沈んでいく
遠くから兵士の声がする
「隊長
どこへ行ったんですか
戻ってきてください
自由と正義を取り戻すため
戦いましょう
戦わなければ
自由も正義も得られません
そのためには隊長の力が必要なんです
隊長
戻ってきてください
一緒に戦いましょう」
「戻ってきてください
自由と正義のため
戦いましょう
祖国を救うのです」
金色の髪の彼女が
その声に立ち止まり
振り向く
わたしは内蔵を噛み割く苦しみに叫びを上げる
女はそのまま歩きだす
青い小さな魚がたくさん泳いでくる
赤い大きな魚も泳いでくる
そして珍しそうに
わたしのまわりを
ぐるぐる回る
すべてはもと通りだ
わたしはネプチューンの絶望の宮殿に戻ってきた
もう忌まわしい希望はいらない
魚たちが迎えてくれる中を
わたしは鎖を引かれて歩いていく

 

 

 

2021年9月14日公開

© 2021 uminozomu

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"ネプチューン"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2021-09-14 20:51

    はじめまして。
    ジャンルは「小説」と銘打たれておりますが、これは長編叙事詩であると思いました。物語も単線的なものではなく、海の底で抱いた希望から生じた、夢とも現実ともわからないもう一つのありえた世界と交錯して最終的にまた絶望に帰る構成も考え抜かれていて、大変な力作とお見受けしました。
    わたくしは詩は多少読むのですが、自分ではどう書けばいいのかさえわからない散文的な人間ですので御作をちゃんと読めているかわかりません。くわしくないのですが現代詩手帖とかでこういう作品は受け付けていないのでしょうか、詩のわかる方に読んでもらうべきに思います。自分的にはとても好きな作品でした。

    • 投稿者 | 2021-09-15 08:01

      お読みいただいてありがとうございます。一年近くかけて書き上げた作品なので、自分でも思い入れが強く、力作とのご評価うれしいです。詩のかたちにすることに逡巡もあったのですが、間違いではなかったと思います。
      私は詩人ではないので詩の世界の事はよくわからないので、今後いろいろ調べてみます。ご教示ありがとうございます。

      著者
      • 投稿者 | 2021-09-15 21:05

        「力作」というのは今はあまりいい意味で使われないようですので、傑作と言いなおします。わたくしSNS等をやっていないので、シェアできないのを申し訳なく思います。色んな方に読んでほしい作品です。

        • 投稿者 | 2021-09-15 23:42

          傑作!ありがとうございます。
          自分でもいろいろ拡散して、たくさんの方に読んでいただきたい、と思っております。

          著者
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