ぺトリコールは夢の中

海野 絹

小説

2,780文字

    夢を諦めた少女と夢を売る男の話。

   

 

   半年ぶりにトウシューズを履いた自分は、あの頃とは別人のように見えた。窓際に置いた全身鏡の前で、姿勢を正して踵を揃える。アン・ドゥ・トロワ。爪先を伸ばして空中で半円を描くように動かしながら足首を動かすと、鈍い痛みが走った。やっぱり傷は治ってるようで治っていない。

レッスン中や歩く度に痛み出した足首の手術をしたのち、調整期間を考慮しても高校最後の全国バレエコンクールの予選には間に合うはずだった。だけど、現実はそう甘くない。日常生活に支障はないものの、術後に後遺症が残って続けることが難しくなった私は、五歳の頃から始めたバレエを辞めた。鏡に映る自分は夢を追いかけていた自分ではなくなって、積み上げてきたものを失って、ただの大学生として立っている。私はこれから先、何の為に生きていけばいいんだろうか。

 

蝉の声が死んだ八月の暮れ。

バイト帰りにコンビニに寄った後、外に出ると今にも降り出しそうなグレーの空が頭上に広がっていた。さっきまでそんな気配はなかったのに、と早足で家に向かうも、後数百メートルの所で滝のような雨が降り出して、仕方なく目の前の軒先で雨宿りをする。半年程前からシャッターを閉めたままの時計屋は、『閉店しました』の張り紙が変わらず貼られていて、時間が止まってしまったような感覚がどこか自分と重なって見えた。

「急に降ってきましたねェ」

不意に隣から聞こえた男の声に思わず肩を揺らして振り向くと、全身黒ずくめの長身な青年が帽子を取って雨を払う仕草をする。いつからそこにいたんだろう。雨の音が煩いとは言え、気配を感じなかった。

「シツレイ、驚かしてしまったかな。オジョーサンが可愛いらしくてつい」

流暢の中に時折混じるカタコトな日本語は、独特のイントネーションで紡がれる。銀髪で瞳の色が青いし、外国人だろうか。

「いえ、……大丈夫です」

少し警戒心を孕んで愛想笑いを浮かべながら、早く雨が去らないだろうかと視線を逸らす。

「オジョーサン、何か悩んでますネ?」

「え?」

「顔に書いてありマスよ」

胡散臭い占い師のような口調で、今にも語り出しそうだ。貴方には死相が出ているとでも言って、高い御守りでも買わせる気だろうか。被害妄想を広げる私とは裏腹に、彼はニヒルな笑みを浮かべた。

「夢について悩んでる、チガウ?」

青い瞳が私を見据える。彼には何が見えているんだろうか。だけど初対面の相手にホイホイ心を開く程、病んではいない。

「……違います」

咄嗟にそう吐いて、まだ止みそうにない雨を見据える。

「僕は怪しいもんじゃないデス」

そう言う時点で怪しい。

「実は夢を売る仕事をしていましてネ」

「夢?」

「エエ、夢の中では貴方の夢が叶いマス。素敵な夢を見たくありませんか?」

「宗教やセールスならお断りします」

やっぱりロクなものじゃない、と逃げるようにそう言って背を向ける。

「オジョーサン、ちょっと待って下さい」

「なっ、離してよ」

立ち去ろうとした途端、腕を掴まれて本格的にやばいかもしれないと危機感を覚えるも、路上には誰も通りかからない。地面を叩きつける雨が、私達の存在を隠しているようだった。

「Shhh」

人差し指を立てて顔を近付ける彼の迫力に思わず息を飲む。さらさらとした銀髪、宝石のような青い瞳、陶器のような白い肌。いわゆるイケメンと呼ばれるであろうその容姿は、目の前で見ると人を動けなくする能力があるらしい。

「オジョーサン、お名前は?」

「へ?」

「教えてくだサイ」

「水杜みと、です」

素直に下の名前を言わせてしまう能力も追加。

「お試しで、というのはどうでスカ?」

「はい?」

「雨が止むまで後五分程かかるでしょう。その五分を僕に売って夢を買いませんか?」

「……時間を売る?」

「エエ、言葉通りです」

「よく分かりませんが、五分経ったら帰ってくれますか?」

「約束しまス」

言ってることが理解出来ないが、五分この怪しいセールスマンに付き合えば解放してくれるらしい。

「五分だけですよ」

「ありがとうございマス、では目を閉じてくだサイ。今宵貴方が素敵な夢を見れますように」

左手がスっと頭の上にかざされて、渋々目を閉じる。何秒か経って雨の音が止んで、不思議に思っていると「目を開けてくだサイ」と声がした。

ゆっくり瞼を持ち上げると、つい数秒前まで激しく降っていた雨が止んでいる。違和感を覚えながら彼を見ると、またニヒルな笑みを浮かべていた。

「では、これで失礼しますネ」

「え、ちょっと」

「僕の名前はニエ。また会いたくなったら雨の日に名前を呼んでくだサイ。では」

あっさりと去っていく彼が角を曲がるまで目で追いかけながら、見えなくなった瞬間「何だったんだ」と思わず独り言が漏れる。五分と言った割に数秒で解放した。その間に雨が止んで、まるで時計の針が一瞬で進んだかのような感覚だった。そんな訳ないと思いつつ、雨の上がった路上を歩き出して家へと向かった。

 

夜、ベッドに入って今日の出来事を思い返す。夢を売ると言った男。彼は代わりに私の時間を買うと言った。宗教やセールスにしては何も具体的な話は無かったし、占い師にしては何も利益がないはず。言ってることもイマイチ理解出来なかったし、残念なイケメンだと位置づけて忘れよう。

瞼を閉じると、脳裏に『ニエ』と言った彼の姿が浮かんでかき消す。寝返りを打って自分の呼吸音を聞きながら、意識が沈んでいくのを感じた。

 

トウシューズを履いた足を上げて、爪先を伸ばす。あれ、足首が痛くない。アン・ドゥ・トロワ。周りの練習生達と同じようにリズム良くポーズが決まる。体が軽くて、今なら何でも出来そうだ。ジャンプをして着地すると、もう出来ないと絶望していた自分を思い出して泣きそうになる。私、バレエを続けられる。

 

目を開けると、ぼうっとする頭で見ていた夢のことを考える。夢の中の私は足が治っていて、凄く楽しくて。だけど夢は夢でしかないと現実の自分が冷静に理解する。彼が言っていた夢を売るってこういうことだったんだろうか。こんなの虚しいだけだ。信じるのも馬鹿らしい。

溜め息を吐いて立ち上がると、テレビをつける。今日の天気予報は曇のち雨。雨の日に呼んでくださいと言った彼の言葉が浮かんでくる。もう関係のないことだ。気持ちとは裏腹に、頭の中は彼の存在で埋め尽くされる。

午後から予報通り雨が降ってきた。バイト帰りに最寄り駅を出て傘を差すと、歩きながら「ニエ」と呟いてみる。

「呼びました?   オジョーサン」

振り返ると相変わらず黒ずくめの彼がいた。本当に呼んだら現れるんだ、と得体の知れない恐怖心と好奇心のようなものが背筋を撫でる。

「貴方は何者なの?」

そう聞くと、彼は私の傘を奪って顔を覗き込むように身を屈めて口角を緩める。

「僕は夢を売る者ですよ」

そう言ってニヒルな笑みを浮かべた。

2021年8月9日公開

© 2021 海野 絹

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