まるい浴槽にもたれてキキはその長い亜麻色の髪を濡らして深く寝入っている。僕のことをすっかり信用しきっている様子でそのあどけない寝顔には不安の影は微塵も認められない。裸の僕は右手にナイフを握りしめ浴槽に入ってキキと向かい合った。胃のあたりからじんわりと澱んで饐(す)えた体液が全身に広がり僕の頭の中にまで浸蝕してきている。僕の深層から浮上してきた澱(おり)が僕自身を支配しようとしていることを認識すると僕の体は小刻みに震え出した。まるでその澱の浸食に抗っているかの様だ。震えが止まらないナイフを握りしめた右手に左手を添えて僕はキキに向かってナイフを振りかざした。
遥か上の方に真夏の陽光が煌めき揺れている中で魚の群れが泳ぎ回っているようだ。鮮やかな褐色の体で優雅に泳いでいるクロダイが見える。僕はそれよりも深いところに横たわっているようで海温がやけに冷たく感じられた。僕の周りでは海藻が揺らぎ小魚たちが泳ぎ回っている。僕は薄れゆく意識の中で長くて赤い髪の女の人が透き通った白い肌でたわわな二つの乳房を揺らしながらゆっくりと近づいてきているように感じていた。
僕が目覚めると泣きはらしている母親の顔が真っ先に飛び込んできた。隣では父親が心配そうに僕を見下ろしている。その隣には救命具をつけたライフガードの人だろうか、ほっとした様子で僕を見ていた。
リノリウムの床が天井からの蛍光灯の光を力なく反射している殺風景な白い壁に囲まれた個室のベッドの上で酸素吸入マスクを顔につけた娘の明奈は生きる力が薄れているかのような白い肌を少しはだけたピンク色の病院着からのぞかせて静かに寝入っている。その横では化粧も落ちて目が落ちくぼみ疲れ切った様子で焦点が定まっていない視線を明奈に注いでいる僕の妻が椅子に固まった姿勢のまま座り続けている。どれくらい時間が過ぎていったのか僕は把握できていない。あれほど明るく輝いていた妻の恵子が憔悴しきった状態で他人の目を気にするそぶりも見せずに地獄の底を這いずり回っている罪人のごとく全く希望を失ってしまった力ないまなざしでひたすら一点をぼんやりと眺めている姿に僕の心は重く沈み込みそして僕は避けがたい最悪の明日の訪れに対してひたすら悲嘆していた。
それまでは健康そのもので体調の不調の兆候も全く見られなかった明奈が突然床に倒れ込んで頭が痛いと訴えたのは高校受験の模試を終えた二週間前の夕食後であった。今まで見せたことのない苦悶の表情で泣きながら不調を訴える明奈に驚いた妻と僕は至急夜間診療を行う病院を探し出して車で向かった。病院は十分ほどの距離であったがその間にも明奈は車の中で叫び続け、その様子に動転した妻が次第に取り乱していく様子に僕はひたすら正気を保たなければならないと思いながら車を運転した。病院につくと明奈の異常な状況を認識した看護師たちの対応により優先して明奈の診察が行われた。その日は鎮静剤を打って明奈はひとまず落ち着いて眠ることができた。
翌朝から内科、脳神経科の先生たちによる診察が行われた。血液検査、心電図測定やレントゲン撮影が行われ、その結果明奈の心臓の肥大が認められた。午後からはMRIの検査が行われ脳に腫瘍が見つかった。明奈の体を鎮静剤で落ち着かせている間様々な検査が行われたのであるが血液検査の結果から未知の細菌が検出され、明奈は国立医科大学病院でさらなる検査が行われることになった。僕と妻もその細菌に置かされていないかの検査が行われた。幸い僕たちの体は感染していなかったのであるが国立医科大学病院でもその未知の病原体に対しての療法がなく、いたずらに時間が過ぎていくばかりであった。その間、明奈の体は次第に衰弱していき、熱量に溢れかえっていた明奈の面影はなくなり青白い肌の力ない存在へと変わって行った。経過を見ている僕たちにとってもこのままでは明奈の命が消えてしまうであろうことは十分に理解できるほどにその変貌は大きかったのである。そして医科大学の担当医から先ほど告げられたことは、未知の細菌により明奈の体は全身が犯されてしまい、それへの対処法が今のところ見つかっていないとのことであった。抗生物質も全く効かない細菌なのでこのままの状態では早ければひと月以内、長くても三ヵ月しか明奈の命は続かないであろうという告知であった。現代の医学では全く対応できない未知の病気であり、医師たちもできうる処置に関しては全て行った結果であり後は人体の自然治癒能力に頼るしかなく、病院としては明奈の体力維持のための診療に切り替えていくといった最後通牒のようなものであった。
突然襲ってきた絶望という名の大波に妻は飲み込まれてしまい、ひたすら大声をあげて泣き崩れた。僕はその妻を眺めながら落ち着かなければならないと必死にその大波から逃れようともがいた。その時僕の中では何か不快な暗くて澱んだ意識が首をもたげて僕の全身に絡み纏いついていくような感覚が芽生えていた。僕は明奈を最悪な状態から救い出すには明奈の体の自然治癒能力を高めないといけない、どうすればそんなことができるのだろうかと何度も何度も繰り返し反芻していた。泣き崩れている妻の恵子を抱きかかえるようにして僕は明奈の病室へと向かった。妻は病室に入り衰弱した娘の顔を見ると泣くことに疲れたのか、運命に抗うことに絶望したのか、急に静かになり腰かけて力なく意識が感じられない視線を明奈に注ぎ続けている。時が止まってしまったかのような病室で僕は事態をどうすれば変えられるのかを疲れ切ってしまった頭でひたすら考え続けていた。
しばらく寝ていたようだ。頭が重たい。半覚醒の眼で娘を見ると彼女は目覚めていた。少しだけ元気になっているようにも見受けられる。妻はそのような娘を眺めているのだが気づいていない様子だ。意識が遮断されているのかもしれない。僕は娘に歩み寄りその右手をゆっくりと握った。明奈は力なく僕の方を見て笑おうとしているようだ。
「お・とう・・・・さ・・・・ん」
娘が精いっぱい話しかけようとしているのを僕は優しく制止した。
「明奈、無理してしゃべらなくていい。今、明奈の体は頑張って病気に勝とうとしているんだ。だから明奈は体を休めてもっともっと病気と闘って貰わないといけないんだ。だから静かに休んでいなさい」
明奈には僕の声が届いたようだ。頷こうとするそぶりを見せている。僕は明奈の手を力強く握りしめた。力ないが温かいその手は必死になって握り返そうとしている。明奈は生きている。彼女の体は必死になって生きようとしているということがその手の温もりから伝わってくる。僕はその時ある決断をしていた。馬鹿げた決断であるが今の僕に父親として娘に対してできることはそれしかないんじゃないかという思い込みが僕の心の奥底から急激に浮かび上がってきて僕の全身に絡みついていた。僕は明奈に向かって再び優しく語りかけた。
「明奈、お父さんちょっと出かけるよ。二三日に留守するけど明奈のためにやりたいことがあるんだ。大丈夫。明奈はきっとよくなる。だからちょっとだけ待っていなさい」
明奈は力ない瞳で頷いたようだった。妻はいまだに憔悴した様子で反応がない。その妻に向かって僕は語りかけた。
「お母さん、ちょっと出かけるけど明奈のことしっかり看てやって」
妻は無表情だが静かにうなずいた。
病室を出た僕は看護師さんに娘と妻の状況を注意してほしいと要望して病院を出た。そして会社に今週いっぱい休む旨の連絡を入れて自宅へと戻った。自宅へ戻った僕は数日分の着替えとウェットスーツ、シュノーケリングのセットをバックパックへ詰め込んでレヴォーグに乗り込んだ。その時点で時計は午後六時を回っていた。僕は環八に向かい中央道に入りそのあと圏央道を経て新東名で西に向かった。夕日を背景にした富士山のシルエットが美しい。富士山を眺めながら一心に娘の無事を祈った。その名前のように娘の命を長らえさせてくれることをその大きく聳え立つシルエットに向けてひたすら祈った。
一晩中車を走らせた僕は翌朝の十時に唐津の波戸岬へと到着した。初秋の空は澄み渡りその青さを玄界灘の海へと落とし込んでいる。平日の秋の海には僕以外誰も認められない。穏やかに凪いだ海に時折吹いてくる潮風が疲弊しきった体に優しい心地よさを運んでくれている。
僕は四十年ぶりに波戸岬へ戻ってきた。ゆっくりと駐車場に車を止めると少し仮眠をとった。目覚めた後で急に空腹を覚えた僕は近くの食堂に入った。人のよさそうな小太りのおばさんが九州弁で応対してくれる。僕はおばさんがおすすめだというサザエのつぼ焼きとイカ焼きを注文した。サザエのつぼ焼きは香ばしくて僕の食欲をそそった。イカ焼きは柔らかくて弾力があり噛むほどに磯の香りが口中に広がっていく。食べ終える頃には顎が疲れていた。僕を包み込む強烈な磯の香りは幼い頃にこの岩場で起こった出来事の記憶を僕に目覚めさせていった。
僕は幼い頃玄海町に住んでいた。僕の父はここで玄海原子力発電所の技術者として働いていた。僕が小学校に入る頃に父は柏崎刈羽原発に移っていたので玄海での僕の記憶は朧げなものだ。その中で特に不思議な体験として覚えていることはある夏の日に僕がこの岩場で溺れたことである。九州沿岸で起こるあびきといわれる現象で僕は急に発生した波にさらわれてしまい十分ほど行方が分からなくなったという体験をしている。その時は幸運にも僕の体が突然海中に浮かび上がりライフガードの人たちにより僕は救助されたということだった。僕の記憶でも目を覚ました時の母親が泣きじゃくっている顔は覚えているので実際に体験したことは間違いないことだろう。波にさらわれた後引き潮により僕は相当沖にまで流されていた。海岸がはるか遠くに見えているという状況で僕は必死にもがいていたのだが海水を飲み込んでむせだすと急に記憶が無くなり海中深く沈んでいったようである。酸欠状態に体が反応したのだろうか、一瞬だけ僕は目覚めた。その時の光景は今でも鮮明に思い出すことが出来る。はるか上の方で太陽の光がキラキラと煌き揺れていてその中をクロダイやフグ、アジの群れが泳いでいた。美しいその青い海の光景を見ながら僕は寒さに震え意識が再び薄れていった。その朦朧とした意識の中でゆっくりと近づいてくるものが目に入ってきた。海中に浮かんだ赤い塊で踊っているかのように揺れながら僕に近づいていた。それは赤い髪をなびかせながら泳いでくるむき出しの大きく張ったおっぱいの若いお姉さんだと薄れゆく記憶の中で感じていた。幼いながらもきれいなお姉さんに見守られていることに喜びさえ感じていた。そして突然暖かくて柔らかな体に抱きしめられ、その後で僕の口は柔らかい唇で覆われた。そこから入ってくる酸素に僕の体は敏感に反応しそのお姉さんの唇を貪るように吸い始めた。体中に酸素がいきわたるあの瞬間は今でも僕の体は覚えている。ゆっくりと目を開けた時のそのお姉さんの優しいまなざし。お姉さんは僕の体を優しく包み込んでゆっくりと旋回しながら上昇していった。僕はお姉さんの唇にむしゃぶりつきながら懸命に酸素を吸いこんでいた。暖かくて柔らかいあの肌の感触は今でも現実に起こった出来事なのか溺れかけた頭の中で描いた妄想なのか定かではないが、僕の体はその感触を鮮明に覚えていることは間違いない。そしていよいよ海面に出ようとしたとき水圧が変わったせいだろうか、僕の意識は再び朦朧となった。その朦朧とした意識の中で最後に見たのはお姉さんが僕の体を海上に押し上げて、そして海中で回転して深い海へと帰って行く姿だった。その姿は赤い髪をたなびかせた白い背中とその先は大きな魚のような尾びれを持ったものだった。海中に浮上した僕は夢中で空気を吸い込んでそのまま意識を失っていた。
次に目覚めたとき僕は心配している大人たちを気にかけることもなく岩場に向かって急に走り出してしきりに手を振りながらありがとうと大声で叫んでいたそうである。僕にはこの記憶は全くないのだがおりにつれ母親や父親が話していたので実際そうであったのであろう。
昼食を終え波戸岬を少し歩いた後で僕は車に戻ってウェットスーツに着替えた。マスクとシュノーケルそしてフィンを持って岩場へと向かった。記憶が定かではないが四十年前に僕が救助されたであろう岩場でシュノーケリングのギアを装着して海へと入った。初秋の海はひんやりとしているがとても穏やかだ。岩場付近は水深も浅く小魚しかいなかった。岩場にはイソギンチャクやフジツボ、カラス貝、最も今ではムール貝というおしゃれな名前になっているが、がへばりついている。海底にはバフンウニが見られる。時折カサゴが飛び出してくる。海中を探索したが水深が浅くここにはいないようだ。海岸に戻り体調を整える。そして次は沖合に向けて海底を散策した。岸から離れたところでは水深は十メートルほどあり十分深そうである。時折小魚の群れも回遊している。その場所で潜ってみることにした。耳抜きをしながら海底まで下りてみると海藻が生い茂り所々に岩が露出している砂場である。ナマコがいる。海面では光がきらめいて美しい光景を作り出している。岩の間からウツボが侵入者を確認するかのようにその獰猛な顔を擡げていた。クロダイやフグが悠然と泳いでいる中にアジの群れがその美しい魚体を光らせながら泳ぎまわっている。四十年前の出来事があった場所はおそらくここではないかという直感めいたものが僕の中に浮かんできた。息が続く限り僕はその場にとどまって静かに待ったが何も起こらなかった。息苦しさを覚え僕は浮上した。そして海面で体力を回復させて岸へと戻った。日はすでに傾いているので夕食を済ませた後で今夜もう一度先ほどの場所に戻ることにした。
僕は玄海町にあるビジネスホテルに宿をとり近くの居酒屋で夕食を済ませた。玄界灘の魚介類はとてもやさしい美味しさで僕の張りつめて疲れ切った心を十分すぎるほどに癒してくれた。千キロメートル離れた場所にいると東京で起こっている出来事がドラマの一場面であるかのように思えてくる。本当にそうであればいいのだけれども現実は僕の妻は生きる力を失い娘は僕の前から消え去ろうとしているのだ。僕はこの場所に来るために鬼となり地獄へ落ちようとも構わないと心に決めて来たはずなのだが、この場所は幼少のころの楽しかった懐かしい思い出を覚醒させて、それは僕の暗く澱んだ心に静かに侵食し、そして浄化していくようだった。食事を済ませるともう一度、妻の意思を持つことを拒否したような瞳と娘の青白い命が消え去ろうとしているような肌を思い浮かべて僕が直面している状況を思い起こした。ホテルに戻りレヴォーグに乗り込んで波戸岬へと向かった。上弦の月が暗い夜道を仄かに照らし僕を波戸岬へと導いた。
海風が頬にやさしく吹き付ける中、僕は再び夜の海へと入った。マスクを上げシュノーケルも口から外して僕は仰向けで月を見ながら沖へと進んだ。張り詰めていた心が緩んだせいだろうか、そして長時間の運転と睡眠不足が重なったからだろうか、僕はふと睡魔に襲われた。瞼がとても重くて開けているのがつらい。次第に何もかもがどうでもよくなってきてこのまま眠りたい誘惑に犯されていった。明奈、ごめん、お父さん頑張ったんだけど心が折れてしまったようだ。恵子、愛しているよ。僕は薄れゆく意識の中で女たちにひたすら詫びながら暗くて深い夜の海へと沈んでいった。
息苦しさと鼓膜を圧迫する痛みに僕は目覚めた。辺りは真っ暗でわずかに上の方に明かりが瞬いているのが見える。僕は海底の砂の上にいるようだ。マスクを着けていないので海水が目に浸み込んできて痛い。僕はこの状況で再び彼女に会うことが出来なければすべての計画は無駄になるであろうことに思い至り家族のために苦しさに極限まで耐え抜こうと思った。視界が閉ざされた中で冷たい低温にさらされている。僕はこのまま僕の命が尽きるかもしれないことを思っていた。精一杯生きてきたという自覚はある。あとは運命に任せるだけだと次第に遠くなっていく意識の中でひたすら思い続けていた。その時、頬にわずかな海水の揺れを感じた。何かが近づいているのだろうか。でももう瞼を開く力さえも残っていない。明奈の力ない瞳を思い浮かべながら僕は静かに眠りに付こうとしていた。その時柔らかい二つの揺れがウェットスーツを着た僕の体に接触している感覚があった。そして僕の背中に回された暖かい腕。思わず開いた僕の唇を柔らかくてあたたかな感触が包み込んだ。僕はそれに夢中でしゃぶりつきそこから流れ込んでくる酸素を吸い込んだ。暖かな吐息は僕の肺を十分に満たし僕の体全体に血流を通して酸素を流し込んでいくのが理解できた。僕は静かに目を開けるが暗くて何も見えない。ただ顔に纏わりつく髪の毛が僕に懐かしい思い出を想起させていた。僕たちは暗くて深い海の中でお互いをしっかりと抱きしめながら揺らぎ舞い踊っていた。僕の舌は彼女の中に力強く入り込み彼女はそれをしっかりと受け止め、彼女の舌で転がしもてあそんだ。僕たちは海中をたゆたいながら互いの存在を確かめ合った。そして上弦の月が照らす夜の海面へと浮上していった。
僕は疲れ切っていた。その僕を抱きかかえて彼女は岩場に向かって泳いでいる。僕の体は仰向けで上弦の月の下をゆっくりと進んでいった。ウェットスーツの背中を通して伝わってくる彼女の温もりが僕に安らぎをもたらし、そのことが僕の心にしこりを生み出していた。
岩場に着くと彼女に支えてもらいながら僕は力を振り絞って岩の上に這い上った。暫く仰向けのまま岩の上で夜空を眺めながら息を整えた。彼女は海の中から僕を心配そうに見守っているようだ。僕は彼女を月明りに確認すると僕自身を指さしながら「一馬」と叫んだ。その動作を何度か繰り返した後で彼女を指さした。彼女は僕を指さして声を出した。
「かひゅふぁ」
そして自分を指さして話した。
「きーきー」
ソプラノで聞き取ることが難しかったが、僕は彼女を指さしながら言った。
「キキ」
彼女は優しく微笑みながら交互に指さして
「かひゅふぁ、きーきー」
と話していた。僕は彼女に向かって手振りで眠る仕草をした後、月を指し示してその後キキと僕自身を指さしながら明日の夜会いたいと伝えようとした。彼女は理解したのだろうか、月を指さした後、「かひゅふぁ、きーきー」と僕たちを交互に指さした。そして海の中へ去っていった。
僕はビジネスホテルへと戻りシャワーも浴びずにベッドへと倒れ込んでそのまま翌朝まで深く眠り続けた。
朝日が差し込んでくる狭いワンルームのシングルベッドの上で僕はいまだに微睡の中にいた。覚醒しきっていない意識の中で僕は背中にキキの柔らかい体を感じてなぜか安らぎを覚えていた。次第に意識が戻るにつれその安らぎは戸惑いへと変わっていた。そして僕はベッドから起き出して頭を抱え込んでしまった。僕は今夜僕がやろうとしていることに嫌悪感以外の何も感じていなかった。しかし明奈を生かし続けるために僕には決行する以外選択肢がないこともわかっていた。ただ僕はそれを実行できるのか、決行するために僕は鬼となりきれるのか、僕の心はふらつきながら決断することをためらっていた。
シャワーを浴びて一階のレストランで遅めの朝食を取った。トーストとハムエッグにコーヒーが付いた朝食セットだ。朝食を終えると僕はチェックアウトして車で唐津へと向かった。
唐津では宝飾店でキキが好みそうな真珠のネックレスを購入した。そして刃物店でサバイバルナイフを購入した。とりあえず今夜の決行に際しての準備は整った。後は僕の決断次第である。
僕は虹の松原に車を停めて砂浜で夕暮れまで過ごすことにした。僕には僕が今夜行おうとしている最低なことを決断するための心の準備が必要だった。
虹の松原は唐津湾に面した砂浜に長さ四キロメートル以上にわたって続いている松原である。夏は海水浴客でにぎわっているが平日の初秋の浜辺は閑散としていた。犬を散歩させている年配の婦人が遠くに見えるだけである。未だ力強い太陽の光に照らされて汗ばんでいる体に時折吹いてくる潮風が心地よい。僕は松林で購入した唐津バーガーを頬張った。パリッとした感触の後に来るふんわりとしたバンズの触感と甘めのソースが絡んだパテやレタス、ハムの調和された力強い味わいが僕の口の中いっぱいに広がっていく。それは僕は悩みながらも今をここで生きているのだと思い出させてくれる。どこまでも広がった松原の砂浜に繰り返し打ち寄せている波が描き出す複雑な泡模様は僕に何年か前の夏に家族で訪れた千葉の御宿の浜辺を思い出させた。幼かった娘の明奈は母親の恵子と一緒に浜辺で砂のお城を作っていた。近くに建っている月の砂漠の王子様と王女様のお城を二人で一所懸命に作っていた。思いのほか時間がかかりそのうちに満ち潮となり二人に迫ってきていた。妻の恵子がもう帰ろうと促しているにもかかわらず明奈は二人のためのお城を作るっと言って帰ろうとしなかった。そのことを思い出しながら僕はあの夏のあの時に戻りたいと、叶わぬことと理解していても強く思わずにいられなかった。
西の空が次第に茜色に移ろいでいった。僕は決断出来たのだろうか。今夜行われるであろう惨劇の準備はできているのであろうか。力ない明奈の青ざめた顔と、心が漂い定まらない恵子の不安定な眼差しを心に刻みながら僕はレヴォーグへと向かった。空は茜色から深紫へと緩やかに移り行き僕は精一杯自分を鼓舞しながら自分を最低に貶めるステージへと向かったのだった。
昨夜より幾分線が太くなった上弦の月は東の空の低いところで青白い光を放っていた。僕ははだしで車から降りて岩場を歩いて海へと入っていった。そして「キキ」と夜の海へ向かって囁いた。僕は出来得る限りに顔を繕って恋する少年になりきろうとしていた。滑らかに打ち寄せる波の音しか聞こえてこない。もう一度、僕は恋する少年の声で「キキ」と囁いた。遠くの方でバシャリという海面を打ち付ける音がした。そして海面を切り裂きながら近づいてくるものがあった。僕は海へと岩場の際まで踏み出した。海面から亜麻色の髪の少女の顔があらわれた。あどけない愛くるしい微笑みを浮かべて海面に浮いている。僕は彼女に手を差し伸べる。キキはしっかりとその手をつかんだ。彼女の瞳は月光を浴びて愛しさに輝いている。僕はその手を力強く引き寄せて彼女に優しく口づけをした。最初は軽く唇に触れその後強く唇を吸った。僕の舌が彼女の舌に触れるとそれはお互いに探り合い、確かめ合いそして力強く縺れ合った。僕たちの口はお互いの愛液で満たされていった。それは僕たち自身がそこにいるといったことを希薄なものとして、それと引き換えるかのようにお互いの熱情の交歓だけが存在していることを意味していた。力強く僕を抱きしめていたキキの腕は次第に緩やかに力が失われ僕は彼女を力を込めて抱きしめることになった。キキは熱情を宿した表情で僕に抱きしめられている。僕は彼女の背中に右手を回して左手で下半身を抱きかかえて彼女を海から抱えだした。彼女は一瞬戸惑いを見せたがすぐに安心しきった表情で僕の背中にしがみついてきた。僕はキキを抱きかかえ唇を重ね合わせたまま車へと向かった。キキをレヴォーグへ乗せると彼女にグレイのパーカーを着せて下半身にはバスタオルを置いた。そして車を発進させた。
僕は昼間に確認しておいた自動精算できるラブホテルへと入った。丸くてピンク色の大
きな浴槽に冷水を張ってそこにキキを横たえた。キキはくつろいだ様子ではしゃいでいる。とても愛くるしい表情を見せていることが僕の気持ちの奥底に澱となって積み重なっていった。僕は服を脱いで裸になり以前医者から処方された睡眠薬を圧し潰してグラスに入れその上から白ワインを注ぎ丁寧に混ぜた。そして日中に購入した真珠のネックレスを右手に握ってワイングラスと共にバスタブへと向かった。バスタブに入るとキキを抱き寄せてネックレスをその首に掛けた。天井からの妖しい光に煌めいている真珠の粒にキキは魅せられたようである。僕は白ワインを口に含んで口移しでキキに注いだ。初めは驚いていた様子のキキであったが徐々にワインを受け入れて飲み干した。芳醇なワインの味は初めての経験であったのであろう、複雑な表情を浮かべていたキキであったが次第にアルコールのほのかな酔いに満たされたのか目元が柔らかに弛緩していき更に僕の唇を求めだした。耐性を持たないキキの体は次第にアルコールと睡眠薬に侵されていき、僕の背中に回していた腕の力も徐々に弱まっていった。そしてキキは安らかな眠りへと落ちていった。
あどけないキキの寝顔から規則的に流れてくる寝息を確認すると僕は浴槽から離れてベッドルームへと戻りバッグパックから購入してきたナイフを取り出した。先端が鋭利に尖ったステンレス製のサバイバルナイフだ。これで胸を一突きして頸動脈を切り裂けばキキはさほど苦しむことなく死ぬだろう。僕は明奈の命を繋ぐために恵子に笑顔を取り戻すために鬼にならなければならない。キキは人間ではないのだ。僕の中で黒い沼から腐敗したガスが湧き上がってくるように澱んだ感情が次々に生まれては拡散して僕の全身に行き渡りそれは僕自身を支配していった。僕は右手にサバイバルナイフを握りしめて浴槽へと向かった。僕の下半身はキキを切り裂こうとするその闇に支配された感情に敏感に反応したかのように力強くいきり立っていた。
僕は丸い浴槽の中でキキを見下ろした。キキは安らぎに満たされているかのように薄らと微笑みを浮かべて静かに寝息を立てている。僕はこれから僕がキキに対して行おうとしていることを思い浮かべた。息苦しさを覚えている。僕の体中で心臓が大きな音を立てている。胃のあたりで饐えて腐敗した澱のようなものが溜まり、そこから発酵したガスが生まれた。僕はそれに酔いしれそして狂気の淵へと堕ちていく。僕は右手に握ったナイフを振りかざした。震えが激しくなり左手を添えて落ち着かせようとした。キキの寝顔にくじけそうになる心を振り切るように僕は両手をキキに向かって振り下ろそうとした。
僕の体は硬直したまま動くことを拒絶していた。僕は僕の心に従おうとしない僕の体の反乱に鬼と化して抗っていたのだが、次第に抗う気持ちは薄れていき狂気の淵へと誘っていた饐えて腐敗した心のくらみも徐々に霧散していった。そして僕の下半身は弛緩していき冷たい浴槽に頽(くずお)れていった。
東の空がうっすらとした深紫に染まり朝の訪れを告げている。ウェットスーツに身を包んだ僕は波戸岬で静かに寝息を立てているキキを抱きかかえて立ち上がった。その首には真珠のネックレスが薄明りの中きらめきを放っていた。そのまま海へと入り沖へと向かった。抱きかかえていたキキの体を放すと彼女の体はしばらく浮かんでいたのだが次第に深き底へと沈んでいった。僕はキキの体が闇に覆われていくのを確認すると海岸へと戻った。そしてそのまま海岸で仰向けに疲れ果てて横たわった。
空は深紅の色から薄い赤に変わりそして白い輝きへと変わって行く。僕の体は白く輝く光に包まれ、次第に温かさを取り戻していった。
<完>
あとがき
これは人魚の肉を食べて八百年生きたという八百比丘尼の物語をベースとした寓話である。コロナ禍で行き詰まりを見せ始めている現代社会に現状を認識してそして何がベターな選択なのかを考えることが重要だというメッセージを込めてエールを送りたいという作者の思いがこの物語の主題である。主人公の家族の今後については読者の想像に任せるが作者としてはポジティブなエンディングとしたつもりである。そのような作者の思いを読み取っていただければ幸いである。
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