「私の耳を切ってほしい」
少女はそう言った。私は藤井寺にむかっていた。
吉野川にかかった潜水橋のなかほど、いきり立つ太陽の許にありながら、私は背後からの呼びかけに寒気を覚えた。吉野川の水面は、むこう岸の雑木林の茂りを鈍く描写する以外は、その瑠璃色にも似た青がどこまでも遠かった。
遍路装束のしたに着たシャツは肩から胸にかけてしとどに濡れ、身をよじると大げさに私の肌をひんやりと嘗めた。振り返ったさきの少女は裾の広い白のワンピースを着、髪は一見しておかっぱである。して、その身なりの薄汚いのが私の不安を誘った。橋は、川原に横たえられた車一台ぶんほどの幅の道路が、姿かたちそのまま仰向けに、川面に浮かんでいて、それが善入寺島まで伸びている。烈しいかんかん照りの陽がそのアスファルトの地肌をはなはだ精悍に鍛え上げ、その剥き出しの熱気はスポーツシューズ越しの私の足だに、いやというほどに感じられたが、少女は裸足であった。そのいたいけな両の素足はすこぶる平然とアスファルトに乗っている。
嬢ちゃんどこからきたの、と呼びかけても少女は無反応であった。実のところ私は渡りしな、彼女が右手の川原の草叢のなかに、こちらに背をむけて無気味に直立しているのをかいま見ていた。その背中の言い知れぬもの怖ろしさに、見なかったことにして歩を進めたのが、うしろをつけられていた。
私はもはや、少女に近づくほかはなかった。無視したところで灼熱をものともせぬその足でどこまでも追いかけられると悟ったからだ。彼女のまえまで近づいて分かったが少女のワンピースは白でなく、うっすらとピンク色がかっていた。すれて色褪せたのだろうと容易に察せられる。なんと汚らしい恰好だろう。服の至るところには茶色い土汚れが付着し、砂にまみれているので肌はすっかり土気色になっていた。ぼさぼさとして辛気臭いおかっぱ髪は、もはや蓑のようにして、少女の丸顔をくるんでいる。私が念のため聞き返すと、やはり「耳を切って」と言う。
「なんでなの」
「切りたいから。でも自分じゃ切れない」
「僕そんなことしたら犯罪になっちゃう」
「大丈夫」と少女。その視線には妙な気魄がこもっていた。そこですでに私は半ば根負けしていた。――どうやって切るのさ、と言いかけたところで不意に、少女の右手の一物に視線がむいた。その本来の用途にはやや大きすぎ、いささか不便そうな糸切り鋏が握られていた。大きさに加え、幾としつきも経た果てに黒ずんでしまった青銅の、その色をしているのが、私の目に奇異に映った。いくら薄汚れた手とはいえ、少女のやや頼りなげな右手に持たせればけだし異物だ。私は一瞬、この盛んな夏の潜水橋の光景に自分で少女の像を描くばかりか、いたずらにもそこに、なんとも悪趣味なガラクタを描き加えてしまったのかと錯覚した。
だが少女は相変わらずなにか訴えるような、もの欲しそうな目でこちらを見つめ、私の視線が鋏にむいているときも、持っている一物を小刻みに振って、私に訴求しつづけた。
私はずり落ちてきた笠をなおし、少女を流し目に鋏を受け取った。一升瓶ほどのずしりとした重さに、これはやはり糸を切る用途じゃないな、と勘ぐった。――と、にわかにその量感のなかに閃くものがあった。
「これ、どこで拾ったの」少女は答えない。
私はこの鋏が、たったの一時間ほどまえに私の訪れていた十番札所にあるハタキリ観音のそれだと悟った。……はて、したらなぜこんなものを? がめてきたか? ……すると私に先立ってこの橋に辿り着いているのは変だ、なぜなら私は「完全な」観音像をこの目で見ているからだ。……本当に見たか? 観音様はちゃんと鋏をお持ちだったか? そもそも、観音像は本当にあっただろうか。……
私はもうこのことを思い出せなくなっていた。私の内奥ではその代わりになにかしらの希求が萌しはじめていた。その希求は、分裂したはよいもののどの器官になるか決まっていない細胞と同じで、どのような希求なのか見当のつかない、未分化な状態にあった。が、それはすでにかすかながら背徳のにおいを帯びており、私はそれを鋭敏に感じ取っていた。
ところであたりに人通りは全くなく、それだけ夏が、切に私を囃し立てる。その奥ゆきに限っては過剰なほど明瞭に描き尽くされた世界が、かまびすしく、ほしいままに私の孤独をまざまざと見せつけている。ふと私の脳裡にある懸念が浮上した。この場面を他人に見られはすまいか、との懸念である。懸念はたちまち焦慮に変化し、私はそれに駆り立てられると、まずいそいそと、見られては一番まずいこの、埃かぶった刃物を白衣の懐にしまい込んで、素早くあたりを左見右見し、人っ子一人いないことに安堵すると「ちょっと移動しないかい」と少女に持ちかけた。
少女は小さく頷くと、ものも言わず私のうしろをついてきた。アスファルトを踏むたびその地肌の、ごく微細な砂塵が音を立てて軋む。気の動転するような自然の祭囃子のなかで、かすかに、囁くような気配が私の背すじをなで、脊髄を通して全身に極度の緊張を伝わせた。
浩々として穏やかな吉野川の上を、巡礼者のはかない影が、密葬の列のような、あるいは監獄へとむかう罪人たちの列のようなもの憂さで、ゆっくりと、島のほうへ伝うてゆく。……
善入寺島にはその岸に雑木林のあるほかは、まるで畑しかなかった。私はすっかり面食らってしまって、もはやこれしかないと遍路装束の白の汚れるのも構わず、林のなかに分け入った。二、三歩進んだところで少女の履物のないことを思い出して振り返れば、少女は枯れ枝と草いきれと羽虫とで溢れ返った地に裸足で立ちながら、それでも飄々とした様子である。そのかなた、錯雑とした樹木の群れに遮られて途切れ途切れながら、軽トラックの白い影――ゴルフボールほどの、輪郭もおぼつかぬ影が、ゆっくりとすべり抜けていった。私はなんだか変におもしろくなってきて、この実に奇妙な愉快さにくすぐられながら引き続き歩を進めた。
天に鬱積した葉むらの層をおびただしくつき破って陽が、この林のなかにしたたかな蝉噪を降らせている。一歩一歩のごと、足裏は地の野草、枯れ枝、落葉の類を豪ほどの屈託もなくくしゃくしゃとよく咀嚼しよく呑み込んだ。音圧があまりにもひどいのでときおりうしろを振り返る必要があったが、少女は相変わらずその蠅のような凝視を私にむけている。私が立ち止まるとそれに倣う。「ここらへんで好いだろう」私は誰に言うでもなくそう独り言ちて、少女のほうにむき直った。
耳を切りたい――私のその、どこまでもぼんやりとしていて名付けがたく思われていた希求は、いつしか小ぢんまりとした、シリコン細工のような少女の耳のかたちをとり、質感を持つようになっていた。モチモチとしていながら、ぐみのような不思議な弾力を兼ねた耳を、この懐の汚らわしい鋏でぷっつりと……私はまだ少女に触れぬうちから、そのような弾力の妄想にふけった。愉快な気分はそのとき最高潮に達して、口許は感電したように引きつり、横隔膜は不自然に痙攣し、ついにすれた笑いがかた、かた、かた、と洩れ出た。勢いよく膨張した希求はもはや私の意識をほとんど征服しきってしまっていた。……
そのとき私のみだらな妄想のすきまをさきのトラックのようによぎるものがあった。十歳ごろの少女善入寺島の林のなかで倒れているのを近所の農家の男性が発見、という新聞の三面記事である。「女の子は両の耳をなに者かによって切られ重傷であったものの命に別状はなし、県警は女の子の身許の確認を進めるとともに犯人の特定を……」「×日、県警は近所に住む小学四年生の○○ちゃんの両耳を切り、そのまま逃走した疑いで××県在住の無職………容疑者を逮捕した。容疑者は犯行前日より、いわゆる『お遍路』の旅のために徳島県を訪れており(その理由を訊かれると、容疑者は静かにうなだれたまま答えなかったという)、犯行当日、川原で遊んでいた○○ちゃんを善入寺島の林のなかに誘い出し、なんらかの目的でその耳を切ったとみられる」
私は急に、自らのなかの(わずかに生きながらえていた)敬虔な、慎み深い精神が私を連れ戻さんとしているのを感じた。それは丁度私のしているような、白装束に、「同行二人」と墨で書かれた笠を被っていた。その良心はすっかり混濁していた私の意識に一条の光を透したのだった。ふと白衣に目をやると(少女と同じくらい薄汚れていたのは言わずもがな)、首から提げた朱の輪袈裟のところどころにカビのむしたような青みがついていて、もしや、と懐を覗くと、白かったはずの布地の、あの大きな糸切り鋏のあたり一面にカビの青がびっしりと繁殖していた!
橋のうえでのあの強い緊張がにわかにぶり返してきた。高鳴る心臓につらなって荒く動揺する胸に揉まれながら鋏は、その異様な存在感を猶も放ち続けていた。私は怖じ怖じと、爆発物でも扱うがごとくそれを、震える手で懐から取り出した。……
実際のところ、事件は起きた。
罪の責め苦に苛まれたかのように見えたかの巡礼者だったが、同時に、彼は脳裡のその三面記事にある加筆を行っていた。「猶、切った耳については『その場で食べた、軟骨の触感がなんとも味わい深かった』などと供述している」。……
彼の内奥に突如として現れた白装束の人は、ついぞ混濁した彼の意識を清めるに至らなかったのだろうか。いやむしろ、彼のなかの「敬虔な、慎み深い」精神が彼に促し、また彼がそれを認識したので、かくのごとき「加筆」が行われたのではないか。不肖、彼の心理の襞をつぶさに解き明かすことはできないので、これはひとつの憶測である。
また、実際の事件の様相は、巡礼者の想像から大きくかけ離れた、全く異種のものであった。
――女の子の発見から一週間、捜査は難航をきわめている。女の子の身許、および女の子の両耳を切断し、そのあと逃走したとみられている犯人について、捜査当局は「いまだどちらも特定には至っていない」とコメントした――
――「なんと実は、女の子の発見とほぼ同時期に、切幡寺にある『ハタキリ観音』が忽然と姿を消してしまっているんですよ!」「ええ! それって……」「このことがあって、近隣住民の方々のあいだでは、観音様が女の子として現実によみがえった、なあんて噂がまことしやかに囁かれているのだとか……」――
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