12.漂流ノ楽園
バッグの中の「狐穴電耳」から左耳に繋いだ、情報を空間ディストーションに変換する導耳式圧電アクチュエータ。
ローファイな音がノスタルジックな午後をドリフトさせる。
マウンテンバイクを押し、解体中の自動車工場を右折。昨日は残っていた波スレートの屋根が剥がされ、剥き出しのトラスに陽光が切り取られている。
突如視界が焼き切れた。収縮する眼球の痛みに顔を歪め、地面を横切る石英のように真っ白な再輝反射性ストライプを、帽子を下げて遮断する。
ハルは道の端に濛々と湧く緑の茂みに分け入ったり、外来種の双子葉類に集まる、翅に黒い脈のある虫を追って跳んだりしている。
「狐穴電耳」の音は家にいた時よりも僅かにブーストしているが、絶え間ないロードノイズにマスクされる。
一定のデューティー比で開閉するゲートに制御され、俺たちの2メートル左を秒速1万7千ミリメートルの運動量で轟音と共に空間偏異する数十トン単位の質量。
そのたびに重低音の弾性波がドップラー効果を伴って足裏を突き上げる。細い裏路地へ逃げる。
刹那、音が消えた。背中のメッセンジャーバッグから突き出した「言葉の真位にのみ反応する磁界閉環器」を90度回転させると、静寂に針で穴を開けたように旋律が蘇った。
「ハル、走るか。」
ドライブトレイン側のペダルを鋭く蹴る。数ミリのバックラッシュが膝に抜け、直後に僅かな弾力と共にチェーンが張り、足の裏がタイヤ越しにアスファルトを噛む。
5、6回体重を叩き込んでからペダルを止めてコースティングすると、グリスの切れたVolnexハブのラチェットが「ヂーッ」と鳴くノイズで左耳のビートが消えた。
ハルのストライドがリズミカルな爪音と共にリードを張り、その度に体重が後ろに取り残される。10分ほど引いてもハルはBPMを全く落とさない。
涸瀬川沿いの道を両断する分岐点を突っ切り、巨大なアーチ橋に進入する。砕石が目立つ黒々とした橋面舗装に切り替わると、ブロックタイヤがアスファルトに唸る音が僅かに低域側にシフトした。
「……NRCラジ……ガリッ……AM867キロ……ザザッ……日曜午後のひととき……皆様……ザッ……お便り……ブツッ……」
ハルの強烈な蹴り出しの度に左耳の音が千切れ、アーチの吊り材を横切ると女の声は巨大な鋼鉄の影に吸い込まれる。
橋を抜け、右手にある円形闘技場の観覧席に似たコンクリートの段差を駆け降り、奔流に貼り付いて伸びる脊索のような細い道へ。道脇は有象無象の被子植物群が隙間なく埋め尽くしている。
橋を渡るまで鳴り続けた街の稼働音が川に飲まれて消えた。スマホを出す。
地図アプリのアイコンへ伸びた指がひと吹きの風で止まった。スマホを戻し走り出す。
——
2、3分前からまた左耳の音が消えていることに気づいた。背丈ほどあるピンクの花の植栽に挟まれた川沿いの細道を抜け、なだらかな上り坂に差し掛かる。
目の前には分かれ道。勾配のきつい左の坂を登ると住宅街、その奥に小さな山。太陽はまだ高く、雲はない。
「ハル、登るか。」
"春12|アイの楽園—俺と彼女が犬に食べられるまでの365日"へのコメント 0件