僕はお母さん道を歩く。
肌着が擦れて皮膚がむずむずむずむずする。
僕は掻くボリボリボリボリ「掻いちゃ駄目。もうすぐ先生の所に着くからね」とお母さんが言う手を繋いでいない方で掻きむしっていた腰を僕は平手で叩くそうすればいくらかはましになるからだ掻いて血のにじんだ腰は火照って熱をもっている僕は我慢してそれを耐えると言う間に全身がむずむずして痒くなって僕は身を捩る。
くねくねしながら僕はお母さんとプレハブ小屋の前に立つ。
お母さんが薄っぺらいドアをノックした。
ドアが開いて中から髭面のおじさんが顔を出す痒いおじさんは僕たちを中に招き入れる僕はすっぽんぽんにされておじさんに変な匂いのする泥を全身に塗られる泥は冷たくて火照った体に気持ちいいが熱で乾いてくるととたんにまた痒くなる痒い痒い痒いあまりの痒さに僕は泣き出すお母さんが「頑張って絶対良くなるから」と涙ぐんで僕に言う僕はもうそれ所ではない我慢できなくなって痒い所に手を伸ばすおじさんが僕の手をぴしゃりと叩く「この泥は、絶対に石頻炎に効きますからまたお越しください」
おじさんがお母さんに言う。
石頻炎はかゆみを伴う湿疹が慢性的に良くなったり悪くなったりを繰り返す皮膚病だ。
主な原因は皮膚のバリア機能の低下やアレルギー素因が複合的に関与している。
僕は知っている。これで五度目の通所だがまったく効果が無いことを知っている。
お母さんは財布から三万円を出しておじさんに渡す僕は泥まみれのまま服を着せられて帰路につく。
帰り道は良い陽気でポカポカしている僕の肌に汗が浮いて掻き傷に沁みたまた別の場所が痒くてボリボリボリボリ家に帰ってもまた痒くて僕は無意識に自分の皮膚に手を伸ばす掻くと気持ちいい口がポカンと開くくらいだ空を見つめて掻くその時僕は何もかも忘れているああああ気持ちいいいお母さんが飛んで来て止めさせる僕は僕の肌から手を離して指先を見る血がべっとりこびりついていて爪の中に落剝した皮膚の滓が詰まっていたお母さんは泣きながら「どうしてどうして」と傷ついた箇所に霧吹きで水を吹きかける「どうしてどうして」お母さん僕もどうしてか知りたいですなにゆえわたしは胎から出て死ななかったのか腹から出たとき息が絶えなかったのか全身が燃える様に熱い僕は燃えているしかしそれは常に燠のように燻るばかりで僕を焼き尽くさない僕は燃え尽きて死ねずただ座っている。
遠くで犬がワンワン吠える鳴き声が窓の外から聞こえてくる。
もう夕方だった。
「お風呂よ」とお母さんが僕を呼ぶ立ち上がると浸出液で皮膚とくっついていたズボンがベロリと尻の下にぶら下がる感覚があった僕はその時四歳だった普通なら衣服の着脱も自分で出来る歳だが皮膚と服が貼りつきあっており一人で服を脱げないのでお母さんが脱がせてくれるお母さんはまず僕の衣服に手を掛けてくっついた部分を剥がしにかかるバリッ!バリッ!という音がして僕から布地が剥がれる剥がし終えてやっと僕は服を脱げる血と落屑した皮の混じったものが付いた衣服が脱衣所の床に落ちた僕は風呂場に足を差し入れる足裏に冷たさが伝わって次に水が沁みて何とも言えない痛みが走るテレビで火をつけて燃やした薪炭の上を裸足で歩いている人たちを観たのを僕は思い出す僕は解るあの人たちの苦痛が理解できるあるいは修行などすれば痛みを遠ざけることができるのだろうか。
僕は修行しているつもりでタイルの上へ立つお母さんが入って来て両手で僕を抱きあげ緑色の湯舟の上へ吊るす腕が下がり僕の身体が湯の中に沈む痛い!「いいいいい」僕は人とも思えない声を上げてひっかき傷が湯に沁みる痛みに耐える体がジュワジュワと音を立てて酸に漬けられているような気持ちになり飛び上がって湯から出ようとする「お母さん!」僕は半狂乱になって叫ぶ「お母さん!」彼女は慌たようにまた手を伸ばして僕の身体を引き上げた僕は痛みに悶えて座り込むお母さんの手が僕の肩にタオルをかけて押し拭きをする肌から滲んだ浸出液混じりの血がタオルに着いたお母さんは蓋にミツバチの描かれた軟膏を取り出して僕の肌に塗りつける全身に満遍なくベタベタベタベタベタ軟膏を塗られて僕はやっと少し生きた心地がした。
ぬるま湯だったので体はすでに冷え切っている。
明日は良くなりますようにきっと良くなりますように願いながらドライヤーで頭を乾かされ食卓に着かされるもう体が痒くなって僕は眉を顰める左肩を掻きながら僕は箸をとる今晩の夕飯は野菜と厚揚げの味噌漬けとがんもどきの入った肉じゃがと玄米ご飯だった。
僕はそういう毎日を繰り返して高校生になった。
もうその頃には肉体の皮膚という皮膚が剥がれて傷ついていた。しかし僕は生きていた。
朝目覚めると枕と自分の顔が癒着しているのにまず気が付く手を枕に添えてゆっくりと引き剥がすベリベリベリベリと音を立てて顔と枕が分離するクリーム色の細かな落屑がぼろぼろと枕に落ちていくのが見えた。
僕は起き上がり階下に降りて食卓へ座るお母さんが豆乳に浸したグラノーラとヨーグルトと皿に盛ったいちじくと桃のを出してくれる僕は卓の前の椅子に座り朝食を恐ろしいと思わないように何も考えないようにつとめて手を合わせスプーンを握った。
考えてはならなかった深く思考してしまえばもう食物を口にできないことが解っていたからだグラノーラをすくって口に運ぶ乾燥して切れた口の端から真っ赤な傷が覗きそこから血が沁み出てくるが僕はそれごとグラノーラを飲み込む。
急いでかきこみ豆乳のみになった皿にスプーンを置いた黄色味がかった豆乳の表面に赤い血のしずくが混ざる僕は続いてヨーグルトといちじくと桃を腹に押し込んで片付ける。
料理の横につけられた白湯をストローで飲み切る「ごちそうさま」挨拶をして僕は再び階段を登り再び自分の部屋に帰り高校へ行くための着替えをはじめた。
僕はもう自分で寝間着を脱げるので自らの手を使い皮膚から布地を剥がしていくベリべリベリベリ落屑と血の混じったものの大量に付着した寝間着を床に投げ捨てて僕は制服に手を伸ばすワイシャツの襟もとは浸出液で黄ばんでいた手で襟を申し訳程度に払いそれを羽織りボタンを留める摘まんだ指先の皮膚の割れ目にプラスチックのボタンが入り込んでかすかに痛んだ。
ブレザーをワイシャツの上から着てスラックスを履き靴下を足にはめてずり上げる机に乗ったカバンを持ち僕は高校に出発した。
登校中足が蒸れて痒くて堪らなくなる痒い痒い痒い僕は歩く友達が「おっす」と言って僕に合流した「おっす」僕も挨拶を返して校門の向こうへ滑り込む教室について自分の席に座る。
先生が教室に入りホームルームが終わって授業が始まるが僕は体中が痒くて集中が出来ない今すぐ制服に手を入れて体中を掻きたい掻きむしりたい思考を落ち着けるために深呼吸する鼻から息を吸って口から吐くすうううと吐息が僕の口から吐き出され唇にぶら下がった皮が小刻みに揺れたその揺れに苛立った僕は唇を噛んで歯で皮をむしり取る。
血の味が口の中に広がって気持ちが悪くなりそうだった黒板が歪んで僕は先生の書くチョークの色を食い入るように見つめる白いチョークの色が黒板に映えて綺麗だなと思ったがその意味は解らなかった。休み時間になってもまだ痒くて顰めっ面をする僕を友達がじっと見つめていた。
ややあって友達は椅子を引きずりながらこちらの方へと近づいてきた。友達の鼻息が僕の頬にかかる。僕はちょっと驚いて身を引く。
友達は躊躇いなく口を開いて「お前さ」と言った。彼の口からは歯磨き粉の良い香りがする。耳の側で彼は囁く。「お前、俺んちの病院に来いよ」は?
「それさ、治せるぞ」
治せる
「治せる。俺の親父が皮膚科医だから。注射と内服と塗り薬やれよ」
治せる
僕は信じられないものを見る目で友達を見つめた。いや無理だろお母さんが医者の出す薬はだめだって言ってたし僕もそうだと思う治る?治るのか?僕は逡巡する思い巡らせて考え込む友達は黙って僕の返事を待っているこめかみに汗が浮いて痒くなったガリガリと頭をかきながら僕はしどろもどろに返事をした「でも」「いいよ」 友達が囁く「でも最終的に決めるのはお前だから。お前の体だ」
お前の体。
午前中の授業が終わり給食を食べ午後の授業をこなして僕は帰路についた。
「おかえり」お母さんが僕を出迎える学校から帰った僕は洗面所の横の脱衣所で制服を脱ぎ血の付いたワイシャツに弱アルカリ性の蛍光増白剤が混ぜてある石鹸をあてて擦り洗濯機へ放り込む。
風呂場へ入りシャワーを浴びて全身を濡らすさっと沐浴を終えて僕はまた脱衣所に戻りドライヤーで全身を焼きにかかるドライヤーで肌を焼くと痒みが一時的に治まるからだドライヤーのスイッチを入れて僕は自分の肌を炙るあーあーあー気持ちいい気持ちいいそうこうしている内に体が乾いてパリパリになって僕はやっと少し満足してお母さんの用意したクリームを棚からとり全身に塗りこむ。
それから寝間着を着て脱衣所から出るカバンをもって二階にあがり今日出題された課題を机の前に広げる椅子に座ってシャーペンを持ちどうにかこうにか課題に書き込みをし終えた時お母さんに呼ばれる「夕飯よ」僕は立ち上がり階下に向かい用意された夕飯を食べる今晩は豆腐ステーキと野菜スープと全粒のパンだった食事を終えた僕は歯を磨き自分の部屋で寝床についた。
冷たい布団の中に潜り込むとヒヤリとしたシーツの感覚が体を包んでくれるやがて布団は僕の体温でなまぬるくなり僕の体はまた痒みを発しはじめて僕は布団の中で蠢きはじめる頭は疲労し眠気がひたひたと押し寄せて来ているにもかかわらず痒さは僕を眠らせず首といわず腹といわず爪を立てさせる僕は寝ぼけまなこではんば無意識に体を満遍なく掻きはじめる痒い眠い眠い眠い痒い!あああああ僕は寝台から飛び起きて布団を跳ねのけた床に飛び降りて猛然と部屋のドアを開け放ちもの凄い速さで階段を駆け下りて廊下の壁に体を叩きつけるそれでもまだ痒みは収まらずもう一度全身で壁に体をぶつけてもんどりうつお母さんが暗い廊下の向こうから駆けつけて来て鼻血を吹きながら自分から壁に体当たりしていく僕を呆然と見つめた。
僕は頭をガンガンと壁に何度もぶつけるだんだんと僕は生卵のように割れはじめていた何度目か頭をぶつけた時僕の体は真っ二つに裂けたメリメリメリメリ裂けた僕の内側から赤くてやせっぽっちな中身が現れて僕を脱ぎ捨てじろりとねめつけざまにお母さんに向かって飛び掛かったお母さんは悲鳴もあげずに押し倒される僕はお母さんに馬乗りになりその腹に爪を立てて引き裂き内臓を食べたバリバリグシャグシャバキバキゴクン
朝になった。
腹の無いお母さんはいつもの通り朝食を用意して僕の前に差し出す。
布ごしに彼女の腹の空洞から射す朝日が、目に沁みて眩しかった。
今朝のメニューはエリンギとピーマンの炒め物と冬瓜とあさりの味噌汁、玄米ご飯だった。
僕は自身の殻を被り高校へ行く。歩く度に僕の割れ目がぐらついて変な歩き方になる。
変な歩き方になったまま僕は校門をくぐるえっちらおっちらしゃにむに教室に入り席に着く。
「おっす」友達が僕の席の隣に座って挨拶をくれた。「おっす」僕は顎を互い違いにガクガクさせながら返事を返す。
「あのさ」
友達に向き直って僕は言う。
友達が、僕に身を寄せた。
「昨日のことだけど」
お母さんを食べてしまった僕の体。
僕の体に僕は触れる。
この体にお母さんが施し続けた徒労が手のひらに滲む。
そこにあるのは紛れも無く僕の肉体だった。
そして僕の肉体は僕の魂と繋がり、動いている。
僕は椅子から立ち上がって友達を見つめた。
「行く」
友達は破顔すると立ち上がり、カバンを持ってどうぞという素振りで教室の出口に向かい 僕を促した。 僕もカバンを持ち教室の出口に向かって行った。
僕はまず友達を伴って自宅に帰った。僕はまだ高校1年生なので乳児医療受給者証が使える。僕は友達を外で待たせると玄関に立った。ひんやりとした薄暗い廊下を通り、リビングに入る。
お母さんが丸椅子に座ってテレビを見ていた。空洞から、テレビの音が聞こえて反響した。
『このパップという便には毒素を分解し消化解毒するために必要な特殊な腸内細菌が豊富に含まれています。赤ちゃんはこれを食べることで、生涯にわたってユーカリを消化できる体になります』
音を立てないように忍び歩いて、棚を漁る。保険証お薬手帳その他もろもろがまとまった綴りがあった。僕はそれを手に取ると踵を返して玄関から外へ出た。友達が待ち構えており僕たちは連れだって病院に向かった。
病院の自動ドアがスライドする。僕と友達は滑り込むようにドアの向こうへ入って行った。早足で受付へ向かい事務の女の人の前に立つ。「こんにちは、初診ですか」面食らって立ち尽くした僕を見て「初診です」と友達が横からぼそりと呟いた。「それではマイナンバーカードと乳児医療の受給者証をお預かりします」 僕は綴りのジッパーを引いてあけると、中からカードと受給者証を取り出して受付を済ませる。女の人が僕にバインダーに挟まれた初診用の問診票を差し出した。僕はそれを受け取ると待合室の椅子に座った。友達も隣にどっかりと座る。生年月日と住所を書いて問診票を提出する。「お掛けになってお待ちください」 座して待っていると名前を呼ばれ診察室に入る。友達はついてこなかった。ドアをスライドさせると中に先生が座っていて僕に「どうぞ」と言った。椅子に座った僕を見つめて先生が言う。「お話は聞いています」「そうですか」「いきなり注射はできませんので、今日は縫合して、それからJAK阻害薬の内服と副腎皮質ホルモンを化学的に合成した塗り薬を出しておきますね」先生と僕の目が合う。彼の手が動いて、僕の額に針を刺す。針の先には黄色い糸がついていて僕は縫われる。
「境界線を閉じますよ」
音はなかった。
処方箋を出され薬局で薬をもらうと僕は友達と別れ家へ帰った。
「お前のその顔すげーいいよ、ブラックジャックじゃん」
別れ際に友達が言った。
僕はお母さんに内緒でJAK阻害薬を飲み、風呂上りに副腎皮質ホルモン合成薬を塗った。すると少しずつではあるが傷が治りはじめた。じくじくと滲み出ていた浸出液が引っ込み、僕は物を汚すことがなくなった。炎症が落ち着き、躊躇していた触れることが少しずつ出来るようになって来た。
友達が僕に手を差し出す。
「触ってみろ」
僕は差し出された手を凝視して、ゆっくりと指先で触れた。あたたかい、柔らかな友達の感覚が指先に伝わる。
僕の上には、新しい皮膚が貼りはじめていた。
それでもまだ痒さは残っており、依然として僕は掻く。だがその頻度は減り、そのことばかりを考えていたのにふと気が付くと忘れていることが多くなった。
学校の黒板に書かれた文字が今度は何となく読み取れる。
下駄箱の中から靴を出して履く。皮膚が癒え、指を突っ込んで踵を入れるのが苦痛でなくなる。
外の日射しが柔らかい。空気がまろやかで、傷に当たって痛い。今は秋であるとわかった。
体はまだらな赤い斑のある牛のようになった。斑は縮小したり拡大したりを繰り返して、まるで生き物のようだ。
僕は一人で病院を訪れた。
「次は注射をしますね」
先生が同意書を差し出して僕にウインクする。僕はそれを受け取って帰宅し、自分の机に置いた。
同意書の問題はあった。お母さんかお父さんの同意の署名が必要だったのだ。
お父さんに署名させるという案は成功する望みが薄い。彼はお母さんに同意書を見せるだろう。そしてお母さんは注射を止めさせるだろう。
胸が痒くなり僕は無意識にそこを片手で掻いた。ボリボリボリボリ。机の上にあるボールペンをとって、僕はそれをクルクルと回す。
僕はお母さんを食べた。母のお腹の中身は僕の中にあるのだ。だから、僕が同意書の保護者欄に名前を書くのになんの不都合があるだろうか。
掻くのを止めて、同意書の端に手を添えて、ボールペンの先を押し当てる。
保護者同意欄にお母さんの名前が滑るように書き記される。
字は丸く、可愛らしかった。
僕は同意書を持って病院へ行く。
受付に同意書を出す。受付で三十分くらい待つと、診察室のドアが開いた。先生が診察室で待ち構えていて、僕に薬の説明を始める。
「これは、炎症やかゆみの原因となるサイトカインIL-4とIL-13の働きを阻害し、皮膚のバリア機能も改善します。二週間に1回の皮下注射をします。自己注射も可能で、炎症を根本から抑え、長期的な症状安定を目指す新しい治療法です。副作用は結膜炎、頭痛、関節痛、ヘルペス感染、ふらつき感、息苦しさ、発熱」
こっくりと相槌をうって、僕は耳を傾けた。
「一応、同意をとるのが規則です。注射をしますか?」
「はい」
僕即答した。
先生が僕の腕をとって捲る。
注射が運ばれてきて、先生がそれを持つ。
腕に針が差し込まれ、僕の中に硬質な、冷たい薬剤が注ぎ込まれる。
体の中で燻っていた燠が冷えていくのを、僕は感じた。
注射は数秒で終わり、針が引き抜かれる。
急に体の水分が意識され、肉体が重くなったような感覚がする。僕は身震いした。
「さあ、これで経過を見て行きましょう。三十分は待合とで待って」
先生が僕の腕に絆創膏を貼りながら囁く。
「はい」
僕は診察室を出て、待合室のソファにずるずると座り込んだ。
ソファの冷たい感触が、てのひらに触れた。僕はてのひらでソファを撫ぜる。ソファの革と自分の皮がなめらかに摩擦する。
摩擦した箇所が熱を持ちわずかに撓む。
その感覚をいつまでも憶えていようと思った。
ソファを撫ぜていると会計に呼ばれた。歩いて受付の前に立つ。事務員が分厚い硝子の向こうで僕に目をくれた。
「11755円になります」
事務員の口から平坦な声が漏れる。僕は目を丸くした。提出していた医療証が彼女の細い指に挟まれて突き返される。
「この自治体の子供医療助成制度では15才から18才までは一割負担になります」
友達の笑顔を思い出して、背筋が氷を入れられたように寒くなった。僕の小遣いは月何円だったか。財布には今いくら入っていただろう。
カバンの中を弄り、財布を取り出す。
確かお父さんが持たせてくれた緊急用の一万円があったはずだった。折りたたまれたそれは財布の隅で縮こまっていた。指先でつまんで取り出して広げ、一万円札をカルトンの上へ乗せる。
残りの千円と七五五円を払うと、僕の財布はすっかり軽くなってしまった。
「二週間後にまた注射にお越しください。二回目以降は六千円です。後、この薬止めるとリバウンドして、症状が悪化しますので」
めまいがして、僕はよろめいた。
「すみません、18才以上になったら何割負担ですか」
「三割。一本16000円です」
微かにお母さんの持って来る泥の匂いが鼻腔の奥で蘇る。
あの泥は三万円だった。
視界が動転する。僕はこれから二週間に一回注射を受け続けるのだ。
いつまで?
わからなかった。友達のくったくのない笑顔だけが、ただ脳裏に浮かんで消えてくれなかった。
帰宅すると、薄暗い台所でお母さんが泥を台所でこねていた。
お父さんはいない。
あの人はいつもいないので、どうしようもない。
泥は、あのおじさんの所から届いたものだろう。
お母さんの空洞になった腹の穴から、泥をこねる手がちらちら見えた。
僕は黙って、お母さんの背中をじっと見つめる。
お母さんが、ふと、僕を振り返って声をかけた。
「お帰り」
僕は、お母さんに声をかける。
「お母さん、散歩に行こう」
僕はお母さんと河川敷の土手道を歩いていた。
「肌が痒くなくなって良かったねえ」
お母さんが感慨深げに僕に話しかける。
僕の皮膚にあった赤く斑になっていた箇所は、砂粒のような傷を残して殆ど消えていた。
依然生傷は絶えなかったが、僕はもう風にも雨にも怯えず外を歩くことができた。
深呼吸して、秋闌けた空気を肺いっぱいに深く吸い込む。
河川敷を続いていく銀杏の並木から、金色に輝く枯葉がとめどなく舞い落ちる。
ふいに痒みが体に走り、僕は立ち止まる。
お母さんが振り返る。
「どうしたの」
「……ううん」
僕は俯いて、じっと待った。
痒みはやがて痛みに変わり、空気に溶けるように消えた。
「大丈夫」
僕は顔を上げ、お母さんに語りかける。
「僕は大丈夫だよ、お母さん」
二人並んで、ゆっくりと真っすぐな道を行く。
バイトしなきゃなあと僕は思う。高校出たら、働いてもいい。
降り注ぐ日射しが眩しすぎて、目を開けていられず、僕は目を細める。縫合されたままの黄色い糸が、顔の真ん中できしりと音を立てた。
白い太陽の光の中で友達の顔がまた脳裏に浮かび、僕の中で燠がくすぶる。
だが、僕は今お母さんと歩いている。
風が僕の生傷をなぶり、お母さんの空洞になった腹を通り抜けていった。
"身を掻き灰の中に坐りぬ"へのコメント 0件