桜仙坊
その少年は「小豆洗い」と呼ばれていた。
少年と同じ小学校だった女子はこう言う。
「彼の話をしたいときは、アトピー少年と言えば大体通じる」
横に並んでいた女子はこう言う。
「彼はアトピーじゃないよ。湿疹だよ、湿疹」
またまた、廊下で通り過ぎた男子が割って話に入る。
「あれは呪いだよ、絶対。あんな痣見たことねぇ」
少年は中学の授業が始まって以来、一度しか登校しなかった。印象深い容姿と見かけた人の稀で、彼はいるようでいない、都市伝説のような人だった。「小豆洗い」という名前が独り歩きし、噂が広まるのに時間はかからなかった。
たとえば、彼の席は窓側の奥である。これは多くの人が知っている。彼はたしかに一度登校した。しかし、同じクラスの人でも、「小豆洗い」の人として知ってはいても、その姿形を覚えている人はいない。その不思議な事実は、机の存在が裏付けている。実体としている。そしてそれは、その不可解の象徴のようだった。
ある日のこと。蝉の声をのせた風が夏のはじまりをしらせる。登校時間が終わり、チャイムがなる頃。多くの場合、この時分には等間隔に机から生えた頭が並ぶ。左奥の一番後ろの席ともう一つをのぞき、生徒は揃う。一人遅刻寸前でやってきた。
「おい、はやくしろーー何時だと思ってんだ。時間見ろ」
︎︎その後を追うように、気だるそうな先生が教室に入り、朝の会が始まる。昨日の夕方、遊んだ帰りの小学生が猿を目撃したこと、その他の諸連絡事項が淡々と伝えられる。朝の会が終わりかけていた。
「センセー、質問いいですか?」
さっき遅刻してきた彼だ。彼は、欲張りで行動派の人間だ。行動しないという選択肢は、頭の中にない。
たとえば自己紹介カードを書くならば、好物の一位に「行動派」、次は、入店時に「お困りですか?」と声をかける店員だ。お店の人の「最後に質問はありますか?」に必ず質問をするらしい。まるで人をもてあそぶようだが、無料でくれてやると言っているものを断るような気持ちらしい。無駄するという。彼にとって「質問」とは、その性と残り4割はアソビなのだろう。
「いいぞー。ただ、朝礼があるから、そこだけはよろしくー」
大人がですのsuを摩擦音で伸ばすように、語尾に軽く圧をかけるように言った。
「センセ、今日もきてないみたいですけどきてないのって……病気なんですか?
皮膚の。
アトピーとかですか」
無遠慮だし、ストレートだ。しかし、無遠慮男子がそう言うのも無理はなかった。
「なんでそれを聞くんだ?」
先生は組んだ左腕につけた腕時計に、人差し指を置いてる。それをトントントンと二、三回叩く。
「だって、俺ら怖いんですよ。あれ伝染るんじゃないんですか?触れたら。」
無遠慮男子はスパっと問うた。その投げた疑問に、先生は腕時計に触れては離し、それを繰り返していたのを一瞬やめた。
組んでいた腕を解いた。教卓に肘を置き、周りを見渡した。
周りも当然気になることなのか、話していいのか。
そんな思慮の巡らしを感じる眼差しは、最後無遠慮男子を10秒ほど見つめた。
「―――いいか。」
息をもらす。
「いや、アトピーじゃない。そして湿疹でもない。あれは、湿疹というより傷と言った方がいいだろう。親御さんから話を聞いてるんだ。彼は親の仕事を手伝い、それで体に傷や痣がついてしまう。毎日毎日手伝う仕事、当然つく傷で元々あった痕は深くなる。理解してやってくれ。」
「―――センセ、仕事ってなんですか?」
先生は間を置いた。教壇を降り、ドアを開けて廊下を見渡す。時計を見る。廊下に他クラスの生徒がわらわらと集まる。
ちょうどチャイムが鳴りながら、同時に先生が話す。
「いいかー?今日の朝礼は体育館。終わったら速やかに廊下で一列。いいね?」
「センセ」
中学一年の今年、この地に引っ越したばかりだが、仕事が身についている学級委員長。
先生のうなずき。
「起立、気をつけ。礼」
その日は結局、少年が登校することはなかった。少年の机だけ静かにそこにあったのだった。クラスに置かれた空席は、さみしい外見と裏腹に、もう一つの席と共にいるようにも思えた。
※
この日は5限で終わりだった。先生が宿題を忘れないよう言い、すぐに終わった。
周りのみんなは、学校が終わった安堵に肩の力を抜き、カバンを背負って肩に緊張を与える。私もはやく帰ろう。抹茶モンブランが待っている。
カバンに教科書を入れていると、先生に呼び出された。
「今日休んだから届けに行ってやってほしい」
どうやら、休んだ彼の家にプリントを届けてほしく、学級委員長の私に頼んだということだった。いつもは副委員長に任せていたが、部活で練習試合が長引くため行けないという。
今日は―――。
スイーツを食べにいく予定だったのに―――。
しかし、仕方あるまい。学級委員長として当然のことである。それにここには引っ越したばかりで勝手がわからない。長野県内の引越しとは言え、新しい土地。彼の家に行くまでに、新しいスイーツ店と出会えるかもしれない。はやく行けば、スイーツ店に寄れるかもしれない。善は急げだ。
自転車を猛スピードで回転させた。途中、かわいらしいお地蔵さんに出会えた。お昼に余った饅頭をお供えして、「おもしろいことがありますように」と手をあわせる。意外にも、ここから彼の家は近かった。自転車を押しながらみる田園風景は美しく、都会の喧騒を忘れさせる。前にひぐらしのさわぐ一本の木が見えてきた。自転車を停めるのにちょうどいい。
どうやら、この先に見えるのが彼の家らしい。そこは田んぼ道の突き当たりにあり、後ろは高く生い茂ったシダの影に覆われた林が広がる。
距離はある。しかし、その暗く、ジメジメと虫の気配を感じるところに近づくのは嫌だ
―――けど、進まざるを得ない。彼の家に近づくには。
―――お目当ての抹茶モンブラン―――白桃のパンナコッタ。
かわいらしく、「鬱蒼」の対置でも、すきでもあることを思い出しつつ、がんばって歩みを進める。
彼の家に近づくと、何かが聞こえる。
(喧嘩……?)
野太く、60代ぐらいだろうかの大人と変声期真っ只中の少年。その二人が声を荒らげている様子だ。
今から行かんとする家から聞こえる音。その中の嫌なランキングで表せるぐらいの状況にいる。
このまま、ピンポン押すのも気が引ける。巻き込まれたらどうしよう。しかし、こうしている間にも抹茶モンブランは遠のく。
私が迷っていると、いつの間にかその荒々しい声は聞こえなくなっていた。
よし、チャンス。
インターホンを鳴らした。もう一度。
不幸か、また喧嘩している声が聞こえてきた。
こんな近くで。怖くて怖くて仕方ない。
それにしたって返事がないし、ここで黙っていたらかえって変。思い切った方がいいと思った。
「ごめんください。同じクラスの学級委員長やってます」
言うと、10秒後に突然
「うるせぇ」
という声が聞こえる。
明らかに私に言ってる。そうに違いない。あの声はこちらに向いて進んできた。怖くて、怖くて。
足音が聞こえる。ドシドシと重い一歩。
そして、私に帰る隙間を与えないかのように戸が開いた。その瞬間、甘い香りがした。
「どちら様と言ってたっけ」
身構えた。覚悟をした。しかしそれを用とせず、私の目前に現れた男はいかにも優しそうな、白髪のおじさんだった。三角巾を被り、少し汚れのついた甚平を着る。
「ああ、失礼いたしました。同じクラスの学級委員長をやっております。今日お休みということで、担任からプリントを届けるようつかわれました」
「そう…そうか、そうか。いや、ありがとう。どうもどうも。とても助かるよ。いや、いつもありがとうね」
「いつもの彼女は部活の事情でどうしても行けず、私が代わりにきました」
「そう、そう。そうか。ありがとう。息子はあんなんだけど、いい友達を持ったようで。うん」
「いえいえ…。それじゃあ、お時間をおかけしまして。失礼します」
私は、彼と友達になった覚えはない。いかにも優しそうで穏やかな男を前にして、その否定の言葉は出せるわけもなかった。男も実際友達であるか、でないかは興味ないだろう。
―――あの喧嘩なんだったんだろう。あのおじさん、なんなんだろう。
木の下に停めていた自転車を立てる。
ハンドルを握ると、一つだけある窓が目にとまった。他に窓はない。その窓から部屋の中が見える。中は陰が濃く、奥にある微かな灯りがその暗さを物語っていた。なんだろう。甘い臭いが鼻につく。呼気吸気が重たい。ドンヨリしていて、からだもだるい。視界にきりがかる。なんだかしあわせ。ここが現実じゃないような。楽しくてふわふわする。
︎︎※
昇る日に照らされて目覚めた。
気づいたら私はベッドで寝ていた。
昨日の夕方は少年の家に行っていたのに、なぜだろう。思い返そうとしても思い出せない。あの鬱蒼とした林、不思議な気持ちになる窓。その二つが脳の中で写真的に記憶しているにとどまる。小さい頃、たしかに行った旅行先の写真立てをみて、だがその思い出を映像的に思い出せない感覚に近い。
慌ててベッドをおり、急いで階段をくだる。ご飯をつくる母がいた。
「あら、起きたのね。おはよう」
「おはよう。昨日のこと思い出せない。けど、なんか少年の家に行って帰ろうとしてたような」
「あなたが無事でよかったわ。お母さん心配したのよ」
「私いったいなにがあったの?」
「覚えてないのね。林の近くに和菓子屋さんあるじゃない?その少年が、あなたが倒れたことを伝えてくれたのよ。それで助けてくれたの」
「和菓子屋?」
「そうよ。あそこに和菓子屋あるじゃない?あなたがプリントを届けたみたいで。その後、倒れたっていうの。それを見つけたらしくて。よかったわ」
私は和菓子屋なんて知らなかった。もっとも、スイーツ好きなのは、母の遺伝もあると思う。
しかし、母と違う点を言えば、母はスイーツはスイーツでも和菓子がすき。私は洋菓子がすきだ。
「私は洋菓子オタクだから、和菓子の匂いに倒れたのかもしれないね」
ジョークを挟む。そうか、あの甘い香りは和菓子だったのか。
―――モンブランにパンナコッタ、パフェ―――
それにかわいらしくスイーツの乗ってるファンシーさ、そのレパートリーに勝てるわけがない。
母は、和菓子は季節によってそれを写した色彩豊かな生菓子、餡子という少ない甘味の中で、香りと色、風情の楽しみが醍醐味というが、わかりかねる。
やっとゴーヤを口にいれられるようになった舌だ。大人の考えることは違うのか、と思わされた。
「やだね、心配したんだから。なんで倒れたりなんてしたのかしら。まぁ、それはそうとして、あなた和菓子屋さんに感謝申し上げにいくことよ」
洋菓子の敵に塩を送るのは、敵国・山梨のやり方だけれど、仕方あるまい。
「うん、わかった」
(結局、スイーツ店行けなかったな…。)
この日は6限まであった。終わりの会、いつも通り、先生の話を聞き、号令をかける。
その後、委員会に出席。
―――廊下にポイ捨てされたゴミ問題、校内にアナウンスする猿対策の案―――2時間半ぐらいか、生徒会の先輩たちの意見をメモとり終わった。
辺りはもう暗くなっていたが、昨日行った道を思い出しながら、また少年の家へ向かう。
家の近くに着いた。昨日と同じ木に自転車をとめ、歩く。少年の家まで60mほどの距離だ。今日は喧嘩してないと思った時、その音は聞こえた。二人の男が騒ぐ声だ。しかし、もう既に遅かった。私がインターホンを押した後だった。ピンポーンと鳴ると、喧嘩の声は止んだ。
「はーい」
「すみません。同じクラスの学級委員長やってる者です」
戸があく。
「ああ、昨日の」
「はい、昨日はありがとうございました。息子さんが助けていただいたみたいで、母から聞きました。」
「ああ、いいのいいの。倒れてたところ、息子がたまたま通りかかって見つけたみたいで」
「いえ……本当におかげさまで元気です。なぜ倒れたのかわからないけれど。あの、本当にありがとうございます。それを伝えたくて」
「いいのいいの。それより元気でよかった」
「あの、息子さんは…」
「もう夜も遅く、周りは暗いし、上がっていく?そちらのお母さんには僕から電話で伝えとくよ」
なにか断れる気がしなかった。命の恩人、と言えば大袈裟だけれど、助けてくれた人の親を前に、そして心配してくれている人にNOは言えない。
玄関の中へ入ると、猿の木彫りが置かれてあった。
―――熊以外にあるんだ…
その横には伝統工芸品らしきものが飾られている。
「私全くの無知なのですが、これってこの地域の伝統工芸品なのですかね」
「よくわかったね。善光寺に飾られている老猿の木彫り。先祖代々、ウチは家長がこれをつくることになってるんだ。だからたくさんあるでしょ」
話を聞くと、「庚申信仰」というものが根付いていた、という。
道教の「三尸説」、
人体には「三尸」と呼ばれる三匹の虫がおり、60日に一度巡ってくる「庚申の夜」に天帝に人の悪事を報告するという。
報告されると寿命が縮むため、人々は徹夜して、その虫が体内から抜け出さないようにするらしい。
そして、身代わりになるのが猿。そのため、今その習俗は廃れつつあるが、厄を受ける猿の木像を置くという。
「あの、もう一つの方は……?」
「もう一つの方は、そうだね、猿人形とカエルだね。
日光の猿は有名だよね。見ざる、聞かざる、言わざる。
また、去る、災難が去る、生が去るという意味もある。
カエルは京都・天龍寺にたくさん置かれている。これも、生き返る、若返る、そういった意味がたくさんある。」
「もっとも、天龍寺はどうしても目が合う龍の天井絵が有名だけれど。私は、あれは監視されているような気分で仕方ない」
「猿の人形は吊るされていますが、なにか意味でもあるのですか?一側面、かわいいらしいですが」
私はかわいらしいと思う反面、半面、その6割ぐらいの本音は怖かった。
「お守りだね。魔除け、厄除けの意味がある。猿は人と神仏、災厄と加護、そういうものの間を媒介する。境界に立つ存在なんだ。だからこうして玄関にいる。」
「時に、人間の影を、陰を引き受け、負の代替になることもあるけれど―――」
吊るされた猿。
つれさるた。負の代替。
それはあえて吊るす、逆転させることで負を代替させているように見えた。
守護という名のもと、無表情にこちらを見て、監視しているようでもあった。
―――連れ猿田。
壁に刺された、猿田毘古神と天宇受売命の日本画。
サルタヒコは、貌はおろか、二つの髪の団子がちょうど猿の耳のようになっている。
神を逆さにする。
それが何を意味するのか。考えたくはない。考えない方がよさそうだ。
ずっとこっちを見ている。まるで生きているようだ。木目が血管のように走り、吊るされた布人形は口の縫い目が荒く、周りの茶に埋まることなく口を表現しようとしたのか、紅の糸がギザギザに刻まれている。
玄関をこえ、家屋の中へ入るにつれ、わかった。あの香りは飴のような優しい甘みではなかった。煮えた小豆が朱に錆びた鉄のように鋭く香る。
和菓子を好きになれるわけがない。その理由を一層深めてくれた。
※
朝の会。
先生が真剣な顔をしていた。
「生徒会の役員一同廊下にきてくれ」
先生の話によると、今すぐに生徒会会議が始まるため、そちらにきてほしいというのだ。
生徒会会議はきまって授業全て終わったあとだ。なにがあったのだろうと小声で話しながら、私たちは先生の後をついていった。
「村長、連れてきました」
「これで全員かや」
先生は振り返って私たちの顔を見、答えた。
「はい、私の担当をいれ、揃いました。」
村長が話を始める。
「昨晩、と言っても朝の3時頃のことだ。羊歯林のところで犬のような獣が目撃された。それを見た新聞配達員が仕事を終えたときだった。」
「それって猿ではないのですか?」
生徒会長がペンを持ちながら、どうメモしようか迷っていた。
「いいや、猿ではない。その配達員は誰かの飼い犬が逃げ出して、迷子になってるのかと思ったそうだ。後を追いかけると、池の近くまで行った。」
「そこからだ。」
村長は声を少し上げた。
「その犬が向かった先には、人と猿がいた。」
「人??」
一人、二人―――いや、四人ほどが小さい声で驚いた。
「その犬と猿はまるで一つの身体のように、同期するかのように動いていた。猿は直角に左手をあげ、振り下ろしては地面につく。」
その後の配達員はその光景があまりにも恐ろしくて恐ろしくて、痛む腰にさわらぬよう、音を立てないよう四足で来た道を引き返したらしい。
「それでだな。俺たちは猟師に聞いたんだが、わからねぇって言うんだ。そんなもの見たことねぇって。なにがあるかわからない。対策とまでは言わねぇ…が、みんな早く帰るように言ってほしいんだ。あとなにか知ってることがあれば、見た場合は教えてくれ」
朝の緊急会議は「最後に先生もみんなも朝っぱらから時間とらせて申し訳ないな」という村長の言葉とともに終わった。
その日の生徒会会議はなかった。はやく帰らせるためなのだろう。私はその足で少年の家に向かった。学校に来てない少年に知らせるために、外出なりに注意してもらうために。
少年の家に着き、おじさんに訳を話すとすんなりと中へ通してくれた。和菓子を用意してくれると言って、店の方に行ってしまった。私一人だ。私は猿の置物があり、かつ詳しいおじさんを頼りにしたかった気持ちもあった。なにか知ってるかもしれない。予測してくれるかもしれない。その気持ちが高鳴り、気づいたらここにいたのだった。
おじさんが部屋に戻ってくる気配がない。かれこれ20分ほどかかっていた。店の方で客の対応をしているのかと思ったが、それにしては話し声が聞こえない。
トイレに行きたい。
勝手に行くのは億劫だけれど、しかし学校のうちから我慢していたことを忘れていた。
私は部屋を出て、トイレを探すことにした。障子をあけ、廊下に並んだドア二つをあけたが、大体は物置部屋だった。
1階とは限らない。2階なのかもしれない。
階段をのぼる。踏む木製の板は軋む。いかにも古そうで、黒いシミが悲鳴をあげている。
2階にたどりつくと、障子の向こうから声が聞こえてくる。
障子の隙間に近づけ、耳をすませる。
「あの女がまたきたぞ。深夜に犬と猿を見た人がいるって話だ。おい、どうなってんだ。あれだけ教えただろ。ちゃんとしつけを守らなきゃ、どんなんのかわかってるだろ」
あのおじさんの声だろう。小さく、下の階に、お客に聞こえないように話していた。しかし、その小ささからも怒りがもれているのがわかる。
おじさんの言ったことに返事はなかった。いや、聞こえなかったのかもしれない。そうだとしたら怖いけど、独り言の線もある。
小指の爪ほどの隙間からのぞいてみる。
おじさんの背中。
その奥の方には謎のナニカがいた。
暗くてわからない。
よく見てみよう。
私は声を漏らしてしまった。
「んっ…」
急いで口を手でおおったが遅かった。隙間から目を遠ざける直前に、そのナニカが反応していた。はやい。
生き物としての本能が眠らず、生きているような瞬発。
勝てっこないとすぐに感じた。
私は腰を抜かして床に倒れ込んだ。
障子が開いた。
そこには、犬と猿の混ざったような、小さなナニカがこちらを見ていた。
顔は猿だ。長く、多い毛。身体は犬の半分の大きさ。その短さと言ったら、四足と表す方が相応しい手。目がまん丸に見開いている。その中にある小さい黒い点。私を狭い匣《はこ》に閉じ込めようとしているよう。
「見てしまったな……」
おじさんが呆れたように溜息をつきながら言った。私は、詳しそうなおじさんに助けを求めにきたはずだった。今はなにか裏切られたような気分。
「この、バカ犬が」
私の倒れているところを足が横切った。あの猿のようで犬のようなナニカが蹴られた。
それは、けっけと鳴いた。スローロリスのようにも見えるし、馬面にも見える。とにかく解せない。人知の超えた見目形をしている。
「やめてくださいよ、やめてください、ごめんなさい」
私は謝っていた。何度も何度も。
「うるさいな、あんたには関係ないんだよ、これも」
「そんなことないです。目の前でそんな可哀想なところ見てられない。やめてあげてください、お願いします」
「あんたは物をお願いできる立場じゃあないんだよ。この子を見た時点で」
「一体、この子は……猿…?人なの?」
「人に見えるのか、あんたには」
「見えない。ナニなのかわからない。でも、人じゃない。そう感じる」
その時、下でドアのあいた音がした。おじさんがおいあの女が知っちまったぞというようなことを言うと、階段をのぼる音がどんどん近づいて聞こえてくる。軋む踏板は、私の心のヒビに割れたガラスが刺さるように痛く響いた。
あの少年だった。
今まで忘れていた顔。
危機を感じている今だからこそ、少年の一回だけ来た日を思い出せた気がした。
少年は、おじさんに蹴られたナニカであることを察知し、おじさんを障子の向こうへ突き飛ばした。少年の怒りは大きいものだった。障子を倒し、組子の割れた破片を中心に、紅が広がる。
私は少年に手を借りて起きた。ナニカを抱える少年と家を飛び出し、無我夢中に駆けた。駆けて、風を切って、裸足で地の草を踏みしめる。おじさんに対する恐怖より、今まで知ったことのない自由を手に入れた気持ちが上回った。
少年の後を追うように全力を走りにかける。着いた先は綺麗だった。月の光にてらされ、うきくさの緑と青が水彩の儚さを描く。反射した灯を分け与えるかのように、共に湯に浸かる野猿のように、少年とナニカは水を掛け合っていた。彼らの顔はこの上ない幸せを、天国の根拠を思わせる。つかの間でもいい。私の幸運のすべても、人類の喜びも願わくば彼らに与えたもう。
遠くに赤い目がいる。一つ、二つ、三つ、四人、六人、二十人。日の出とともに騒ぎ出し、洗い出し、脅かす自然の摂理を、その喜び合う姿を、人々は気味が悪い、焼き討てと合図をかけあった。飛び交う石、それを避けようと躓いたナニカは川に流されてしまう。母なる大地を、その水の流れを紅に染め、母胎を思わせた。流産によって生まれたナニカの運命には等しいのかもしれない。少年はそうつぶやき、投げられた物に頭をぶつけられながらも、流れる血に汚れた、小豆色の石を洗っていた。

"小豆少年"へのコメント 0件