小さな街にビラがまかれた。派手な色使いの中で、サーカスの文字が踊っている。子供たちは目を輝かせ、その到着を公演を待ちこがれた。朝な夕な、彼らは西の外れに向かい手をかざして遠方を見つめた。雨の季節が終わり、乾いた大地の彼方から土煙が立つのが見えた。サーカス団だった。少しずつその全容が見えてくる。
一団はのろのろと長い列をなして街の一番大きな通りへと入ってきた。団員たちは皆砂ぼこりにまみれ、足取りは重くフードを目深にかぶっている。まるで敗残兵の行進のようだ。凝視していた子供たちもその後ろで話していた大人たちも、一様に顔を曇らせた。檻を乗せた台車はあったが、動物の姿は見えずあるいは大きなぼろ布で隠されているなどしていた。たくさんの資財も運んでいた。しかし微塵の華やかさもなかった。彼らはそのまま街の中心を通り抜け、北側の斜面へと抜けていった。
数日後、北のひらけた場所にいつの間にか巨大なテントが建っていた。人々はいぶかしく思い、子供たちはいよいよかと喜んだ。その晩、なんの知らせもないまま、高らかなラッパの音を合図にサーカスが開場した。人々は吸い寄せられるように列を作り、せまくて薄暗い入り口からなかへと入っていった。
ざわめきを制するように鋭いラッパと激しい銅鑼の音が響くと、一斉に灯がともる。浮かびあがった内装がきらめく。光のまばゆさに負けぬほどの極彩色だ。大人も子供も驚きと歓喜の叫声をあげた。ドドドドドッ…と臓腑に響く大太鼓の連打に乗って、高天井にそびえるようなゾウたちが悠々と入場する。ゾウの周りでは軽業師がところ狭しと跳ね、宙返りし、棍棒や輪を器用に投げ上げている。観客の目の前でゾウが前脚を振り上げると、見事に後ろ足だけで立った。最前列の客たちは迫力に気圧され、泡を吹く思いだ。矢継ぎ早に、ライオンと猛獣使い、ニシキヘビと魔女のマジック、異国の美しい男女による空中ブランコ、などが繰り広げられた。
休憩前、楽団が軽いテンポで滑稽な曲を奏でる。道化師たちの登場だ。丸いの細長いの、小さいの猫背なの、どの道化師も永遠に張り付いたような笑顔の化粧で、派手におどけたりひっくり返ったりしている。会場は笑いの渦に包まれた。猫背の道化は陽気にスキップしながらさりげなく客席を見渡した。客の反応を見ながら仲間たちと呼吸を合わせ、テンポを変えたりアドリブを入れるのだ。幸い、どの顔も笑っている。
そのとき、彼は笑いの坩堝のなかに、ごくわずかな冷気を感じた。どこだ。彼は転んだりつまずいたりを演じながら、再び目の端で客席を見回した。
いた。
笑ったり大声を出している子供たちに隠れるようにして、まったくの無表情でこちらを見ている。取り立てて特徴もない、ごく普通の身なりをした少年だ。表情だけが氷が張った湖のように平らかに固く、そこにあった。君はなぜそこにいる?楽しむためではないのか?猫背の道化は心で語りかけた。もちろん少年には届かない。何度もその少年の様子を確認したが、氷が溶けることはなかった。
ショックだった。彼にとって初めての経験だ。楽屋に戻り、仲間たちがにぎやかに話したり化粧を落とすなか、彼は言葉少なに外へ出た。夜は更け、サーカスは幕を閉じ、観客はもういない。帰り客たちが踏みしめた熱さめやらぬ土の上を、気まぐれに林の方へ歩いていく。心は晴れず、足取りも重い。月だけが無口なまま明るい光を放っていた。
不意に、林の奥から言い争うような声を聞いた。こんなに遅い時間に何を…。彼は月が作るまだらの木影のあいだを静かに歩いていった。人影の背丈と声の様子からどうやら子供たちのようだ。剣呑な雰囲気。数人が輪のように立ち、何かをどやしつけたり足げにしている。距離が詰まるにつれ、彼らが意地の悪そうな表情で一人を怒ったり罵ったりしているのが見えた。その輪の真ん中にしゃがみこんでいる者の顔は見えない。その顔を見るために、つい道化は近づきすぎてしまった。気づいた子供が驚きの声を上げる。皆一斉に道化を見るやいなや、叫び声をあげて逃げ出した。彼らには道化が、月明かりを背に受けた黒いシルエット、異様な形相をした怪人に見えたのだ。バタバタと走り去る音とともに、道化はその化粧のまま、残された人物を見つめた。
無言で立ちあがって月明かりに照らされ、その顔が見えた。表情からは何もうかがえない。サーカスの客席にいた、あの笑わない少年だった。
「大丈夫かい」と聞くと少年は小さくうなずいた。道化はすぐに言葉を継いだ。「きみはサーカスに来ていた子だね。サーカスは楽しくなかったかい?」
少年はじっと立っていた。
次の日の明け方、猫背の道化は少年の夢を見た。寝床でびっしょりと汗をかいて目を覚ました。二日目の興行が始まる。猫背の道化は化粧をせずに客席に出ると、素早くあたりを見回した。少年の姿を確認し、急いで楽屋に戻ると、いつものポジションを他の道化に替わってもらった。少年と少しでも多く対峙できるようにするためだ。
猫背の道化がピンをくるくると宙に放り上げるのを、他の道化が横からさっと奪い取る。猫背はきょとんとして、ピンはどこだ?という身振りで客席を見る。実際、彼が見ているのはあの少年の顔だ。他の子供たちが一斉に「あっち、あっち」と場所を指さす。猫背は不格好に歩いていってそこを見る。ピンはない。すでに他の道化が別の場所に動かしたあとだ。彼はまた少年の方を見る。他の道化がその突き出た尻に一発食らわせる。派手にひっくり返って大いに笑いをとる。「これでどうだ!」と思いながら猫背は少年を見るが、その表情は変わらず、人形のように張り付いたままだ。
興行は続く。猫背の道化はすべての出番であらん限りの技を尽くし、四肢を最大限に使い、タイミングを計り、それでも少年は笑うどころかなんの情緒も見せなかった。客席や舞台袖からもずっと彼を観察した。どんな出し物を前にしても彼に変化はないままだった。他の道化に相談したこともあった。なんてこともないよ、だからどうした、とあしらわれた。夜になれば裏の林を歩き回った。彼も、子供たちもそこに来ることはなかった。
最後の興行日がやってきた。猫背の道化は体が重い。少し熱があるのかもしれない。それにしても長く続けてきた仕事だ。多少のことでは揺るがない。不調であることなど気付く客などいるものか。しかしあの少年は見ていた。見知らぬ大人たちに交じって端の方に腰かけている。その無表情な目を、猫背の道化はどうしても意識から引きはがせないでいた。身体の不調をおおい隠すように、普段よりも全身が躍動した。心は繊細に、注意おさおさ怠りなく。しまいにはあからさまに少年に向かって派手なアピールもした。耳が次第に熱くほてり、体温が上がってきていると感じた途端、体がふわりとしてそのまま気を失ってしまった。観客がざわめいた。
結局、猫背の道化は少年に笑顔をもたらすことはできなかった。
その夜、ベッドから重い体を引きはがして立ち上がると、道化はいつものように林へ向かった。月はまだ低く、林は薄暗い。木々のあいだからサーカスのテントが黒く浮かび上がっている。なかでは移動に向けて早くも片づけが始まっているはずだ。とんかんと解体の音が響く。重々しくやって来て風のように去る、それがこのサーカス団のやり方だ。感激を残しても気持ちは残さない。気持ちは…。そんなことをぼんやり考えていたときだ。
ドンッ!と激しい衝撃を背中に受けて、道化は地面に転がった。
子供たちがバラッと周りを取り囲む。それぞれが大きな声を上げながら、容赦なくその足で道化を蹴った。道化は横向きに丸くなりながら、眩暈と吐き気をぬって襲いくる打撃に耐えた。怒声が途切れ、子供たちはハアハアと獣のような呼吸にかられた。気が済んだのか、彼らは振り返って誰かを手招きをして道をあけた。奥から現れた少年はゆっくりと足もとの道化を見おろした。
笑わないはずの少年の顔が、見る見る笑顔に変っていく。道化は思わず目を見開いた。何かを思おうとした瞬間、強い一撃を受けて彼は暗い淵へと真っ逆さまに沈んでいった。
この先はくわしく語るに及ばない。
道化は再び目を覚まし、生き、死ぬ。サーカス団をやめ、荒野を彷徨うような生活をおくった。放浪の先で気まぐれに住み処を求めることもあった。何かが起きたような気もするし、何も起きなかったようでもある。サーカス団の日々の記憶はとうに霧散し、自分がピエロであったことさえ忘れてしまった。数奇な運命であり、またつまらぬ人生でもあった。
彼の最期の場面だけ伝えておこう。
年老いた道化は行き倒れの状態で街の病院に担ぎこまれた。よそ者でもあり、親族や友人がいるでもない。とは言え放り出すわけにもいかず、やむなく使われていなかったカビ臭い病室の寝台をあてがった。朝になると医師が形だけの診察と問診をする。看護士もたまに様子を見に来たが、ほかに誰が見舞いに来るでもなかった。食事はのどを通らず、水だけの日々。
その日も医師は問診を簡単にすませてドアを開けて出て行く。入れ替わりで見知らぬ人物が入ってきた。医師は後ろ手でドアを閉めたあと、見舞いの客とは珍しい、と思った。しかしそれも長い廊下を歩くうちに忘れてしまった。
横たわった道化の足もとに回ると、その人物はこう言った。
「大丈夫かい?」
道化は目を見開いて彼を見た。氷に閉ざされた湖のように、無表情の少年が立っている。
窓は開かれていた。強い風が吹いたように、カーテンが大きく膨れ上がってなびいた。
すべては失われ始め、やがてゆっくりと白に溶けていく。道化は息絶えた。
眞山大知 投稿者 | 2025-09-19 12:39
すいません、ちょっとわたしには分からなかったです💦
サマ 投稿者 | 2025-09-19 16:11
どうぞ謝らないで。念頭にあったのは「神よ、不条理よ」です。助けるとは対極の、助けなさ・助けられなさを淡々と描いてみたかったのです。
佐藤 相平 投稿者 | 2025-09-19 13:03
とても文章が安定してうまく、スラスラと読むことができました。冷酷な少年に人生をめちゃくちゃにしてほしい。そんな願望は僕もあるので興奮しました。「大丈夫かい?」という最後のセリフにゾクッとしてしまいましたね。美しくて完成度が高い作品だったと思います。
河野沢雉 投稿者 | 2025-09-20 12:58
こういう叙情的な話もいいですね。サーカスの道化が少年との関わりにおいても人生においても道化だったという強烈な皮肉。
サマ 投稿者 | 2025-09-20 20:38
道化が道化になり損なっているので、その点では二重の道化化(どうけか)の物語とも言えそうです。ご観想ありがとうございます。
大猫 投稿者 | 2025-09-21 21:10
簡潔で静かな文体で、サーカスの騒々しさを描いていても、底辺に静けさと悲哀が漂っていて、サイレント映画でも見ているようでした。前回合評会に続いて、独特の世界を見せてもらいました。
少年は実在の人間というより、何か悪魔的なものというか、猫背の道化が恐れながらも見ずにはいられなかった心のうちの恐ろしいものだったのかなと思いました。
「どうしても笑わせられない客」、とは「どうしても救えない人」で、「絶対に」分かり合えない人なのだろうと。数えきれない人を笑わせてきた道化が最期に見たのがそのようなものだったとは。
冒頭は街にやってくるサーカス団の冴えない情景でしたが、途中から猫背の道化の視点に変わります。違和感というほどのものでもなかったけれど、枚数制限があって十枚くらいしか書けないので、冒頭部分は猫背の道化がどんな人物なのか書いた方がよかったかなと思いました。
サマ 投稿者 | 2025-09-22 18:11
ご講評をありがたく拝読しました。書き手の立場からは見えない部分をご指摘いただき感謝します。サイレント映画という感想は嬉しく思います。また、悪魔/神的なものも念頭にあったイメージなので伝わって良かったです。
第三者から道化主体の視点変化については迂闊だったかもしれません。ご指摘の通り、後半は書きながら道化目線になっていたなと振り返りました。突き放しているつもりでも肩入れしてしまうものですね。今後の参考にいたします。
浅野文月 投稿者 | 2025-09-22 23:14
詩的な世界観でありながら、光景が目に浮かぶ作品でした。
段々と救われていくように読みました。
サマ 投稿者 | 2025-09-23 06:16
読みながらイメージを描いていただけて良かったです。表現がみちびく解釈や余韻にゆらぎを持たせたかったので、読み手によって印象が様々であれば一つ成功したと言えます。終盤に向けて救いを感じていただけたとのこと、ありがたく思います。
こい瀬 伊音 投稿者 | 2025-09-24 17:30
サーカスは賑々しい、けれど寂しい
あきれ顔の動物の群れと鞭を持つひと
笑わせるのか、笑われるのか道化師には涙
そのなかで、笑わない少年を夢に見て寝汗をかく姿、
最後の最後まで表情の変わらない少年に見下されながら幕を閉じる姿、
切ない走馬灯を読んだような気がしました。
サマ 投稿者 | 2025-09-24 19:33
お読みいただきありがとうございます。
笑わない少年をどこで笑顔にするかで作品の色彩が大きくわります。もし最期の場面で少年が笑ったのなら、柔らかな余韻になったと思います。そちらを選択せず、道化師を足蹴にする場面で彼の笑顔を出したのは、日常を逸脱した狂気を呼び寄せられればと考えたからです。
なぜ少年が笑ったのか、そのことに道化師は最期に思い至ったでしょうか。彼の走馬灯がどのようなものだったのかは伏せられたままです。
佐藤 相平 投稿者 | 2025-09-25 11:51
数日前にしたコメントがなかなか承認されないので再度コメントします。
冒頭から文章が安定して上手で世界観に飲み込まれました。落ち着いた雰囲気が好みです。冷たい少年に人生を狂わされたい願望は僕もあるので共感しながら読みました。「大丈夫かい?」という最後にセリフにゾクッとしてしまいました。
サマ 投稿者 | 2025-09-25 14:58
再度のコメント、恐れ入ります。ご感想、しっかりと受け取りました。
「大丈夫かい?」に言及していただき、嬉しく思います。道化師のセリフでは「大丈夫かい」なのに対して、少年のセリフには「?」をつけてあります。少年は道化師から返事を受け取ったでしょうか、どうでしょうか…