草いきれが、死体の臭いのように鼻をついた。
海斗が車を降りたとき、コンクリートの割れ目から突き出す夏草は、まるで彼を絡め取ろうとする緑色の腕のようだった。目の前には、蝉時雨に包まれた木造の廃校が、巨大な獣の骸のように静かに横たわっている。彼がここに来たのは、この場所が「出る」と噂の心霊スポットだからではない。ただ、死ぬのに相応しい場所だと思ったからだ。
助手席に置いた、新品の登山用ロープ。それが、彼の最後の相棒だった。人生という登山に失敗した男が、最後に命を預けるには皮肉なほど上等なロープだ。
「……さて、と」
誰に言うでもなく呟き、海斗は校門の鎖を乗り越えた。錆びた鉄の感触が、じっとりと汗ばんだ手のひらに不快だった。校庭だった場所は、セイタカアワダチソウの帝国と化している。かつて子供たちの歓声が響いたであろう場所は、今はただ、虫の声と風の音だけが支配していた。
体育館の梁。音楽室の頑丈な配管。理科室の、天井から吊り下げられた人体模型用のフック。死に場所の候補を吟味しながら、埃とカビの匂いが混じった廊下をゆっくりと歩く。ぎし、ぎし、と床が鳴るたびに、自分の体重が、まだこの世に存在しているという事実を突きつけてくる。それがひどく煩わしかった。
一階の突き当り、一年生の教室だろうか。小さな机と椅子が、まるで主の帰りを待つ忠犬のように、行儀よく並んでいる。その教室の入り口に、「それ」はいた。
赤い、ランドセル。
それを背負った、おかっぱ頭の女の子。夏だというのに、白いブラウスに紺色のスカートという、きっちりとした制服姿だった。女の子はただ、じっと海斗を見つめている。その瞳は、ガラス玉のように何の感情も映していなかった。
「……迷子か?」
こんな場所に子供がいるはずがない。幻覚だ。そう頭では理解しているのに、口から言葉がこぼれた。女の子は何も答えない。ただ、こてん、と不思議そうに首を傾げた。その瞬間、ふっと陽光が遮られ、教室が影に沈む。海斗が瞬きをした、その一瞬。
女の子の姿は、どこにもなかった。
残されたのは、窓から差し込む光の中で煌めく無数の塵と、耳の奥で鳴り続ける蝉の声だけ。心臓が嫌な音を立てていた。恐怖ではない。むしろ、安堵に近い感情だった。死のうとしている人間が、幽霊に驚いてどうする。海斗は自嘲し、その場を離れた。
結局その日は、体育館の梁を死に場所に選んだ。だが、ロープを梁に投げかける気には、どうしてもなれなかった。あの少女の無感情な瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。明日だ。明日こそ、全てを終わらせよう。彼は車に戻り、死んだように眠った。
翌日、再び廃校に足を踏み入れると、今度は違う女の子が待っていた。髪を二つに結んだ、そばかすのある子だ。しかし、背負っているランドセルは、昨日見たものと寸分違わぬ、使い込まれた赤い革のランドセルだった。
女の子は、海斗を見ると、おいで、というかのように小さく手招きをした。そして、くるりと背を向けて、おぼつかない足取りで廊下の奥へと歩き出す。その姿は、昨日のおかっぱの子と同じように、半ば透けて向こう側が見えていた。
何かに引かれるように、海斗はその後を追った。死ぬ前の気まぐれだ。少女の霊が、彼をどこへ導こうとしているのか。
少女が足を止めたのは、一階の最も奥にある理科室だった。ドアは固く閉ざされていたが、少女がそっと触れると、まるで意思があるかのように、軋みをあげて開いた。部屋の中は、ホルマリンの匂いを濃縮したような、甘ったるい腐臭が満ちていた。
少女は部屋の中央には行かず、教卓の脇に立つと、床の一点をじっと指さした。そこには、不自然に新しい釘で打ち付けられた床板があった。
「……ここに、何かあるのか」
少女はこくりと頷いた。その瞳には、昨日見た悲しみとは違う、強い光が宿っていた。懇願するような、訴えかけるような光。
海斗は、車の工具箱から持ってきたバールを床板の隙間にねじ込んだ。ぎりり、と嫌な音がして、釘が抜ける。板を剥がすと、黒々とした闇が口を開けていた。床下の空間だ。腐臭は、そこから漏れ出している。
スマートフォンライトで照らすと、闇の中に、白いものが見えた。土にまみれた、小さな骨。その横には、ぼろぼろになった子供服の切れ端。そして、もう一つ。さらに奥に、もう一つ。
「うそだろ……」
声が震えた。そこにあったのは、少なくとも三人分の、小さな子供の白骨死体だった。警察も、誰も見つけることができなかった、三十年前の神隠しの真実。
遺体の傍らに、一冊の古いノートが落ちていた。教師用の、分厚い業務日誌だ。手に取ると、湿った紙が指に張り付く。書かれていた名は「鈴木」だった。
『今日も、新しい花が私のコレクションに加わった。この上ない喜びだ。この子たちの無垢な魂は、永遠に私だけのものだ』
『子供の身体は、なんと美しく、そして脆いのだろう。私の手の中で、蝶のように簡単に命の火が消える』
『いつか、この秘密の庭園が誰かに見つかる日が来るかもしれない。だが、その心配ももうない。私は遠くへ行く。村の人間は、私が校内で首を吊って死んだと信じるだろう。馬鹿な奴らだ』
海斗は愕然とした。鈴木は自殺などしていなかった。彼は少女たちを殺害し、ここに隠し、自殺を偽装して逃げたのだ。今も、この国のどこかで、白々しい顔をして生きている。
怒りと吐き気で、立っていられなくなった。その時だ。
ぎぃ、と、校舎の玄関が開く音がした。そして、ゆっくりとした足音が、理科室に向かってくる。海斗は息を殺し、剥がした床板の影に身を隠した。
理科室のドアが開き、一人の老人が入ってきた。痩せこけた、好々爺といった風貌の男。しかし、その目は澱み、爬虫類のような冷たい光を放っていた。老人は、剥がされた床板を見て、ぴたりと動きを止めた。
「……おや。お客様かな?」
老人は、床下の暗がりに向かって、楽しそうに言った。「私の可愛い花たちに、悪い虫がついたようだ」
鈴木だ。三十年の時を経て、老いさらばえた殺人鬼が、自分の庭園を訪ねてきたのだ。
鈴木は懐から、ぎらりと光るカッターナイフを取り出した。「邪魔者は、摘んでしまわないとねぇ」
絶体絶命。海斗は腰のロープを握りしめた。死ぬためのロープ。だが、今は。
「うわああああああ!」
海斗は叫びながら床下から飛び出した。不意を突かれた鈴木が、一瞬だけたじろぐ。その隙に、海斗はロープの先端を、鞭のようにしならせて老人の腕を打った。
「がっ!」
肉を打つ鈍い音。だが、鈴木の目は狂気に満ちていた。「小僧が……私の楽園を荒らす気か!」
老人の身体から発せられるとは思えない力で、鈴木が組み付いてくる。カッターの刃が、海斗の頬を浅く切り裂いた。熱い痛みが走る。もみ合ううちに、二人は床に倒れ込んだ。
その瞬間、理科室中のビーカーやフラスコが、一斉にガタガタと揺れ始めた。人体模型がゆっくりと首を回し、鈴木を見つめる。アルコールランプに、青い炎が灯る。
ポルターガイスト。少女たちの霊が、海斗に加勢しているのだ。
鈴木の動きが、一瞬止まった。彼は自分の周りで起こる怪奇現象に、恐怖よりも恍惚の表情を浮かべた。
「ああ……お前たち、まだここにいてくれたのか。パパに会いたかったんだな。いい子だ、いい子だ……」
その隙を見逃さず、海斗はロープを鈴木の身体に何度も巻き付け、力任せに締め上げた。拘束され、床に押さえつけられても、鈴木はまだ、虚空に向かって愛おしそうに何かを呟き続けていた。
警察が駆けつけたとき、海斗はロープを握りしめたまま、呆然と座り込んでいた。傍らには、縛り上げられ、ぶつぶつと独り言を繰り返す老人が転がっている。
少女たちの遺骨は、丁寧に運び出された。海斗の周りを、おかっぱの子、そばかすの子、そして見知らぬもう一人の女の子の霊が、静かに旋回していた。彼女たちの顔には、もう何の感情もなかった。ただ、透き通るような安らぎだけが満ちている。
三人は海斗に向かって、深々と頭を下げると、朝の光の中に溶けるように消えていった。
理科室の床に、ぽつんと、あの赤いランドセルだけが残されていた。それは霊的な存在ではなく、遺品の一つだったのだ。
彼は校舎を出た。昇り始めた太陽が、彼の疲れ切った顔を照らす。手にはまだ、ロープが握られていた。死ぬための道具だったそれは、今や、三つの小さな命を、三十年の時を経て救い出した絆のように感じられた。
これからどう生きるのか、彼にはまだ分からない。だが、死ぬことだけを考えていた昨日までの自分は、もうここにはいなかった。
海斗は一度だけ廃校を振り返り、そして、前を向いて歩き出した。草いきれの匂いは、もう死の臭いではなかった。それはただ、力強い、夏の生命の匂いがした。
虹乃ノラン 投稿者 | 2025-09-10 10:52
虹乃ノランです。
赤いランドセルと首つりロープに立候補させていただきます。よろしくおねがいいたします。