I
タッタッタッタッ、と、私の足音だけが耳に残る。
早朝の住宅街を私は毎日走る。夏も冬も、天候がよほど悪くない限り、雨でも、雪でも走る。でも、日課ではない。私はそれを日課とは言わない。目的があるわけでもないし、続ける理由もない。自分にそれを課しているつもりはない。走りたくなければ走らなければいい。何時止めてもいい。そう思っている。ただ、走りたくない、もうイヤだ、と、まだ思ったことがないだけだ。だからといって走るのが好きというわけでもない。好きとか、嫌いとか、そういう問題の外にあるのだ。誤解を恐れず、わかりやすく言うなら、ただの習慣、ううん、ただの惰性だ。走り始めた理由も特にない。体力作りとか、健康のためとか、誰かに聞かれれば面倒だからきっとそんな答えをするけれど、それは全くの嘘だ。必要以上の体力なんていらないし、少しくらい病気になる方が人間らしい、と思っているし。何ヶ月だか、十何ヶ月だか前、朝起きた時、ふと走ろうと思いついただけ。なぜ、そんなふうに思ったのか、もしかしたら、その理由を探ることができるかもしれないけれど、そんなことより、走ろうと思ったことに意味がある。走り出したことに意味がある。理由よりも、行動、だ。行動がすべてだ。だから私はこの走る習慣をジョギングとかランニングとは呼ばない。そんな小綺麗にパッケージされたエクササイズではない。メニューもノルマも記録もない。走る、という運動を朝の数十分間続けているだけだ。
軽くストレッチをして走り始める。
決まったルートはない。道に出て、右に行くか、左に行くか、足を踏み出すまで、私にもわからない。走り出して、やっとおおまかなルートを想像する。近隣の地図はだいたい頭に入っているし、数十分で戻るつもりだけはあるから、自ずとルートは限られる。それでも、未だ足を踏み入れていない路地があり、やり過ごせなくなることがある。そんな時は思い描いていた道筋を破棄して、敢えて未知の路地を通り抜けてみる。
走るペースはほぼ一定だ。同じ距離ならほとんど同じ時間で走り抜けている。もしも時間を計ったなら、距離にも寄るけれど二十秒程のばらつきで収まるはずだ。そう思っている。そう確信している。途中で休憩することもあるし、ひたすら走り通すこともある。休憩も、その時間や回数が決まっているわけではない。足が止まって、再び動き出すまでが休憩だ。その時間は数十秒から十数分のばらつきがある。
タッタッタッタッ、と、足音に合わせて呼吸を整える。
ハッハッハッハッ、と、口から息を吐く。
ふたつの音が同期すると、私の身体は稼働の安定した機械だ。肉体はゼンマイ仕掛けの自動人形のように同じ動きを繰り返す。余計なことは考えない。ぼんやりとした道筋だけを追いかけて、予期せぬ障害物や未知の発見がないかぎり何も考えない。しっとりと冷たい風を肌で感じていても、私は自分の中に閉じこもる。走ることで、汗を流すことで、私は世界の現実から遠ざかる。
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