「治療」 Hospitality(歓待)とHostility(敵意)が僕を同時に襲うので 僕はHostage(人質)にでもされた気分だよ でも気球ほどの巨大な僕の目が上空から僕らを滑空グライダーで舐める。映 […]
誰もいないうちに砂浜へ出て、僕は僕の考えのなかで多くのことを溺死させてから、太陽に祈る。太陽を鳴らすには、そんなに強く叩く必要はないが、あなたが見るすべての幽霊達、彼らがそうであるように、僕はあなたと共に息を止める。その美しさに僕は一度は目の端で認めた天国をすべて取り消す。
シンボルは僕の中を突き抜け、人々の描かれていない鏡に向かって(僕はいつのまにか部屋にいるので)、顔を映す。僕は、部屋の中にいることが判明してしまう。ならば血栓の溜まった僕の脚だけがまだ波打ち際にいるでしょう。そしてもう二度と戻ってこない僕を十分に見る。すべてがOKになったら、僕は一度は認めた天国に背を向ける。泣き喚くことは許されない。僕の心は冷えて固まる。あなたが愛を必要としないからです。すべてが僕の記録だと思ってください。はじまりはじまり。
(僕のプロフィルの隣に置いてほしい文章)
大多数の病気の「作り方」を知っている世界にとって、今、あたかも与えられているように見えて奪われてしまったものは、おそらく暴力性である。あたかも与えられているかのように見える現在の暴力性はスキャンダラス性、政治性、記号性のみにとどまっており、本来の病気の暴力性はそこでは皆無である。
なぜならば、見渡せばそれは「ただの」粒子の荒さや、斜めに重力の傾斜の働いているかのような身体や、あるいは本当に病人の被写体(その多くは自画像、自撮り、つまり「本人」と呼ばれるもの。有名人などのプライベート・ライフ)の「『ナマ』の生活」感が記号的に見せるセルフパパラッチ・セルフィッシュのみであり、病気本来の暴力性はそこにはない。
病気の暴力性は、その、具象から個を剥ぎ取り抽象に変えてしまう暴力性である。僕がおこなったことは被写体にマスクをかぶせる行為であり、具象から逆説的に個を剥がして抽象に置き換えることだった。
俳優で僕の親友だったHへ。友人のなかで誰のことから書こうかと思ったが、誰の話をするのもやめようと思う。でも君の話はするかもしれない。僕は僕の話をテレビの小説講座でも参考にして、ここはひとつ、小説を書いてみようかと思っている。小説講座は週に一度の放送。終わりには決まってこう流れる。
〈本来の目的から外れた用途に使用し、万一事故があった場合の保証はできません〉
人類が病気と初めて向き合ったのが「水」。雄大に地球を循環するこの「水」からできるだけ多くの恵みを得るため、人類は巨大な水のアレルギーに対してどう向き合い、それをどう克服していったのか、人は知るべきである。しかし、便利さを求めることが医療の巨大化を招き、結果として生死の循環サイクルを寸断してしまうことが分かった。「寸断することなく向こう岸へ渡りたい」という未知の世界への願望は、臨死体験とも通ずるものがあり、天へと上昇し、光り輝く知恵の輪、そして「イルカちゃんのフラフープ」をも潜り抜けたという体験談がある一方で、なによりもいえるのは、此岸から泳いで渡れそうな、一面花畑の彼岸までの清流の横断。こう考えても、やはり生き死にを左右する医療の現場には「水」が関係してくるのである。:「イルカのフラフープ」社・社史
(テーラード・ジャケットを着て、めかしこんだ男が二人以上いたら大体こんな話で盛り上がる。女の人が二人いてどんな話になるのかは知らないけれど。共通しているのは男女それぞれ、ここではお洒落をして入院して、治療を受けているってことだけども)
暴力に走る前、病気は必ず何らかのサインを発しています。
日常の忙しさに追われ、つい病気だけで食事をさせたり、話しかけられても生返事では、病気が送っているサインを見落としてしまいます。
病気の「こころの声」に耳を澄ませましょう。
僕らは暴力に向かわないよう最大限にお洒落をする。ここでは思い思いの格好ができる。病院だからといって、病衣でいるのはごくわずか。
ベッドに縛られている人だって、大半は目を見張るような、まさに縛られている人なりの洒落た格好をしている。僕も普段からジャケットを着ていますよ。
かなり長い風車の羽根
電飾の絡まる睫毛
私が夢でいつも台無しにしてしまうことたち
窓外にしか現れない女たち
肉体を吐き出した男たち
めいめいが語り出したら
始まりと終わりのジンクス。ヤニ混じりのニードフル・シングス。
映像を使った啓蒙の嘘だったんだ、多分。ニューメイカー八〇〇〇〇〇ルーメンのマッチ棒。あっちとこっちを照らすと影はどこにできるの? 多分僕にはそこが見えないんだ、はじめから。いざ行かんとしたのは下位互換のアンドロイドばかりで、ラストのあたりでお決まりの包囲網で、身に纏った化学繊維はもうボロボロで……、そこで毛じらみがくしゃみして終わり……。
そんな俯瞰した街の映画――
夢見心地エンドロールはじっこにヒッチコックの影コックローチ。
最後の子供ももう死んでしまって、歌を唄うのは恥を知らぬ大人たちばかりで、足早はるか遠くに消え去ったわずかな甘味料、汁を吸った虫らの高笑いは出来高ノルマ制。先月あたりから今朝仮眠をとるまで、うしろめたい気持ちなくして避難所で待ち伏せ、やがてレンガ持って殴り合う純粋性ドッグタグ。
僕はそこに腰を落ち着かせ、じっとまた首の細い巨大な猿たちを眺め、蟹の詰まったその腹のなかを想像しようとする。猿たちはみな、横一列に並んでこちらを見ている。
一、二、三、四、五。なぜ五匹もいるんだろう? 多すぎやしないだろうか。そう思うが先か、猿たちは四匹になった。と、いつのまにか三匹になった。そして二匹になり、猿たちはようやくここで初めて自分たちの身に起きている現象に気付き、互いを見つめ合って、……そして一匹になった。僕は気付く。先程の鳴き声は準備ができた合図ではなく、準備の準備ができた合図だったのだ。本番はここからのようだ。僕は鼻の頭をこすり、一匹になったその腹へ向けて集中しようとする。すると猿たちはいつのまにか五匹に戻っている。
僕は猿たちの遊びに付き合わされただけだったのだ。
時間の咀嚼音に本気で耐えられぬ時、人は、いや病人の僕でさえ、こちらから時間に噛みついて、食らい尽くしてしまおうと考えるのではないだろうか?
これはいわば自殺のことだ。
子供の頃のように――
親に連れていかれた立食パーティーで。
カーテン。どこまで行っても。
ドレス。どこまで行っても。
緞帳。どこからどこまでが?
――緞帳はもうとっくに上がっていたのだ。
僕はいつのまにか小説を書いているところを観客という君から見られていたわけだね。
運搬可能な僕らのダンス。ひび割れた響きのダンス・ステップで、あなたも同じものを目にしてきたはずで、これからもそう。病気が書かせて踊らせた、病気に忠実なテンポで踊った小説はもう終わり。それでもずっとあなたは見ていたんだろう? 運搬可能の僕の病気と、あなたの街へ行けたらいいね。僕らのダンス、さあ比べてみよう。でも――
――でも僕の自白。僕の選んだ夜はもうすぐ終わる。あなたがあらかた覆いつくして眠りつくして、また目を開いて前を向いてくれればいい。過去があるってことがあなたの背中を押すでしょう。僕の選んだ夜は終わり、部屋にはまた一つの朝が充填される。あなたはここにこなくてもいいようにね。
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