復員して三月のあいだ、私は文字を書かなかった。書けなかったのではない。南方で最後に書いた文字が戦死公報の下書きであったから、指がそれを覚えているうちは何も書きたくなかったのである。
海のことを、私は生まれた島の言葉でパダンと呼ぶ。大阪に来て十二年、口ではもう海と言う。うみ、と言うたびに、言葉の底でパダンが一度沈んで、それから浮く。言葉は乾物と同じで、乾かして運んでも、水に戻せば匂いが戻る。私はその戻る匂いで商売をしている。
私の日本語は、母がカリフォルニアの台所で使っていた日本語である。それは一九二〇年に広島を出発したまま、更新されることのなかった言語であった。私がそれを話すとき、鶴橋の人々は一様に奇妙な表情をする。丁寧すぎるのだ、と通訳のミハラ氏は言う。あなたの日本語は、まるで死んだ人に対して話しているようです、と。
白状すれば、私は活字で嘘を売って食っている男である。『裸線』という誌名からして嘘だ。裸のような真実を電線のように送り届ける、と創刊の辞にはご大層に書いたが、実際に送り届けているのは温泉場の醜聞と猟奇殺人の焼き直しと、あとは編集長の借金の言い訳ばかりである。
あんた、生駒へ詣ったことあるか。ないやろ。今の人は皆ない。せやから話しといたるのや、儂の商いは荒物やが、齢とった者の本業は覚えとることや、思うてな。
巳代蔵翁の店先で四人が居合わせたあの晩、辻で鳴った「ばさ」という音を、私は今も耳の奥から追い出せずにいる。あれは紙の音であった。それも、一枚の紙が独りでに捲れる時の音ではなく、何かに読まれて頁を繰られる時の――そう感じたのは、逓信省の検閲部屋で、幾千通という私信を上役の前で繰った記憶があるからかもしれない。あの部屋の音と、辻で鳴った音は、驚くほど似ていた。
手入れの朝のことを、私は箪笥の一番奥の抽斗にしまうように、内の言葉でだけ覚えている。
六月の報告書提出後、私は班長への月次説明で、鶴橋市場の「非公式指標」について言及した。班長は興味を示した。ワシントンは常に、統制の効かない領域を数値化する新しい方法を求めている。私は換算表を、闇市が自生的に生成した価格予測機構として説明し、その予測精度の高さを強調した。
七号の企画会議で、編集長は膝を打った後、こう付け加えた。「周さん、書き手が見つからんかったらどないすんねん」。私は答えた。見つからんかったら、見つからんかったこと自体を記事にすればよろしい。
九月に入って、鶴橋の空気は変わり始めていた。統制の網はまだ緩まないが、市場を歩く進駐軍の顔ぶれに、以前ほどの熱がない。噂では、経済科学局の物価調査班は年内に縮小されるという。統制が終わろうとするとき、統制を出し抜くための知恵もまた、行き場を失う。誰もそれを言葉にはしないが、市場の商いの手つきに、かすかな弛緩が滲み始めていた。
昭和二十三年四月三日の報せは、正確な日付を伴って届いたわけではなかった。海峡を渡る手紙は、書かれた日と届く日の間に、いつも十日、二十日の隔たりを持つ。届いたとき、島ではすでに山狩りが始まっていた、という。武装した者たちが蜂起し、討伐隊が村々を焼いている、という。焼かれた村の名を、手紙は一つずつ、私の知っている名で挙げていた。
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