二〇二一年十一月下旬、長崎市内に山谷感人先生を訪ねた。

その一言だけで、晩秋の長崎市内の冷気だの坂道の不安な足元だのが皮膚の上を滑るようにリフレインする。しかしそれよりももっと痛烈で春山の雪崩のように襲いかかるのはひどい自己嫌悪だ。いや、自己嫌悪ならまだマシで、自分がいい年ぶっこいて救いようのないバカだったと思い知らされた絶望というより脱力感、今さらの中二病みたいな感傷に精神の平安をかき乱されるやりきれなさ。要するにあんまり褒められた思い出ではないのである。場面によっては記憶すらなかったりするから始末が悪い。

しかし、名作『アウレリャーノがやってくる』、同時収録の『フェイタル・コネクション』が満を持して上梓された今、また東京文学フリマで記念すべき破滅派第16号「追悼・山谷感人」特集を世に問うている今、破滅派の至宝であるところの山谷感人先生の現況情報を人々は熱望しているのではないだろうか。山谷先生との邂逅を己の胸に秘めて語らぬのは人々への、ひいては人類への背信となるのではないか。しかし、ああ、あんまり思い出したくないなあ、だいたいあんまり覚えていないしなあ、などなど、クリスマスや年末年始に浮かれ騒ぐ世間を尻目に、埼玉県内の自宅で一人小さな胸を痛め(いや胸は小さくない、私のブラのサイズはHカップだ)、あーでもない、こーでもないと悩み倒していた折も折、破滅派同人のリーダー的存在の藤城孝輔先生と会うこととなり、山谷先生との出会いの一部始終を語れと迫られるに及んでとうとう覚悟を決めた。こうなったら洗いざらい告白してしまおう。そうして拙い一文ではあるがはめにゅーに掲載し、『アウレリャーノ』を通して山谷感人という人物に興味を持ったすべての人への捧げものとしよう。

 

前置きが長くなったが九州行の旅程は以下の通りであった。

11/18(木)羽田空港から福岡空港へ

11/19(金)大相撲九州場所見物

11/20(土)特急かもめ号で福岡から長崎へ移動

11/21(日)ジェットフォイルで長崎港から五島福江島へ移動

11/22(月)五島観光バスで福江島見学 その後フェリーで長崎へ移動

11/23(祝)長崎空港から羽田空港へ そのまま帰宅(この日は東京文フリ&十一月合評会だったのたが体調不良で参加できなかった。すまない)

この旅においては、福岡での相撲見物や福岡市内の禅寺見学、五島福江島での観光バスなど、実りある思い出も数々あるのだけど、皆さん、そんなものには興味はなかろう。さ、参るぞ。十一月二十日の夜に山谷先生と会った。実は翌日二十一日にも会っている。以下はその全記録である。長い話になるから読者諸兄姉には心して読まれるがよい。

 

もともと山谷先生とは面識がなく、破滅派編集会議でオンライン参加した姿をお見かけしたことがあったくらいだ。その後ツイッターでフォロワーになり、猫好きが縁で二、三度電話で話をした。それだけだ。それなのに長崎まで行って会ってみようと思い立ったのは全くの好奇心である。

キャリア二十年の作家で破滅派代表である高橋文樹先生に、アル中、ヒモ、クズ、云々と言われ続けたダメ人間がどれほどのものなのか見てみたい。大相撲好きな私は福岡で行われる九州場所には毎年行っている。福岡から長崎は特急で二時間強ほどの距離でハードルは低い。ついでにかねてから憧れだった五島列島に行ってみたいとも思っていた。相撲と旅情との間に珍しい動物でも見学してみるかくらいのノリだった。全くもって上から目線の鼻持ちならない態度ではないか。それを知ってか知らずか、山谷先生は長崎に来るなら歓迎すると言ってくれた。案の定、私は傲慢の報いを受けることとなる。

 

ホテルモントレ。異国情緒ある素敵な宿だったのだが……

 

待ち合わせ場所は宿泊場所のホテルモントレ長崎にほど近いオランダ坂だ。山谷先生の提案で、出会いが盛り上がるようにと「絵になる」オランダ坂を選んだ。オランダ坂と言われても坂の下から坂の上までのどの地点のことを言うのだろう? という心配は無用だった。坂のふもとにちゃんと「オランダ坂」の看板があって、そこに二人の人が立っていた。顔を見てもマスクでよく分からない。向こうも同じことを思っていたようで胡散臭そうな目で私を一瞥した後、「大猫さん?」と聞いた。山谷感人先生であった。破滅派冊子の表紙写真のような退廃的な陽気さは微塵も感じられず、濃い紺色のダウンジャケットを着たごく普通のお兄さんに見えた。四十代後半の山谷先生も還暦間近の私から見ればお兄さんなのは当然だが、それを差し引いてもそれほど老けては見えず、実年齢よりも若く見えた。もう一人、タク君という「後輩」も一緒にいた。こっちは正真正銘のお兄さんで三十代だと言うけれど二十代にしか見えない茶髪のイケメン。せっかくなので長崎歩きに詳しい後輩を連れて来た、という話だったがそれは嘘だったと後で判明する。

 

さて、初対面の挨拶を述べあい、ではオランダ坂を上って坂上の景色を楽しむのかと思いきや、「坂上ります?」と面倒くさそうに聞いてくるではないか。そういう私も昼間福岡市内で歩き回って、この時万歩計の歩数が一万歩を超えており、坂は少々きついなと思っていた。思惑は一致してオランダ坂は上らず、中華街の方へ「観光」に行くこととなった。そんなわけで出会いは全く盛り上がらなかった。

出会いも盛り上がらなければその後の長崎歩きも盛り上がらない。山谷先生は「次はXXを案内します」と宣言しては、すたこらサッサと先を歩き、タク君もそれに続き、私は遅れぬよう後を付いて行くのに必死という図だ。一人は地元民、一人は若者で、夜歩きなどわけも無かろうが、還暦間近のおばちゃんには夜の石畳の坂道は恐怖でしかない。しかも強度の近視で出先ではたびたび段差でこけたり階段から転落して大怪我をしている。ついこの間も温泉の段差でこけて湯船に落ちて怪我をしたばかりだ。

名所に着いたら着いたで説明や案内をしてくれるでもなく、勝手に見ろとばかりに後ろに下がってスマホを見始めたりするものだから、仕方なく暗い中で案内板を無理やり読んだり、フラッシュを焚いてピンボケの写真を撮ったりした。名所の滞在時間は一~二分くらいで、見終わったら次の名所へひたすら歩く、が延々一時間以上繰り返された。

 

一人でさっさと丸山公園へ入って行く山谷先生の図

急坂をさっさと下りて行く山谷先生とタク君の図

 

事前にラインで相談していた時からなんとなく歯車が合っていない気がしていた。子供のころから長崎に住んでいる山谷先生は、長崎市内など自分の裏庭のようなものだと豪語し、どこでも案内してやるぞ、どこに行きたいかと何度も聞いて来た。私としては夜に名所観光したところでどうせ開いていないし、長崎行きは山谷先生に会うのか目的だしで、良さげな場所を探してゆっくり食事でもしながら、破滅派第16号「追悼・山谷感人」特集や『フェイタル・コネクション』の話でもしようと思っていた。しかしまあ、せっかくのご厚意だし、長崎の地元の人ならではのスポットにも連れて行ってもらえるかもしれないと期待して、思案橋とか丸山とか中華街とか嵩福寺とか適当な場所を挙げておいた。

今にして思えばそれが良くなかった。なぜか山谷先生は何が何でも私に「観光」させねばならぬという強い使命感を持っていたようだ。生まれ育った長崎の街を旅人に堪能してもらいたいという殊勝な志があるようには見えなかったで、単に外から来た人にカッコつけたかっただけなのかもしれない。いずれにしても訪問したいと声をかけたのは私なので文句を言えた義理ではない。棒のようになった足を励まして転倒の恐怖に怯えつつ、一生懸命に後を付いて行ったのであった。

かと言って山谷先生が私を歓迎していなかったと考えてはならない。これは先生なりの歓迎の表現であることは容易に想像がついた。じゃれ合うようなダチではないからタメ口はきけないし、妙齢の女性ではないから近くに寄りたくもない。いきおい会話も弾まない。要するに慣れない間柄の人が来てちょっと人見知りが出ていたのだろう。このナイーブさ。中学生のようではないか。

ところで高橋文樹先生はこの日のためにとわざわざ洋服まで送ってやったらしい。こぎれいな服で私に会わせたかったのだろうか。なんだかんだ言って故郷のおっかさんのような気の配りようだ。あるいは山谷先生が服がないと泣きついたのかもしれない。

これは中華街での記念撮影だ。山谷先生は裾をめくって高橋先生にもらった服を披露している。

 

夜の観光案内中の数少ない会話の中でも、出てくるのはたいてい「高橋君がね、こんなこと言っててどうでこうで」と、ほぼ高橋先生の話であった。どんだけ高橋さんが好きなんだよと思わされると共に、二人の絆の深さそして妖しさがほの見えたようで、『フェイタル・コネクション』のような怪作が生まれるのも無理はないと感じたのであった。

その割には文学関係の話題を振っても一向に乗ってこない。『フェイタル・コネクション』について聞いてみても「あれは高橋君が話を盛ってるから」と取り付く島もないし、「追悼・山谷感人」特集号の感想を聞いてもあまり関心はなさそうだった。今回の長崎訪問の目的がさっそく潰えてしまった。

 

足は痛いし寒いし、どこか暖かいところで酒でも飲みたいと提案したのだが、山谷先生、ふとコンビニに入って行って発泡酒を三本買ってきた。それもロング缶。

ちょっと待った、外で飲むの? この寒空で?

「いや、歩き飲みっすよ」

飄々とのたまってそのまま缶を開けそうな勢いだ。冗談じゃない、歩くだけでも命がけなのに歩き飲みなんかされてたまるか。せめてどこかで座って飲もうと頼むとさすがに承知してくれた。

 

 

眼鏡橋、黙子如定という偉いお坊さんが掛けてくれた(と山谷先生に教わった)美しい橋、中島川の岸辺は公園になっていてこの橋を眺められるベンチに腰を下ろし、さて飲もうかと発泡酒を取り出した。どうしてビールにしないのだろうと思ったのだが、そういえば破滅派の飲み会で高橋先生が買ってくるのもやっぱり発泡酒だったことを思い出す。もしや二人の貧乏暮らし時代の人知れぬエピソードがあるのではと、ここでも下衆の勘繰り。

寒いけどさんざん歩き回った後なので発泡酒が旨い。腰を落ち着けたところで今度こそ文学関係の話ができるかと思っていたら、ずっと黙って付いてきていたタク君が、「自分、これで失礼します」と言い出した。

「なんかオレなんかがいる雰囲気じゃないんで」

そうか、悪いことをした。街歩き中、私と山谷先生ばかりで喋っていて(それでも会話は少なかったのだが)、話の内容も内輪ネタばかりでタク君は入ってこられなかったろう。余裕がなかったとは言え居心地の悪い思いをさせてしまった。などと詫びの言葉をクドクド述べたのだが、山谷先生は落ち着き払って、

「まあ、いいからここへ座ってとりあえず飲め。話はそれからだ」

と発泡酒を手渡した。タク君はその言葉に素直に従って発泡酒を開けた。山谷先生は重々しく頷いて私の方を振り向くと、

「こいつも苦労してるんですよ。実は一緒のところに住んでいて」

と言い、今度はタク君を振り返ってキザなセリフを決めた。

「お前の方がよっぽど小説みたいな人生だよね」

故郷長崎を十代で後にして三十代になってから戻った山谷先生に地元の「後輩」がいるのはなんだか変だなと思っていたのだ。ここからはタク君の物語となる。

 

タク君は重度のギャンブル依存症だ。先に述べたように見た感じはまだ二十代の美青年で、話ぶりも好ましくてとても深刻な危機のただ中にある人には見えなかった。東北の富裕な農家の出身で、いかにも育ちが良さそうなおっとりしたたたずまいは、可愛がられて育ったのだろうと想像がつく。

しかし彼のギャンブル狂いは筋金入りだ。どんなきっかけでギャンブルにハマったのか聞き忘れたが、とにかく家産を食いつぶすほどパチスロに入れ上げたらしい。よくある話だがギャンブルに入れ込んでこしらえた借金を親兄弟が肩代わりして、二度とやるなと懇々と諭される。二度とやりませんと誓ったその舌の根も乾かぬ内に、再び繰り出してまたまた借金を作る。また肩代わりしてもらう。その繰り返しで最後は親兄弟親族縁者すべてから援助を拒否される。都内に家が一件建てられるほどの金をつぎ込んだと言う。

「やらないと禁断症状が出て死にたくなるんっス」

夜風に端正な横顔を吹かせながらそんな話をするタク君は、長崎に来て四年だと言った。地元に居られなくなった経緯は聞くまでもない。ギャンブル依存症に救済の手を差し伸べる施設は全国でも二箇所しかなく、そのうちの一つの長崎市内の施設へ入居したと言う。山谷感人先生が住む同じ施設だ。今は山谷先生だけが心を許して話せる人だと言った。

「オレも話ができる相手はタクしかいないんです。他は体も精神もやられたヤバいジジイばっかりで」

「あそこにいるとオレらが一番まともに見えるよね」

「結構、二人でいることが多いんで、今日も一緒に連れて行こうかなと思って」

友達なのか先輩後輩なのか、はたまた親分子分なのか、関係性はよく分からないし、それぞれの状況は複雑だが、二人の間には確かに友情が存在しているようで、ちょっとほっとした気分になる。

 

とは言え寒い。暖かいところで飲みなおそうよ、と本日何度目かの提案をしたら、さすがに山谷先生も寒かったと見えて同意した。

「大猫さん、今日はおごってくれるの?」

「もちろん!」

そこで飲み屋へ移動した。アーケード街の中の間口の狭い居酒屋だった。やっと暖かい場所で飲める、何よりも芋焼酎のお湯割りがありがたい。ああ、あったまる。

私の息子は身長百九十五センチあり大変よく食べる子供だった。三人家族なのに食事は常に十人前くらいこしらえていた。そのせいか息子が成人した今でも、若い人がガンガン食べるのを見るのが大好きで、若い人と食事に来ると大量に注文して相手を困らせることがある。ここでも張り切ってあれもこれもと注文してしまった。山谷先生は飲む時は食べないタイプのようだし、タク君は細身で大食いする風でもない。遠慮せず食え食えと勧めるもののなかなか箸が進まない。

結局はタク君の話を肴に飲んだ。ギャンブル依存症ゆえに愛する人に最後の最後で信じてもらえなかった話、可愛がってくれたおばあちゃんを悲しませた話。おのれの利害に直接関係がない哀話には安心して感情移入できるものだ。すっかりいい気分になって、「どんな境遇になっても、親は子供のことを生涯気にかけるものだ、帰れないにしても月に一度くらいは電話して声を聞かせてやりなさい」、とかなんとか月並みなことを偉そうに言ったような気がする。そう、気がするだけだ。なぜなら覚えていないから。実は居酒屋でのことはお湯割りを飲んだことしか覚えていない。

 

気が付いたら目の前は白いゲロが広がるテーブル。箸が散らばりコップがひっくり返っている。周りの人が騒いでいる気配がする。が、起き上がれない。ヤバいことになった、どうしようと心で思うもののどうしようもない。ここでまた記憶が飛ぶ。

次に気がついた時はどこかのベンチだった。誰かがしきりに声をかけてくれて起こそうとしているが、体が全く動かない。どうやらホテルの前まで来ているようだ。タクシーで運んでもらったのかな、と考える。

目の前に真っ赤な郵便ポストがあって誰かが倒れ伏している。見覚えのある紺色のダウンは山谷先生だ。なんだ、こいつも潰れたのか、たかだかウーロンハイしか飲んでなかったのに、γ-GTPが四桁とか吹聴している割には弱いな、と自分の醜態を棚に上げて考えていた。

ところでここに「土下座疑惑」というのがある。後日聞いた話だが、ベンチに寝ている私に向かって、山谷先生が、

「大猫さん、セックスさせて下さい!」

と叫んで土下座したと言うのだ。返事も聞かぬ間にお漏らししてそのまま撃沈したのだとか。何でも山谷先生自身が高橋文樹先生にラインで報告したらしい。言うまでもないが私にはそんな記憶はまったく無い。

この話については三通りの解釈が可能だ。

一 すべて山谷先生の作り話

二 酔って潰れた山谷先生の見た夢

三 本当に土下座した。

私の記憶では山谷先生はポストの前で倒れていたのだが、実はそれが土下座だったのだろうか。でも山谷先生は私にお尻を向けていたように思う。誰に土下座していたのだろう? ポスト?

 

土下座現場。ホテルモントレ前のベンチと郵便ポスト

 

次に気がついた時はホテルのベッドだった。コートを着たまま寝ている。この時点でことの成り行きを悟ったがまだ動けず、惨めに唸り声を上げて再び気絶した。マジな話、この時寝ゲロを吐いていたら窒息死していただろう。夜明け近くになってやっと身体が動くようになり、なんとかシャワーを使って着替えてもう一度眠った。ああ、やっちまった。死ななくて良かった、無事だった、頭の中はそれだけだった。

朝の十時頃、気分は悪いが動けないこともない。午後二時の五島行のジェットフォイルにはなんとか乗れそうな感じだ、とほっとしたのもつかの間、室内の浅ましい光景が目に入ってどどーんと落ち込んだ。ナイトテーブルの上にペーパータオルとエチケット袋が鎮座ましましている。床にはあらぬ方向へ取っ散らかった靴やスリッパ。部屋へ連れ込まれた時の騒ぎが分かろうと言うものだ。姿見に映る還暦前の間抜け面に向かって、アホンダラと呟く。

ここまで運んでくれたのは多分タク君だろう。細身のタク君では巨体の私を抱えきれるわけがなく、ホテルの従業員まで巻き込んだに違いない。なんたる醜態、思い返すだけでも、いや記憶がないから思い返せないのだが、ようやく理性が戻った頭で昨夜の光景を想像するだに恥ずかしさで死にたい気分だ。カッコつけて説教たれておいてこのざまだ。施設でゲロ吐いたり寝グソした老人のことを笑って聞いていたけれど自分も似たようなものだった。もしかして飲み代も払わせてしまったのではないか、タクシー代も出してくれたのだろう。生活保護の人になんてことをさせてしまったのか。ともかく後で弁償なりしようと高橋先生から住所を聞いた。

それからラインで山谷先生に詫びを入れたらすぐに返事が来た。詫びの言葉には答えず、「出島に行きませんか? 観光しましょう」だった。この大二日酔い状態でまだ出島とは、どこまで観光にこだわってるんだろう。でも昨晩さんざん世話を掛けた負い目があるし、飲み屋代やタクシー代も精算しないといけないからと思い、待ち合わせに指定された湊公園へ重い脚を引きずって出向いた。

公園にたどり着いてぼーっと座っていたらでかいハエが飛んでくる。昨夜のゲロがどこかにこびりついているのかもしれない。公園でハエにたかられるとは、まったく自分に相応しい図だ。それにしても山谷先生が来ない。昨夜はネカフェに泊まったと言っていたがまた眠ってしまったのかも。こっちだってだるいし眠いし、まあ来なくても良いかなと思っていた。一連の騒ぎの最後が「山谷感人の不在」で終わっても面白かろう、昔のヨーロッパ映画のテーマみたいだなと考えて一人悦に入っていた。

と、よくよく見たら広い公園の向こう側で発泡酒を持った男がしゃがみ込んでいる。なんだ、山谷先生だ。遅れてきておいて相手を探そうともしないとはさすがだ。もしかしたら二日酔いで私の顔や風体を見忘れたのかもしれないが。仕方なくこっちから寄って行って声を掛けたら、「じゃあ出島に行きましょう」とさっさと歩き出す。これじゃ昨夜の繰り返しだ。歩きながら聞いたら、昨夜は正体もないほど酔っぱらっていたにもかかわらず、無理やり飲み屋の代金を払ったらしい。我ながら律儀なことだ。

「長崎に来たんだから出島に行こう、出島の中で飲みなおそうよ」

少しずつタメ口になっているなと思いつつ、この二日酔い状態でまた飲むのかとゾッとしないものがあったが、昨夜さんざん世話をかけた負い目もあるし、注意しながら飲むことにしてコンビニで今度は私が買った。山谷先生には発泡酒を買って、自分だけビールにした。

 

江戸時代の海に浮かんだ出島は明治時代の埋め立てで消えてしまったが、長崎市による復元計画が進み、商館や蔵などが復元されて今や有数の観光スポットになっている。この日は日曜日で大勢の人が出島に続く橋を渡っているのが見えた。長崎市民は無料だが外地の人は五百二十円。一番蔵だとか船頭部屋とかカピタン部屋とか、興味深い建物がいくつも並んでいたが、何しろ二日酔いで体力がない。それは山谷先生も同じと見えて、ダラダラと適当に建物を回っていると早々にくたびれてしまった。当然ながら歩き回ると喉が渇く。

「飲もうか」

「うん、飲もう」

ああ、昨夜の惨状も忘れ果て、魚心あれば水心、飲む相談だけは即座にまとまる。

施設見物はとっとと切り上げてベンチに座って飲み出した。現金なものでビールが旨い。しかしやっぱり話が弾まない。話題を見つけて話始めてもキャッチボールが続かないのだ。

「長崎のことならなんでも聞いて下さい。オレは詳しいっすよ」

と言うけれど、私は長崎のことはあまり知らず、何を聞いていいか分からない。昨夜さんざん世話をかけた負い目もあるし、なんとかトピックを捻り出そうとするが、二日酔いのアタマではろくな考えが浮かばない。原爆の話をするのもなんだし、大浦天主堂の信徒発見の話をするような雰囲気でもないし、と迷っていたら、幕末の人物で誰が好きかと尋ねられた。もしかしたら坂本龍馬について聞いてほしいのかもしれない。昨夜も丸山公園とか料亭花月などゆかりの名所に案内された。でも私は龍馬にはあんまり興味がなく、幕末の人物と言えば土方歳三とか緒方洪庵とか長崎とは全然関係ない方面しか思いつかない。昨夜さんざん世話をかけた負い目もあるし、仕方なくシーボルトや娘のおいねの話などぽつぽつしたが不発に終わった。まあ昨夜撃沈してボロボロになったくせに、性懲りもなく迎え酒をやっているような連中が歴史談義とはちゃんちゃら可笑しい。もっとも彼は別のことを考えていて上の空だったのだ。ほどなくそれが判明する。

 

雨が降って来たので出島を出た。そろそろ港へ行こうかと思う。長崎港は出島の目の前だ。五島行きのジェットフォイル乗り場がある。

迎え酒で世界が再びぐるぐる回り出したのをぐっとこらえ、外交的常識的笑顔をこしらえて、昨夜、今日とお世話になりました。本当に楽しかったです。ここでお別れしましょう、と言った。言ったのだが、なぜか山谷先生は付いてくる。そのうちにジェットフォイル乗り場に着いてしまった。

「オレも五島に行っていい?」

へ?

「名残惜しいよ。まだ一緒にいようよ」

何を言い出すんだとうろたえる私。いや、そんなこと言ってもジェットフォイルは満員だし島に渡っても泊まる場所なんかないし、と慌てふためく私に、

「フェリーもあるしオレは野宿でも平気だ。五島に行っていい?」

マスクをした顔が上目遣いに見ている。

「もうオレと大猫さんは親友じゃないか」

と言って肩を抱いてくる。この激しい飛躍は何としたことだ。話もろくに弾まない者同士がいつの間にか親友になっている。

もしやこれが話に聞く「ヒモ」の生態なのだろうか。女と見れば誰かれ構わずヒモになる機会をうかがうのか。しかし相手を間違えてやしないか。一回りも年上の家庭持ちのおばちゃんだぞ。内心で悩みつつ、ああだ、こうだと付いて来られては困る理由を説明するのだが、いっかな聞くものではない。

「決めたから。一緒に行く」

いや、勝手に決めるな。

「五島に行ったら高橋君に報告しないと」

高橋君、いやー、オレらできちゃったよ、ってか。マジでやめてくれ。

 

小雨降る長崎港内をうろうろしながらあれこれと押し問答が展開される。議論は堂々巡り、ていうか議論になってない。私がどんな理屈を捏ねようが「五島に行く」の一点張り。内縁の奥さんとの別れ話に臨んで警察を呼ばれたという理由が何となく分かって来た。強制排除しか手がなかったのだ。

それでも山谷先生がぽつりとつぶやく本音を聞いた。

「もう施設に戻りたくない。監視された生活って分かる? 死んだ方がましだよ」

ああ、そういうことか。

施設での自由のない生活に嫌気がさして、なんでもいいから今の状態から逃げ出したかったのだ。それで目の前の誰かに縋り付いてみたのだろう。老若男女問わず、どこの誰であっても同じことになったのかもしれない。ひたすら「一緒に行く」と言い続ける邪気のない顔を見て、これはこの人の本能なのだろうなと想像した。ふわふわ漂う宿木の種が、たまたまひともとの木を見つけたまでのことだ。枯れ木だろうが朽ち木だろうがなりふり構わず憑りつこうとする。

そうやって何人もの女性が彼を養ってきたのだろう。さみしがりの若い女はとりわけ宿りやすかっただろう。「愛」や「恋」を蔓としてするする上っていけたろうし、憑りつかれた方も宿木のあだ花に包まれて幸福を味わう瞬間もあったかもしれない。それが山谷感人の生き方であり生き様でもあったのだろう。

仮にあと三十年若かったらと想像してみる。さみしそうな顔の男にほだされて五島列島へ逃避行、山谷さんは私が責任持って面倒見ますからと施設団体へ連絡し、東京都荒川区あたりの2Kのアパートで暮らし始める。生活は半年で破綻して別れようとするが男はのらりくらりと居座る。罵っても殴っても蹴っても出て行かない。最後は業を煮やして警察を呼ぶ……いや、私のことだから台湾ヤクザの竹聯幇に頼むかもしれない。昔知り合いがいたのだ。あの頃は十万ほど出せば三下がアルバイト感覚で引受けてくれたはず。山谷感人はホームレスの体にして簀巻きにされて荒川へ投げられる、あるいは酔っぱらって外で寝ているところに濡れタオルを顔に置かれて……

おっと、そんなこと考えている場合ではない。ここは穏便に事を荒立てずに収めなくては。

 

私と会ったのがきっかけで施設が嫌になって飛び出したなんてことになったら、さんざん貴方の世話をして来た高橋先生に会わせる顔がないではないか。当然破滅派にもいられなくなる。破滅派は私にとってはとても大切な場所なのだ。少しでも友達と思ってくれるのならどうかそんなことはやめてくれ。タク君にもあれだけ慕われているのに彼を裏切ることになるじゃないか。なんだったら五島から明後日戻って来た時にまた会ってもいい。とにかく早まったことはしてくれるな。

情理を尽くし、言葉を尽くして説得したつもりだったが、なんだかマンホールに向かって演説したようで、一向に手ごたえがない。とりあえず私が受け入れそうもないことだけは見て取ったようだった。

「じゃ、帰ります」

言い捨てて山谷感人は背中を見せた。また戻って来て駄々をこねるのではないかとちょっと心配したが杞憂に終わった。見込みのない相手にはそれ以上付きまとわずさっと引っ込むところ、これもまた宿木の本能なのかもしれないと、妙なところで感心した。

ロング缶一本程度で大して酔っぱらっていなかったことも幸いした。これが大酔状態だったなら、ジェットフォイル乗り場で衆人環視の中、「オレを捨てないでください!」なんて土下座されたかもしれない。そうなったら縋る山谷先生を海へ蹴り落として逃走するしか手がなかったことだろう。

 

別れの五島行きジェットフォイル

 

這う這うの体でジェットフォイルに乗り込み福江島に着いた。体調は依然として良くならず、島で一番おいしいと評判の海鮮居酒屋を予約しておいたのに出向く元気もなかった。翌日のバスツアーでも胃腸の調子は悪いままでろくに食事も摂らなかった。最終日、帰る間際に長崎空港内でアナゴの刺身を食べたのが唯一の美食の思い出となった。

羽田行きの飛行機の窓から長崎の地を一望した。ようやくゆっくりと眺めた長崎は「風光明媚」の一言だった。入り組んだ緑の山々、山裾深くまで切り込んだ青い内海。よくもこの美しい土地に原子爆弾など落とせたものだ、などと感慨に耽った。天と地に祝福された絶景の地、外国との窓口として世界に名を馳せた歴史の街、最後の神父が去ってから数百年、迫害に耐えて信仰を守り続けた潜伏キリシタンの土地。しかし私の長崎の思い出は寒くて暗い石畳と眼鏡橋のたもとで飲んだ発泡酒の味だ。ゲロの味とは言ってくれるな。何しろ覚えていないのだから。

 

山谷先生の印象を総括すると、シラフの時はちょっとシャイだけど普通の人だったと思う。どんな変人でも普通にしている時はあるものだろうし、ましてロック精神あふれる山谷先生のこと、初めて会う年上の人には礼儀正しいのかもしれない。酔っぱらった時のことは覚えていないので何ともコメントできない。かえすがえすも土下座を覚えていないのが残念だ。別れに臨んでチラ見せした「ヒモ男」の本性をもう少し見ておけば面白かったかもしれないが、しょせん私は通りすがりの見物人にしかなりえない。怠け者でだらしのない自己中の酒飲みという点で、自分と同じ匂いがする人種だったように思えて、どうにもなんとも言えない気分だ。水商売の母親に半ばネグレクト状態で育てられた子供の共通点だろうか。

タクくんには断固とした好評価が付けられる。彼は命の恩人だ。ギャンブル狂だろうが故郷を石もて追われようが、誰が何と言おうとタク君は私のヒーローだ。飲み屋でゲロ吐いて倒れた巨体のおばさんを、逃げも嫌がりもせず(嫌だったに決まってるが)、自腹でタクシーに乗ってホテルの部屋まで送り届けたことは、人として尊敬に値する。どうか自信を持って生きて行ってほしいと切に願う。

 

後日、山谷先生からラインの便りが届いた。

「大猫さんはロックだよなってタクと話してます」

それは褒め言葉だと受け取っておこう。