約十年前、二十四、五歳の往時、僕は遊民を気取って生きており、僅かでも金銭が出来れば、いいえ、借金を重ねてでもイザよ旅へと、所謂、世俗から逃避するといった日々を捲ってました。

 故に、この旅行記で安吾が訪れている、伊勢やら、仙台、吉野などは全て、僕も行った事が有る……どころか、大阪に出奔の如く旅した折には、着替えもバックすらも持たず、この作品集だけをポケットに入れて、安吾が檀一雄などとエゲツなく、退廃的に飛田遊郭や、ジャンジャン横丁・界隈で遊んでいる作品、『道頓堀罷り通る』を模倣しようと挑戦した事実すら有ります。
 無論、結局は、単に一般のヒューマン・レースから、「ドロップアウトしたい現代人」なだけだった僕の旅と、昭和二十年代半ば、「時代の寵児で書く機械」、作内で地域の歴史、風情を自己流でも掘り下げて、探究した安吾の旅とは比べようもなく違いますが、その相違やスケールの大きさは差し置いて、呑む、絡む、散財をする、また呑む、時折おセンチになる等の、決定的な破滅的・旅人に僕を導き、一生涯、逃げられぬ程に解脱させたのは、確固としてこの作品集であります。見たまえ、堕落論を書いて、真摯に堕落した、安吾の美しさと遣り切れなさが、旅でのエピソードを通して、ここに有る。今でもこの作品集を読む度に、僕は破滅的な旅に野太く誘われて、全てを捨ててでも、旅発ちたい気分と日々、逃れられない格闘をさせられています。
 更にそうした、破滅への旅へと連れ去られた追憶、現在でも衝動を与える気分だけでは無く、僕の郷里、只今、暮らしている長崎についての作品『長崎チャンポン』。
 この作品で安吾が語る、端的に纏めると「長崎は意外にもエキゾチック、開放的なトコロが少なくて、まことに市街も家も人間も古風」との意見は、正に言い得て妙で、僕もそれを常に感じて長崎の往来を闊歩している為、「実生活が最近、無聊で詰らないのは、その因習めいた土地柄の所為であるよな」と、破滅していても前向きに進めない、リアルに悲しい言い訳を感じさせる作品集でも有ります。また、文学的な評価でも、「安吾は小説よりエッセーなぞが上手い」と、云われ、安吾先生、「小説が全てだ!」とブチ切れて暴れた逸話も有りますが、この作品集や、競輪事件簿、歴史モノ、類似紀行記なぞを読めば、「矢張り、安吾はそうだよね」と感じられ、デカダン文学者論を学ぶ上でも、貴重な文献だな、と、根気が無く何も書きたくないと僕に通ずる方達の、眠れない夜の暇つぶしにもなる、デカダン研究材料でも有る事を記しておきます。
 いずれにしても僕の、酔いどれた意見はさておき、安吾が、地獄の底の底から、「ようこそ! 破滅の日本案内へと」と、今にも語りかけて来るような作品集です。
 追記・僕が持っている角川文庫の絶版、『安吾新日本地理』は、Amazonで見当たらなかった為、ちくま文庫の『坂口安吾全集・18』でこの作品集は、読めると思います。

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