康暦の世の、秋のことなり。 周防の国より長門の奥処へと、ただ独り草鞋の緒を締め直して巡礼の歩みを運ばせし僧・浄雲は、赤間関の荒れ果てたる浦にて、奇異なる裂を見たり。 その日は朝より陰欝なる雲垂れ込め、玄界灘より吹き […]
色は、痛みに似たり。 青玄の眼には、物心つきたる頃より、この世の凡百の事象が、過ちの如き鮮やかさをもつて映じてゐた。常人の眼が形を捉へ、光を分かつに留まるべきところを、青玄の瞳は、万象の底に潜む感情の滓、肉体の腐れゆ […]
千鶴が小屋に棲みつきしより、染物小屋の空気には、奇異なる凪が訪れた。 朝、引き潮の瀬戸より吹き込む風は、岩肌を削るやうに冷たく湿つてゐたが、千鶴はその風の中を物音も立てずに歩み、浜に打ち上げられたる流木を拾ひ集めては […]
染色の刻は、夜半に訪れた。 海鳴りは風の息のやうに低く唸り、満ち潮の飛沫が小屋の羽目板を濡らす中、青玄は生成りの麻布を三尺ばかり切り揃へ、水槽に浸して固く絞つた。糊気を抜き、繊維の奥まで潮気を湿らせたる布は、青玄の指 […]
夏至を過ぎたる頃より、青玄の肉体は、決定的なる崩壊と変容の坂を転がり落ち始めた。 朝、井戸端に立ちて手桶の水を掬ひ、己の顔を映したる青玄は、そこに立ち現れたる異形を凝視して立ち竦んだ。 両の眼球——かつて澄みたる黒 […]
突風は、染物小屋の羽目板を紙風船のやうに震はせ、関の瀬戸の荒れ狂ふ潮飛沫を、容赦なく土間へと吹き散らした。 吹き飛んだ蔀戸の開口部より、夜の海が黒々と口を開けて覗いてゐる。壇ノ浦の早瀬は白き牙を剥き、渦巻く波頭が岩礁 […]
沈む刻は、静寂そのものであつた。 千鶴の細き両腕に抱き抱へられ、無垢の白麻の反物を幾重にも身に纏ひたる青玄は、三番目の大甕の縁に、ゆつくりとその身を預けた。 胸の裂け目より溢れ出づる黄金色の液は、白麻の繊維を芯まで […]
土蔵の隙間より、白み始めたる朝の光が、埃の舞ふ闇を細長く射し貫いてゐた。 行燈の油はとくに尽き果て、芯の先が白煙を上げて燻る中、浄雲は膝の上に広げたる草紙の、最後の頁をそつと閉じた。 指先が、強張つて動かなかつた。 […]
死者を立たせるには、関節の音を聴かねばならぬ。 明治十年二月、雪解け泥の跳ね返る浅草観音堂の裏手、水茶屋の軒が密集する淫靡なる路地の奥処に、外光を遮断した土蔵破りの写真場があつた。 暗室を兼ねたるその六畳敷きの間に […]
浅草の暗室から引き摺り出された時景の手首には、冷酷なる鉄の手錠が噛まされてゐた。 抜刀隊の警部補らは、時景が日光を嫌ふ体質であることを知るや、黒き厚布の頭巾を頭から乱暴に被せ、泥濘に濡れたる荷馬車の荷台へと投げ込んだ […]
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