(3章の3) 冷房がなく、衣類の質も悪かった時代。夏の夕暮れは、気だるい汗に覆われていた。どこにも逃げようがなかった。わたしは、ハンカチで絶えず汗を拭っていた。汗はそのままにして…
(3章の2) それにしても汗だくの感触は、夕日に赤く染まった田舎道によく合う。とうの昔に忘れてしまった感覚を思い出すというのは、さっきの駄菓子もそうだが、贅沢なもののうちの一つだ…
(第4話) 女は当然依本に視線を送ることなく、依本が今来た方へと進んでいった。 歩行者用の信号が点滅し、依本は渡りきってから通りの向こうを見やった。しかし女の姿はなかった。…
(3章の1) ずっと夕暮れだった。 夕日が西の空に大きく浮かび、稜線に沈みかけている。ここは、いつまでたっても夕暮れだけが続く世界だった。 夕暮れは一向に、闇へと突き…
(第3話) 「内田、かぁ」 依本のちょっと大きめの呟きに、店のオヤジが怪訝そうに顔を向けた。 「いやゴメン、昨日来た編集者のこと。なんか変わった男だったからさ」 「じ…
(2章の3) 汗ばんだ手で、別の菓子を袋から取り出す。駄菓子の入っている袋はすべすべの薄い紙で、口の部分が細かくギザギザになっている。その袋から取り出した菓子は、ビニールのチュー…
(2章の2) 開いているガラス戸の幅は痩せた子どもが通れる程度のもので、わたしは戸に手をかけて横に滑らせた。レールに砂が噛む、いやな音が響き渡る。顔をしかめながら店に体を入れたあ…
(第2話) 翌日、依本は編集者の内田に電話をし、前日に聞き忘れたことを二、三質問した。 電話をしたのは、質問もさることながら仕事の依頼が本当に本当なのか探りを入れたかった…
(2章の1) 塔の湯の集落に入る。 道のでこぼこが均されている。もちろん未舗装のこと、完全な平らというわけではない。ただ、山道のように、えぐられたような窪みも、ごろた石もな…
(第1話) 駅で編集者と別れた依本は、馴染みにしていた「大葉」の暖簾をくぐった。 「いらっしゃ……、なぁんだ、ヨリさんか」 「なんだはないだろ。客だぜ、おれは」 オ…
(1章の3) 川があり、砂利道は、それを渡るほんの十数歩分だけ舗装路になる。錆びた欄干に手を付いて下の流れを覗き込むがよく見えない。それならばと、橋の脇から降りてみる。足元がよく…
(1章の2) となりの荒れ地には墓があった。風雨に晒され、砂埃に打たれて劣化してしまったのか、下の方は白茶けている。 ざっと靴底が滑る。砂利に足を取られ、はずみで小石が靴の隙間…
(1章の1) 砂利道はずっと下っていた。 夏の終わりの巨大な夕日が赤黒い光を落とし、陽炎と影で見通しが効かず、道は果てしなく続いているかのようだった。 木造の粗末な平屋が…