私を破滅させたのはこの作品

『映画狂人日記』

おまえを破滅させた本の書評を寄稿しろ、さもないと取材に押し掛けるぞ。と強迫してきた友人に対して「つまり、私の破滅っぷりが興味深いということか。失礼千万である」と私が憤ったかどうか。 そんなことはどうでもよい。

映画の形式は極めて全体主義的な大衆煽動装置である。と 『映画狂人日記』の筆者蓮實重彦が言ったかどうか。それもたいして重要ではない。

問題は、本書(『映画狂人日記』)自体が全体主義的な大衆煽動装置であり、読者を錯誤に至らしめる心裡留保や通謀虚偽表示そして数々の強迫・詐欺表現によって生真面目な(阿呆とも言う)私の感覚・思考を惑乱・破壊し尽くしたという点にある。その過程について私を例にとって短く綴ってみると、およそ以下のようになる。ちなみに蓮實文体のエッセンスを凝縮するために、鍵括弧内の表現は必ずしも『映画狂人日記』の文章や蓮實氏の文章を引用していないことをここに言い訳しておく。

まず蓮實氏は、感情的かつ攻撃的な表現で私の気分を高揚させ、尖鋭さを装う衒学的な虚仮威しで私の感覚を感覚質ごと強奪していく。

「黒澤明は映画史において存在しても良いが存在しなくても全く問題ない監督である……」
(お、凄いこと言う)
「ジョナサン・デミの下品極まりない『羊たちの沈黙』などどうでもよろしい……ニキータ・ミハルコフの退屈極まりない『ウルガ』の草原に興味などさらさらない……」
(おお、盛り上がって来た!)
「小津のただごとではない『懺悔の刃』が決して日本的家族愛を描いてなどいないように……馬を撮れる希少な映画監督はかろうじてボリス・バルネットと……祝福すべきエルマンノ・オルミの『婚約者達』……」
(『懺悔の刃』?バルネット?オルミ?知らないんだが……)

次に蓮實氏は、論理飛躍と否定形を多用して、感覚停止状態の私の思考を疲弊させ、不安と焦燥に埋没させていく。

「断言するが、今、映画が好きだなどという者は、決して映画を観てなどいないし観るに値する者ですらない。映画を観ようとする者にできることはむしろ映画から遠ざかりつつ『これは映画ではない』とカメラを前にして呆然と立ち尽くす監督達の絶望的な呟きをかろうじて聞き分けることくらいである……」
(映画に何が起こってるんだ?)

やがてその評論・対談は映画の範疇を逸脱し、ポストモダニズムやニューアカデミズムというより、むしろ永遠回帰的に反抗を志向する反抗パラノイアとでも言うべき運動に私を誘導していく。

「『帝国』などと言っている場合ではない……事実、いったんベラフォンテ号に乗り込んでしまえば『帝国』の版図など誰にも描けはしないだろう」
(……)

こうした読書体験を重ねると一体どうなってしまうのか。

購読者Kの場合、ある日突然「これはどうもただごとではない」とTwitterで呟きはじめる。そして「存在しても良いが、存在しなくても構わないものが多すぎる」と悲憤慷慨するようになる。大学の論文試験では長文を延々書き連ねた挙げ句「そんなことはどうでもよろしい」と締め括り、困惑する指導教官を前に誇らしげに胸を張る。数少ない友人との日常会話において「少女時代で重要なのは、長いとか短いとかいうあの美脚じゃないんだ。そんなことは……はなから問題じゃないっ!」「松ちゃん(松本人志)が天才っていうのはさ、笑いと悲しみが同居してるからじゃないんだ。だから……そんなことには興味ないって言ってんだよ!」などと叫び、怒り出す。さらにFacebookでわざわざmixiにリンクを貼り、「いいね!」コメント欄に自ら「mixiはIT史において拡張性の逆説的可能性すなわち『閉じる』形式によって祝福すべき正統性を主張した」と書き込んで、選好する事柄を「祝福」し、身体論的・唯物論的価値について力説しはじめる。

ここまで来れば、立派な妄想症の末期(=狂人)である。

奇特にも本書に興味を寄せる方のうち、性格が生真面目な、理解できないことを放っておけないA型タイプの人はいるだろうか。もしいるならば、間違いなく『映画狂人日記』は読まない方がよろしい。読んでしまえば本書は、映画を通して暴力的かつ一方的に、貴重な時間を毟り取っていくだろう。それでも読むというのなら構わない。いや、むしろ私の言うことなど、はなから聞く耳を持つまい。あなたは私のように、自分が謙虚な弱者であり少数派であると主張しながら、その実自らの傲慢さや権力志向について露ほども疑ったりはしないだろうから。

そうしてこの本は、あなたの人生を破滅させる映画との出会いを蜿々と刻印していくだろう。一方、蓮實氏にとっては読者が映画にハマりさえすれば良いのであり、従って『映画狂人日記』はあらゆる点で反資本主義的、非生産的な内容であるにも関わらず、あなたを破滅させるという点で、唯一、生産的なのである。

さて。未だサンチョパンサを伴わないドンキホーテのように私が一人反抗期(妄想世界とも言う)を生きているため、この文章自体が『映画狂人日記』の唾棄すべき独りよがりの模倣に過ぎないとあなたが感じるかどうか。そんなことは本当にどうでもよろしい。

そもそも破滅派の破滅とは字義通りなのか、あるいは滅びを破るとでも解釈できるとすればこの本を紹介すること自体成立するのであろうか。それもまた格別たいしたことではない。

私にとって、これを読んだあなたが、唯一、字義通り破滅しさえすれば良いのである。

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