器用な容器

光源のない走馬燈(第2話)

アサミ・ラムジフスキー

小説

8,272文字

中身を容器に合わせるか、容器を中身に合わせるか。
ほとんどの迷いや悩みはここに集約されるのかもしれない。

賢い者は夕方に靴を買う。足のむくんだ状態でサイズを測るほうが、なにかと都合がよいからだ。

もし翌朝履いてフィットしなかったとしても、緩い分には対処のしようがある。靴紐の結びかたを変えてもいいし、厚手の靴下を履くだけで解決する場合もあるかもしれない。大は小を兼ねるのだ。だが、窮屈だったらどうだろう。無理して履き続ければ足を痛めることになるし、外反母趾の原因にもなりかねない。行儀の悪い男子小学生のように四六時中踵を踏んで歩くわけにもいくまい。といって、靴のサイズに合わせて足の指を削ぎ落とすような馬鹿はこの世にいない。私たちが靴を履くのは、快適に歩くためだ。痛い思いをしてまで無理に履いては本末転倒だ。

それでは、いっそのこと履きやすいように爪先部分を切り開いてしまおうか。しかし、それはもはや靴ではない。サンダルだ。サンダルと靴が似て非なるものであることを私たちは知っている。サンダルとマイケル・サンデル教授がまったく関係ないものであることも、私たちは知っている。これからの靴の話をしよう。

 

世界で最も正確な百科事典として知られるウィキペディアによれば、靴とは「足を包む形の履物の一種」と定義されている(二〇一五年七月三十一日閲覧)。これに則れば、履けないものは履物としての要件を満たしておらず、靴とは呼べないことになる。靴としての機能を失った靴は、ただの不格好なオブジェだ。ボートのような、鰹節のような、最先端すぎて理解されないデザインの陸上競技場のような、しかしそれでいて左右非対称な、皮や布やゴムやビニールでできたオブジェ。もちろん、ありがたがって美術館に展示するほどの価値もない。レディメイドが芸術性を担保できた時代はもうはるか昔に過ぎた。今それを模倣したところで失笑を買うだけだ。どうせ買うなら賢く靴を買ったほうがいい。正しい靴を正しく履くためのたったひとつの冴えたやりかた、それが、夕方に靴を買うことなのだ。

だから、愚かな人間は日中に労働し夜間に家でくつろぐ。彼らには夜に履ける靴がない。しかし読書に勤しむほどの知性はなく、といってテレビばかり見ていてはいくら馬鹿でも飽きる。結局彼らに残された娯楽は、妥協して選んだ恋人と肌を重ねることぐらいしかなく、そうして第三の足にさえ靴を履かせぬ愚か者は子だくさんの貧乏人になっていく。これを竹中平蔵は「愚者の拡大再生産」と呼んだ。夜に労働することを昼夜逆転などと形容するのは、愚昧な者たちが自らの無知蒙昧さを正当化するための方便でしかない。多数決で権力を獲得しようとするのは馬鹿の証だ。国会の現状を見てみるがよい。賢い者はみな昼寝をしているではないか。

そしてさらに賢い者はもはや、靴など最初から買わないのだ。いつだって裸足で歩く。古代ヨーロッパの哲学者たちが真に賢者と呼ぶに値したのは、裸足だったからにほかならない。雨の日も風の日も大雪の日も、彼らは裸足で闊歩した。自己の足裏の感覚のみを信じ、家畜の糞を踏みつける恐怖にも負けずにだ。それは、海水浴場で焼けた砂を相手に格闘する程度の葛藤とはもう全然次元の違う話だった。あんな痛みはビキニ姿の女子大生でも見ればすぐ吹き飛ぶ。そして顔を見て再び痛みは復活するだろう。それでもビキニを脱がせばまた吹き飛ぶ。学問に生きるということはこのような軽薄な態度ではない。究極的にフィジカルな態度なのだ。彼らは痛みを怖れないのではなく、痛みを知っているからこそ強靱な意志をもてた。歩くことの危険性を知る者だけが、歩くことの意味を知っている。

それではなぜ、昔の賢者は歩きながら学問的探求ができたのか。といえば、靴など存在しない時代の人々は、靴を買う時間帯はいつがよいかなどという些末な事柄で思い悩んだりする必要がなかったからだ。

 

唐突だが、ここで八〇年代を代表するスーパーアイドル松田聖子のデビュー曲が《裸足の季節》であったことに触れておきたい。

黄金期の松田聖子を支えた音楽制作スタッフが豪華メンバー揃いであったことは周知のとおりだ。クレジットを紐解けば、はっぴいえんど~ティン・パン・アレー界隈の名前がぞろぞろと出てくる。凄腕であるのみならず音楽的バックグラウンドもマッシブな彼らがアイドルに曲を提供するということは、もはや「松田聖子」が個人名ではなくプロジェクトの総称だったという事実を意味する。音楽的クオリティを保ちながらポピュラリティも同時に獲得することの偉大さ。松田聖子は長い間シングル連続一位記録の持ち主だったが、それを途切れさせまいと、誰もが切磋琢磨し完璧な松田聖子像を共同で練り上げていったわけだ。

だが、《裸足の季節》の時点では、そのクリエイター陣の代表格といえる松本隆も松任谷正隆もまだ関わってはいない。現在にいたるまで松田聖子のイメージが《赤いスイートピー》や《風立ちぬ》、《ガラスの林檎》といったはっぴいえんど周辺の人物によって手がけられた楽曲によって象徴され続けていることからもわかるように、《裸足の季節》は松田聖子以前だといっても過言ではないはずだ。福岡県三潴郡筑邦町(現・久留米市)生まれの十八歳の少女・蒲池法子が、国民的アイドル・松田聖子になろうとしていたその途上なのだ。

ならば、松田聖子が完成したといえるのはどの時点だろうか。

武器を手にした瞬間からだ、という説を私はとりたい。皇位継承の際に三種の神器が必要とされるように、アイドルというある種宗教的な存在が完成するためにも、代替の利かない究極の武器を手に入れることが不可欠なのではないだろうか。

松田聖子においてこの武器とは、言うまでもなく「嘘泣き」だ。戦後わが国が保有した最も強力な兵器、嘘泣き。軍も核ももたずアメリカというビニール傘の下で息を潜めてきた日本が誇る、スーパーオリジナルな大量破壊兵器だ。「鬼に金棒」という諺を「聖子に涙」に書き換えようという動きが当時の国文学研究者たちの一部にあったことは有名な話だ。結局これは「『鬼の目にも涙』との混同が起こりかねない」という江藤淳の指摘により棚上げとなったが、あれから三十年の経過した今なおそれなりの有効性をもっていることから、いかに松田聖子と嘘泣きが方程式然として結びついているかが窺える。のちに岡本真夜が歌った「涙の数だけ強くなれるよ」というフレーズは松田聖子のことだと指摘する者もあるほどだ。

嘘泣きは、松田聖子というキャラクターに物語的奥行きをもたらした。そう、自己演出としてだ。ただ泣くだけなら誰でもできる。ところが、自らの意図で涙腺のスイッチを切り替えることは、積極的な物語性の導入なのだ。芸能界という虚構まみれの世界のなかで、虚構であることを強く押し出すというのは危険な賭けだった。それは種明かしで客の目を引くマジシャンのようなものであり、あざとすぎると敬遠されてもおかしくないところだ。だがリスクが高かったからこそ、リターンも大きかった。

ここで導入された、あざといまでに無垢な童話的少女という物語は、松本隆の歌詞世界と相互に補完し合うことでより強度を増していった。松本隆がはじめてシングルA面に起用されたのは、六枚目の《白いパラソル》だ。以後、十九枚目の《ハートのイアリング》まで、実に三年以上もシングル曲の作詞は松本隆が独占してきた。アイドルの寿命それ自体が約三年といわれていた時代の話である。トップアイドルの世界観を一人で担い続けてきたようなもので、この詞世界が松田聖子という物語にあたえた影響の甚大さは語るべくもない。

ここで綴られるのは、いわゆる「お約束」の世界だ。新喜劇的な、宝塚的な、ジャニーズ的な、ヴィジュアル系的な、そのコミュニティの掟を理解し前提を共有した者だけに覗くことの許される、甘美な共同幻想の世界。たとえば《赤いスイートピー》における「知りあった日から半年過ぎてもあなたって手も握らない」というフレーズの現実感の乏しさ。好みの差こそあれ、当時十九歳の松田聖子は客観的に見て美少女だ。中高生ならいざ知らず、その手も握らないというのは、ピュアとか奥手とか草食とかいう問題ではなく、もっと根本的な部分に解決すべき点があるだろうと思わずにはいられないのだが、実際に松田聖子の歌声を聞いているあいだは、そんな疑問を挟む余地はない。鈍化させられているわけだ。

ルールを破ることを無意識に躊躇させる、そんなストッパーが私たちの心理に働いてしまうのだろう。やはりアイドルとは偶像崇拝そのもの。松本隆の書く歌詞は、松田聖子を布教するための恰好のテキストであり、それを歌う松田聖子の声とは賛美歌だった。

ちなみにこれは、山口百恵が阿木燿子・宇崎竜童のコンビに出会うことでアイドルの枠を一息に飛び越えたこととも類似する。初期の千家和也による「青い性路線」と呼ばれた過激な歌詞は、従来の典型的なアイドル像から逸脱してはいるがしかし、逸脱とは発想が既存の枠内に固着したままだからこそ逸脱なのだ。「あなたが望むなら私何をされてもいいわ」「恐くない恐くないあなたとだったら何でも出来る」「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」と歌う山口百恵はまだ、純真無垢なアイドルという共同幻想の重力圏から逃れられてはいない。しかし数年後、「もうこれっきりですか」「今日も私は波のように抱かれるのでしょう」と阿木耀子の歌詞を気怠そうに歌う山口百恵はもう、なにものにも縛られていない。まだ当時わずか十七歳であったにもかかわらず、山口百恵は当然のようにセクシャリティを受容される存在として描かれているのだ。「あんな幼い顔して実は……ぐへへへへ」といったような厭らしい大人の下卑た笑いはもはやここにない。山口百恵は少女という記号すら超越していた。
「山口百恵は菩薩である」という名言を残したのは平岡正明だったが、なるほど、アイドルの枠を飛び出してしまったアイドルは、ここでも宗教的存在に近接せざるをえないわけだ。信仰のもとでは誰もが平等に白痴だ。お札でも壺でも薬でも唾液でも頭垢でもなんでも買う。だから山口百恵は引退時、マイクをステージに置いて去らねばならなかった。信者たちを呪縛から解くためだ。あれは山口百恵の人間宣言なのだ。このオマージュとして、のちに光GENJIがローラースケートを置いて去るというパフォーマンスを見せているが、こちらはまさしく裸足に戻ることの表明だった。

さて、五十歳を越えた今なお人間宣言をできないでいる松田聖子の土足の季節は、いつまで続くだろうか。現在までに発表されているベストアルバムのうちの複数がタイトルに『Bible』と冠していることを、私は偶然という一言で片付けることはできない。

 

 *

 

前置きが長くなったが、私が書きたいのは『シンデレラ』の話だ。

最低限度以上に文化的な教育を受けた者であれば誰もが知っているだろう、あの童話『シンデレラ』。現在わが国において語り継がれている形としては、シャルル・ペローによるものとグリム兄弟によるものが有名だが、既知の最も古いバリエーションとしては紀元前のエジプトのものまである。それだけ世界中で連綿と語られてきた物語だということだ。ほぼ神話に近いレベルといってもよい。

そんな物語のキーアイテムこそが、ガラスの靴だ。

実際にガラスでできた靴が履きやすいのか、そんな靴で舞踏会へ行って上手に踊れるのか、落とした拍子に割れはしなかったのか、といった点をここで論じるのはナンセンスだろう。そもそもバリエーションによってはガラスでなく金の靴や木靴とされているものもある。ガラスの靴というアイディアを最初に導入したとされるペロー版においても、誤訳ではないかという説がある。だから、あまり材質に固執すべきではない。ガラスならば変形する余地が少ないということと、シンデレラがかけられた魔法の儚さを暗喩しているということと、そのイメージの美しさ。ガラス製であることが高いポピュラリティを獲得できたのは、せいぜいこの程度の理由だろう。結局のところ、ここで問われているのはきわめて靴の機能に忠実な部分に過ぎない。すなわち、履けるか/履けないかの二者択一だ。

しかし改めて考えると、個人認証システムとして足のサイズだけに頼るというのは、甚だしく非科学的な方法論ではないだろうか。忌憚なく発言するならば、間抜けだ。

この画期的すぎて涙がちょちょ切れるようなアイディアを思いついたのは、劇中に登場する王子だった。王子は物語における重要人物の一人だ。しかしこの王子は、その名前が統一的に設定されていないことからも明らかなように、そのパーソナリティについてはさして関心をもたれていない。まさしく「王子である」というこの記号性だけが、物語『シンデレラ』における王子のキャラクターの核となっている。ほかにはなにもない。肩書きが服を着て歩いているだけのことだ。だから、古今東西の童話における王子キャラの最大公約数に則って、この王子もやはり誠実で思いやりがあった。

その誠実さゆえに、美貌だけに惹かれてどこの馬の骨とも知らない女を追いかける。本能に実直だということは、誠実さの第一条件だ。

女の落としていったガラスの靴に足がぴったり入ればその者を妃にしよう、などという脊髄反射の世迷い言をうっかり放ってしまうのも誠実だからだ。誠実すぎて冷静な判断力を欠き、ついつい本能的に思いつきを口にしてしまうのだ。はたして彼は生体認証技術を必死で開発している研究者たちのまえでも同じことが言えるだろうか。おそらく言えるだろう。なぜなら王子は自分のことしか考えていないのだから。

人間の足のサイズなど、だいたいは一定の範囲内に収まっているものだ。足が大きいとか小さいとかいったところで、せいぜいその誤差は二十五センチを中心としたプラスマイナス三センチ以内の話であって、たとえば六メートルだとか三ミクロンだとかいう足のサイズの人間は現実にはいない。あのジャイアント馬場でさえたったの三十四センチだった。フォルムに個体差はあるにせよ、指が百本もあったり、踵が六芒星の形をしていたりすることもやはりない。常識的に想像しうるように、同じ靴を共有できる程度に共通の特徴を有している足は、この世に何本もあるに違いないのだ。だからこそ、入れ歯や差し歯と違って靴は大量生産品をそのまま買って使うことが可能となっている。王子の証明法が不完全であることは、数学の証明問題を学んだ程度の中学生にすら理解できるはずだ。

童話『シンデレラ』はシンデレラの視点で物語が展開していく。そのためロマンティックな物語であるように見えてしまうが、これが王子の視点だったらどうだろうか。現れたシンデレラが本当に自らの待ち望んでいた相手かどうか、疑おうとはしないのだろうか。記憶にある容姿とまるで違ったとしても、靴に足さえ入れば本当にその女を妃として迎え入れるのか。

なにせ人間の記憶は曖昧なものだ。たった一度顔を合わせただけの相手の顔を鮮明に覚えておくことは、なかなかに困難だ。どれほど意気投合して会話が弾んだ相手であったとしても、細かい特徴まで記憶しておくことは案外できない。まして、あの晩は舞踏会というハレの日だった。いくら王子が選り取り見取りの立場であるにせよ、多少の高揚感はあっただろう。リゾート地で人々が恋に落ちやすいように、高揚感は相手をフレームアップさせる。また、シンデレラの容姿が魔法によってドレスアップされていたことも忘れてはならない。結婚式の二次会で新婦友人に一目惚れしたはいいものの、後日カジュアルな服装で再会したら頭にクエスチョンマークが大量に浮かんだ、といった経験はそうめずらしいものではあるまい。だが、せっかくの縁だからとなんとなく自分を納得させて交際に発展することも、やはりめずらしくない。たまたま足のサイズの同じ女がいて、それが七十三点ぐらいの見た目だったとしたら、王子もなんとなく自分を納得させて妃にしてしまうのではないか。運命という勘違いは、もともと乏しい判断力をさらに失わせる。

このあたりに意識的なのは、さすがのグリム兄弟だ。グリム版ではあの悪名高き継母が、連れ子たちに対し、なんと足を切断して無理矢理サイズを合わせるという荒技をやってのけている。グリムの嗜虐性の本領発揮だ。ストッキングに血が滲んでいたから、という理由でこの細工は露見するわけだが、入念に準備して完璧な止血を施していたら、間抜けな王子はこれを信じたかもしれない。

なにより最初に述べたとおり、足のサイズは同一人物でも時間帯や体調によって変化する。それでなくとも女性は些細なことで体がむくみやすい。城に再訪したシンデレラの足がたまたまむくんでいたらどうだろう。ガラスはゴムやビニールほどには伸びてはくれない。ほかの厚顔無恥な市井の女たち同様、シンデレラも欲に目がくらんだ下劣な女として処理されてしまったかもしれない。そして爪を噛みながら、一生灰を被って生きていくのだ。私がシンデレラなら、このような不完全な認証システムを採用した愚昧な王子を許すことはできないだろう。逆恨みといわれるかもしれない。しかし逆恨みするだけの価値はある。シンデレラ・ストーリーに乗っかることのできないシンデレラなんて、シンデレラとしての要件を満たさないただの汚い小娘なのだから。

 

仮定の話。

あなたが男性だとする。そしてあなたの手元に現在、持ち主のない女性用の指輪がひとつあるとしよう。この指輪を、あなたはどうすべきか。

指輪も靴と同様だ。一般に、朝と夜とで〇・五号ほど指のサイズは変わるという。伸縮しづらい材質である分、適正サイズの判定はむしろ靴以上にシビアだ。最も細い状態で測ってしまって、あとからきつくて大変だと嘆いてももう遅い。待ち受ける結末は、二度と抜けないか、抜けたら今度は永遠に嵌められなくなるかのどちらかだ。さて、これを指輪と呼ぶことは正しいだろうか。

指輪とは、世界で最も信頼されている百科事典ウィキペディアによれば「手(まれに足)の指にはめる、環状の装飾品」と定義されている(二〇一五年七月三十一日閲覧)。これに則れば、嵌められない指輪はもはや指輪ではなく、ただの輪だ。輪投げをするには小さすぎる。フラフープにも小さすぎる。土星の輪にも小さすぎる。なんの用途もない金属製の輪が手元にあったところで、それをありがたがる道理はない。たとえ何カラットのダイヤモンドが埋め込まれていようとも、金銀プラチナがちりばめられていようとも、それは美術品として評価はできるかもしれないが、指輪としては無価値なのだ。だから、さっさと換金してしまうのが正しい。

そう、この指輪が随分昔に購入したものだったり、どこかで拾ったものだというならば、この正しいアイディアに誰もが素直に従うところだ。しかしながら、もしこれがつい最近自分で買ったものだった場合、あなたはすぐに売り払うことができるだろうか。たとえ一度も使用していなくとも、購入した瞬間からこの指輪はもう中古だ。新品と中古には、ベルリンの壁の数百倍も分厚い隔たりがある。買い取り価格は推して知るべし。この差額をどぶに捨てることが、はたして賢い選択だろうか。私にはそうは思えないのだ。

思うに、本当に賢い者は、その指輪を嵌められる相手を探すはずだ。そして、まるでその相手のために買ったかのような素振りでプレゼントして、完璧な微笑みを浮かべる。これが賢い人間の振る舞いかたであるはずだ。

まさか、それが昔の恋人のために買ったもので、将来を誓い合って家事分担だとか子供の人数だとか互いの親の老後の世話についてだとかまで一緒に話し合ってあとは入籍を待つだけ、という状態から急転直下別れ話のひとつすらなく姿を消され、宙に浮いてしまってもったいないからと流用された結婚指輪だ、などという可能性には思い及びもしないだろう。

だから賢い私は、私だけのシンデレラを見つけるため、今宵もオーディション会場へと繰り出す。十九時十五分に渋谷西口集合。五対五だっけ。ああ、あそこの線路沿いのチーズフォンデュ専門店ね。はいはい、オーケーオーケー。

2015年8月5日公開

作品集『光源のない走馬燈』第2話 (全7話)

光源のない走馬燈

光源のない走馬燈は2話まで無料で読むことができます。 続きはAmazonでご利用ください。

Amazonへ行く
© 2015 アサミ・ラムジフスキー

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

官能 恋愛 日常 芸能界 評論

"器用な容器"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る