水族館の夜

中野恵

小説

3,167文字

「海に溶けたいの」との言葉を残し、死んでしまった友人。残った者の罪の意識と心の傷。海は彼女を救うのだろうか。

水の中に沈みたい。どっぷんと肩まで浸かり、そのまま首をそらし、顔だけが水面に出る状態になる。そして私の周りには、たくさんの魚達が浮遊しているのだ。

「真家さん。そろそろ休んでもいいんじゃない」

と、頭上から声がした。

「はい。今戻ります」

ガラスの側に背を向け、壁の方へよじ登り、水槽の外へと出る。水槽の裏にある部屋―生臭い魚臭のする―を出て、その先の更衣室へと通じる狭い廊下を通る。幅一メートルもあるのだろうか。本当に狭い廊下だった。誰の趣味かは知らないが、磨きぬかれた黒い石の壁には、魚の骨やらアンモナイトやらの化石が埋め込まれている。それらが、所々にある薄青い光を放つ蛍光灯に照らされ、沈黙の内に死の冷たさを物語っていた。ようやく目の前に出口の扉が見えて来た。ドアノブを半回転させ、扉を前に押しやる。

「百恵ちゃん?」

扉を開けてから最初に目に飛び込んできたのは彼女の姿だった……はずだった。

「真家さん? どうかしたの?」

違う。百恵じゃない。そして現実へと私の意識は引き戻された。

「何でもありません。少し疲れていて」

「そう。それならいいけど」

幾分ためらいがちに言う美津子さんに多少の申し訳なさを感じながら、私は黙々と着替えをし始めた。そうして水族館の夜を更けて行く。

子供、子供、子供……。水槽越しにたくさんの顔がひしめき合う。彼らの目はある一転に集まっている。私だ。今私は、水中マイクロフォンとか言うものによって水槽越しの子供達の質問にこたえる「いかにも優しそうなお姉さん」という役を演じている。二、三の質問があった。

「魚は怖くないんですか。こんな近くにいて」

とか、

「サメとかが、噛み付いてきたりしないんですか」

とか。私に言わせれば、この大水槽の中にいるどんな魚よりも怖く、攻撃性があるのは人だ。ただ気に入らないという理由で平然と壊したり、必要も無いのに命を奪う。子供でもなければこんな質問は答えるのもごめんだ。いや子供だからこそではないか。仕事でなければ私は能面のように沈黙しただろう。

とりあえず、

「怖くないですよ」

とか、

「大丈夫。ここのサメはみんなお腹いっぱいで、心も優しいから」

とか、月並みでも子供の輝く目の光を失わせない答えをしておく。質問の時間が終わると、わらわらと子供達は散らばり自分の親に興奮冷めやらぬ調子で魚のことを話していた。

どっと疲れが出た。あの結晶のような純粋さ、人を自分の事なんか関係なく優しくも出来る者。その彼らの陽光のようなまぶしさは、いつも私にやるせなさを感じさせる。なにか、灰色のもやが自分を包んでいるような感覚におちいりながら、私は、イルカのいる水槽へと足を運んだ。

手に提げたバケツから今さかなを取り出してイルカの口に持っててやる。「キューン、キューンと甘えるようにイルカは寄ってきた。カリカリと私の手の先を甘噛みする。彼らの優しい愛情表現だった。

魚を食べた時、私は目の前の光景にぞっとしない感じがした。

ピチャ、ガリッ、世にも無残な音で骨が砕かれ、引き裂かれ、飲み込まれていく魚の音。口の周りに口紅をはみ出させながら、イルカは黒々とした目で私を見る。

「キューン‥」

私の様子に気が付いたのか弱々しい感じでイルカは鳴いた。そっと私に体を擦り付けてくる。そんないたわりにも関わらず、黒々とした目は残虐な自然の行為をどこかで自覚しながらも、ただただ優しい悲しみをたたえていた。悲しかった。生きてゆくためには命はどこかで失われる。それでも、何かに救いを求めるような聖性。そんなものを見たくなかった。魚の無機質さ、それをこの生物は持っていない。だからこそ、悲しい。

 

不快ではない、でも心が引きちぎれるような思い。立ち去る私の背中に「キューン」というイルカの声がこだました。

休憩室のベッドでずっと寝ていたらしい。イルカの餌の後急な眩暈を起こした私は、美津子さんにより強制的に休養を取らされていた。

「責任なんて感じないで。あれは事故だったのよ」

美津子さんに言われ、私は多少チクチクと痛みが走ったが、軽く微笑みを返し、ベッドに横たわっていた。壁の時計はもうすでに九時を過ぎていた。アンモナイトが半開きになったドアから妖しく光る。早くしなければならなかった。当直室に電話した。

「もしもし‥」

「はい、ああ果梨香さん。大丈夫?」

正弘の声だった。元気のいい入ったばかりの職員だ。

「大丈夫。あのさ、今夜の当直代わってくれない?」

「ええっ、果梨香さん、倒れたって話じゃん。そんな、早く帰りなよ」

「もう、大丈夫。寝不足だったみたい。グースカ寝たら今は、元気りんりんよ。だから、昼間の分の仕事したいの」

「うーん、なんだかわるいなあ」

「今度、好物のカレーおごってくれればいいわよ」

「かなわないなあ。うん、じゃあ遠慮しないで一番高いのにしてね」

明るく笑いあいながら、後輩との電話を切る。これでいいのだ。ため息を吐き出すと、私はウェットスーツを着酸素ボンベを荷台に三個ほど乗せてアンモナイトと魚の骨の廊下を出て行った。

暗い館内だった。目が慣れてくると様々な魚が眠っているのが見える。一つ残らず見ておくつもりだった。一つ残らず。最後の水槽が待っていた。それは、特別に仕切られた所にある水槽。古代から生き続ける歴史の生き証人。甲冑のような鱗が厳しく私を出迎えた。

裏に、扉から回り、ソット驚かさないように酸素ボンベを沈めていった。一つ。二つ。三つ。たゆとうている者たちのなかへ私は、足を垂直に指の先から水中に忍ばせた。トップンと頭の上に音がする。銀色に擦り切れた鱗の中、底へ底へと潜っていく。手に抱えたロープを腰に二重三重にも巻きつけた。その先をしっかり酸素ボンベにくくりつける。多少海藻の付いた水槽の底にゴーグル越しに水中を眺めながら、シーラカンスの黒味が買った茶の腹、頭、ヒレの確かさを思った。時間はあまりにも短かった。酸素ボンベをつけない私の息は鍛えているとはいえもう限界だった。生臭い水が口の中に入ってくる。苦しい。吐き出しても吐き出しても容赦なく水は私の中に入っていく。そのうちに視界がどんどんかすんでいった。銀色に煌めく鱗をが光に見えたとき、ザラっとした感触が、スウェットスーツを掠めた。それが、私の意識の最後だった。

 

七月十六日、午前六時未明、係員により女性の溺死死体が発見される。異体は、破損しており、出血を伴っていた。死後の出血であり、直接の死因とは考えにくい。シーラカンスが触れた際に出来た傷と思われる。遺体はこの水族館の職員 真家果梨香里(二十八)遺書が残っていたことから自殺と思われる。

 

 

― 真家 果梨香の遺書 より ―

 

二年前の七月十六日のことでした。私の友人、山川百恵が亡くなりました。あの時、海は荒れていて、なぜか、彼女は船を出したがりました。危険だとわかっていても私にはとめることが出来なかった。一緒に乗っている際、こんな中なのに水中に潜ると言い出したとき、止めようとする私に言った言葉が今でも、耳に残っています「私は海に溶けたいの。ずっと安らぐ海に!」つかんでいた手が力をなくしました。わかってしまったから、共感してしまったから。あれは事故なんかじゃないんです。

美津子さん、正弘君、こんな私に優しく心配してくれてありがとう。私もあの日以来海に溶けてしまいたいと思ってた。罪深い私でも、海は包み込んでくれるから。それを見守ってくれる番人に見守られながら、私も息を引き取ります。迷惑かけてごめんなさい。イルカのマリアは、少し甘えん坊だから優しくしてあげてください。

2009年11月8日公開

© 2009 中野恵

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