サイコサスペンス(2)

サイコサスペンス(第2話)

月形与三郎

小説

4,292文字

女流作家を取り巻く絢爛でイカれた人々、中心を喪失した精神の罅の多重奏(ポリフォニー)――

 

ユリを乗せるタクシーは表通りに出た。ミラーに映る髭面の運転手は、渋いバラード調の鼻歌を唄っている。けっこう味のあるハミングだったので、少女は聴き入った。ただ、ショーを楽しむには、車や人の往来が騒々しい。タクシーが赤信号で停まっている間、運転手の歌から気を逸らした少女は、一年ぶりの町景色をじっくり見回した。それぞれリゾート地らしい装いの店舗が並んでいる。ブティック、アクセサリーショップ、レストラン、バー、ギャラリーや音楽スタジオの看板もある。女は愛玩用みたいなのが多いし、男も雑誌の切り抜きみたいなのばかりで、ここは何もかも型にはまりすぎている、と、少女はいつになく思った。信号が青になった。発進した途端の急ブレーキ、運転手はクラクションを鳴らした。よそ見していた若い男性が、あわてた様子で身をかわした。その男の子は背が高く、筋肉質で、とても日焼けして、それよりもなによりもハンサムだった。彼はユリにつよい印象を残した。

玄関を出たアリサの隣では、管理人の妻がビデオカメラを回している。撮影することによって、周囲の全ては細部を失う、ビデオを撮ることは物事を意味にし、それによって、この世界は語り手を必要としなくなる? 管理人の妻は、サンダーバードのペネロープの寝起きがこうだろうと思う大時代的な髪形をしている。髪が左右に膨れ上がっているので、そのせいか顔は異様に小さく見え、写真うつりは、まるで食べごろを忘れられ干からびた洋梨だった。上半身は枯れ残った(すすき)のように痩せ細っているのに、ぴっちりした巻きスカートのなかの脚は途轍もなく太いのであった。かえって不謹慎な感じを受けるぐらい態度は慇懃で節度がある。ときおり緊縮症の発作に襲われることがある。

茂る緑も濃厚な雑木林では、鳥たちが枝から枝へ鳴き渡っている。その向こうで、クラクションが響いた。なだらかな坂路をのぼるエンジン音を破って、またしてもクラクション。それは木々の間をこだまして鳥たちを驚かし、アリサの耳へ衝迫的に届いた。

揺らぐ陽炎が、絵の具を溶いた水のように色づき、それが集まって人の形をつくる質感をもつ、むき出しのお腹、すらりとした足、光る布地のノースリーブ、紫のキュロット、少女の姿。

車のドアが閉まった。影がすばやく動いた。運転手の吸いかけで捨てたタバコが、コンクリートの上で、煙をひと筋たちのぼらせた。煙は中空で固まったように滞留する。

「ママ」とユリは母親へ飛びついた。宇宙の彼方から帰還した人みたいな懐かしがり方だった。

自分よりも背の高い娘に体を勢いよく圧しつけられ、アリサはよろけながら、

「いらっしゃい」と精一杯愛想よくした。母親として誰からも要求されるはずの儀礼、「元気だった?」と母は娘の金色に染めている長い髪のもつれをかきあげて直した。帰っていくタクシーの中から運転手が、あつかましい卑猥な横目で母娘を見ていた。

「まあまあ。どう、新作は?」とユリは言った。訊きながら、無邪気に抱きついたのが演技ででもあったかと、そっけなく身を離した。

「はかどっているわ」とアリサは答えた。

波の打ち寄せる音が明確なテンポを運んでくる、ここから海岸は見えない。

「暑いね、わたしの大脳はチョコアイスでできてるから、融けてしまう」とユリは呟き、汗ばんだ額を(てのひら)で拭った。腕は色の薄い産毛に包まれている。手首にはいくつもの切り傷があった。ユリは管理人の妻を見て、「人が出入りするのを撮影させてるの?」と言った。

「そう。映像で記録を残さないと。…日記をつけるのが嫌になって、…文字は信じられないから」

「信じられなくなったのは、長いあいだ書いているからよ」といった娘の口調は無関心なふうだ。

「そうね、たぶん」と母は言った。

「だけど、ビデオ・カメラ回すと、パパが拗ねちゃうよ」とユリは忠告した。

「パパが来るときは、お祖父ちゃまの十六ミリで撮らせる」とアリサは言った。夫に負けない映画マニアだった舅は大分前に亡くなっている。

管理人の妻は黙ってユリに寄ると、顔のアップを撮り始めた。アリサはテラスの方を眺めて、

「なにか飲んだら」と言った。

「そのまえに泳ぐ」とユリは「大脳が融ける」とまた言った。

「プールは今朝、掃除させておいたから、どうぞ」

「掃除するとき、ちゃんと泡を流させた?洗剤の泡には、ほうっておくと放射能が溜まりやすいの、中国製洗剤は特にそう。わたし、シャンプーも怪しいと思ってる。毛沢東主義者の陰謀かもしれないから、気をつけないと。まだ残党がいるのよ」

「いまにマオ派が養老院で暴動を起こすかもね」

「それよりも、パパは裏切り者だから、特にうちは狙われやすいでしょ」

「でも、泡なんか一粒残らず流させたから、安心して」

「消毒もさせた?」

「させたわ。念入りに消毒させたから大丈夫。生物兵器のウィルスだって絶対に生きていられない」

「ありがとう。じゃあ泳ぐ。飲み物、持ってこさせて」と少女は赤色の濃い唇を舌でぺろりと湿らした。

「ビール?」そう言いながら、思いもせず伸ばした指先で、娘のやや大きめな純白の前歯を触った。

「シャンパンが冷えています」と管理人の妻が気を利かせたら、

「余計なことはいいから、ちゃんと撮りなさい」とアリサは語気つよく言った。

「申し訳ありません」と管理人の妻はうなだれた。

――きっかり二時間後。風が打ち散らした樫の下葉が一枚、プールへさまよい降りた。アリサは足先でばしゃばしゃ波立てた。濡れたくるぶしが光る。水着にはなったものの、昨晩は遅くまで書きものをしていて睡眠不足だったせいもあるのか、気だるくて泳ぐ気分ではない。そうはいっても、とめどない暑気のせいで頭は冴えない。冷房を効かせても、体ばかり冷えて、いっこうにすっきりしなかった。新作の腹案を練り直すのも、夜にならなければ集中できそうもないので、娘に付き合って、プールサイドで肌を晒した。スペイン産赤ワインの濃密な昼下がりの情事のような―といった聞くも気恥ずかしい悪趣味な形容ごと―匂いを嗅ぎ、ときどきは口もつけて、夕食までの閑を潰した。

アリサが籐の椅子へふかく背をもたせかけたとき、ユリが目の前を横切った。白い水着姿だった。泳ぐフォームは伸びやかで、引き締まった足首が水を蹴るたび、宙高くしぶきがあがる。ヴァイタリティたっぷり。さっきの落ち葉は、娘の起こした波に呑まれて行方が知れなくなった。生理中でも気にしないで泳ぐ。ユリが生理中なのは、さっき抱き合ったときの体臭でわかった。アリサは臭いに敏感なのだ。…そういえば自分には月経がない、一体いつ閉経したのか、それもアリサには憶えがなかった。

斜光がコンクリートで照り返している。夕方になっても呵責のない陽射しに焼かれている庭では、真緑までもしなだれて見え、赤い花など生きたまま皮を剥がれ火にかけられた兎みたいに喘いで見えた。アリサは日焼け止めクリームを塗りなおした。べたべたするのはおおいに嫌でも、肌が真っ赤になるよりはましだ。それに、この暑さだ、どうせすぐに乾く。すぐに何もかもが、あますところなく乾ききってしまうだろう。夕日は門の辺でも烈しく照り返す。

きゅうに足を引っ張られて、よろめいたアリサは、たかく水音をたててプールへ落ちた。跳ね上がり、ばらばらと落ちた水滴が、庭木の枝をつぎつぎ叩いて葉を揺らした。もがいた手足あたりがあわ立っている。空気を閉じ込めている無数の小球体は、水面ではかなく壊れていく。水底は岩ばかりで、隙間に茂る赤い藻が揺れ動く。その赤いビロードの襞が浮遊する間に、金色の貝殻のような鍵が沈んでいた。非のうちどころがない黄金色なので、棺の鍵だと判る。目を(みひら)いて、もう一度水中の光景を見た。注意をこめて見回した周りは、薄い青一色になっていた。鍵だけがある。アリサは手を伸ばした。真っ黒に塗られた爪が鍵を挟んだ。後ろから肩先を掴まれた。驚いた反動に体が凄い勢いで浮き上がり、一気に頭が水面へ出た。顔にはりついた髪を除けた。見慣れた庭の景色があった。

「ごめん、そんなびっくりすると思わなかった」とユリは謝った。

「いいのよ」とアリサは首を振り振り深呼吸した。右手は鍵を固く握っていた。それは水底での幻の輝きが絶望的に失われた、何の変哲もないステンレスのちいさな塊だった。娘は背泳ぎで遠ざかっていく。その股で薄黒く下草の透けているのを見ながら、そっと手を広げると、金属は掌へ幼児の歯形のような痕を赤くつけていた。

プールサイドへ上がってすぐ、脱力感が作家を見舞った。この水に使った消毒剤が体質に合わないせいかもしれない、と彼女は、

「あとでプールの水を取り替えさせて」と言った。管理人の妻は無表情で、

「ユリさんがいらっしゃるというので、今朝取り替えたばかりです」と言った。アリサは声をいくらか荒げて、

「いわれてとおりにして」と言った。

「それでは、明朝フェンスのペンキを塗りなおして、orchidectomyの後、入れ替えさせます」と管理人の妻は言った。

「なんですって?」と、質したアリサの耳もとで鋏の音がし、頭蓋を貫く痛みがきた。

「そうしないと生き返ってしまいますから、自生蘭(オーキッド)を切った後…」

「そんなこといいから、今夜中に水を入れ替えさせなさい」痛みで血管の浮き出たこめかみを押さえてアリサは怒鳴ると、怒りに任せてコップのワインを管理人の妻へ浴びせかけた。とっさに眼鏡を庇いながら、

「はい。申し訳ありませんでした」と管理人の妻は俯いた。

ユリは飛沫の光る間からプールサイドのやりとりを観察していた。声は聞こうとしなくとも耳に入る。少女はプールから上がると、水を滴らす髪を拭きながら、椅子へかかっていたタオル地のローブを掴んで、それを器用に片手だけで纏った。動作は訓練されでもしたかのように手早い。髪先から落ちた水滴は、半日のうち海風が堆積させた砂に沁みこんで、灰色を濃くした。

アリサの横のテーブルには、飲み物のほかに、手付かずのチーズやバターとパンがある。娘は茶目っ気のある表情で歯をこぼし、バターの塊りを削り取った。テーブルロールへたっぷりつけて、ぱくりと齧った。アリサは呑み込むその喉元を見た。屈託のない笑い顔の内側、その潤沢な不毛、そこへの越境の欲望に潜んでいる、いずれ不意に打ち寄せてくるかもしれない禍福の多寡までは、今はとうてい推し量れなかった。

2009年11月8日公開

作品集『サイコサスペンス』第2話 (全4話)

© 2009 月形与三郎

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

哲学 文壇事情

"サイコサスペンス(2)"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る