東京ダック

光源のない走馬燈(第1話)

アサミ・ラムジフスキー

小説

9,872文字

人はなぜ働き、なぜ食べるのか。なぜ食べはじめると、止まらないのか。

2008年、当時懇意にしていた慶應大学の学生たちが発刊した『孑孑(ぼうふら)』という批評誌のために「醜い填鴨の子 (i’m laughin’ it)」という短篇を寄稿したのですが、それを加筆修正のうえ改題したものです。

「人間は働きすぎて駄目になるより、休みすぎて錆びつき駄目になるほうがずっと多い」
――カーネル・サンダース

 

 

新しく来た少女は、女優を目指しているのだと言った。

隣の部屋の住人は頻繁に変わる。例外なく若い女で、いずれも人並み以上の美貌と人並み程度の愛想を備えていた。どの子も細すぎるきらいはあったが、不健康な感じまではしない。テレビの画面を通すと誰しも太って見えるというから、芸能人の卵というのは直に会うとみんなこんなものなのだろうか。前の住人も、その前の住人も、ジャンルこそ違えど芸能界を志している子だった。べつに隣は芸能プロダクションの社員寮というわけではないはずなのだが、偶然というのは不思議なものだ。

幸いにも彼女たちはあまりに美人すぎたので、年甲斐もなく惚れるというようなことはまったくなかった。よくぞここまで美少女ばかりをあつめられるものだ、と感心するばかりだった。美女が多いのはオーナーの趣味なのだろうかと邪推したこともあったが、それが誤解であることは考えるまでもなかった。オーナーの部屋へ行くたび目にする愛人たちは、どれもこれも気球のように肥え太っていたからだ。

隣人たちの体型は、単に実務的な問題だと考えるべきだった。ここは職員寮で、私も含めすべての住人が同業者なのだ。背が低くなければジョッキーにはなれないのと同じで、彼女たちの仕事にはその体型が求められたということだ。適材適所という言葉はこういうときに使うのだろう。

彼女たちとの関係は概ね良好で、どの隣人とも、顔を合わせればきまって談笑した。実家から送られてきたという食品をお裾分けされることもよくあったし、害虫の退治を頼まれることもあった。何度か二人で食事をした女もいた。こちらにその気さえあれば、もっと深い仲になることのできそうな相手もいた。しかし、誰もが転居の際は挨拶もなしに消えていった。次の住人が菓子折をもってくることで、はじめて退居を知らされるのだ。まるでスイングバイをする人工衛星のように、彼女たちは次から次へと、私の人生のほんのひととき、ほんのうわべだけに干渉して過ぎ去っていく。そうして入れ替わって一週間もすると、大概は顔も名前も忘れてしまった。

これはけっして私が薄情だとか記憶力が悪いとかいうことではないと思う。あまりに目まぐるしく変わるものだから、すべて覚えていては脳細胞の容量が足りないのだ。学生時代に席が隣り合った女子を一人残らず順番どおりに覚えている男などどこにもいないように、私が彼女たちを忘れるのも自然なことだった。それに、率直に言って、彼女たちには若く美しいということ以上の魅力や特徴はまったくなかったのだから、やむを得ない話だ。

今度の少女も、若く美しい、しかしただそれだけの女だった。端正な目鼻立ちも、なにもかも飲み込みそうに大きな黒い瞳も、春の日差しのようにやわらかできめ細かい肌も、たしかに魅力的には違いないが、過去の隣人たちと比較して突出しているというわけではない。全身が弾けるようなエネルギーに充ち満ちていることだけはわかるものの、その研磨されていない光をコントロールするにはまだ幼すぎるようだった。苦労も絶望も挫折も知らない、きれいすぎる光。雑味のないものは汚染に弱い。芸能界というのは、誰も彼もが幼少期から可愛い可愛いと持て囃されてきた子ばかりの世界なのだから、これでは苦労するだろうなと心配になった。

もっとも、その心配がじきに消えることも、私にはわかっていた。

お茶でもどうかと彼女を部屋に招き入れたのは、今のうちに話をしておきたい、それだけの理由だった。

 

「どうしてこの仕事をしようと思ったの?」

少女の持参してきた菓子を食べながら、私は訊いた。横文字だらけの外箱に収まったチョコレート尽くしの菓子折は、見るだけで胃がもたれそうだったが、口にしないのも悪いので極力甘くなさそうな焦色のクッキーを選んだ。期待どおりそれはビターチョコだったのだが、しかし内側にはクリームがたっぷりと入っていて、結局は一口おきにコーヒーを飲まずにいられなかった。少女はというと、一面に琥珀色のアーモンドがまぶされたチョコウエハースを幸せそうに頬張って、「これ、おいしいですよねえ」などと言っている。
「あたし、高校も出ないで上京してきちゃったし、あんまりいいバイトがないんですよ。レジ打ちなんか激安ですし、でもまだ年齢的にお酒を出すようなお店にも入れないし。だけどここは時給もいいし、食事も三食つくし、それに家賃も無料なんですよね?」

私は無言で頷いた。
「よかった! 条件がよすぎるから、騙されてるんじゃないかってちょっと疑ってたんです! ああ、安心した! うち、田舎なんで、ちっちゃいころから東京は怖いところなんだってずっと刷り込まれてたんですけど、今どきそんなことないですよねえ? ああーよかった!」

安心しきったように、彼女は紅茶に角砂糖を二つ放り込むと、カップを大きく傾けて一口飲んだ。それからかすかに首を傾げて、もう一つ二つそこに白い立方体を加える。今度こそ満足したのか、目を細めてふうと声を漏らした。頬に浮かんだえくぼが、余計にその顔を幼く見せた。そのままスナップ写真にすれば食パンかビスケットの広告にでも使えそうな絵だ。私は貴重なものを拝めたことを喜び、そして悲しんだ。
「そんなに楽な仕事じゃないと思うよ」

慎重に言葉を選んでそう言ったが、遮るように彼女は「大丈夫です!」と言った。
「こう見えて、我慢強いし打たれ強いんです。意外とお芝居の稽古ってハードなんですよ。演劇部って下手な運動部よりも筋トレとかランニングとかいっぱいするし。大抵のことは耐えられます。それに、みんなの反対を押し切って上京してきたんで、やっぱりちゃんと自分で生計を立てられないようじゃ、夢を見る資格もないかなって」

それならレジ打ちとかティッシュ配りとかしたほうが賢明だよ、そう言いかけて、やめた。まっすぐにこちらを射抜く視線には、いかなる反論の入り込む余地もないように思えたからだ。たとえ論破されたとしても内心では絶対に納得しないような、そんな視線。わざわざ水掛け論に持ち込むこともないなと思った。どうせこの子の精神は、もうじき厭というほど摩耗するのだ。

しかし、抑えようとしても私の表情にはなにかしら滲み出ていたようで、少女はばつが悪そうに、こう付け加えた。
「あの、本当に大丈夫ですから。稽古に支障が出るようならすぱっと辞めますから」

それを聞いて、ますます居たたまれなくなったが、といって、どうすることもできないのだった。私が言いたいのはそういうことじゃない。けれど、どう伝えてよいかわからない。言葉を浮かべては消し、また浮かべては消す。結局私は、当たり障りのない雑談へと舵を切るほかなかった。
「いつから出勤なの?」
「明後日からだって言われてます。あの、その、いろいろ教えてくださいね!」

目尻を下げ、八重歯を見せつけながら彼女にそう言われると、つい「なんでも教えてあげるよ!」とサムズアップしながら頷きそうになる。が、それは叶わぬ相談だった。
「残念だけど、私と君の職場は違うんだよ」
「え?」未知の言語を聞いたかのように、少女は目を見開いて首を傾げた。「だって、ここって職員寮ですよね?」
「そうなんだけど、うちは派遣会社みたいなものだから。今ここ、五十人ぐらい住んでるけど、誰一人同じ職場じゃないよ」

そう告げると、少女はいかにも心細そうな顔をした。留守番をしている仔猫のような仕種に、不覚にも抱きしめたくなる。女優の卵という人種は、こうした表情を自然に出せるらしい。私が彼女と近い年齢だったら、間違いなく今の一瞬で惚れていただろう。歳をとっていてよかったと、生まれてはじめて思った。
「でも、まあ、部屋が隣なのは変わらないからね。なにかあったら話は聞くよ」

慌ててフォローすると、今度は満面の笑みが彼女の顔を彩った。未来になんの疑いもなく、夢や希望は必ず叶うと信じている、そんな人間だけにできる顔だった。彼女は、自分の内にある泉にもいつか涸れるときが来るのだとは、思いもしないのだ。私はもう、それですべてを諦めてしまった。

少女が帰ったあと、カップを片付けようとすると、飲み干された底にルビー色の粒が溜まっているのが見えた。ティーカップに添えて出した角砂糖は、一つも残っていなかった。

 

二日後から、私は仕事の行き帰りによく彼女を見かけるようになった。かつての隣人たちがそうであったように、彼女の勤務先も寮にほど近い場所に位置していたので、望もうと望むまいと前を通りがかるのだった。

真っ赤なアフロヘアーのカツラをかぶった彼女の顔は真っ白に塗られ、唇を大きくはみ出してルージュが引かれている。赤と黄色と白に彩られた派手派手しい衣服は、せっかくの細い体のラインを隠すような造作だ。実の親でさえ、声を聞かなければあれが彼女だとはわからないだろう。私がわかるのは、職業病の一種といえるかもしれない。

彼女のほうもこちらに気づいているような様子はあったが、化粧で表情が見えないため実際のところはわからない。勤務中、通行人とジェスチュアや言葉を交わすことは固く禁止されていた。そもそも彼女は動くことすら許されない。ただじっと、店のまえに立ち、通りを行き交う人々を眺めている。それが仕事だ。

それでも、私はただ、彼女が元気でやっていることを毎日確認するだけで満足だった。我慢強いという彼女の言葉に嘘はなく、胸を張ってその仕事をやっているように見えた。あれだけの美少女がピエロの扮装を甘んじて行っていることには、清々しい感動すら覚える。女優になるための修行だと割り切っているのかもしれない。たしかに、芝居と通ずる部分はないこともないのだろう。もしかしたら、彼女なら長続きするのではないか。うっかりそう思いはじめてさえいた。

雨の日も、風の日も、彼女はそこに立った。けっして動かずに、笑みを絶やすことなく、立ち続けた。客のほとんどは彼女を相手にはしない。たまに気にかけてもらえるとすれば、それは小うるさいガキだけで、連中は彼女の脚を蹴っ飛ばしてみたり脇腹に落書きしようとしてみたりするのだった。それでも彼女はなんの抵抗もしない。反応もしない。私たちの仕事とは、そういう仕事なのだ。

私たちはマネキンだった。販促人員としてのそれではなく、マネキン人形のマネキン。

 

 

こんな仕事があるとは、私だって数年まえまで知らなかった。多くの人々同様、チェーン店の店頭に立つあいつらは単なる作りものなのだと信じ込んでいた。だからとある伝手で求人情報を耳にしたときは冗談としか思えなかったし、冗談にしてもまるでセンスがないなと笑ってしまうほどだった。それでも、当時失業したばかりで、妻子にも逃げられて自棄になっていた私は、冷やかし半分で面接に赴いたのだった。

そこでオーナーから聞かされた話は、思いのほか興味深いものだった。
「いいかね、マスコットキャラクターというのは、店の顔なんだよ。その顔がフェイクであってもよいのか? そういう話だ」

もともとこの会社は通常の人材派遣を生業としていたのだが、あるとき、とあるイベント会社から「ただ静止し続けてくれるモデルはいないか」との依頼がきたのだそうだ。どうしても必要な人形が一体壊れてしまったからというのがその理由だったそうだが、商魂逞しいオーナーはそこに目をつけた。
「アニミズム――万物に魂が宿っているっていう考え方があるだろ? それの逆説的発想だよ。知らず知らずのうちに、われわれは魂の存在を軽んじてはいなかったかね。文明と科学技術でなんでもできると勘違いしてはいなかったかね。宇宙開発をしようとクローン人間を作ろうと自由だが、傲慢になりすぎてはいけない。神の領域に踏み込むことは畏れ多いことだ。しかし人間は信仰を忘れてしまった。謙虚さを忘れてしまった。そこでだ、生身の人間をマスコットとして配置することで、見失いかけた魂を再び顕在化させることができるのではないかと考えたわけだよ。依り代なんて言葉を使うと、さすがにオカルトすぎるかな」

なにを言っているんだこの人は、と私は思ったが、もともと自棄で面接まで来ていたことだし、乗りかかった船には最後まで乗ろうと思った。
「生贄とも言えますよね」
「君は口が悪いな」オーナーは戒めるようにそう言ったが、その口調に不快な様子はなかった。「生身の人間を使うと、ただの置きものにはない力が宿るんだ。すると彼らが客を招き入れてくれる。商売繁盛の秘策だよ」

そんな迷信じみた話を誰が信じるのだろうか、と私はまた思ったが、経営者という人種は案外、占いやジンクスといったものをありがたがる人間が多いものでもあるとすぐに思い直した。風水を参考に内装をきめたり、仏滅を避けて開店日を設定してみたりと、例を挙げればきりがない。そういえば、この国には昔から招き猫というものもあった。招き猫とマネキンは語感も似ている。

プラセボ効果か、生身のマスコットを採用した店は実際に業績が見る見る上がったという。噂の足は速い。カール・ルイスよりもウサイン・ボルトよりも速い。あれよあれよという間に経済界でその評判は広まり、今や飲食店の店頭マスコットの大半は実際の人間なのだと、オーナーはふんぞり返って言った。
「信じようと信じまいと君の自由だが、実際にわれわれはたくさんの顧客を確保している。この世に虚業なんていうものはないんだ。儲かるということは、それが透明でもたしかにそこに実利があるということなんだよ」
「そんなこと初耳ですよ」と私が言うと、
「そりゃあそうだ。こういうのは公表しないから意味があるんだ。お守りの中身を見ちゃいけないのと同じだな」とオーナーは笑った。

そんなやりとりの末、なにを気に入られたのか私は採用され、今もマネキンとして働き続けている。いつしか職員寮の最古参だ。といって、特別優秀だったり我慢強かったりするわけではない。ただ運がよかっただけのことだと思う。もし私の勤務先も彼女と同じチェーンだったとしたら、とっくに転職していただろうと思う。

 

 

いつでも話は聞くよと言っておきながら、その機会はなかなか訪れなかった。理由のひとつは、互いの勤務先の営業時間がまったくずれていたこと。朝十時から夜十時までのこちらに対して、彼女の店では二十四時間営業となっていた。二十四時間営業の店では当然マネキンの勤務時間も増える。悪戯防止、盗難防止などと理由をつけて大抵のマネキンは深夜になると店内にしまわれるから、さすがに不休ということはなかったが、それでもほぼ丸一日拘束されていることに違いはなかった。慣れないうちは帰ってくるとすぐに眠りに落ちてしまうので、わざわざ時間を作っていられるような余裕はないのだった。さらに、就業パターンも噛み合わなかった。私は一日おきの勤務だったが、彼女は三日に一度の勤務であるらしかった。実際の勤務時間以外にも、週に一度、オーナーに提出するレポートを書く必要もある。忙しさのなかで、日々はあっというまに過ぎていった。

風の噂によると、いつしか彼女は、芝居の稽古にもほとんど出なくなってしまったらしい。稽古ができなくなったら辞めると言っていたはずだったが、しかし、あの赤い看板の店頭で、彼女はずっと微笑み続けた。雨の日も、風の日も。

思えば、今までの隣人もみんなそうだった。辞めようかどうか悩んでいると言いながら、あまりに魅力的な条件に、結局辞めることができないのだった。あまり大声では言えないが、私は同世代の平均的サラリーマンの三倍近い給料をもらっている。おそらく勤務時間からいって、彼女も同程度は稼いでいるはずだった。稼げるうちに稼いでおいて、やりたいことはあとでじっくりやればいいじゃないか――そう理由をつけて、ずるずると長く続けてしまう。それがすべての過ちの原因だと、彼女たちは誰も気づかないのだ。

 

ようやく彼女とまともに話をする機会が生まれたのは、三か月が経ったころ、つまり彼女が部屋を去る直前だった。たまたま休みが合って、たまたま寮の廊下でばったりと出くわしたので、そのまま近所の甘味処へ行くことにした。

ところてんとあんみつを注文し、腰を落ち着けると、彼女はすぐに本題を切り出した。久々の会話に、私は正直なところわくわくしていた。まるで予想外の台詞を聞けるのではないかと、劇場のシートに座って今か今かと開演を待つような心持ちでいた。いや、それは希望だったのかもしれない。そんなことはありえないと理解していながら、諦めることのできない、最後の希望。

しかしその唇からこぼれ落ちる言葉たちは、一つの例外もなく私の想定したとおりのもので、結局はまずい油を使った揚げもののように不快感ばかりが胃に積もっていくのだった。おかげで、頼んだものが来るより先に水を飲み干してしまった。
「そもそも、最初から騙されてたんですよね、あたし」

少女は俯いて言うと、力なく笑う。その笑顔は生気を失った豚のように見えたが、それは比喩ではなく、実際に彼女ははじめて会ったときより相当太っていたし、肌の艶も失せていた。あれだけきめ細かかった肌が旱魃化した大地のように荒れている。目の下には大きな隈ができており、それを下手な化粧で無理に隠そうとしているのが余計に痛々しかった。笑い声が力なく思えるのも、ヒューヒューと荒い吐息が喉の奥から漏れているからだ。
「ドナルドになれるって言われたんでしょ?」

私が訊くと、彼女は頷いた。
「はい。だって、ドナルドって言われたら、あっちのアヒルのほうだと思っちゃうじゃないですか」
「でも、真相がわかっても、辞めなかった」
「……はい」

頷くたびに、顎の肉がゼラチンのように弾む。三か月まえなら目も眩むほど似合っていただろうキャミソールの肩紐が、今ではチャーシューを縛る凧糸のように見える。あの可憐で瑞々しかった女優志望の少女は、もうどこにもいない。
「それで、いつが期限なの?」
「一週間ですから、来週の月曜日です」

消え入りそうな声で少女が言うのと前後するように、店員が「お待たせしましたー」と店中に響き渡るような声をあげてやってくる。店員は、少女のまえにあんみつを置き、私のまえにところてんを置いた。
「それじゃあ、もう時間もないよね」

言いながら私はあんみつとところてんとを入れ替える。器のなかで寒天がふるふると震えた。
「はい、無理ですね」

そう言って無理に笑う彼女の頬には、以前より深いえくぼが浮かんでいたが、少しもキュートには見えなかった。もちろん美しくもない。愛らしくもない。狂おしくもない。あえて言うなら、滑稽だった。彼女は一人で踊っているだけだった。観客のいない、照明もない、台本もない、はじまりも終わりもない舞台で、勝手に踊って勝手に転んだ。

噂には聞いていた。前任者も、その前任者も、そのまた前任者も、みんなそれで辞めたのだということだった。

職業柄、マネキンには短いスパンで定期健康診断が科せられる。チェック項目は演じるマスコットによって異なるが、直近の検診で彼女は引っかかったのだった。彼女に求められていたのは、体重と体脂肪率とスリーサイズの堅持。なにもボクサーのように過酷な減量をしろというのではない。平均的な体型をキープしさえすればよい。自己管理のできない人間が悪いのであって、その程度の摂生もままならなければ、首を切られるのも当然だと私には思えた。しかしその「当然」は、私の想像以上に困難なことのようだった。診断表に印字されたいくつかのアラビア数字は、それまで見たことのないものだったという。何度自分の名を確認したかわからないと、彼女は言った。
「たしかに太った自覚はありましたけど、でも、短期間であんなに体重が増えてるなんて……。絶対誰かの結果と取り違えられたんだって思ったんです。でも、何度眺めても、あれはあたしの名前でした」

店から突き付けられた条件は、契約当初の体型に戻せというものだった。もちろん、三か月で蓄えた脂肪を一週間で削ぎ落とすなど不可能にきまっている。事実上の解雇通告に等しかった。
「おまえの自己管理不足がいけないんだからって言うんです。うちは健康面でのイメージ戦略が重要だからって。あの店長だってビア樽みたいな腹のくせにっ!」

少女は舌打ち混じりにそう言ってから、私のほうを見て、あっと声を漏らした。
「あの、そういう意味じゃ」
「いいんだよ、わかってる」

私はそう言ったが、結局彼女はごめんなさいと謝ってきた。
「でも、店長は、相対的な問題じゃなくて絶対的な問題なんだ、って。マスコットが自社製品を食べたせいで太ったら大問題だろ、って。……おかしいですよね、あんな高カロリー高脂肪の食品ばっかり毎日食べてたら、そんなの太るにきまってるじゃないですか。そもそも同じものばっかり食べたら、なんであれ健康にはよくないですよ。毎日ハンバーガーを食べろって命令したのはあっちなのに。食事つきっていうからなんだろうと思ったら、廃棄品の処理なんですから、詐欺みたいなものですよ!」
「だけど、しょうがないんじゃないのかな」私は努めて冷徹に振る舞いながら、そう言った。「だって、私たちはマスコットなんだよ。偶像なんだよ。象徴なんだよ。メルヘンの世界の住人になりきらなければならないんだから、カロリーだとか栄養バランスだとか、そういうことを気にしちゃいけないんだ。リアルをケアしなきゃいけなくなったときは、この仕事を辞めるときだよ」
「あなたは太っても平気な職場だからそんなことが言えるんですよ! そんな、ぶくぶく太って! 人の気も知らないで!」

潤んだ瞳がこちらを見つめた。自然に身につけただろう上目遣いはしかし、慰めてくれと言わんばかりで、無性に私を苛立たせた。頬の脂肪に押されて小さくなった目では、どれだけ涙を溜めても女の武器になどならない。
「あたしもあなたの仕事ならよかったのに! それなら、こんな惨めな思いをして仕事をクビにされることもなかったのに! ……もうこんな体じゃお芝居もできないよ。夢もお金も両方失っちゃったよ」

ところてんに、少女の涙がぽとりと落ちた。私はその涙の色も気にせず、あんみつを味わった。濃厚な蜜に染め上げられた寒天が、つるりと食道を通っていく。実に旨い。とても旨い。いくらでも食べられそうだ。そうなのだ、たしかに私は運がよかったのだ。しかし運もまた、生きていくためには必要不可欠なものなのだ。

私はもう彼女になんの興味もなかった。なぜなら、彼女がこの後、片方の意味で救われるということを知っていたからだ。それに、そもそも彼女ははじめから騙されてさえいない。望みどおり、アヒルになったのだから。

 

次の週、オーナーの部屋にレポートを出しにいくと、いつものようにオーナーは半裸の女たちに取り囲まれていた。どれが乳房だかわからないほど醜く弛んだ腹をぶら下げている女たちは、体を隠そうともせずに、私とオーナーの事務的なやりとりを眺めている。そのなかに、新しい顔を見つけることができた。どこかで見たことのある顔だなと思った。だが、彼女はもう私の知らない女だった。彼女以外の女たちも、みんな私の知らない女なのだ。名前を失い、骨抜きにされ、尊厳も歴史も奪われた女たちは、ただの欲望の受け皿でしかない。それでも彼女たちが幸福であるならば、もちろん私ごときにはなんの口を挟む権限もなかった。

差し入れとして買ってきた抱えきれない量のフライドチキンセットを置いて、私はいつものように足早に部屋を出た。あんな醜い部屋に長居していると、こちらまで気が狂ってしまう。

数日後には、隣の部屋に新しい住人がやって来るだろう。その人が美しくなければいいのにと、私は願ってやまない。しかしその期待は確実に裏切られるはずだ。

 

2015年7月1日公開

作品集『光源のない走馬燈』第1話 (全7話)

光源のない走馬燈

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© 2015 アサミ・ラムジフスキー

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