サイコサスペンス(1)

サイコサスペンス(第1話)

月形与三郎

小説

4,197文字

女流作家を取り巻く絢爛でイカれた人々、中心を喪失した精神の罅の多重奏(ポリフォニー)――

 

眠りの国から追放されでもしたのかのように、ふいと眼が覚めた。夜明け前、破風を雨粒が打つ。眠る前から降り続いていた。アリサは横になったまま、カーテンの隙間から外を眺めた。昼のうち使用人に余分な枝葉を除かせたので、隣家がよく見える。隣の邸の灯りは、一部屋だけに点っていた。新たな住人が昨日越してきたばかりだった。隣の夫婦、夫は微分幾何学者(ディファレンシャル・ジオメーター)だ、ちらりと姿が見えたときの印象では、歳は中年に差し掛かったばかりでも、色々なことに慣れすぎ、大抵のことに飽き飽きして、そうなってしまったすえ、もはや倦怠してみえる人達…。

そうしていると、窓のむこうの二つの人影が交叉し、一つになってカーテンを透かす灯りを遮った。そこはベッドルームのはずだ。ずっと空き家だった隣家の改装がはじまったとき、鍵がかかっていないのをいいことに興味本位で立ち入ってみたので、だいたいの間取りを知っている。

カーテンに男女の影が写る。二つの影は離れ、また近づいて、ゆっくりと重なった。きっと求め合っているのだろう。それが命がけで愛し合っている男女の射す影の揺らめきで、我が身の受難のような疑う余地のない真実にみえた。

倦怠などしていなかった、裕福な中年夫婦だから、という色眼鏡で見たせいでそう思ったのだ、とそんなアリサが、いつの間にか、ふたたび眠りについた直後、男の声、

「おれを殺すのか、じゃあ殺してみろ。殺して何か変わると思うんなら、殺せよ」

つづけて争う音がした。物音のしている間中、女が叫んでいた。音が絶えた。しばらくして女の悲鳴、それも今度はごく若い女の。…そして若いほうの女は、

「わたしたちが一つになるために殺してくれたのね」と言った。

 

 

 

指をこぼれ白磁の皿の上へ落ちた金のスプーンがたてたかすかな音の、潮の香りと入り混じりあう一点の感覚が、想起にレースの覆いをかける。私はそれを憂愁(メランコリー)と呼ぶ。待ちかねていた夏が来訪し、盛り始めるころ、にわかの風にも似て、なんの前触れもなく見舞ってくる、そんな気分は、どうにもやっかいなものだ。それも、保養地での休暇中、太陽の注ぐ昼日、起きてこのかた機嫌を損なう出来事はなく、もしあったとしても、憂さ晴らしするための場所にも事欠かない土地柄、たとえば、ここ。間近く海が望めて町も程近い、こんなところに居るのであれば尚更(なおさら)だった、具体的な理由も、それを脱け出す方法がないのも、教えられるのだから。柔らかく纏いついてくる憂いの源泉を探ろうとするのが(かえ)って、渇望や疎外や欠如や、そのほかの、よくよく耳馴染んだ言葉を安直に択ばせようとする。しかし、そういう回答にしても、自意識の不調和を、むやみに特別なものだと思い込みたい俗物根性へかまけただけの詰まらない理屈に過ぎないのを、私は知っているのだ。――と、そこまで書いた流行作家は、さも苛立たしげにマウスを動かし、書いたばかりの文章を消去した。そうしてから、

「なんてくだらないの」と、やけに芝居がかった口調でアリサは呟き、お決まりの台詞を言い放ったベテラン女優みたいにして、心持ち顎を上向けた。四十をいくらか過ぎており、色は透きとおるほど白く、その理知的な顔立ちをよぎる表情は、どこか放恣だった。

一休みにアリサは窓の外を眺めた。書いていた作中の家と、建っている地形が大体おなじであっても、この別荘のほうは、二階からの見晴らしを遮蔽するものが多く、それほど景観はよくない。七月の暑さが始まる前に、新作へ集中するため、夫と娘を本宅に置いて、彼女はここへ来ていた。学校が夏休みになった娘は今日来る。電話機が鳴動した、「もしもし」

「わたしです」とおかしな声が言う。

「どなた?」とアリサは判っていながらわざと訊いた。わざとらしいのが好きなのである。

「わたしです」と酷い鼻声が言った。電話の相手は、あらゆる花粉のアレルギーで、そのため真冬以外は常に鼻声なのである。

「お世話様」とアリサは言った。担当の編集者だった。

「出来たとおっしゃっていた、腹案を…」と編集者は言った。

「じゃあ、考えついた分だけ話すわ」とアリサは言うと、「自分を性同一性障害者だと思いこんでいる美容師(エステティシャン)がいます」

「それが主人公ですか。思い込んでいる、というのは?」と編集者は言った。

「こう言うと本質主義(エッセンシャリズム)みたいになってしまうけれど、精神科医の診断では違うということ、雑にいうなら妄想です。彼にして彼女は、自分の同棲している男性が少女売春婦を強姦し、その結果妊娠した女の子が自殺する、という一連の出来事を傍観していた記憶をもっており…」

「記憶なんですか…? なんだか込み入ってますね、少女はいわゆる他性ということですか?」

「そこはお仕舞いまで聞いて」とアリサは言った。――聴き終えた編集者は、

「この間おっしゃっていたように心因性遁走(サイコジェニック・フーガ)ものには、いちおう入るんでしょううけれども…」と、あまり感心していない口調だった。

「面白くなかった? 題名は『不安の無の明るむ夏の夜の底に』、キャッチフレーズは『支配的(ドミナント)な文化様態を持たない、グローバルで都会的で、間文化的(インターカルチュラル)祝祭(フェスティバル)の時代に相応しく非中心的で、多形倒錯的なのに本格的な大カルト・ロマン』にしたいの」とアリサは言った。

「はあ、ずいぶん大げさな題名ですね、キャッチフレーズはやたら滅多に長いし。だけれど、どうもその種の映画のシーンを……」

「出来合いを寄せ集めてパロディにしたみたい?」

「はい。あっ、出来合いの組み合わせというとあれですから、まっ、所与のものをレトリカルなレベルで再構成したといいますか」

「いつもどおりでしょう」

「たしかに先生お得意のスタイルですし、支離滅裂、いやっ、プロットが変わっているのも、たまになら良いとも思いますよ」

「伝記体レアリスム小説のプロット的なものって、ようは先入見(プレヴァンシオン)のこと」

「そんなこと誰でも知っています」と鼻白むように言ってから、「アイデンティティだって、突きつめればプロットの一種ですよね。それでもって、欲動の『異議申し立て』が他方で固有性(プロプリエテ)の提示になるのも、一見して欲望と抑圧の(せめ)ぎ合うステージが、実は欲望と抑圧とが共演関係を結ぶところなのであれば、それが『不安』によって作動する、絶えず他の生成の形式を取り込むための、ひとつの虚無を新たな別の虚無へ引き渡す、原抑圧の再演の舞台装置だから、ですか」

「とってつけたような文章ね、誰が書いた評論?」

「何年か前に書かれたじゃありませんか」と編集者は怪訝そうに言った。

「あら、私が書いた評論だったかしら…」

「はい、題は『クイア文学の母権的ユートピズムおよび消滅する媒介者としての〈原父〉』でしたか。…けれども映画は、みんな映画館でご覧になっているわけじゃあないんでしょう」と、ぼそり批判した。

「まあ、主人とおんなじ嫌味をいうのね」とアリサは小さく笑った。夫は思想家としても知られる精神医学者兼映画評論家で、この編集者とも親しい、「もちろん、ほとんどビデオ観賞ですよ。わたしは主人と違って、外国どころか都内にすら、ゆっくり出掛ける閑が滅多にないの、書くのに追われているもので」

「そうですよね」とビデオ嫌いの彼は言った。

「パスポートだって、ずっと使っていないわ。気ままなボーダー・クロッシングなんて有閑階級しか出来ないのよ」

「文化人はむかしから、有閑階級の理論の担い手(エージェント)じゃありませんか」と編集者は冷ややかに言って、「本誌も書くばっかりで最近はお読みにならないようなので」と、さらに皮肉ってから、「九○年代になってこの方、じわじわきているムードをご存知ないかもしれませんが…」

「ということは、まだ二十世紀なの?」とアリサは訊いた。

「はあ?」と編集者は、「いわゆる小説的なカメラ・アイですが…」

男根中心主義(ファロサントリスム)を批判する体裁を繕っているの、けれど、従来のメタフィクションとは変えているつもり」

「男根言説(ディスコース)編成がメタディスコースによって揺らぐとか、その種の構図主義は、新たらしげに粉飾した主意主義というか、たんなる自由意思論的理論だって、批判的じゃあなかったですか。それに、『語りえぬもの』としての多数多様性なんていっても、けっきょく否定態として指示されわけだから、言表の体系の補完的なものであるような『非言語的形成』のことだっても仰ってましたよ」

「そうですよ。でも、フィクションじゃないの。ステートメントとしてなら、もちろん違うこと書きます」

「ですが、このごろは、文学愛好者の嗜好も徐々に変わってきていまして、どうも先祖がえりしちゃったみたいに生真面目なので、その二つがごっちゃになっているといいますか…」

「ロマンティック・イロニーが行き過ぎたせいね」

「やはり不況が深刻なせいだと思います」と編集者は自信を持って断言した。

「ああ、下部構造的にはそうでしょう」編集者の考え方は、かねてよりマルクス主義的なので、アリサのほうが話を合わせた、「じゃあ書きながら練り直すことにします」

「ぜひそうなさってください。あと、精神障害に関してですが、言語新作などはなさらないでください、それから、症例報告などの真似も、極力控えめに」

「なぜ?」とアリサは訊いた。

「なんでもです」

「わかりました、なるべくそうします。それじゃあ、これで。娘が来るの」

「何時ごろいらっしゃるんです?」

「いまよ、いますぐ来るの、たったいますぐ来るんです!」とアリサは急きこんでそう言い、ぷつんと電話を切った。

アリサはベランダへ出た。黄色いタクシーが、建物の密集する景色を縫ってくる。くねった道を、かなりなスピードで走ってくる。速度をそのままにして急なカーヴを曲がった自動車の姿は、後輪の悲鳴を残し、瀟洒な別荘の群れが建ち並ぶ背後へ隠れた。娘が来たのだ。アリサはところが、また机に向かった。

2009年9月12日公開

作品集『サイコサスペンス』第1話 (全4話)

© 2009 月形与三郎

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