くずかごから酒場まで(1)

くずかごから酒場まで(第1話)

アサミ・ラムジフスキー

小説

6,675文字

特集*住石彰 ……稀代の天才・住石彰に迫る特集連載。第1回は奇術 師の飯島延彦氏。

くずかごの鳩 マジシャンズチョイスの先にあるもの

飯島延彦

 

トライアンフという有名なカードマジックがある。プロフェッサーの愛称で知られるダイ・バーノン(Dai Vernon 1894-1992)が基本技法を考案し、以来世界中で長きにわたって演じ続けられてきた、いわばマジック界のベストセラーだ。生まれてから一度もマジックを観たことがないという人でないかぎり、おそらく一度は目にしたことのあるマジックだと思う。

術者はまずカードを取り出し、客に任意の一枚を選ばせる。そのフェイスをしっかりと覚えてもらったらデックに戻し、厳重に切り混ぜる。よくあるカード当ての作法である。一般の人がカードマジックと聞いて思い浮かべるものは、ほとんどがこの手順を踏むものだろう。ただしトライアンフの場合はもう少しスパイスが利いている。というのも、カードの順番のみならず、裏表をもごちゃ混ぜにしてしまうのだ。これでは目的のカードを当てるどころか、ふつうに広げて探し出すことさえ容易ではない。いったいどうやって解決するつもりなのかと、客は食い入るように見つめてくる。

ところが術者は、とくになにをするでもなく、ただ指をパチリと鳴らすのみなのだ。

それを合図にデックを広げると、いつのまにかカードがそっくり表向きに揃っているではないか。客はここで第一のサプライズを覚える。さらに、順にカードを繰っていくと、一枚だけ裏向きのカードが混ざっているのが見つかる。さては失敗かと思いきや、実はそれこそが最初に客が選んだカードなのである。客は二重のサプライズを覚え、大団円を迎える。

バリエーションも豊富だ。選ばせるカードが複数枚であったり、最後に裏になっているものが目当てのカードではなくもう一捻りあったりと、応用性がきわめて高い。基本構造がシンプルゆえに、原案の魅力を損なうことなく効果的なアレンジを施せるわけであり、これも古典的名作たる所以といえるだろう。多くのマジシャンによる多くの翻案を目の当たりにするたび、私は原案の完成度の高さを再確認させられるのだった。

ちなみにトライアンフというのは英語でtriumphと書くが、これは勝利や成功などといった意味をもっている。これほど複雑に混ぜてしまっても的中させられるのだという、いささか挑発的なネーミングになっているわけだ(蛇足だが、この綴りは下着メーカーのトリンプと同じであるので、字面に見覚えのある女性も多いのではなかろうか。つまり、トリンプの下着をつければ「勝てる」ということだ)。マジシャンの原則として、あまり技術や力を誇示するような行為は推奨されないのだが、そもそもカードマジックの歴史を遡ればその原初はギャンブルに行き着くわけで、そう考えればこの勝利というネーミングも頷けなくはない。

 

さて、住石彰の特集記事でなぜこんな話を書いているのかといえば、住石の最も得意とするマジックが、このトライアンフだったからだ。

 

住石の特技がマジックであったことを知る人はもう少ないかもしれない。ともすれば動いている姿を見たことがないというファンもいるようだ。そういった、メディアへの露出が極端に減ったあとの住石しか知らない人たちにとっては、これから書く話はにわかには信じられないかもしれない。だが、まぎれもない事実として、かつて一時期、住石彰はバラエティ番組にレギュラー出演をするばかりか、そこで毎週マジックを披露してさえいたのだ。

「ふらっと5」というその番組は、毎週日曜日の午後五時から二時間放映されていた。資料不足のため正確なことがわからないのだが、あの当時は全国ネットだったろうと思う(番組自体は足かけ六年半にわたって続いた人気番組で、初期は関西ローカルだった)。前半一時間は、ユーモアを交えつつ時事ニュースを扱う夜ワイド風の構成をもち、一転後半はコントあり歌ありのエンタテインメントショーとなっている。住石のマジックは、その両者を繋ぐミニコーナーとして位置していた。セットチェンジや出演者の衣装替えのあいだにいくつかのクロースアップマジックを披露するのだ。時間にして五分程度だろう。生番組だったので、日によって出演時間は前後したが、十分を超えることはなかったはずだ。

そのときの衣装というのがまた特異で、一般に想像されるマジシャンの姿――タキシードに蝶ネクタイといったような――からは大きくかけ離れて、これがなんと全身タイツであった。あのマスコミ嫌いの住石がそんなことをするのか、と近年のファンは思うかもしれないが、繰り返し言わせてもらう。これは事実であり、一定以上の年齢の人なら鮮明に記憶にあるはずである。その体色は週ごとにころころ変わり、白一色のときもあればトリコロールカラーのときもあり、迷彩柄のときなどは唯一露出している顔まで深緑に塗られていた。次第にそれはエスカレートし、末期になるとエルトン・ジョンのような派手な眼鏡をかけてみたり、額に「肉」と書いてみたり、股間に白鳥の首をつけてみたり、さながら芸人そのものといった様相だった。

さらにその恰好で住石は、奇抜な動きを繰り返すのである。できもしないムーンウォークを試みてみたり、流行の一発ギャグの真似をしてみたり、前半のコーナーで取り上げられた話題に関連した動作をしてみたり、ともかくじっとしていることがなかった。言葉も極力発さず、どうしても必要な場合には、鼻にかかったおかしな声色で喋った。もし、この番組でしか彼を見たことがないという人がいたなら、住石彰という人間は全身タイツを着たキワモノマジシャンとして認識されているだろう。なにせ住石は、この番組において、前半にも後半にも出演せず、ただマジックのコーナーのみの登場だったからだ。

当時すでに住石は名のある音楽家であり、文学賞をいくつもとった作家であり、一期途中で投げ出したとはいえ元参議院議員でさえあった。その人物にこんなことをさせるとはなにごとかと、制作スタッフは激しい毀誉褒貶に晒されたものだが、のちの述懐ですべて住石自身のアイディアだったことが明かされている。スタッフからの提案では、前半のワイド部にもレギュラーコメンテーターとして名を連ねてほしいとのことだったのだが、住石は譲らなかったという。やるならどちらか一方だと主張した住石に対して、そこはテレビマンの性というべきか、プロデューサーが奇抜なほうを選んでしまったというのが真相だ。

せっかくマジックを披露するからには、あくまで一人のマジシャンとして立ち振る舞うべきだと住石は考えていたのだろう。マジックという言葉は本来的には魔法という意味である。すなわちマジシャンは魔法使いということになる。不思議な現象を巻き起こしては人々を煙に巻き、謎を残したまま颯爽と箒に乗って飛び去っていく。これこそが魔法使いの正しいありかたなのだと考えれば、ほかのコーナーにも出演するという選択肢はありえない。直前まで有象無象のタレントたちと一緒になって政治や芸能について語っていた人間が、タキシードを着たぐらいで急に魔法使い気取りをしたのでは、魔法の神秘性が薄れてしまう。そう、著名人・住石彰ではなく、得体の知れないマジシャン・アキラ=スミシーとしてその場に立つために、住石彰的な記号はすべて排除しなければならなかった。タキシードではなく全身タイツを着るということも、イメージを欺くためのひとつのトリックであったといえよう。

また、これには技術を補う意味もあったように見受けられる。この場で技術論に踏み込むのは避けたいので簡潔に述べるが、マジックの優劣をきめるものはトリックではない。指先の器用さでもない。一般には誤解されている節もあるが(そして、ずっと誤解してもらっていたほうが我々はやりやすいのだが)、マジシャン仲間からの受けはともかく、客を相手にした場合にいちばん出来不出来を左右するのは、ほかならぬ話術や演技力の部分である。料理でたとえるならば、トリックは素材に過ぎないのだ。どれほどの高級食材もシェフが三流では三流の味にしかならないし、鮮やかな包丁捌きも味つけの腕があってこそ生きてくる。その味つけにあたる部分こそが、話術と演技力なのだ。百の素材があっても一つの調理法しかもたないレストランと、一つしか素材がなくても百とおりのメニューを出すレストランとでは、どちらのほうがより成功するか一目瞭然だろう。マジックも同様で、難しいテクニックを使おうだとか同じ現象をいろいろな手段で見せようだとか、中級程度のマジシャンになるとそういう色気を出しはじめるものだが、ショーとしては自己満足にすぎない。どんな技を使ったところで、現象が同じであれば客には同じにしか映らないのである。それよりは、話術を磨いて、同じマジックでも違った形に見せようと努力するほうがショーのクオリティは上がる。

ここでいう話術というのは、必ずしもユーモアやジョークのことではない。マジシャンは漫談師ではないのだから、笑いを必要とするか否かは術者のスタンスによって変わってくる。また、セールスマンや政治家のように威風堂々たる喋りをしなければならないということでもない。朴訥でも構わないし、大声を出す必要もない。場合によっては、住石のように言葉を発しないという方法論も有効である。そう、無言の話術だ。話術の目的は、あくまでも場を自分のペースで支配することなのだ。マジシャンは話すこと自体に意味があり、同時に、話さないこと自体にも意味がある。少しだけ手の内を明かせば、なにげない一言やさりげない仕草が重大なミスディレクションを誘発しているというマジックは実に多い。

住石はこの点に関してきわめて自覚的だった。言葉以上に意味のある言葉として選んだのが全身タイツだったというわけだ。国会議員まで務めた男が珍妙な恰好で珍妙な動きをしている、というこの一点だけでミスディレクションは成立している。実際のところ、住石のテクニックはアマチュアの域こそ十二分に超えてはいるものの、プロの目から見て称揚できるほどのものでもなかった。しかし珍妙な動きにカムフラージュされて、多少指の動きがぎこちなくとも気にならないのである。あの衣装が住石のマジックに強度を与えていたのは、まぎれもない事実だった。いわば、マジシャン住石彰にとっては、住石自身がトリックでありギミックであったのだ。

 

考えてみると、住石彰という人物は、マジック以外の場でも常に同じスタンスではなかったろうか。

この番組を降板した後、住石は一般に道化期といわれている時代に入るが、よくよく思い起こせば、アイドル時代からその言動は人を煙に巻いたようなものが多かったはずだ。インタビューで「どう嘘をつくかが趣味だ」と答えたこともあった。

道化期が特別視されるのは、それまでと違って残した作品まで道化的であるからだが、あらゆる表現活動が作者の一部を切り取ったものであるとするならば、それが道化的性格を帯びるのはむしろ妥当であるのかもしれない。必死で抑圧してきた表出の欲望がついに耐えきれず溢れてしまった、そのきっかけのがこの時期だっただけなのではないか。そして、それを最も体現していた活動こそタイツマジシャンとしての活動だったように思える。住石は、肉体にタイツを着せることで、反対に精神を裸にしたのだ。服は本来皮膚を覆い隠すものであるが、住石の全身タイツにかぎっては正反対の効能を有していたといえる。

では、せっかく手に入れたタイツを、どうして住石はすぐに脱いでしまったのだろうか。

 

住石が「ふらっと5」に出演していたのは、前述のとおり半年間のみだ。降板時、ほかの出演者は誰一人変わらなかった。当時はやはり、「番組上での扱いを不服とした住石が喧嘩別れのように降板したのだ」と噂されたが、タイツ着用が自らの意志である点からして、これは間違っている。

単純に考えれば、アマチュアレベルのマジシャンが毎週マジックを披露するには、半年が限界だったということではないだろうか。いや、実際の限界はそれより以前にすでに来ていて、その証拠に、筆者の記憶にあるだけでも住石はトライアンフを四度も演じている。マジシャンにとってこれは嫌うべきことである。マジックの世界には「サーストンの三原則」と呼ばれる鉄則があり、このなかの一つに、「同じマジックを二度繰り返してはならない」というものが含まれている。住石のケースでは、立て続けに演じたわけではなくて期間をおいての再演ではあるが、それでも同一番組のなかで半年間に四回(あるいはそれ以上)というのはやりすぎといわざるをえない。住石が三原則を知らないはずはなく、それでもそうしなければならないほどネタに困っていたのだということが窺える。もちろん毎回多少のアレンジはしていたのだが、劇的といえるほどの変化はなかった。一般の視聴者にとって、あれが毎回違うものに映ったとは考えにくい。

そんな四回のうちの一回が、最後の出演回だった。

最後だからといって特別長い時間をもらえるようなこともなかった。ルーティン構成も代わり映えはしないし、そもそもあの短時間では構成に工夫など入れる余地もない。つかみとして小道具のバニッシュなどを行い、その後にカードマジックをやるというこのシンプルな構成に、これ以上なんの工夫ができようか。おまけに、何度もやっているトライアンフなのだから、もはやここには新鮮さの欠片もない。それでも、マジシャン住石を知っている人ならば、この日のことを強く記憶しているだろう。

ステージに登場した住石は、真っ黒なスーツを着ていたのだ。その下にはグレーのシャツと真っ白なネクタイが見え、胸には薔薇の花が刺さっていた。黒いシルクハットを被りステッキまで携えたその姿は、いつもの全身タイツからは想像もつかないほどスタイリッシュで、しかしマジシャンの平均像をも飛び越し、あたかも古いヨーロッパ映画に出てくる紳士かのような出で立ちだった。モノトーンで揃えていたことが、その印象をいっそう強くしているのかもしれない。

観客がそのまともすぎる姿に静まりかえっている間に、住石はなにごともなかったかのようにステッキの消失を行う。続いて花に手をかざすと、胸ポケットの中身は未開封のカード一箱に変わっている。そして、まったく作りものではない本来の住石彰の声で客にカードを選ばせると、軽めのアンビシャスカードで楽しませ、そのままラストのトライアンフに傾れ込む。その間、住石は一切珍奇な動きをしなかった。まるでバーテンダーのような洒落た話を交えつつ、ときおり口角を控えめに上げて笑い、紳士然とマジックを続けた。

今もってして理由がわからないのだが、それを見ていた私は、知らぬ間に涙を流していた。隣を見ると、妻も泣いていた(妻も同業者だ)。ブラウン管のなかではほかのタレントたちも涙ぐんでいるように見え、そのなかで住石だけがにこやかだった。最後のトライアンフは、鮮やかに終わった。

 

それから先の住石については、読者のほうが詳しいだろう。本気とも冗談ともつかない実験小説を発表したかと思うと、おかしな団体を起ち上げておかしな集会を開き、衆議院で国政に返り咲き、国を混乱させ続けたあげく最後には自分が混乱してしまった。

思えば、テレビでマジックを披露するという行為そのものが、住石にとっては一つのマジックだったのかもしれない。自分自身を欺くためのマジック。自分のペースに引きずり込めさえすれば、マジシャンは観客を意のままに操ることができる。相手に自由意志が存在しているかのように錯覚させたまま、自分の筋書きどおりに客を動かすことができる。この手法を専門用語でマジシャンズチョイスというが、彼の人生もすべてマジシャンズチョイスの一環だったのだろうか。

最後に住石が公の場でマジックを披露したのは、「ふらっと5」から十年後、国会本会議場のなかだった。質問に立った住石は、なにを思ったか、いきなり議員バッジを白い鳩に変えて飛ばしたのである。羽を撒き散らして広い議場を踊る鳩のシルエットはしかし、思いのほか美しいものではなかった。再び鳩が舞う日は来るのだろうか。

(いいじま・のぶひこ 奇術師)

2009年8月9日公開

作品集『くずかごから酒場まで』第1話 (全11話)

くずかごから酒場まで

くずかごから酒場までは3話まで無料で読むことができます。 続きはAmazonでご利用ください。

Amazonへ行く
© 2009 アサミ・ラムジフスキー

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

ミステリー 出版 手品

"くずかごから酒場まで(1)"へのコメント 2

  • 編集者 | 2009-08-09 23:06

    お話にぐいぐい引き付けられてしまいました。設定がしっかりしているからでしょうか、本当の伝記かと思えました。続きが楽しみです。

    • 編集者 | 2009-09-16 11:49

      コメントありがとうございます。お返事遅くなりましてごめんなさい。設定だけが命綱の作品なので、そう言っていただけると幸いです。

      著者
コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る