スティーブンは遊歩道から深夜のカージー川を見下ろしていた。川面には対岸の建物の照明がぼんやり映っている。ゴミを川に投げ込む不届き者のせいで、異臭が漂っていた。
周辺に立ち並ぶアパートのかつての住人たちはブルーカラー層だったが治安はよく、今のようにクスリの売人や路上強盗がうろつくような場所ではなかった。
変わったのは、ここ十年ほどの間だった。アパートの老朽化に伴って住人は去り、代わりに移民たちが住み始め、壊された消火栓から水が噴き上がり、夜にはたき火をして騒ぐ輩を見るようになった。商店は強盗被害に遭うようになり、多くが移転してしまった。
背後に気配があった。スニーカーらしき足音。複数ではなく、一人のようだった。
「おい、高そうなコートを着たおっさん」と男が言った。「ゆっくりこっちを向きな」
こういう事態を想定して、右手はコートに袖を通していない。スティーブンはその右手をゆっくりと動かしてスーツのポケットから小型リボルバーを抜き出し、腰の横に構えた。
「おい、聞こえねえのか」と相手が続けた。「さっさとこっちを向けってんだよ、のろま」
スティーブンはゆっくりと向き直った。相手はヒスパニック系と思われるひげ面の男で、黒い革ジャンの上にデニムのベストを羽織っていた。バタフライナイフを突き出していた。
「おっさん、ゆっくりと財布を出しな」相手は薄ら笑いを浮かべながら、ナイフを持っていない方の手で小さく手招きをしたが、スティーブンの右手に握られているものに気づいて、目を丸くした。
スティーブンは即座に撃鉄を起こしてトリガーを引いた。銃声が響いた。
倒れた相手は、声も出すことなく倒れた。弾は相手の右目付近に命中していた。
周囲に視線を走らせて付近に誰もいないことを確認し、しゃがみ込んで相手の所持品を調べた。クリップ留めされた数枚のドル札と、さらに一本のバタフライナイフ。現金だけをスーツのポケットに入れ、スティーブンはすみやかにその場を後にした。
パーキングに停めてある車に向かうため、高架下の道を進んだ。この通りは先週、銃を見せながら近づいて来たアフリカ系の路上強盗を一人、返り討ちにした場所である。その半年ほど前には、車上荒らしの二人組もここで仕留めている。あのときは直後に目撃者も撃つこととなり、後味の悪さがしばらく残ってしまった……。
戦利品の銃は、今は四丁ある。さきほど使ったスミス&ウエッソンの小型リボルバーもその一つである。弾がなくなったら現場に放置する。後で警察はその銃の前科を調べて、犯罪者同士のケンカによる射殺事件だと判断してくれる。
通りの真ん中辺りにさしかかったところで、向かいの歩道から「おい」と声がかかった。
相手が手にしていたのはまたもやナイフだったが、今度は重厚そうなサバイバルナイフだった。ニット帽をかぶってマスクをしているが、アフリカ系だと判る。
「乱暴はよしてくれ」スティーブンは立ち止まって、両手で相手をまあまあとなだめる仕草を見せた。「カネならある。財布ごと渡すから」
「ああ、おとなしく渡すんなら、それでいい」と相手はうなずいた。「あと、腕時計もだ」
スティーブンは「判った。まずは財布を出すよ」と、いかにも恐怖に怯えている小心な初老の男を演じながら、スーツのポケットに右手を入れ、リボルバーをつかんだ。
今度も簡単に決着がついた。倒れた男のマスクをはぎ取ると、やはりこの男も驚愕の表情のまま絶命していた。恐怖を感じる暇さえなかっただろう。
さらに所持品を探ろうとしたそのとき、すぐ近くでパトカーのサイレン音が響き、左前方の道路がライトで照らされた。
まずい。すぐにパトカーがこちらに曲がって来そうだった。スティーブンは立ち上がって見回すが、身を隠せそうな場所が近くになく、舌打ちをした。つい先日、この通りで路上強盗を仕留めたせいで、警察が警戒してパトカーを巡回させていたのかもしれない。
走って逃げるか? だが先の十字路にたどり着く前にパトカーに見つかりそうだった。
そのとき、背後のアパートの窓が開き、「神父様」と声がかかった。「キャシーです」
日曜礼拝にいつも来ていた老婆、キャシーの声だった。三階の窓から出した顔は、暗い中でも、彼女だということは判った。
意識が戻ったとき、スティーブンはカーペットの上でうつ伏せに倒れていた。頭が重く、両手首にしびれるような痛みがあった。動かそうとしたができない。
後ろ手に、結束バンドらしきもので縛られているようだった。両足首も縛られていた。
下品な歌声。曲名は忘れたが、大嫌いなミック・ジャガーの声。ラジオらしい。
顔を持ち上げようとするが、うつ伏せ状態なので上手くいかない。身体をひねってようやく室内をある程度、見渡すことができた。安っぽい壁紙と家具。窓の外はまだ暗かった。
徐々に記憶が戻ってきた。キャシーの部屋に入れてもらい、しばらくここで時間をやり過ごした方がいいと言われ、出された紅茶を飲んだ。その後、急に眠くなったのだ。
「目が覚めたかい」とキャシーの低い声がした。スティーブンが反対側に身体をひねると、ぼさぼさの白髪頭に柄物のセーターを着たキャシーがソファーに座っていた。
「キャシー、できたらラジオを消してくれないか。あと、なぜこんなことをする?」
しかしキャシーはそれには答えず、「夜に眠れないんで、結構前から睡眠薬を服用しててね。神父様に出した紅茶にも入れたんだ」と言った。「私が神父様と同郷だって話は覚えてるかね? もう何十年も前だけど、同じ町に住んでたって話をしただろう」
「ああ。キャシーはあの田舎町で、かつて家政婦をしていたんだったよね」
「そう」キャシーは微笑んでうなずいた。「私が働いてたのは結構なカネ持ちの家でね、プールや広い芝生の庭があったよ。裏手は材木置き場だったけど、キッチンの窓から、白人のガキがボウガンで野良犬を撃って殺すのを何度か見たよ。エサでおびき寄せて、積まれた材木の陰から撃ってて。恐ろしいガキがいるもんだ、どんな悪魔になるのかと思ってたら、遠く離れたこの町で神父様になってたんで、たまげたよ。大人になっても目つきや雰囲気ってのは変わらないものだね。私は一目で判ったよ」
まさか大昔のあれを見られていたとは。スティーブンは「くっ」と漏らした。
「その反応は、認めたってことだね」キャシーは気味の悪い笑い方をした。「あんなガキでもその後はまっとうな道を歩いて、神父様になったんだ、たいしたものだと私は喜んでたんだよ。ところが半年前のことだ。私は眠れなくてなんとなく窓から通りを見下ろしていたら、あんたが二人組の車上荒らしを射殺するところを見ちまった。しかもそれだけじゃない。たまたまそこにを通りがかったロドニーまであんたは射殺した。教会が定期的にやってる、貧しい人たちへの食料品配布とか炊き出しを積極的に手伝ってくれて、ホームレスの人たちのところを回って健康状態を診てあげたりしていた医学生のあのロドニーをね。あの日もきっとロドニーは、ホームレスの人たちの様子を見て回ってたんだろうに、尊敬していたはずの神父様に射殺されちまった」
スティーブンの脳裏に、あのときのロドニーの表情がよみがえった。彼は絶命する直前、「神父様、どうして……」と悲しそうな顔で最後の言葉を吐いたのだった。だが、目撃者を生かしておくことは、破滅を意味する。他に選択肢などなかった。
「殺したいという衝動を抑えられないサイコパス野郎ってのがたまにいるようだね」とキャシーは続けた。「それが神父という聖職者であっても私は別に驚きはしないよ。教会では信者に向かって、隣人を愛しなさいだの、互いに許し合いなさいだのと説教しておきながら、裏では殺人を繰り返す。皮肉の効いた、滑稽な話だよね」キャシーは天井に顔を向けてため息をついた。「確かに最近、この町は殺されても仕方がないようなクズどもだらけになったよ。神父様が町を掃除するためにそういう輩を駆除してくれてることについては、感謝しなきゃならないのかもしれないよ。最近、クズどもがこの辺りで次々と死体になってるようだけど、あんたの仕業なんだろう」
ミック・ジャガーの耳障りな歌声が続いていた。
「キャシー、私をどうするつもりなんだ。あと、ラジオを消してくれないか」
しかしキャシーはそれも無視して「ロドニーみたいないいコを殺したあんたを見過ごすわけにはいかないんだよ。あんたが自首することを願って待ったけど、時間の無駄だった」と抑揚のない声で言った。「実の孫だって貧乏暮らしの私のところには来たがらないのに、ロドニーはこんな老人にもこまめに声をかけてくれてたんだ。キャシー、体調はどう? キャシー、困ったことはない? キャシー、最近は礼拝に来ないことが多いみたいだけど大丈夫? あのコのお陰で私はどれだけ救われたことか」
「キャシー、聞いてくれ」スティーブンは頭の中で作り話をすばやくまとめた。「ロドニーは本当は、そんないいやつじゃないんだよ。教会で出会った女の子たちを次々とレイプしてたやつなんだ。私は何度、被害者の女の子たちから涙ながらの訴えを聞いて、ロドニーを叱りつけたことか。あいつは表向きは反省してるふりはしていたが――」
「はいはい、猿芝居はそこまでだよ」キャシーは手を叩きながら大きな声で制した。「ロドニーはね、ゲイなんだよ。あんたは礼拝のときに、同性愛者は神の教えに反する悪魔だとこき下ろすもんだから、あのコはどれほど思い悩んでいたことか」
キャシーは携帯電話を取り出し、ピッピッピッと三回音をさせた。911か。
「あんたが平気でそういうウソをついてくれたお陰で、こっちもふんぎりがついたよ」キャシーは冷たく言い、電話の相手に「ああ。人殺しの現行犯を捕まえちゃったもんでね。すぐに警察官を寄越してもらえるかね――」と伝えた。
ラジオからの耳障りな歌声がようやく終わった瞬間、スティーブンは曲のタイトルを唐突に思い出し、顔をゆがめた。
ほどなくして、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。
興味がある方は、ザ・ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」をどうぞ。
ブライアン・ジョーンズも存命だったときの貴重な映像。なぜかマラカスを担当。
経緯が判らないのだが、会場にはジョン・レノンやオノ・ヨーコの姿も。
大猫 投稿者 | 2023-05-18 20:23
わー!ミック若い、キース若い!
ブライアンて器用だから何でも楽器できたんだよね。でもこの頃はみそっかす状態だったのかなあ。ぎゃー、ジョンとヨーコだあっ!
眼福の動画をありがとうございます。
リボルバーの大写しような渋いシーンから、だんだんズームアウトするように、因果応報に突き放される主人公に、ミックの歌声が嫌味たっぷりに被さって大変効果的だったと思います。ストーンズの毒に当たったことない若い人にはどこまで通じるかなとも思うけど、雰囲気は良く伝わってきます。
諏訪靖彦 投稿者 | 2023-05-20 19:10
アメリカのトードボイルドサイコサスペンス映画を観ているようでした。物語全体をまとっている陰鬱な表現がうまく表現されていたと思います。ストーンズで思い出したのですが高校卒業してすぐ結婚した友人の披露宴で「サティスファクション」を弾いたのを思い出しました。三十代以上の出席者は引いていました
松尾模糊 投稿者 | 2023-05-20 23:27
自分はずっと闇落ちするヴィランに惹かれていたので、こういう牧師がいてもいいですね。ストーンズはやっぱり陰のある感じが格好いいわけですし。ビートルズは何やっても陽な感じがします。
曾根崎十三 投稿者 | 2023-05-21 10:04
人殺しの神父! なるほどそういうお題回収もあるのですね。羅生門的な「生きていくための悪は仕方ない」みたいな話かと思い、逃げ切って欲しい気持ちにもなりました。
春風亭どれみ 投稿者 | 2023-05-21 12:13
ガッチガチのハードボイルド作品ですね!
ミックジャガーは歳とってからもわりと日本に来てくれるロン毛のおじいちゃん、ジョンレノンはビートルズの曲はちょこちょこわかるけど、基本的に教科書の中の人イメージが強い世代なので、動画、新鮮でした。
波野發作 投稿者 | 2023-05-21 14:58
得意分野の妙技炸裂というところですね。この文字数でこの展開からきっちり落としてくるあたり、熟練の技を感じます。
小林TKG 投稿者 | 2023-05-21 15:53
最後のあのロドニーの作り話のところまで、踏ん切りがついてなかったんだなあ。キャシー。まあ、だから、起きるまで待ってたのか。キャシー。キャシー話がしたいんだなあ。この事件に決着がついたらキャシーどうなるんだろうなあ。ほかに話し相手いるのかなあ。
小木田十 投稿者 | 2023-05-21 18:52
丁寧な書き込みにより時代の雰囲気が出ている。説明臭さを感じはしたが、読み応えがあった。
蓮丸はお役御免となり、刑場を遠巻きに見ていたぐらいなのだから、島流しの同行もバックレることができたのでは?
当時は存在しない〔手榴弾〕を比喩で用いたのは筆が滑った?
火薬は爆薬と違ってそれほどの殺傷力はないはず。
小木田十 投稿者 | 2023-05-21 18:53
投稿先を間違えました。すんません。
Juan.B 編集者 | 2023-05-21 19:04
人間の因果の描写がすさまじい。最後のサウンドトラックと言うべきか、やはり雰囲気づくりが上手くいっている。