ある画家、あるいは精神の渇き

山本ハイジ

小説

8,710文字

 

※自サイトに載せている長編小説『咎の園』という作品の外伝SS作品です。

 

わたしは生きながら、死んでしまった。

久しぶりに激情に任せて絵を描いた。久しぶりの心地好い疲労感。しかしそのあと襲ってくるのはいつも通りの虚しさ。絵の具のにおいに満ちたアトリエで、極彩色に塗れながら床に転がること数時間(恐らく、それくらいは経っている。そろそろ空腹感に耐えられない。生きた肉体の面倒臭さ)、頭の中で延々とぐるぐると巡る『わたしは死んだ』という絶望。

重い体をなんとか起こすと、目に入るわたしの遺作。美しい女が微笑んでいる。いや、泣いているようにも見える。その微妙な表情に加えて、ぼやけた輪郭と色使いがなんだか不気味に映るかも知れない。世界一怖い絵などと主にネットで噂されている女の肖像画と、若干似てしまったような気がする。

わたしは妻を正直に描いたから、美貌はその肖像画には劣るが、不気味さでは優っているだろう。と、創作熱の冷めた頭で絵を自己評価してみる。もしかしたら、ネットで広まるほどの衝撃がこの絵にあるかも知れない。猟奇的な噂を添えられたり、妻と別れた理由を捏造されたりで。……しかし、わたしはこの妻の肖像画を世に出し、金にする気はさらさらない。

そして、今後妻をモチーフにする気もない。滅入る、というのもあるが、この絵は爆発のようなものだ。あとにはなにも残らない。そう、わたしはこの爆発を最後に、死んだのだ。

立ちあがり、アトリエを出る。少し進み、電気を点ける。暗い廊下が照らされると、暗いリビングが奥のほうに見えた。そう、当然の如く暗い。これから食事はどうしようか。わたしにまともなものが作れるだろうか。

洗面所へ向かい、エプロンもせずに描いていたからひどい有様になっているシャツを脱ぎ、洗面器にかける。あいつは、絵の具のこびりつくシャツをどうやってあんなに綺麗に洗いあげていたんだろう? 二階の寝室に向かう。あいつを一人で寝かせてしまうことの多かった、ダブルベッド……。

クローゼットを開けて、よれよれのシャツを着る。穿いていたジーンズも汚れていたが、これはまあいい。財布をポケットに捩じ込み、一階におりて、踵を潰したスニーカーを突っかけ外へ出る。

夜闇(やあん)に光るのは、すぐ近所にあるファミリーレストランの看板。自動ドアを通り抜けると、客からちらちらと向けられる視線を感じる。洗面所の鏡で確認はしていたが、やはり落とす努力はしてみるべきだったか。口元を覆うほど伸びたひげに付着している絵の具。そのまま、店員に案内された席につく。

「ナポリタンと、食後にクリームソーダ」

メニューを見ず、すでに脳内で決めていた注文を告げる。空腹は癒したいし、好物も頼みたい。そう、その程度の絶望なのだ。肉体まで死なせる気はないし、ちゃんと欲もある。

ただ、たんたんと機械的に、周りから喜ばれるような表層的な絵を描いて生きていけばいいだけだ。

……ああ、後ろの席でサラリーマン共が仕事についてなにか大声で言い合っている。うるさい!

 

わたしと明日香は同じ美大に通っていた。自然と仲良くなった。恋人同士になった。……大学を出て、夢を追うわたしに明日香はついてきた。

パーマネントで波打った髪。まるい輪郭の顔。どんぐり眼(まなこ)。やや幼く、明るい雰囲気の容貌。こんな不細工で、人より老けたわたしにはもったいない女だったのだ。地道に画廊に売り込み、様々な副業(本業? 画家だ)で稼いだ金で個展を開いた。明日香はそんなわたしに尽くし、身の廻りの世話だけではなく、金銭面を助けてくれることもあった。

そのうち、わたしの絵を買う客が出てきた。描いた天使が賞を獲った。副業をすることがなくなった。大きな家を建てた。……明日香にこれからお返しをしていかなければと思ったが、彼女はなにも求めず、ただ家事だけをしていた。ふと、明日香も空き時間には絵を描いていたはずだったが、長い間そんな姿を見ていないことに気づく。

そのまま、わたしたちは結婚した。順風満帆。なにもかもうまくいっていた。

なのに、ふと重要な、しかし気づかなかったほうが幸せだったことに気づいてしまった。ルーチンワークと化しつつあった絵を描くという作業に、漠然とした嫌気を覚えてきた頃だ。スランプだろうか。嫌気の正体を探らなければと、描いた絵の前で思案する。

そして、気づく。今までわたしは絵を描いているようで、ちっとも描いていなかったのだということに。前に居る裸婦の聖女のような微笑が、癪に障る。

若い頃はただ成功したかったから、努力してきた。一生懸命頑張ってきた。好かれる、売れる絵を描こうと。……そのために、持っていたはずの様々な感性を捨ててきた。そう、成功したかったから。仕方のないことだ。

それで、成功したわけだが今のわたしはどうだ? 空洞だ。

瞬間、周りが色彩を失ったように見えた。漠然とした嫌気がはっきりしてくる。

わたしは、なにが描きたかったのだっけ? まるで思い出せない。……ふと、褒めそやす連中ばかりのなか、一人『ハリボテのような絵だ』と評した批評家がいたことは思い出した。

この清らかな聖女を、今まで描いてきた天使を、美少女を美少年をすべて破り捨てて抹殺したくなる衝動に駆られる。しかし、中途半端に強い理性がそこまでさせてくれないから、パレットナイフで手の甲を傷つけるにとどめた。

なにか、新しいモチーフを探さなければ。ネットをしたり本を読み漁ったりしてみるが、見つからない。用事がなければ基本外に出ないわたしが外出してみた。見つからない。……美術館に行ってきた帰り、住宅街の道路にチョークでラクガキしている女児を見かける。自由過ぎる線と、理性などないから描けるのであろう不可解な図。

(わたしより、君のほうが芸術家だ)

子供は快楽主義だ。

 

それから、虚しさを押し殺す日々がはじまった。高尚ぶった絵画や耽美趣味の少女たちに好まれそうなイラストレーションをただ、たんたんと適当に仕上げていく。

綺麗な絵だの美しい絵だのと評されるたび、内心で(節穴が)と毒を吐く。

なにをやっても解消されない空虚感に苛々した。そして、わたしは募る苛々を妻にぶつけはじめた。

最低だ。わかっている。しかし、わたしは子供じみた癇癪を抑えられなかった。童顔の明日香と老け顔のわたし。精神は逆だったらしい。

あいつの一挙一動になぜか腹が立つ。物音を立てただけで、怒鳴りたくなる。殴りたくなる。……なんなんだお前は。絵を描くこともせず、なぜにこんなだめなわたしに尽くす!?

目元に痣を作り、泣いていた。あいつは長いこと耐えていた。……が、ついにあいつから離婚届を用意した。それを見て、わたしが覚えたのは安心感。もう、いい。甘え過ぎていた。自由に生きてくれ。

それで、受理されたのが昨日。……アイスクリームの溶けたメロンソーダをストローで、下品な音を立てて飲み切る。氷がカラン、と言った。

 

サラリーマン、というのはどういうものか。よくわからないが、恐らくわたしとそんなに変わらないのだろう。と、個展にて窮屈なスーツに身を包み、内心の無気力さを表に出さないよう気をつけながら、社交辞令を述べる客人たちに事務的な対応をしつつ思う。客人の贈る花で飾られた空間には(花は正直、迷惑だ。あとで片づけるのが面倒)、同じような、つまらない絵ばかりが並んでいる(わたしが描いたわけだが)。絵の何枚かは、売約済みを意味する赤いシールが貼られていた。成金共による、虚栄の証しだ。

客人の一人(けばけばしく、肥えていて、言動がいかにもキッチュな中年の婦人)に適当に絵の説明をして、そこから発展した長話に付き合い、ようやく去ってくれてから一息吐いた。そっと自分の肩を揉む。思いっきり伸びもしたい気分だ。……しかし、一息は本当に一息でおわってしまった。

客人がこちらへ明らかに近寄ってくる。姿が近くなってくると誰かはっきりとわかった。見覚えのある、格好のいい老紳士。しかし連れている、和装の背の高い少女に見覚えはない。

「こんにちは、宮沢さん」

「……こんにちは、三屋さん。ご来訪、ありがとうございます」

「初めまして」

昔は大層美男だったであろうことがわかる顔に上品な笑みを浮かべるこの老紳士(いや、端から見たらわたしのほうが年寄りに見えるかも知れない)は、度々わたしの個展に来ていた。絵を購入していったこともある。

そして、少年のような声色に内心少し驚いたが、隣の礼儀正しく挨拶してくれた少女は孫娘だろうか? 声だけではなく、よく見ると骨格や容貌など所々に中性的な印象はあるが、美少女だ。前髪を斜めに流した、つやのある黒髪のショートカット。年の頃は十代後半といったところだろうか。いや、一風変わった、妖艶な化粧のせいで大人っぽく見えているだけかも知れない。切れ長の目尻に細長く伸びているのは、睫毛ではなく黒い羽根だと気づいた。

すんなりとした細長い体に纏っている、黒地の着物に描かれた花鳥風月の文様の色彩はあでやかで、本物の友禅染(ゆうぜんぞめ)だとわかる。袖から覗く少々無骨な手は顔と同じく白皙(はくせき)としていて、その白さを守るためであろう日傘を携えていた。……つい、少女のなんとも言えない、周囲から浮いた独特の美貌と雰囲気に惹かれてかまじまじと観察してしまった。

「初めまして。……お孫さんですか?」

「いえ、私の息子です。影次と言います」

呆気に取られ、疑問を口にする前に、老紳士はわたしたちの前にあった絵のほうを向いた。十字架を背負った、修道女の絵である。『聖女』という題名だった。

「いやあ、相変わらず繊細なタッチで美しい! ……しかし、なにかに抑圧されているようですね」

「あ、あの……」

「そうそう、こちらつまらないものですが」

戸惑っているわたしに構わず、老紳士はスラックスのポケットから黒い紙と真紅のリボンでラッピングされた小箱を取り出し、わたしに差し出す。一拍置いてから、得体のわからないその小さなプレゼントを受け取った。

「菓子折りは腐るほどいただいているでしょうし、花は邪魔になると思いましてね。実は私、娼館を営んでおりまして……コレは会員証です」

わたしは、あ、とか、え、とかしか発せなかった。

「本当は色々と手続きがいるんですがね、特別です。こいつも買えますよ」

老紳士が少女だか少年だかわからない生き物の腰を抱き寄せる。その面妖な生き物は、わたしに媚を含んだ――ように見えた、だけかも知れないが――流し目を送ってきた。腰を抱かれながら、堕天使を思わせる、黒い羽根の生えた目で。

「ご連絡くだされば、ご案内いたします。よろしければ遊びにいらしてください。……では、接客でお疲れのようですし、これで」

老紳士は息子の腰に手を添えたまま、踵を返した。異様に密着している後ろ姿は、親子関係というより愛人同士に見える。

退廃だ。倒錯だ。おぞましい。

 

だが、不思議と惹かれる。どうやら、わたしはよほど渇いていたらしい。

あの個展の日から、おぞましいと感じつつも、ずっと脳裏に焼きついて離れないのだ。影次という名のアンドロギュノスが。あの少年は夢魔なのか? わたしは取り憑かれてしまったのか?

名刺の束を漁り、見つけた目当ての名刺に印刷されていた番号を携帯電話で打つ。

『はい、私の息子をご指名ですね。はい……では、スケジュールを確認し次第、使用人の者がご連絡いたします』

わたしに変態趣味はない。それ以前に、わたしは性欲が常人より薄いほうだと思う。そういえば、あいつを抱くことも少なかった。

ただ、あのアンドロギュノスと、娼館という現代では聞かぬ響きが、この空虚を少しでも埋めてくれるかも知れないと期待した。わたしは、やはり生きたいのだろう。

 

『……では、その日の二十三時にお迎えに参ります。影次の装いになにかご希望はありますか?』

「希望? 別に、ない」

当日。もしかしたらただの趣味の悪い冗談だったのではないのかと不安もあったが、ちゃんと迎えの車が来た。スケッチの道具と会員証らしい、薔薇の刻印されたシルバーのシールリングを携帯する。リングの側面には『EDEN』と刻まれていた。

英国の屋敷の使用人を思わせる制服で屈強そうな体を包んだ使者に促されるがまま、黒塗りの車に乗り込む。街の灯から離れ、山の闇中に入ってしまったときは、また別の不安に襲われた。頭に謎多き老紳士、三屋清十郎の姿が浮かぶ。……わたしはバラされて、埋められるのではないか? と、三屋に後ろめたいことがあるわけでもないのに、嫌な妄想をしてしまう。

暗い樹木は唐突に開けて、明かりが見えてきた。翼の生えた青年、エロスの像が両側に設置されている開いた鉄の門と、その奥に見える洋風のクラシックホテルのような横広がりの白い建物が、敷地にぽつぽつと立っているレトロな外灯に照らされている。

車からおりて、エロスのあいだを通り、使用人に案内されるがまま楽園へ入った。ふと、この建物にはほとんど窓がないなという違和感に気づくと同時に、両開きの重厚なドアが使用人の手で開かれる。彼は、すでに待っていた。

広々とした大理石のエントランスで、腿の中程まで丈のある、シャム猫を連想するような色合いの毛皮を羽織って立っている。前髪は流さず、おろしていた。目が合うと、血豆色に塗った唇を微笑の形にして礼をしてくる。わたしはその礼に反応するのも忘れて、彼の全身を眺めた。極端過ぎて安っぽく見えるほどの光沢を放つ赤いエナメルのハイヒール、長く伸びた白い素脚、面積の狭い黒のショーツ、そして腰には胸下までの丈の、唐草が刺繍された暗い紫のサテン地のコルセット。コルセットは両縁が、ギャザーを寄せた幅広の黒いレースで装飾されていた。くっきりとした鎖骨のあいだでは、つけているネックレスのきらびやかなスワロフスキーが揺れている。

昔、スケッチ旅行で訪れたフランスの街で、迷い込んでしまった裏通りで見かけた街娼を思い出した。毒々しく、うさん臭く、豪奢だが下品な一目で娼婦だとわかる装い(そう、確か高級そうなコートを羽織っているのに中はほとんど下着だった)。あの時はダークゾーンに踏み込んでしまったと思い、身の危険を感じて慌てて逃げ出した。そんな格好を今目の前に居る、当然だが胸の平らな少年がしているのだ。

受付でリングを見せ、安くはない料金を支払うと、少年……娼年がハイヒールを鳴らし、すぐ近くまでやってくる。窮屈そうなショーツの前には当然、ふくらみがあった。

「今宵はよろしくお願いします」

少年らしいシャープな輪郭だが小作りな顔に視線をややあげて移し(ハイヒールのせいだ)、間近で見る。前見た時と変わって、目元の化粧は目尻ではなく下睫毛を強調させていた。黒々としていて長い。そして首か胸元からは深みのある、薔薇に似た芳香が漂ってくる。

「……ああ、よろしく」

案内される途中、エデン内のあちこちに視線を向けた。壁に背を預けている美しいが毛髪のない女が居る。影次と同様にコルセットをしているがショーツは穿いておらず、頭と同じ無毛の股間の少し上には薔薇のような形をした痕がある。じっと、エントランスのドアのほうを見ていた。

通りかかった両開きのドアからは、気違いじみた騒ぎが聞こえてくる。ちらほらと居る娼婦や男娼だろうと思われる者(明らかに、まだ子供に見える者もいた)はだいたい、コルセットを締めて体のどこかに薔薇が咲いていた。それに伴っている客だと思われる者たちは上品な格好をしている者もいるが、全裸の者などもいて、わたしはいつも通りの格好で来たが恥を感じる必要はなさそうだ。

一組、体重が三桁はありそうな全裸の女を引き連れている、同じく裸の痩せた男という組み合わせを見かける。女のコルセットなどつけられそうにない出っ張った腹には薔薇があって、ぎょっとした。……階段をのぼり(踊り場には手錠のついた怪しげなポールがあった)、部屋に通される。

柵のついたアンティーク風のベッドが置いてあるだけの、そこまで広くはない部屋。毛皮を一々なまめかしい動作で肩からずりおろしながら、ベッドへ向かおうとする彼になにか危機感を覚えて、慌てて声をかけた。骨張った肩だった。

「絵を、描きたいだけだ」

 

毛皮を脱ぐと気づく、細いが筋っぽい二の腕。見ていて不安になるほどコルセットでくびれた腰。彼をアンドロギュノスに見せている人工的なおうとつ。それでやや前に突き出ている胸板がより強調されている。近くでよく観察すると、両乳首の赤みが不自然なほど強い。こんな部分にまで化粧をしているのかも知れない。そして毛皮の覆いが取れたことで確認できた、張りのある太腿、左腿の薔薇。やはり、この烙印はここの娼婦の証のようだ。

「……まあ、いろんな方がいます。もう性行為らしいことを求めてこなかったり」

毛皮をかたわらに置いて、ベッドの縁に腰かけた影次の体中に改めて視線を這わせながら、スケッチブックに鉛筆を走らせる。なにか会話をしていたが、そのうち返事をするのを忘れる。彼もわたしの様子を見てか、黙った。……いちばん目につくのは毛どころか毛穴すら見当たらない、室内の明かりを受けて白く輝いて見える引き締まった脛。足首と膝は無骨で、形がはっきりしている。

筋骨隆々とはしていないが、少女のような柔らかさもない。微妙な趣(おもむき)のある肉体。あれこれとポーズを指示して、次々とスケッチしていく。

頭を反らさせる。目立つ喉仏。ショーツを脱いでもらう。綺麗なビキニラインをしているなと思っていたが、やはり、陰毛自体存在していなかった。乳首同様赤みが強いが、元々色濃い上から塗ったという風貌のショーツをふくらませていたもの。平均的な形。皮は剥けている。

「勃起させてみてくれないか?」

「はい」

頭を反らしたまま、陰茎に手を伸ばす。ハイヒールと同じく安っぽい光沢を放つ、ほとんど黒に近い紫に塗った爪を持つ指が亀頭に皮をかぶせたり、剥いたりを繰り返して扱く。少しして、張りつめて反り返った陰茎の先端がコルセットの唐草に触れた。萎えないうちに描写する。

今度はベッドにうつぶせてもらう。スタイルのよい女には劣るのだろうが、優美な曲線を描いている尻。が、目をこらすと所々痣があるのに気づく。色々とポーズを変えさせているうち、その痣は尻だけではないことがわかった。肩甲骨の頂の脇、膝の裏の陰影、その他色々。どうやら、白皙の肌は完璧ではないようだ。あと、腋の手入れはまだ完遂しきれていないらしい。窪(くぼ)みにわずかな黒ずみと、毛を処理した痕があった。

コルセットをはずしてもらう。ちょっとぶつけただけで折れてしまいそうだという心配は薄まったが、本来均等であるはずの少年のウエストには素でもうすらくびれがあった。肋骨、変形しているのだろうか。上体を反らさせ、浮き出た肋骨の線を描く。……。

そして、迷ったが見せてもらった。壁に頭を、わたしに尻を向ける形で横になった彼が自ら紫の爪を尻肉に食い込ませ、開く。睾丸からつづく濃い赤褐色の道。その先に、アブノーマルな欲望を受け入れているのであろう皺の寄った穴。穴の縁は心なしか腫れぼったく見えた。

わたしに変態趣味はない。この娼年の何処其処に視線を遣っても、わたしのセクスは至って落ち着いている。まさか彼を抱きたいとは思わない。しかし妙な高揚は奥のほうで感じていた。ヌードデッサンで女性モデルにどれほどきわどいポーズを取らせても冷静に、機械的に描いていたはずのわたしが。

 

果たして、ここにミューズは居るのか? 居るとしたら、外界の貞操固いミューズと比べて相当淫奔な女神だ。

あれからしばらくエデンに通った。広間の舞台で繰り広げられる、おぞましいなんてレベルではない催しを見物した。影次に限らず娼婦たち皆、体のどこかに痣がある理由は自然とわかった(一部、裸でふらふらしている客のほうが傷や痣はひどかったりするが)。

外界から解放され、抑圧や理性のない、子供のような快楽主義者たちの欲望を受け入れつづけている奴隷と呼ばれる娼婦たちや、エデンの光景のスケッチをもとに絵を描いてみる。明らかに娼婦の装いをしている女の絵に『聖女』という題名をつけた。広げた毛皮に寝転がる、身につけているのはネックレスとハイヒールのみの娼年。都会の街で行き交う、顔面が肛門の人々。惨殺されているキューピッド。……。

自然の風景画でも描いているような気分だった。これが人間本来の姿なのかも知れない。

気まぐれを起こし、この絵の何枚かを世に出してみた。一部マニア向けの画廊では受け入れてもらえたが、画壇からは『低俗に堕ちた』と失望されたようだ。

なんだかスッキリした。それに、こんな絵でも結構売れた。買い手はほとんど三屋。

しかし、わたしはこれで生き返れたのだろうか? それはわからない。いまだに空虚感に襲われることがある。こんな淫靡な絵が、わたしの『絵』なのか……? だが、エデン通いはもうしばらくやめられそうにない。

最近、わたしは辺獄(limbo)にさえ行きはじめた。

 

2014年7月18日公開

© 2014 山本ハイジ

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