あんたのファッキンちんぽこを丸呑みにしてやるよ。
チェスはそう言ったけど、俺にはそもそもファッキンちんぽこが付いていなかった。もちろんチェスだってそんなことはわかっていた。彼女は盲目でも夢想家でも、ましてや善人でもない。だから何にもない虚無を、あむっと噛む真似をして、口のなかでそれをていねいに転がしながら味わうそぶりをして見せた。それから大げさに、ごくん、と喉を鳴らすと言った。ほら、これであんたのちんぽこはあたしのもんだ、って。
俺が俺とはじめて言った日のことを、今でもよくおぼえている。母さんは持っていた卵を殻ごとフライパンに落っことし、父さんは飲みかけのコーヒーを手もとの新聞紙にどぼどぼ吸わせた。「俺のぶんはいらないよ」俺は母さんにそう言ったんだ。時間がないから目玉焼きはいらない。コーヒーだけ飲んだらもう学校へ行くよ。そういう意味だ。
おまえ、と父さんが言った。父さんは俺が俺と言うことについてはこの世の終わりみたいに驚くくせに、自分は平気で俺にむかっておまえなんて言う。おまえ、父さんはもう一度言った。なんだその言葉遣いは。母さんは立ちつくしてこっちを見つめたままで、フライパンからはじゅうじゅうと卵が殻ごと焼けていくにおいがしていた。
ただの一人称じゃないか。
俺はそのとき心のなかでそう思った。思っただけで言わなかった。行ってきます、と言って家を出た。制服のスカートをひるがえして。その日のできごとをチェスに話したら、声をあげて笑っていた。おまえ、おまえ、と俺を指さしてくりかえした。町はずれにあるホテルのマットレスはかび臭くて、床のすみには埃がつもっていた。古いエアコンがごうごう鳴りながらつめたい風を出していた。しわくちゃになったシーツのうえであぐらをかきながら、チェスは歯をむきだしにして笑いつづけた。しょっちゅう煙草をすぱすぱやっているせいで、チェスの歯は溶かしたバターみたいに黄ばんでいる。
最高じゃん。あんたが出ていった後、きっとママンはフライパンの卵をゴミ箱に突っこんで、パパンは濡らしたスラックスを洗濯機に突っこんで、あんたは学校へ行かずにあたしに突っこんでたんでしょ。まじで最高。最後のシーンにしか登場できなかったことが惜しまれる。
やめろよ、と俺は言った。
何を? チェスが言った。
その、あれ、ママンとかパパンとか。
チェスは肩をすくめた。つまんないのって顔をしながら。でもすぐ、小さな声で「ごめん」と言った。
いや、いいんだ。こっちこそなんかごめん、ただの三人称だよな。
俺が言うと、チェスは言った。いいってことないでしょ。あたしは他人からプリプリキャンディメロエッタちゃんって呼ばれたらいやだよ。いやなだけで気にはしないけどさ。
でもまあ自分で自分をそう言うのはもっといやだな。チェスは身震いしながら二の腕をさすった。浅黒い肌に鳥肌が浮いている。それからベッドサイドのリモコンを手に取ると、忌々しげに設定温度を上げた。この馬鹿エアコン、部屋を冷凍庫かサウナにしかできないんだから。
べつにファッキンなちんぽこがほしいと思ったことなんて一度もない。いやそれはちょっと嘘だ。あればいいのにと何度も思った。でもないんだ。だから俺はその俺を受けいれる。チェスがそうしてくれたように。俺は俺のからだが嫌いじゃない。嫌いじゃないと思えるようになりたい。俺のからだを嫌いになったら、俺が俺と称したり、俺がチェスを舐めまわしたりすることに眉をひそめるやつらと同じになってしまう気がするから。
チェスの最高なところはさ、「あたしはきっといつかあんたに飽きるよ」って平気で言うところだよ。「俺だって」と俺は言うけど、それはただの強がりで、チェスには一笑に付されるだけだ。
でもあたしが飽きたって、あんたがあんたでなくなるわけじゃないでしょ? チェスは二本目の煙草をくるくる巻きながら言う。溶けたバターのあいだから赤い舌を器用にのばし、紙の端をちろっと舐める。チェスの煙草はリコリスのにおいがする。でもそれは葉っぱのにおいじゃなくて、巻いている紙のほうのにおいらしい。
チェックアウトまではまだ時間がある。スカートをはきなおす前に、チェスの前歯の感触をたしかめるくらいの時間はじゅうぶんにあった。俺は俺から逃げられない。俺のファッキンちんぽこは、チェスが呑みこんでしまってもうどこにもないんだとしても。
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