眼窩

篠宮

小説

2,806文字

 ――愛してるよ、真吾。

 

 優しいその声は突然に降りてきた。いつ聴いた声なのか、誰の声なのか、思い出せない。それでもはっきりと耳に残る声。それと共に痛む耳。

 

 どうしてこんな言葉を聴くのか。すぐそばで口にしたような生々しい声。愛してるなんて言葉はもう何千回と聴いてきたのに、そのどれもがこの声とは違う気がする。今まで聴いてきたどの声よりも鮮明で、常に感覚に欠けている世界で何よりも近くで聞こえる声だった。
 時折、こういう事が、起こる。幼い頃の記憶かも知れないし、ごく最近の記憶かも知れないけれど、とにかく自分には覚えのない声だった。

 

「幻聴?」
「うん」

 

 幻聴かと言われたら、それも違う気がした。でも、この声がどこから聞こえたのかわからない。それに、これは日常的にしばしば起こる事だった。声は定期的に聞こえた。もうずっと、気づけばこの声が聞こえる。
 その度にこうして彼が心配をしてくれるのは、僕にとっての幸せでもあった。じっとその場を動かず、立ったまま僕を見ている黒江。彼は、僕の恋人だった人だ。

 

 黒江はとても純粋で、無邪気で、その容姿からは想像もつかないほどに子供だった。黒江はどこにいる男とも違ったし、女とも違ったし、どちらでもない奴とも違った。黒江は不思議そのものだった。勿論、話せば普通に会話をするし、おかしな感覚はなかった。けれど、黒江は独特の、特別な、誰が接しても特別な存在になるんだろうという人間だった。優しくて、おおらかで、とぼけていて、落ち着いていて、しっかりしていて、陽気だか陰気だかわからないのに、それでいてまとまりのある人間だった。
 僕にとって、黒江は、完璧な人間だった。

 

「黒江は僕を好きだったんだ、」
「うん」
「黒江は僕を愛してたんだ、」
「うん」
「黒江は僕を信じてたんだ、」
「うん」
「僕は黒江を裏切ったんだ、」
「うん」
「僕は、黒江を、僕は、黒江を、黒江を、僕は、」
「うん」

 

 悪い癖だ。すぐに頭が真っ白になる。もしかして、この黒江は幻覚なんじゃないだろうか、と、そう思う事もしばしばあった。それでもいいと思うくらいには黒江の事を愛していた。愛? 僕は黒江を愛しているのだろうか。
 二人して殺風景な部屋の真ん中に立ったまま、互いの目を見つめては細める。

 

「――黒江、やっぱり君は、死んでいる?」
「そうだよ、僕は死んでる。幽霊だ。居るだけで、何にも触れられない」

 

 手をひらひらと動かして見せられる。今までにも何度か見せて貰ったし、僕自身も試したけれども、どうも本当に幻なのか幽霊なのかで、触れる事はできなかった。

 

「暇だろう、そんなの」
「そうでもないよ。君のおかげでひどい状態でもないし、残った片目で見ることはできるもの」
「幽霊って難しいんだ、君でも」
「別に苦労はしてないよ」

 

 ぽっかりとした空洞の淵には血がこびりついたままで、黒江の言う残った片目、つまり右目には、透明な液体が滲んでいた。死んでも泣けるんだ、器用だね、と言おうとしたけど、涙の理由が思い当たらなくて言葉を飲み込んだ。
 黒江が現れてから、ほんの三日くらいしか経っていないけれど、随分長い間こうしているような気がした。僕が眠りにつく時は一緒に布団へ潜ってくれるし、ご飯を食べる時は一緒にテーブルを挟んでくれた。実際には黒江は何もできていないのに、僕の為に飯事をしてくれているのだ。 初めに死んだ黒江と会った時だって、何もなかったかのように、今までと同じように、ごく自然に話しただけだった。

 

「黒江は、少しも変わらない」
「死ねば、なかなか変われないよ。真吾が変わりすぎなんだ」
「そうかな」

 

 煌々としている蛍光灯だけが明るい。その中で黒江は、以前より若干暗く映って見える。
 この部屋に通じるドアは三つあって、そのうちの一つが黒江の部屋に繋がっていた。黒江の部屋も、彼が生きていた頃のままだ。何も動かしていないし、触れてもいない。死体がここにない事が、いい事なのか悪い事なのか、僕にはわからない。ただ黒江は戻ってきてから、自分の部屋に入る事がなかった。その理由を聞くのが、何故かとても怖かった。

 

「髪の色もずいぶん明るくなったし、ピアスも増えた」
「趣味のひとつじゃないか、そんなの」

 

 まるで自分の事のように嬉しそうな顔をする黒江に、胸が詰まる。

 

「仕事も派手になったでしょ。真吾があんなに嫌がってた夜の仕事に就くなんて、想像しなかった」
「我慢することを覚えたんだ、黒江がいなくなってから」
「えらいね、真吾は」

 

 昔なら、黒江は僕の頭を撫でていただろう。そんな少しの違和感には、まだ慣れない。 ただ立って、不思議な眼孔をこちらに向けているだけだ。穴の左目が時折ぱちぱちと瞬きをするのにも、まだ慣れない。僕は昔ほど自分の足で人生を歩む事に恐れを感じていないのに、死んでまでどうして僕の元へ戻ってくるのか。

 

「黒江、僕は、こんなに変わった、なのにどうして君は、まだ、ここにいるんだい」
「へんなことを聞くんだね。僕は君の恋人だったじゃないか」

 

 確かに恋人だった。 けれど、何もかも、わけがわからない。黒江を受け入れるのが正しいのか、受け入れない事が正しいのか、それとももっと違う道を探すべきなのか。

 

「それにこんな姿だったら、みんなびっくりするよ」
「黒江なら大丈夫だ」

 

 目の前の黒江は正しい姿で、少し血生臭い事を除けば整った姿で、ここに確かに居る。その事実を否定するほど、頑丈な精神は持ち合わせていない、と、自分に言い訳をしていた。

 

「何ひとつ変わってない、そのままだ、あの頃からずっと、君は特別な人間だった」
「特別なんてないんだよ、真吾。最初からみんな違うんだから」
「黒江が、特別な人間だから、そう思うんだよ。僕みたいな、ありふれた人間は、何も選べない、選ばれない」
「真吾はきれいだし、賢いし、いつもエネルギーが溢れてるじゃない」
「そんなのいらない、僕は、僕は、僕は、君みたいな奴になりたかった、生まれたかった」
「ないものねだりだよ、真吾、ないものねだりだ、……」

 

 何かを言おうとして少し動いた唇は、生前よりいくらか乾燥している風に見えた。それでも、黒江は、何ひとつ、泣きたくなるほど、僕が好きだった頃の姿と変わってはいなかった。
 涙の滲む右目と穴の左目が、僕を真っ直ぐに見ていた。これは現実であって現実じゃないと、首を横に振った。

2014年5月3日公開

© 2014 篠宮

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