行儀向貴親の独白

篠宮

小説

1,330文字

 心を病む、とは言うが。

 

 心を病んだ人間が集う場所というのは、考えてみると身近な場所にはないものだ。ごく普通の一般的な、大した後ろ暗さのない人生を送る人間にとっては疎遠な場所であると思う。かと言って僕がその後ろ暗さを持っているかと問われたら、きっと返答に困だろう。ただ、僕の過去を知ろうとする人が目の前に居るならば、何らかの口封じは試すに違いない。何故なら後ろ暗さはないにしろ、内面においてある程度のマイノリティな部分があるからだ。その分、今現在の事なら何だって話す。心の奥底に秘めた記憶にさえ触れなければ、後はどうだっていいのだ。
 だから僕には心を病んだ人間が集う場所へ行く資格も義務も、もうないのだと信じている。

 

「今日も元気だね」

 

 安いアパートのベランダに作った小さな薔薇園だけが僕の癒しだった。ペットは絶対に飼わないと決めている。感情を訴えかけてくるから。一人暮らしを初めてそろそろ二年になるが、寂しさは一切なかった。親元を離れた時点でそんなものはとうに捨てていたのに。
 ずっとこのまま生きていけるのかとは時々考える。本屋で週に五日のアルバイトをこなし、給料はほとんど生活費で消えていく。毎日の食費を捻出するのが精一杯だ。趣味だって薔薇の世話とあとは本を読む程度で、それも毎日読むわけでもない。友人なんて片手で数えるほどしかいない。そんな生活だと当然時間は余っていく。でも、そんな適当な人生で、いいのかも知れない。

 

 ここ数ヶ月間で、ベランダの薔薇以外にもう一つ趣味が出来ていた事を思い出した。アルバイト先の本屋へ行くために毎日乗っている、夕方の電車。その四両目でいつも見かけるサラリーマン風の男を見るのがちょっとした趣味だった。美青年とも言えるほど誰が見ても整った顔立ちだろうと思うが、その顔に落とす影がいっそう僕を惹き付けた。端正なグレーのスーツ姿とハーフリムの眼鏡のせいか、ややインテリ風で神経質そうな容姿ではあった。恋と呼べる程に確固とした感情ではなく、見ているとほっとして癒される、そんな想いでいた。
 一ヶ月前にほんの一度だけ、その人が落とした携帯電話を拾って渡した時に間近で見た、可哀想になるほど疲れた顔が忘れられない。原因が仕事からなのか私生活からなのかはわからないが、その日の彼はひどく鬱屈とした表情をしていた。特に拾った携帯を受け取って「すみません」と目を合わせてくる事もなかった。唯一申し訳なさそうな指先だけが微かに僕の指へ触れて、少し身体が熱くなった気がした。渡した携帯には、彼女とペアだろうと思われる半分に割った小さなハートのストラップが揺れていた。
 それ以来、いつも同じ車両に乗っている僕に気付いているのかいないのか、彼はまだ変わらぬ場所で退屈そうに窓の外を見ている。時折ポケットからバイブレーションが響き、携帯電話を取り出しては柔らかい表情になってメールを打っているようだった。
 その相手が誰なのか、僕はそれすらも知らない。彼の日常の一部分を知っているというだけで、何となく、満たされた気分でいた。
――彼は天使だ。天使は、儚いものでなければいけない。

2014年5月3日公開

© 2014 篠宮

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