光るマンション

合評会2022年07月応募作品

古谷経衡

小説

4,289文字

T県K市小野沢三十七番地にある築四十年の三階建てマンション「小野沢ハイム」は、突然、光りだす。合評会2022年7月提出作品(初)。

T県K市小野沢おのさわ三十七番地にある築四十年の三階建てマンション「小野沢ハイム」が建設された当時、一帯は戦前からの農家と田畑、それに高度成長期の宅地需要に応えて農地の一部を切り売りした分譲と、少しの木造アパートがあるだけであった。バブル景気を経て田畑には続々と住宅が建ったが、元来最寄の私鉄駅から徒歩二十八分という利便の低い地域だったため、すぐ宅地熱は消えた。

 

小野沢ハイムはこの地域に最初に建った鉄筋コンクリート造マンションだったものの、好景気時代に高値掴みした所有者は、下落した評価額で投げ売りをした。いまや建設当初からの住人は、総二十戸の中で僅か三戸しか残っていない。

 

一九九九年に大規模修繕を行い、外壁、配管、貯水槽類を一新したが、所詮このレベルの中古マンションでは不動産価値が上がる訳もなく、現在当初の分譲価格から五分の一程度に評価が摩耗している。その値段でもよいからと不動産屋に仲介して売り広告を出していた或る部屋の所有者は、一年も広告を出し続けた結果、問い合わせが六件来ただけで、結局売却を断念して自分で住んでいる。

 

一九八二年の新築当初からの住人である三〇六号室の太田励造きんぞうは、マンション一階の十畳に満たない集会室に入って来るや否や、スチルパイプ椅子にどがんと座ってマルボロに火をつけながら言った。

 

「買ったのが間違いだったのかなあ」
「理事長がそんな弱気でどうすんだ」

 

三〇一号室の古参住人・北岡盛男は太田より五つ年上だが、少し若く見える。

 

「そんな弱気ではだめだ」

 

北岡は繰り返したが、太田は応える気力もない、といった風にちらと顔を向けただけだった。もう百何十回目か分からない理事会は、この日の午後一時から開始だとあれだけ告知したのに、まだ三人しか集まっていない。マンションの区分所有者は理事会に参加し、物件の維持・管理について総会を開き、合議することが区分所有法で決められているが、郵送で追認の意思表示だけをして欠席する者が大多数だった。

 

建設から四十年、所有者が激しく入れ替わった結果、遠方に転居し、部屋は賃貸に回して賃料収入だけを得、理事会に一度も顔を出さない書類だけの所有者が殆どだった。午後一時半を過ぎたところで二〇一号室の岡君枝、一〇六号室の額賀ぬかが二郎が姿を現して五人となったので、太田は嫌々ながらも総会開催を宣言する。

 

「二〇五号室の賃貸入居者の騒音について」
「屋上側溝部分の防水劣化について」
「一〇二号室の所有者A、三〇二号室の所有者Bの管理費・修繕積立金の滞納について」
「現在の理事会における積立金残高の変遷について」

 

前回とまるで似たような議題に太田はうんざりした。

 

「だがら、この、マンションの、価値を、少しでも、高める、方法ば、考えんと、いかんと、です」

 

二〇三号室の園部敬介が言った。園部は今日出席した住人の中で一番若い。最年少と言っても四十六歳だが、十一年前にほぼ底値で部屋を買った。入居当時は細君と小さい息子が居たが離婚して今は独り暮らしである。市内のリース会社で課長をやっているらしく、横文字のNPOで「シャカイコウケン」にも手を出しているとのことで、総会には毎回参加し、何やかやと熱心に、しかし無意味にしゃしゃり出てくるこの園部を、太田は内心好きではない。

 

「高めるといわれても、どうしようもないじゃありませんか。何をどうしようっていうんですか」

 

岡君枝がペットボトルの緑茶を一飲みして言った。

 

「どうしようっていうんですか」
「だがら、マンションの、価値ば、高めると、です」

 

太田は理事会の預金通帳を開いた。

 

「次の修繕積立金も足りない状態なのに、価値なんか上がらないよ」

 

通帳には二千万円しかなかった。二回目の大規模修繕が迫る中、業者に見積もりを頼んだところ、資材高騰や職人の人手不足につきおよそ四千万円と出た。マンション住人からの積立金を毎月コツコツと貯めるよりも、建物全体の老朽化の方が先なのは明らかだった。この間、住人が破産したり、夜逃げしたりして積立金をバックレた事例が多発したことが主原因である。

 

「なるべく、金ば、かけんと、価値ば、高めると、です」
「無理ですよ」

 

岡は静かに立ち上がった。

 

「弱気ではだめだ」

 

北岡が太田に同意を求めるように繰り返した。今日の総会はこれで閉会と太田が決意しようとした時、それまで全く無言だった額賀二郎が発言した。

 

「儂は園部君のいうことに一理あると判決する。ここは不退転の決意を以て、断固として低廉な方法で、このマンションの価値を高める方法に転舵せんといかん」

 

儂、と自称する割に額賀は「まだ」五十八歳だった。

 

「じゃあどうしようと仰るの」

 

立ち上がった岡がまた座った。

 

「我に算段あり」

 

今度は額賀が立ち上がった。

 

「低廉どころか、ほぼタダでこのマンションの価値を高める秘策が、ひとつだけある」
「なんですかそれは」

 

太田は額賀と目を合わせないで虚空にマルボロの煙を吐き出し続けた。

 

「苦戦が続く小野沢ハイムにあって、唯一の希望は国連への訴えである」

 

コクレンってどこの信用組合だね、と太田の質問を遮って額賀は次第に興奮してきた。

 

「小野沢ハイムの窮状を打開するには、国連すなわち国際連合に頼るほかない。諸君も知っておろう。国連は世界各地で有用な文化財を世界遺産に認定しておる。当然本邦もまた然りである。小野沢ハイムは、この一帯で有史以来始めて建設された近代的鉄筋マンションである。世に羽ばたくべき、光り輝ける物件である。よってその文化財的価値は、当然世界遺産認定相当である。このマンションが世界遺産に登録されれば、不動産価値は一挙に高騰しよう。この起死回生の一撃を採用する以外に、我々の勝利の栄光は無い」

 

あ。こいつ狂っているのか。太田は額賀の顔を二度見た。

 

「このマンションを世界遺産相当として国連に申請するのである」
「それば、とても、いい案だど、思うと、です」
「分かってくれるか」

 

額賀が園部と握手を交わした。

 

「そうだ、弱気ではだめだ」

 

三人が抱擁した。岡は無言で退席した。太田はこのマンションの終末を感じながら、議事録にインクが僅かになったボールペンで「午後二時十分閉会」と殴り書きして総会は終わった。

 

陰鬱なはずの五月の梅雨は、散漫な少雨だけで六月に入るとすぐ酷暑になった。ラジオは戦争と感染症と他県の地震被害をルーチンのように伝えている。太田の三LDKのリビングにある液晶テレビは、半年前から画面下半分にノイズが走るようになり、買い替えるのも面倒なので電源を入れていない。

 

専ら太田は寝室でラジオを聞くようになった。二駅先のホームセンターで売っていた携帯ラジオは、売価一五〇〇円のわりに電池が長持ちしていい。最近はパソコンでラジオが聞けるんですよ、と広島に住んでいる息子の嫁から電話で教えてもらったが、太田はネットが苦手だ。実際には光ファイバーが開通していて、住所を検索したり、メールの送受信ぐらいは難なくできるがそれ以上のことは良く分からない、というより面倒なのでしていない。

 

一度は塗り直した小野沢ハイムの外壁は、もう上層階から塗料がところどころ剝げ落ちている。この手の塗料は十年単位、最悪でも十五年で塗り直しが必要で、とっくに耐用年数を過ぎている。南側の一階部分の側壁は、なぜか最も損耗が酷く、コンクリートが部分でむき出しになっていて、かつ外からは心なしか膨張しているように思えた。業者に見てもらうと、「内部からの水漏れをコンクリが吸っている。一回目の大規模修繕が完ぺきではなかったのではないか」と診断された。もう長くは無いんだな、と太田は諦めた。

 

「終活」という宣伝文句にほだされて、死後部屋の所有権を息子に譲る、という遺言をしたためようと公認会計士の事務所で無料カウンセリングを受けた。しかし広島の嫁からはそれと無く「遠方につき維持が不可能なので難しい」というニュアンスのことを言われた。ハッキリと拒否されたわけではないが、実質的には相続放棄の意思をチラつかせていた。夏が終わる。ユーラシアの西側で起きた大戦争はまだ続いている。

 

「太田さん、太田さん、理事長、理事長」

 

チャイムを壊れたまま放置していたので、ドアの外で叫ぶ岡の大声に太田が気づいたのは、その日の午後三時過ぎであった。

 

「どうしたの」
「大変ですよ太田さん、大変大変」

 

岡に袖を引かれるままマンション一階まで共用階段を降りると、玄関先に百名を超える人だかりが押し寄せている。その中心でカメラとマイクに囲まれているのは、額賀二郎であった。

 

「世界遺産に登録されたご感想は」
「世界遺産として、このマンションをどのように活用していきますか」
「マンションの価値が高くなったら、住人の方は売却されるのでしょうか」
「今後増えるだろう観光客に対する対策はどうですか」

 

同時に発せられる報道陣の質問に対し、額賀はさももったいぶった体で、「儂は~」などと答えている。

 

そんな馬鹿な。太田は慄然としてフリーズした。雲量ゼロの青空と、額賀の真っ白なワイシャツのコントラストが現実感を喪失させている。どうしてだ。と太田は呟いた。どうやったんだ、どんな方法を使ったんだ。絶叫した。報道陣の人だかりをかき分ける格好で、太田は額賀に詰め寄っていく。

 

「あ、理事長の太田励造さんですね」
「理事長、世界遺産登録に際して一言ください」
「やっぱり登録の自信はあったんですか」

 

記者の質問を全部無視して、太田は額賀の肩を掴んで揺さぶった。

 

「こんな魔法みたいなこと、あんた、どうやったんだ。いったいどうなってるんだ。説明してくれ。説明してくれよ」

 

額賀はニヤニヤしている。横に立つ園部がすかさず言った。

 

「これで、価値ば、ずいぶん、上がると、です、この、マンションば、光り、輝くと、です」

 

(了)

2022年6月25日公開

© 2022 古谷経衡

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"光るマンション"へのコメント 17

  • 投稿者 | 2022-06-27 00:07

    光る建物・・・ロマンがありますね。

  • 投稿者 | 2022-06-28 17:08

    太田氏に概ね同意でした。私はあんなイカれた総会には絶対に参加したくないと思いました。本当に、本当に参加したくないって思いました。自分がその場に居たらと思うと恐怖心がもう否応なしのひっきりなし。

  • 投稿者 | 2022-07-17 13:23

    光るマンションというミステリアスな響きと管理組合の世俗的な感じがいいコントラストになっていますね。
    額賀と園部がどんな手を使ってマンションを世界遺産登録したのか、すべて詳らかにしなくてもいいので、ちょっとヒントくらいあるといいなと思いました。

  • 投稿者 | 2022-07-17 21:25

    拝読しました。
    2回読みました。光るマンションのグロテスクな雰囲気がとても楽しめました。

  • 投稿者 | 2022-07-20 00:05

    同潤会アパートぐらいになれば惜しまれるし、洋館みたいなやつだとレトロなデザインが人気でいまだ現役、入居希望者が絶えなかったりもするそうですが、何の変哲もないただ老朽化したマンションではどうにもならないのでしょうね。
    自分が読めていないだけだと思うのですが、ラストはどう解釈したらいいのかちょっとわからなかったです。

  • 投稿者 | 2022-07-20 10:17

    ユネスコの世界遺産登録条件を確認しました。かろうじて「(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」に該当するのかなと思いましたが、適切な保護管理体制が取られていないといけないようなので、そこは額賀がやんごとなきグループと繋がりがあったと見るべきかしら。
    個人的な話ですが私が住んでいるマンションも老朽化が激しくて、理事会で予算と回収費の折り合いをつけるのに苦労しています。うちのマンションも光らねーかな笑

  • 投稿者 | 2022-07-20 23:48

    既に耐用年数を過ぎて価値のないマンションを、改めて価値づけるラベルとしての世界遺産、という風に読みました。
    もはや価値のないもの、衰退したものを再ブランド化したり、ラベリングやまたは炎上させたりして、それらの延命を図る力学の内に、世界遺産が利用されているという感じでしょうか。

  • 編集者 | 2022-07-23 00:09

    組合の話合いの感じがリアルで良かったです。園部がなぜ九州弁っぽいのか気になりました。RC造、戦後のモダニズム建築は確かに今保存するか、解体するか、そこに歴史的意義を見出すことが難しく、存続の危機に瀕しているものがたくさんあります。この物語のように世界遺産になれば残っていくのでしょうが、現実はそうならないでしょう。そういう悲哀も個人的に感じました。

  • 投稿者 | 2022-07-23 06:14

    ディテールのリアリティからの終盤の幻想的な登録騒動への澱みのない流れが心地よかったです。夢オチなのか、そうでないのか明らかにせず幕を下ろして、最終的にケムに巻く悪戯心が素敵です。

  • 投稿者 | 2022-07-23 11:27

    老朽化したマンションの状況描写や理事会議事内容が超絶リアルで、そういえばもうすぐ理事会役員が回ってくるなあといやなことまで思い出してしまいました。答えのない議題を検討していると、とんでもない方向へ議論が飛ぶことがありますが、唐突な「世界遺産」の話になぜか賛同者が増えるあたり、笑うに笑えなかったです。それにしてもラスト、どんな奇跡が起きたのか気になります。

  • 投稿者 | 2022-07-23 15:18

     登場人物の誰かに視点を固定せず、作者の視点で俯瞰的に描く手法は実話っぽく仕上げられるというメリットがある反面、どうしても報告書を読んでいるような説明的な印象になるため、読む側は物語の世界に入りづらいというデメリットもある。現代のプロ作家のほとんどが一場面一視点の原則を採用しているのも理由があることなので、検討されたい。/登場人物は容姿、性別、キャラなどにメリハリをつけて、読者がすんなり情景を思い描けるようにしたい。誰が誰なのか少々判りにくかった。/読者にとって話の本筋からすると重要でない数字情報(具体的な番地、ラジオの値段、何号室かなど)は推敲の段階で取捨選択し、読みやすさにつなげたい。/老朽化した集合住宅が世界遺産に選ばれる結末はさすがにリアリティの点で苦しく、もやもや感が残った(そのお陰で印象に残ることも確かだが)。

  • 投稿者 | 2022-07-24 05:30

    増殖する白神山地の直後に読んだので文字どおりマンションが発光するのかと身構えたが、そういうわけでもないのか? 詳しく真意を聞いてみたい。1981年に国の耐震基準が変わり、新旧どちらの基準で建てられているかで価格が大きく変わるので、1982年に新築されたこのマンションは不動産会社の工夫次第でまだ買い手がつく可能性はあるかも、と思った。

  • 投稿者 | 2022-07-24 13:26

    この作品に限ったことではないですけど、世界遺産ってここまで意味やイメージを拡張できるものなのか、、、と想像力に驚いています。

    世界遺産って、ノスタルジーをどうにか保存しようとしているものなのかもしれないと考えると、たしかにマンションってこの時代性を表す建築物そのものなのかも。
    東浩紀さんの団地の話を少し思い出しつつ、もう少しマンションが世界遺産であるべき理由みたいなものが垣間見えると一気に深みが広がるような気がしました。

  • 投稿者 | 2022-07-24 22:18

    この一帯で有史以来始めて建設された近代的鉄筋マンションである。

    の根拠の弱さ(この一帯じゃ地方史のハイライトシーンにもなるまいて)と、

    夏が終わる。ユーラシアの西側で起きた大戦争はまだ続いている。

    の不穏さに。
    アスベストは光が舞うといいますが……。

  • 編集者 | 2022-07-25 00:00

    リアルで面倒なオッサン達の会話がまとまってしまった時、何が起こるのかと思ったが、本当に起きてしまった。マンションではないが、区画問題でそこら中に怪文書を放り込んだ老人が近所にいるので、それを思い浮かべて笑えた。地域の(半)狂人が集まり妨害される事なくエネルギーを突き進めると、こういうことも出来るのかも知れないとイメージした。愚公山を移す! 合評会を楽しんでほしい。

  • 投稿者 | 2022-07-25 14:50

    神秘主義の聖地から世界遺産という流れじゃなくて、その逆になっているのが面白いなと。
    よく考えたら、後世に残したいから世界遺産に登録する流れじゃなくて、世界遺産に登録したら後世に残るだろう、という因果が逆になっているからさもありなんという感じです。

  • 投稿者 | 2022-07-25 15:17

    いつマンションが発光するのかと待ち構えていたら、そういうことか!となりました。
    理事会のうんざり感がリアルに伝わってきました。
    突拍子もないようにも思いますが軍艦島が世界遺産になったのであながちありえない話でもないのだろうか……とも思いました。

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