その男は路肩に立ち、右手を高く上げていた。
太い黒縁の眼鏡をかけ、ふわっとした髪を真ん中で分けている。だぼっとした薄いグレーのスーツを着込み、目がチカチカするようなオレンジ色のネクタイをしている。
「どちらまで?」
私は男が乗ってくるとそう訊ねた。
「S町まで」
「S町?」
「ええ、長野県の。軽井沢の近くです」
思わぬ長距離客に、私の心は小躍りした。いったいいくらぐらいいくだろう。五万は軽く超えてくるに違いない。
メーターを点け、ハザードランプを消し、私は車を出した。
「ちょっと急用でして、もう電車もないのに」
「それは大変ですね」
左折して、大きな街道に出る。
「高速使ってもいいですか?」
「ええ、早い方でお願いします」
素晴らしい。高速に入ると高速ボタンというのがあって、それを押せば時間ではなく距離加算になる。つまり、さらに稼げるというわけだ。
深夜ということもあって、道はガラガラに空いていた。私はスピードを上げ過ぎないように注意しながら追い越し車線をひた走った。
「運転手さん、ちょっとお話してもいいですか?」
男が唐突にそう話しかけてきた。
「…ええ、もちろん」
バックミラー越しに男と目が合う。茶色みがかった大きな目だった。こちらをまっすぐに見据えている。微塵も笑ってはいない。
「実はね、わたし最近奇妙な体験をしましてね──」
男が語ったのは、こんな話だった。
ある日、男がいつものように朝電車に乗って仕事に出掛けると、妙な胸騒ぎがしたのだという。
「なんだかね、頭の中でだれかがドンドンって太鼓を叩いてるみたいな低くて重い音がずっと鳴ってるんですよ」
昼になり、夕方になってもその音は鳴りやまず、一定のリズムで鳴り続けていたという。
「こりゃあね、耳鳴りかもしれないと思って、翌日の午前中に耳鼻科にでも行こうと思ってたんですよ。これがずっと続くのはちょっとキツいぞ、と」
そこで男は軽く咳払いをした。
「それが三月十三日のことです」
あぁ、と私は感づいた。
「地震の日ですか?」
「ええ、そうです。あの夜中の大地震。わたしあの後買い物に行ったんですが、コンビニの棚からも酒以外食品という食品が全部なくなっていて、ああこりゃあもうダメかもなって一瞬思いましたよ」
「ええ、私もあの日はコンビニ巡りしましたね。ほんとに棚が空っぽでしたもんね」
男は微笑み、前に身を乗り出した。
「仕方がないからビールを何本か買って帰りましたけどね。そのうちこれもなくなるんじゃないかと思って」
私と男は軽く笑い合った。
「でね、ふと気づいたらあの音が止んでるんですよ。あの朝からなってたドーン、ドーンっていう音が。ああ、これだったんだなって思いましたよ。第六感ってやつですか。本能的なやつです。それが私に危険を知らせてくれてたんですね」
「不思議なこともあるもんですね」
私はそんな迷信的なことは信用しない性だったが、それ相応と思われる返事をした。
「実はね、それだけじゃないんです。また違う日にね、朝起きるとドーンドーンっていう例の音がまた頭の中で鳴り響いてるわけです」
「へぇ、今度は何ですか?」
「わたしはね、また地震が来るんだと思いましたよ。あの時みたいな大地震が」
男は右手で頭の後ろを掻き、私は高速の入り口が見えてきたのでウィンカーを出して左車線に車を移動させた。
「でもね、違ったんですよ。今回は。地震じゃなくてもっとひどいもの」
またバックミラー越しに目が合った。
「何だと思います?」
人をからかうような目つきだった。
「いやぁ、分かりませんね。何でしょう」
「少しは考えてくださいよ。馬鹿になりますよ」
「はい?」
なにかの冗談だろうか。
「考えない人間は馬鹿になります。だから、考えてくださいよ」
何を言っているんだ、こいつは。
「災害とかですか。大型の台風とか」
「いやいや、そんなんじゃないです。もっと大きなこと」
だんだん答えるのが嫌になってきた。
「もう教えてくださいよ。私には考えても分かりません」
「本当に考えてますか? 降参するのが早すぎやしませんかね」
あからさまな怒りのこもった言い方だった。どうやら面倒な客らしい。
「考えてますよ。私の頭が悪いだけです」
すると、男は低く笑った。
「頭の悪い人なんていやしません。考えてないだけですよ」
ウィンカーを出して高速の入り口に入る。ため息を吐きたいところだったが、ぐっと堪えた。
「じゃあ、火事とかですか。自分の家が燃えたとか」
「ほぉ、ちょっと近づいてきましたね。もう少しです」
スピードを緩め、ETCレーンを通過する。
「高速のに切り替えますね。距離加算になります」
左手を伸ばし、メーター横の高速ボタンを押した。
「もっとさらに個人的なことです。第六感って言ったでしょ」
こっちの話など聞いちゃいない。
「じゃあ、だれか身近な人が亡くなられたとか」
「ビンゴです! その日の夕方に親父が死んだんです。交通事故で大型トラックと正面衝突! こっちは軽でしたから、ひとたまりもありませんよね」
かなり興奮した口調だった。話すのが楽しくて堪らぬといった感じ。
「車は大破で、もうぐちゃぐちゃでした。まさしくスクラップ状態です」
気味の悪さを感じ始めていた。頭がちょっとおかしいのかもしれない。
「即死ですよ。もちろん即死! 苦しむ暇もなかったでしょうね。ぶつかったと思った時にはもうあの世です。ひょっとしたら一番理想的な死に方かもしれません」
「……そうですかね」
スピードを上げ、走行車線に合流する。高速には対向車はいない。いや、だがそうとも言い切れない。実際に目にしたことはないが、老人のサービスエリアなどからの逆走が社会問題化しているとテレビのニュースで見たことがある。このスピードで逆走してこられたら、と考えるだけでも恐ろしい。
「事故が起こったのが夕方の五時過ぎくらいのことだったらしいんですが、あのドーン、ドーンっていう音はたしかその日の晩に親父の死を知らされるまで続いてましたね。だから自分の中での予感みたいなものかもしれません。何か大きな出来事が起こることを事前に察知してしまうという」
どう答えていいのか分からなかった。
「いや、私は運命論者じゃないですよ。でも、たしかにそういうことが世の中にはあるってことは事実です。そういうわけの分からないことや通常の理屈の通らないことが」
「へぇー、でも私にはそういう経験はないですね」
すると、鏡の中で男はニヤリと顔を歪めた。
「そうでしょうか?」
「えっ?」
男は人差し指で鼻の頭を掻く。
「本当にそうでしょうか?」
嫌な声だった。低く断定的な相手を威圧するような声。
「よく考えてみてください。覚えてないだけじゃないですか。考えない人間は馬鹿になりますよ。だから、ずっと常に考えてなくちゃだめです。人間は放っておくとどんどん馬鹿になっていきますから」
たしかさっきも同じようなことを言っていた。
「思い出す努力をすることです。それが考えるということの本質です。過去のことを思い出す努力をして記憶を呼び覚ます。今を生きている我々にとっては、過去からしか学ぶことはできませんから。記憶して生かす。そうしないことには生き残っていくことはできません。ただ淘汰されるだけです」
いったい何の話をしているのだろうか。
「いや、でもそういうことには疎くて、超常現象だとか幽霊だとか、まったく縁がないんですよ」
「だれが幽霊の話をしました?」
いたずらをした子供を叱りつけるような口調だった。
「……たとえばの話ですよ。幽霊じゃなく──」
「だーれーがー! 幽霊の話を始めたかって聞いてるんですよ」
あぁ、もう厄介な客だ。この勢いだと喧嘩にでもなりかねない。
「すみません。間違えました」
謝るしかない。とにかくこの場をやり過ごすのだ。
「だから、何が?」
「幽霊の話とか言ってしまって」
キレどころがどこにあるか分からない。気が短く、沸点が低い人のようだから地雷を踏まないようよくよく気をつけなければならない。
「あなた超常現象とかも言ってたよね」
「いや、たとえばの話ですよ」
冗談の通じる相手ではなさそうだ。
「過去から、過去の記憶から学べって言ってるだけですよ、わたしは。そんな超常現象だとか幽霊だとかオカルトの類いと一緒にされたくはないですね」
わたしの理解では理屈や常識の通用しないことがそういうものだと思っていた。
「すみません。間違えました」
客とトラブルになってもいいことはない。しかもまだまだ先は長いのだ。
「大切なことは記憶を辿ることです。自分が忘れたつもりでも、脳はすべてを覚えているものなんです」
言っていることが宗教じみてきている。オカルトではないと言ってはいるが、あまりにも常識から外れている。
「へぇ、そうなんですか」
「たとえば夢の記憶なんかがそれですね。自分では忘れたつもりでも脳はしっかり覚えています。忘れた気になっているだけなんです」
「たまに覚えてるときとかありますよね」
すると男はぴくっと眉根を寄せた。
「たとえば?」
「ああ、ええっと……」そう言われると、すぐには出てこなかった。
「覚えてるって言ったじゃないですか」
「ええ、ああ、だから私なんかこんな商売してるもんですから、お客さん乗せて車走らせてる夢よく見ますよ」
適当に思いついたことを言ってみた。なにか言わないことには今度こそ本気で怒り出しそうな勢いだった。
「へぇ、仕事の夢ですか。大変ですね」
「ええ、一晩中走り回ったあとに目が覚めちゃったりして」
「おーれーのーこーとーだー!」
私はびっくりして思わずアクセルを踏み込んでしまい、車は前にいた大型トラックに突っ込んだ。
[了]
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