06 サスピション

EOSOPHOBIA(第6話)

篠乃崎碧海

小説

20,811文字

真実に手を伸ばせ。リミットに呑まれるその前に。

 少し待っていてくれ。そう言い残し、蒼月は奥のドアの向こうへと消えた。

 ひとり取り残された事務所で、なんとも言えない居心地の悪い時間が流れる。しばらく待っていても彼が戻ってこないので、興味の赴くままに事務所内を見て回ることにした。

 左の壁にはどこにでもあるようなスチールラックが置かれている。近寄ってみたが、特段興味の対象になりそうなものはなかった。和書より洋書が多く、ぼんやりと背表紙を眺めているだけでは何の書籍なのかよくわからない。単語を拾い読みしてみた限り、恐らく米英の法律か政治関係のものだろう。隅の方にタイトルのないスクラップブックが何冊かまとめて置かれていたが、手に取ってみたいという好奇心より、勝手に覗き見る行為への罪悪感が勝って手を伸ばせなかった。

 ふと目線を落とす。下段に、あまりに無造作に自動拳銃が置かれているのを発見してしまい、思わずぎょっとして後ずさった。早まった鼓動を意識しながらそっと近づき恐る恐るしゃがみこみ、まじまじと観察してみた。どうしてこんなところにわざわざ見せつけるように置いてあるのだろう。彼のことだ、意味がないはずがない。手に取ったらどうなるかなど、恐ろしくて考えたくもなかった。眺めるだけにしてそっと距離をとった。

 右にはさっきまで自分の腰掛けていた来客用のソファとガラス製のローテーブル、奥には電話とペンセットの置かれた、アンティーク調の事務机とセットの椅子。そう大きくもない事務所なので、それで全てだった。蒼月が姿を消した奥の部屋の存在は非常に気にはなるが、突撃する勇気などあるわけがない。

 相変わらず生活感の欠片もない事務所だなと思う。物は存在するが、そこに人の温もりがほとんど感じられない。モデルハウスの中にひとり取り残されたかのような居心地の悪さを覚えるのはそのせいだった。

 どんなに整えられた部屋でも、ひとつくらいはその人らしさ、そこで日々息をしている痕跡のようなものが見えると思っていたのだが、ここに何度か通ううちに例外もあると知った。恐らく蒼月はそういったものを徹底的に排除している。この場に存在するのは、彼が表に見せると決めたものだけだった。

「何か面白いものでもあったか?」

 くく、と抑えたような笑い声。いつの間にか戻っていた蒼月が、ドアに半身を預けた恰好のまま、面白そうにこちらを見ていた。

「い……いえ! 別に。すみません、勝手に見て回ったりして」

「構わないさ。見られて困るものは置いていないから」

 これもいつも思うことだが、彼には気配というものがまるでない。職業柄少しはそういうものに鋭くなったと思っていたのに、蒼月にはいつまでたっても敵わない。罪悪感と見られていた恥ずかしさに苛まれながら、すごすごとソファに戻った。

 

「珍しいですね、蒼月さんの方から声をかけてくるなんて」

 珍しいというより、初めてだった。いつもはこちらから情報提供を依頼するばかりだが、どういう風の吹き回しか今回は蒼月の方から接触してきたので、おっかなびっくり事務所を訪れたのだ。それにしても、よく昼食を食べに行く店に突然現れて約束を取りつけられるとは思ってもいなかった。表通りから一本離れたあの店を偶然見つけて通い始めたのはついひと月ほど前のことだし、店のことは職場の限られた人間に雑談程度にしか話していなかったというのに。おまけに行くのは決まって平日の昼時、それも仕事が忙しくない日だけ。蒼月がどうやってその情報を得て狙って接触してきたのか、深く考え始めたが最後、もう何も信じられなくなりそうでやめた。

 まだ梅雨入りの記憶も新しいというのに、気温は連日三十度近い。思わず首筋の汗をハンカチで拭うと、蒼月は黙ってグラスを差し出した。この時期によく冷えたコーヒーはありがたい。

「暑い中呼び出して悪いな」

 おや、と思う。人が慌てたり表情を変えたりするのを眺めて楽しむような態度は相変わらずだが、心なしか普段より雰囲気が柔らかい気がした。

 蒼月はコーヒーの入ったマグを片手に、対面に腰を下ろす。

「蒼月さんは夏でもホットコーヒーなんですね」

「まだ六月になったばかりだ、夏と言うにはだいぶ早いだろ。ずっとここにいると寒いくらいだ」

 自分はネクタイを外して腕まくりをしても汗ばむくらいだが、蒼月はいつもの長袖のシャツ姿のまま、襟元も緩めずに平然としている。思えば彼が暑そうにしているのを見たことがない。

 たしかに、地下階にあるこの事務所は万年ひんやりとしている。エントランスをくぐった瞬間に冷たい空気が肌を撫でるのだ。夏は蒸されるし冬は身を切るように寒い粗末なバラックばかりが立ち並ぶこの周辺で、ここまで外気を遮断する建物は珍しい。戦後に建てられたとは思えないから、焼け残りだろう。

「まあたしかに、ここはいつも少し涼しいですけど。あまり出歩かないんですか」

「あんたみたいな優秀な提供者がここまで持ってきてくれるからな」

 マグを持つ手は夏の日差しなど知らないかのように白い。彼の右手の中指にある細い銀の指輪がほとんど目立たないのは、彼の色素が薄いからだ。髪も肌もそうだから、そういう遺伝子なのだろうと思って特に気にもしてこなかったが、少し病的なのではないだろうかと思えなくもなかった。

「私生活に口を挟むのは野暮ですが……たまには体動かさないと健康に悪いですよ。僕なんか最近内勤ばかり座りっぱなしで体重どんどん増えちゃって……」

「なんだ、幸せ太りかと思った」

 聞くなり、蒼月は意地の悪い笑みを浮かべる。

 ぎくりとした。やはり気づいていたのか。

「さすが、お気づきでしたか」

「自分から言いたいのかと思ったから、敢えてこちらからは触れないでいただけだ」

 蒼月にもよく見えるように、目の前に左手をかざした。薬指には真新しい指輪が鎮座している。男にしては小さく威厳のない手の上に座りの悪そうな顔をして佇む指輪は、長年すれ違いと遠距離を繰り返した末にやっと抱きしめた幸せの形だった。

「最近姿を見せなかったのはそういうことか」

「ええ、まあ……少し仕事が忙しくなったのもあって」

 返事を聞くなり蒼月は少し笑った。嫌味ではない、純粋な笑い方だった。

「結婚式、来てくれますか」

「はは、冗談だろ」

「お呼びしたい気持ちは本当ですよ。……叶わないのはわかっていますけれど。残念です」

 蒼月は何も言わず、マグを置くと席を立った。離れる背中が寂しげに見えて、やはりこんなことを冗談でも軽々しく口にするべきではなかったと後悔した。自分にとっては喜ばしいことでも、誰もが祝福してくれるとは限らない。自分の幸福は、無自覚に誰かを傷つけ押しのけた上に成り立っているのかもしれなかった。

 奥の事務机の方へ向かった蒼月は、引き出しから何かを取り出した。

「結婚祝いにやるよ」

 投げて寄越された小さなものを慌ててキャッチする。放物線を描いて飛んできたのは、三角形をしたいちご味のキャンディだった。

「あ、ありがとうございます……意外と可愛いもの持ってるんですね」

 前にもこんなことがあったな、と思い出す。

夜鈴イーリンがよく持ってくるんだ。情報提供料としてな」

「夜鈴? ……ああ、もしかしてあの三つ編みの少女ですか」

 蒼月は頷いた。

 十歳前後の少女が何度かここに来ているのを見たことがある。他人の姿を見るなり逃げるように立ち去ってしまうから朧気な印象しかないが、蒼月に懐いているように見えた。

 蒼月は小さな飴玉を対価に、あの少女にどんな情報を売っているというのだろう。

  

    †††

 

「これが今の僕にアクセスできる最大限です」

 いつも世話になっている分、充分な成果を示したかった。しかし思っていた以上にできることは限られていた。

「以前はもう少し自由に取材ができたのですが……最近の警察は報道機関に手厳しくて。やましいことはないと声高に主張するなら、その証拠に開示すべきことはたくさんあるのに」

「そりゃあ、疚しいから出せないに決まってるだろ。恫喝、自白強要、揉み消し、賭博、暴力団との癒着。選り取り見取り、どれがお好みだ? なんてな」

 軽口を叩きながら、蒼月は資料をぱらぱらと流し見る。いつものようにすぐ覚えてしまうかと思ったが、今は中身の確認だけにとどめるようだ。ただ眺めているだけのときと、記憶しようとしているときの違いは見ていればなんとなくわかる。彼の武器はその並々ならぬ集中力と瞬発力なのだと、朧気ながらに理解しはじめていた。

「…ッけほ、こほ……これで十分だ。感謝するよ」

 資料を読みながら、蒼月は軽く咳き込んだ。春先のささやかな雨にも似たそれは、軽い風邪のひきはじめのような響きをしている。

 何度か立て続けに咳いた後、ちら、と目を上げる。こちらの心配をはらんだ視線と交わって、彼は小さく苦笑した。

「この日付と場所はなんだ?」

 最後のページに記された、手書きのメモを指差して蒼月は問う。

「かつて警視長級以上の役職に就いていて、今は警察を離れた者の集う会が定期的に催されているのですが、近々開かれる日程と会場がそれです。引退者の集いとは名ばかりで、現役の役職に就いている者もお忍びで多数参加します」

「なるほど。大っぴらにできない取引や、天下り先の斡旋がここで行われるわけだ」

 蒼月は少し考え込む素振りを見せた。

「あんたは行ったことあるのか? どうせ報道関係者も潜り込んでいるんだろ」

「かつて探りを入れようと試みたことはあるのですが……すみません」

「そうか」

 失望されるかと思ったが、蒼月は淡白に頷いただけだった。

 彼の頭の中ではもう算段がつきはじめているのだろう。ここではないどこかを見ているような目が、その証拠だった。

「警察の内部事情に踏み込んで、一体何を探るつもりなんですか」

 答えてくれないであろうことはわかっていた。それでも、今回ばかりは尋ねないわけにはいかなかった。

「これまで僕は貴方の目的を知らないままに、対価として求められた情報をわけもわからないままに支払ってきました。そのことに特に疑問は覚えなかった……そもそもいつも最初に依頼をするのは僕の方なのですから、示された対価でもってお返しするのは当然だと、そう思っていたんです」

 蒼月の目的を探らないこと、かわりにこちらも知り得た情報を何に使っているのかは伝えないこと。それを暗黙の了解としてこれまでやってきた。裏社会の情報屋と、新聞社に雇われている記者の関係性として、正しい距離感だと思ってきた。

「でも最近は少し考え方が変わってきました。僕が貴方に言われるがまま提示したものが、貴方に何か取り返しのつかない影響を及ぼすのが怖いんです」

 全ての真実が人を幸福に導くとは限らない。それどころか、痛みを与える可能性の方が大きいくらいだ。それをわかっていながら、「知」こそが正義であるかのように振る舞い続けるのは罪だと思った。

「あんたの与えた情報で俺がどうなろうと、全ての責任は俺にある。あんたはただ、対価として適切に支払いを済ませただけだ。気にすることじゃない」

「貴方の追うものが間違っているとは思いません。具体的には知りませんけど……僕は、貴方を信用しているから。貴方はきっと間違ってない。でも、だからこそ……貴方が傷つくのは嫌だ」

「誰も傷つかない真実なんて存在しないだろう。誠意のない嘘よりはいい」

「ええ、だからこそ。誠意ある真実で与えた痛みは、きちんと知っておきたい」

 蒼月は薄っすらと笑った。それは僕を認めてくれたようにも見えた。

「あんた、救いようもなくまともだな」

 は、と短く息を吐いて、蒼月はこちらを真っ直ぐに見た。

 

「俺は、自分の母親を殺した犯人を追ってる。十二歳の頃からずっと。元々はそれひとつが目的だった」

 揺らがない瞳は、この先も聞く気があるかと問うていた。それに応えるべく頷きを返した。

「母親が死んだ後、浮浪児となった俺を拾って育てた男がいた。親戚でもなんでもない、見ず知らずの男だ。そいつは恐らく、この世界で起きているありとあらゆることを知っていた。この国だけじゃなく、世界中のことを。知るための目と、耳と、嗅覚を持っていた」

「貴方はその人に、情報屋としての生き方を教わったのですね」

「教えるなんて親切なことはしてくれなかったよ。生き延びるための術は文字通り遠慮容赦なく叩き込まれたが、それ以外は見て盗んだ。俺はそいつに生かされて、そしてあるときふと疑問に思った。そいつはどうして俺を生かしたんだろう、ってな」

 考えれば考えるほど、そいつに利点がないんだよ。蒼月はコーヒーを口にしながら呟いた。それは懺悔するようにも見えた。

「野垂れ死んでもおかしくなかった。俺を生かしたのには、何か意図があったはずなんだ。意味なくしてそんなことをする人じゃない。あの人の行動原理に感情や衝動なんて不確かなものは存在し得ない。ただそう気づいたときにはもう、あの人は俺の前から姿を消してた。まるで真実ごと闇に葬るかのように」 

 感情の昂りを抑えるように、蒼月はくしゃりと横髪を掻き潰した。

「その方は、亡くなられたのですか」

「まさか。あの人は生きてる、絶対に」

 強い感情のこもった声だった。勝手に死なれたら困ると言いたげな声だった。

――まるで、この手で殺してやるとでもいうかのように。

「繋がらないようでいて、全て繋がっているんだ。母親も、あの人も、そして俺も。十年以上かけてもまだそこから先は見えないままだ。だが俺が生きている限り、決して諦めてやらない。そう決めた」

 ここまで話せば満足か? 蒼月は一息つくと、無理矢理な笑みを見せた。他人との間に明確な壁を築くための笑い方だった。

「俺を育てたそいつが、警察関係者だったって情報がある。真偽のほどは怪しいけどな。だが、確かめてみる価値はあると思ってる。それで警察の情報を探るためのいとぐちを探して、新聞社の持つ情報量と信憑性を利用しようと思いついたのさ。どうだ? ここまで知れば、俺に情報を与えた罪悪感も少しは薄れただろ。あんたはただの駒さ。それ以上でも以下でもない」

 彼はわざと人を傷つける物言いをしている。僕を悲しませて、怒らせて、遠ざけようとしている。

「ええ、ありがとうございます。貴方のことを信じると決めた、その判断は間違っていなかったと思えました」

 自分の行動は彼を傷つけるのかもしれない。渡した事実は、彼を破滅へと追いやる一助となってしまうのかもしれない。それでも、彼の瞳に後悔はなかった。迷いなき信念だけがあった。それならば、その生き方に誠実に向き合うのがせめてものはなむけであろう。

 それでも一抹の寂しさはある。出会い方さえ違えば――例えばそう、彼が自分の同僚であったなら。自分たちは良き友人になれたのではないだろうか。ふとそんなことを考えた。

 

 帰りがけ、先に立ってドアを開けるその姿に、どこか張り詰めた危うさを感じた。

「蒼月さん。……貴方、また少し痩せましたよね」

 蒼月は答えない。敢えて無視したのだ。それが何よりの答えになっていると、彼は気づいているのだろうか。

 初めて会った頃からなんとなく感じ取っていた。この人は恐らく何らかの異常、あるいは事情を抱えていると。それが彼の体を削り、徐々に終わりへと向かわせていることを。

 止める術はない。仮にあったとしても、その時は過ぎてしまった。

「暑いと食欲わかないですけど、体には気をつけてくださいね。あっ、よかったら今度一緒にウォーキングでもします? 僕痩せないと本当にまずくって……」

「遠慮させてもらうよ」

「ですよね」

 僕では彼の力になれない。その孤独には決して踏み込めない。

 だからせめて、祈ることくらいはさせてほしい。貴方が辿り着く真実に、一欠片でも救いがありますようにと。

「この情報提供の礼はすぐに。……と言いたいところなんだが、少しだけ待ってくれ」

 ドアに肩を預けたまま蒼月は言った。

「いいですよ、いつでも。それよりもまたお願いしますね。……正直に言うと、蒼月さんの情報のおかげで出世できたようなものなので」

「俺に頼らずとも、あんたはもう十分やっていけるよ」

 まるで親離れを促すかのような言いぶりだった。たしかに、最近は彼に頼りすぎていたかもしれない。

「ああ、言い忘れた。……お幸せに」

 ドアが閉まる直前に蒼月は言った。その口元は少しだけ笑っていた。やや褪せたような、困ったような笑み。それはきっと彼本来の、蒼月という生き方の下から滲むものだ。

 返事をする前にドアは閉められた。言い忘れたのではなく、面と向かって言うのが気恥ずかしかったのだろう。まったく、どこまでも不器用な人だ。

 全て覆い隠すことなどできない。「蒼月」ではない、名前も知らない本当の彼と、いつの日にか友人になれたらと願った。

 

       †††

 

 シャツのボタンを全て外したところでふと思い立ち、鏡に姿を映してみた。

 右の肩口から鎖骨のあたりにかけて、真横に走る傷痕。肋骨を辿るように点々と散る丸い火傷痕や、腰付近の白く引き攣れたような痕。どれもこれも随分と薄くはなったが、死ぬまで消えないだろう。朧気な記憶しかないものと、はっきりと当時の痛みまで思い出せそうなものと。あの人は無意味な折檻こそしなかったが、結果的にこの体には痕が残った。それを虐待というのだと、どこぞのヤブ医者はぼやいていたっけか。

 見慣れてしまって自分ではいまいちピンとこないが、どうやら誰しもにわかるほどに痩せてきているらしい。憚ってそういうことを口にしなさそうなあの記者にまで言われるくらいだから相当なのだろう。見た目で説得力を失うのは損なので、貧相に見えないように工夫はしてきたつもりだが、そろそろ手に負えなくなってきたか。

 このところ息切れがひどい。日常の動作にさえ負担を感じるようになってきていた。おまけにやたらと咳き込むせいで、常に小さな発作を起こしているかのような鈍い不快感を抱え続けている。はじめのうちは頻繁に服薬してしのいでいたが、段々と効きづらくなっていることに気がついてやめた。多少苦しくても、誤魔化して動けるうちは薬に頼らない方がいい。痛みと不整脈でどうにも動けないときだけにしておかないと、いざというときに効かないのは困る。

 ロクに動けなくなることを想定してやってきたからまだそこまで支障はないが、徐々に綻びが広がりはじめていた。あまりに時間が足りない。まだ何にも辿り着けていない焦燥感だけが募る。このまま何も為さずに終わったら、どうして生かされたのかわからないままだ。

 胸元のピルケースに触れる。蓋を開けて、中身を確認して、また閉じる。こんなちっぽけなものに命を繋いでもらっている現実が馬鹿らしくなる。生きたいと願う心の裏側に、いっそ為す術もなく終わらせてくれと叫び出しそうな自分がいることもまた自覚していた。

 本当はさっさと死にたいのかもしれない。苦痛しかない人生から、一刻も早く解放してもらいたいだけなのかもしれない。

 しかし今はまだそのときではない。『人間一度しか死ぬことはできない』 ――指折り数えて待ち望まなくたって、どうせあと数年なのは目に見えている。全て終わらせてからでも遅くはない。

 あと少しだけでいい、保ってくれ――正しく拍を刻むことすらできない壊れかけの心臓に、儚い望みを賭ける。

 騙し騙しでもどうにかこうにか二十六年間動いてきたんだ、もう少しくらいいけるだろ。

 

 うなじの少し上で束ねていた髪をほどいた。随分と伸びた髪は心窩部のあたりまで落ちた。

 どこの生まれの人間かもわからない、異端の容姿が昔は嫌いだった。今はもう諦め半分受け入れている。好きになれることはなくても、こういうものなのだと開き直ってしまえば気は楽になった。女のような線の細さを呪ったこともあったが、他人の評によれば整っているらしい容姿が、時として武器になることも知った。

 

――綺麗な髪ね

 

 細鳴りのような声。記憶の中にだけ揺蕩う声は今も鮮明だった。視覚情報に頼りがちな記憶特性でも、この声だけはいつだってはっきりと思い出せる。それくらい長い間、耳元で囁かれ続けてきたのだろう。

 誰とも違う容姿を、母だけは綺麗だと言った。異国の血が混ざり合ってできた色素の薄い髪、やや青みがかった深い色の瞳。母は二分の一で、俺は四分の一だから、母の方がその特徴は色濃かった。

 母はよくその容姿を客に誉めそやされていた。美しく長い髪をまるで供物のように恭しく扱われるのを、物陰からそっと見ていたこともある。自らの容姿が、体が売り物になることを、母は誰よりも理解していた。

 それでも母は自分の容姿を嫌っていた。その体がどれだけ求められようと、奪われた結果生じたものだと、穢らわしいものだと口にしては涙を流した。

 そんな母が、どうして自らの嫌う要素を全て受け継いだ俺に対して綺麗だと囁いたのだろう。自分を見ているようで苦しくはならなかったのだろうか。血が繋がっていることを否が応でも意識させられたはずだ。どうしたってこの繋がりからは逃れられない。

 

――あの人に似てる

 

 また声が囁いた。母は時々、俺の中に別の人間を重ねて見ていた。俺を通して、いなくなった父親の姿を見ていた。

 母が愛していたのは、俺ではなく父親唯ひとりだったのかもしれない。自分に似ていないところだけを指して、綺麗だと言っていたのかもしれない。

 真相はわからない。母は十五年前の冬に、ビルから落ちて死んだ。雪のような長い髪を真紅に染めて、もう二度と光を灯さない瞳を夜空の映し鏡にして。

2022年5月13日公開

作品集『EOSOPHOBIA』第6話 (全9話)

© 2022 篠乃崎碧海

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