ペルソナ

谷田七重

小説

7,004文字

あの女は犯罪者なのか……?

「私を殺すのは初めて?」

と女は言った。何と馬鹿げた問いだろう。おなじ人間を殺すのに、初めても二度目もあるものだろうか。けばけばしく塗りたくった赤い唇を歪ませて、女は笑っていた。私はあの女が嫌いだ。それこそ殺してやってもいい。しかし殺したところで、あの女は何度でも生き返るだろう。にやにやと笑いながら。

太陽は真上を通り越して、なおも強い陽射しで私の目蓋を開かせる。午後二時。いつもの時間に起きることができた。しかしあの女にあんなことを言われたおかげで、寝覚めは最悪だ。洗面所に行って顔を洗ったあと、なんとなく鏡に見入った。そうして奇妙な安堵を覚える。「これが私だ」

部屋の窓を開けて外気を吸う。今日もよく晴れている。昼の陽射しは清潔な匂いがする。すべてを明瞭に見せ、汚いものを影へと駆逐する。それでいい。白日のもとに繰り広げられるのは現実の世界。あらゆる人間が、社会の中で真っ当な役割を果たす。それが人間のあるべき姿だと私は思う。……しかし私は今、何をしているのか? すべてはあの女のせいだ。しかしあの女はもう正気を失っている、私には分かる。

あんな挑発めいたことを言われても、心を乱されていつもの習慣を変えるわけにはいかない。まずはあらゆる窓を開け放って空気の入れ替えをし、太陽の匂いで部屋を満たす。そうしてやっと息がつけるのだ。遅すぎる朝食の時間には、テレビをつけない。この時間にテレビをつけたところで、くだらないワイドショーにうんざりするだけだ。世事を知るのには、新聞だけでじゅうぶん事足りる。余計な装飾を削ぎ落とした硬質な文字の羅列。無機質な文体で綴られる、感情移入の余地もないあくまで客観的に捉えられた世界。好んで感情移入をしたがるのは、無駄に感傷的な人間だ。あの女もこの部類に属するだろう。色んな事物をとかくに美化したがる。二人暮しの母子をメッタ刺しにして殺した凶悪犯、あの女はこの男にすら感情移入し、美化しかねない。

あの女はくだらない夢想家だ、夢を見すぎているのだ。

気付けばあの女のことばかり考えている。あの女の底意地の悪い策略にはまってしまっているのかもしれない。しかし、この機会にもう少しあの女について話した方がいい。そうすれば分かってもらえるだろう、あの女がどんなに馬鹿で愚かな人間かを。……私はさっき、あの女はくだらない夢想家で夢を見すぎていると言った。そういう私も昔は夢みる少女だったが、もう夢は見飽きた。手に触れられないものに恋焦がれて、それが何になるというのだろう。絶えず飽かず手を広げて幻を求めても、辿り着いたときには、それはただ雲のように両腕をすり抜けるだけだ。そうしてようやく気付く。何もなかった、と。

……しかし、あの女は夢みる少女、ではないだろう。夢みる娼婦だ。夢みる娼婦は、夜の窓ガラスに映った円く黄色い電灯を月だと思う。路傍に落ちているビニール袋を白猫だと思い、雨の夜に街灯の光をうけて輝くアスファルトに、逆さになって転がっている壊れたビニール傘を白鳥だと信じて疑わない。馬鹿な女。あの女がここまで愚かながらも幸福でいられるのは、確かめることを放棄したからだ。そのおかげで虚構の世界で虚構の幸せに、ひとり充足していられる。ある意味利巧だ。しかし傍から見れば、これほど滑稽なことはない。私をこんな社会的地位の底辺にまで追いやったことへのせめてもの復讐として、私はあの女の大がかりな自己欺瞞を冷徹に客観視し、それを嘲笑する。それが今の私の唯一の存在理由かもしれない。

いつかあの女をネタに小説でも書いてみようか。タイトルはもちろん『夢みる娼婦』。「夢みる」と銘打っておきながら、内容はあくまで冷徹に現実的に。そうしてあの女のみならず、この世の中に真っ当な社会人としての仮面をかぶって紛れ込んでいる愚かな夢想家どもの鼻をさえ明かしてやるのだ。しかし私は『ボヴァリー夫人』を書いたフローベールのように、「ボヴァリー夫人は私だ」などとは決して言わない。あの女と私とが同じ人間だなんて、私は絶対に認めない。

長いこと思案に耽っていると、太陽の光が黄色味を帯びてきた。今日ももうじき陽が沈む。私はいつもこの前兆を感じると寒気がする。理性と秩序の守護神たる太陽は西へ西へと追いやられ、その最果てで虐殺される、来る日も来る日も。夕日の赤は太陽の血潮だ。その生臭い匂いにつられて蝙蝠どもが目を覚ます。……私もそろそろ支度をしなければ。蝙蝠の仲間入りをするわけではない、あの女を観察するためだ。

支度とはいっても、そんなに手間取るものではない。私はあの女のように、けばけばしくごちゃごちゃと飾り立てるのは嫌いだ。化粧などはファンデーションを薄く塗って、眉毛を軽く描くだけでいい。服装も、細身のジーパンにシンプルなカットソーを合わせるだけでいい。荷物は少しかさばるが、これはあの女を探るために必要な物たちだからしょうがない。

外へ出ると、夕日の赤が町並みを染め上げていた。歩を進めながら赤い空を仰ぎ見ると、蝙蝠の影が血の匂いに酔っているかのように、くらりくらりと虚空を舞っている。しかし蝙蝠は人間の姿をして地上にもいる。あいつらは太陽の虐殺を喜び、やがて天頂に昇る月に安心して酩酊を漁る。だからこそあの女が生きていられるのだ。

夕焼け。理性と秩序を司る太陽の惨たらしい死にざまに、私は戦慄する。しかしあの夢みる娼婦はこんなことにも気付かず、むしろこう思うに違いない。「あの美しいバラ色の雲の向こうには、何かあるに違いない。もしかしたら「永遠」の世界が広がっているかもしれない」と。しかしあの女は、仮に雲の切れ間から顔を覗かせることを許されたとしても、決してそうすることはないだろう。

この時間になると下りの電車が混む代わりに、上りの電車はかなり空いている。それぞれ何人分かの間隔をとって座席に座っている人間たちの呆(ほう)けたような顔を見ていると、無性に苛立ってくる。この時間に、お前たちは一体何をしに上りの電車に乗っているのか? しかしそんなことは聞かなくても分かる。この腐ったような奴らこそ、地に落ちた蝙蝠ども、つまりはあの女の同類なのだ。人々を現実社会につなぎとめる明々(あかあか)とした蛍光灯に照らされた車内に居るうちは大人しくしているが、ひとたび夜の闇に紛れてしまえば、それぞれ思い思いの悦楽を貪欲にむさぼる。そうして明日の朝には何食わぬ顔で社会の中に紛れ込む、その繰り返しだ。生産性などかけらもない。どうしてこのような何の役にも立たない人間までもが生かされているのか、不思議でならない。

電車が走行すると同時に、夕陽の残照は消え、空は藍色をたたえ、やがてそれは濃度を増し、闇そのものとなる。この電車がまるで夜に向って走っているかのように。太陽が後ろに遠く見えなくなってしまった今、私の心を落ち着けるものは無機質な蛍光灯の光だけだ。

電車は新宿という夜に辿り着いた。この混沌とした無秩序な街を歩くことは、私にとっては苦痛以外の何物でもない。しかしあの女への復讐のために、私は行き交う地上の蝙蝠たちを絶えず軽蔑しながら足早に歩く。見るがいい、闇空にわざとらしいほど大きな月が掛かっている。舞台装置のような月は、あの女や蝙蝠どもにはお誂え向きの大道具だ。

新宿の中でも一番卑しい一角に足を踏み入れる。腐った蝙蝠の中でも最下等の者たちが、あちこちで瞬く色とりどりの安っぽいネオンのなか蠢いている。そういえば、確か一昨日もこうして歩いていたら、見も知らぬ男に声を掛けられた。しかし私は立ち止まることなく無視して通り過ぎた。その男はにやにやしながら話しかけてきたが、私の無反応に呆気にとられたかのような間抜けな顔をしていた。思い出すたびに虫酸が走る。最下等の蝙蝠と話すことなど何もない。あの男は話しかける相手を間違えている。そう、あの女ならば立ち止まって微笑み、媚態をつくかもしれないが。

目的地が見えてきた。他の店と同じように華美に装った外観、そしてネオン。しかし私の目から見れば、それらの装飾を透かして朽ち果てた廃墟が見える。そうだ、もし愛というものがあるならば、ここは愛の廃墟だ。最下等の蝙蝠どもは、愛の廃墟で愛を模す。馬鹿馬鹿しい。そうしていつも通り、もうすぐあの女もここへやって来る。廃墟で美々しく装って、夜な夜な恋人を待つ狂女の亡霊のようなあの女が。

さあ今夜も舞台装置のような月の下、滑稽な茶番劇の始まり、始まり。

お母さんは、「月を見すぎてはいけないよ、女の子は月に魅入られると不幸になってしまうから」と言っていたけれど、夜な夜なこうして窓から黄色くてまん丸な月を眺めている私は、不幸なのだろうか。少なくとも今、私はとても幸せ。不思議。

手鏡を見て、いつも決まった赤い口紅をていねいに塗る。ティッシュで軽く押さえてから、鏡をかざして顔全体を映すとき、いつも微笑がもれるのは何故だろう。こうしていつも、私は私に笑いかける。

きらきらと光彩を放つシャンデリア、ひんやりとした大理石の壁、天蓋つきのやわらかい寝床。私はいつも、ここで恋人を待っている。そうして恋人は必ずやって来る。……それにしても、今夜も彼女の視線がまとわりついて離れない。蛇のように執拗に陰険に私を睨みつけるあの目。彼女が私を憎んでいるのはよく分かる、でもその憎悪には、嫉妬も混ざっているに違いない。彼女は私のことを馬鹿にしているけれど、私は彼女を可哀想に思う。彼女はあらゆるものを希求することをやめてしまった。求めては敗れ、求めてはまた敗れ、の繰り返しの果てに、彼女は冷徹な現実主義者になってしまった。すべてを俯瞰して、自分は決してそこに立ち入らないという、彼女なりのスタンスを作り上げてしまったのだろう。可哀想な人。確かめることさえしなければ、ほしいままに夢を見続けることができるというのに。私はあらゆるものを希求する。ただ一つ、真実を除いては。……しかし彼女は、もっとも重要な真実を見落としている。私がその真実を知っていることは意外に思われるかもしれないが、この真実は私にとっては痛くも痒くもない。彼女が本当のことを知らない限り、私はずっとここでまどろんでいられる。

やさしい恋人もいれば、つれない恋人もいる。でも私は、どんな恋人でも誠意をもって愛することができる。ここを訪ねてくる恋人たちは、みんな私を選んで必要としてくれているから。そうして必ず愛してくれるから。しかも彼らは私に私を刻んでくれる。私の存在自体を教えてくれる。恋人が私を愛して揺らすたびごとに、私の生はより確かなものになる。愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、生きている、生きている、生きている、生きている、生きている、ここにいる、ここにいる、ここにいる、ここにいる、ここにいる、……そうしてやっと安心してまどろみ、次の夢をみることができる。

五十七人目の恋人は、ことのほか私を愛してくれた。何度も何度も、足しげくこの部屋に通ってきてくれた。だから私は、秘密を教えてあげた。

「街中で、銀色の湖に浮かぶ白鳥を見たことがあるの。とてもきれいで素敵で、見とれちゃった。あなたは見たことがある?」

あの人は何も言わずに微笑んで、ゆっくりと煙草をふかしていたけれど、きっとその素敵な光景を胸に描いて、うっとりとしていたに違いない。彼は、その後もやさしく私を愛してくれた。次に彼がこの部屋を訪ねてきたとき、いつものように愛し合ったあとこう言われた。

「ここを出るつもりはないの?」

私は驚いて思わず彼の顔を見つめてしまったけれど、なんだかおかしくなって笑いながら答えた。

「どうして? 私はいつもここにいるじゃない。そうしていつも愛し合っているじゃない。これ以上、何を望むの?」

それからというもの、彼はぱったりと来なくなってしまった。銀色の湖を探しに行ったのだろうか。きっと白鳥を見つけたなら、またこの部屋にやって来て私にそのことを話し、ふたたび愛してくれるだろう。

……ああ、彼女の嘲笑が聞こえてくる。私のバラ色の目隠しを、両手を縛る戒めを、剥ぎ取ろうと勇んでいるかのような残忍な足音が聞こえる。でもここは私の場所、彼女をここに入れるわけにはいかない。見たくないものがあれば目隠しをすればいい、触れたくないものがあれば両手を縛ればいい。彼女は知らないのだ、自らはめた拘束具は、決して自分を裏切ることがないということを。そうして私は飛翔する、押し付けがましい現実を超越して、永遠に枯れない花々が揺れているまどろみの園へ。それが単なる匂いのない造花の園だと言われてもいい、むせ返るほどに甘やかな香水をふりかければいいだけだから。

部屋のドアが開いた。入ってきたのはもちろん彼女ではなく、七十四人目の恋人。軽い挨拶を交わして、彼はベッドに腰掛けるなり上機嫌に煙草を吸い始めた。彼の三度目の来訪が嬉しくて、私もにっこりとして横に座った。

「そうだ、君、昨日の夜七時ごろ、この付近を歩いてただろう」

「え?」

一瞬、彼の言うことが飲み込めなかった。彼はさらに続ける。

「たぶん、この部屋に向う途中だったのかな、急いでる感じだったし。ちょっと話しかけたんだけど、気付かなかった?」

……わかった。でもしょうがない、彼には申し訳ないけれど、とぼける他はない。

「え、それ本当に私だったんですか?」

「うん、すごく似てた。あれ、人違いだったのかな」

「ええ、きっと私じゃないと思います」

まあ、どっちでもいいや、と彼は私を抱き寄せて、口づけをした。そのまま身をまかせながら、夢見心地の片隅でぼんやりと考える。嘘はついていない。そう、彼の言うとおり「人違い」。そうしてベッドがきしむリズムに合わせて、反芻する。

刻んで、刻んで、私に、刻んで、愛を、刻んで、あなたを、刻んで、私を、刻んで、刻んで、刻んで、私に、刻んで、私を、刻んで、愛して、愛して、愛して、愛して、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、生きている、生きている、生きている、生きている、ここにいる、ここにいる、ここにいる、ここにいる、刻んで、刻んで、愛を、刻んで、あなたを、刻んで、私を、刻んで、私に、刻んで、刻んで、刻んで、私に、刻んで、もっと、強く、もっと、深く、ずっと、刻んで、このまま、ずっと、………

もう、月は見えない。部屋を出て、夜明けのひんやりとした空気に包まれながら首をめぐらせてみたけれど、もう月は見えない。月はいつも、人知れずひっそりと消える。まるで諦念をまとっているみたいに。……そろそろ空が明るんでくる。そうしてあのうるさい太陽が、あの不躾なほどの光が、私を苛みにやって来る。私はいつも、この不安に耐えかねて、足早に駅へと向かう。早く電車に乗り込んで眠り、少しでも夢の続きをみていたいから。

電車に乗り込み、座席の端に座って目をとじると、いつものように夢の世界が開けた。でもそれは、私のみたい夢ではなかった。私は暗いところにいて、向こう側の光の中にいる男の人を見つめている。でも逆光で、その人の表情どころか顔すらわからない。その人は最初は私の方を見ていたけれど、ゆっくりと後ろを向いて、私に背を向けて、光の中へ歩いていく。私は暗いところから抜け出すことができずに、それを見ていることしかできない。その人の影はだんだんと小さくなって、ついに光の中に消えてしまった。私は泣き叫んでいた。「行かないで!」……目が覚めたとき、頬が濡れているのに気付いた。もうずっと、涙を流したことなんてなかったのに。

電車を降りると、すでに太陽が昇っていた。まぶしすぎる、目が眩む。私は下を向いて歩きながら、いつも以上にいらだっていた。あんな夢をみたのも、彼女のせいだ。七十四人目の恋人は、彼女に声を掛けたのだ。そうして彼女のことだから、彼の言葉を無視して、馬鹿にしたような目つきで睨んだに違いない。私の大切な恋人を鼻先であしらったのだ。彼女はいつも私の邪魔をする。私の大切なものを奪おうとする。私の永遠の花園を土足で踏み荒らす機会を、今か今かと待ちわびているのだ。今日こそは彼女に意地悪を言ってみようか。

ポストに新聞が届いている。私は決して読まないけれど、これは彼女の唯一の楽しみだから、毎朝部屋に持っていってあげることにしている。新聞。こんなつまらないものが唯一の楽しみだなんて、本当に可哀想な人。思わず微笑がもれてしまう。

ドアの鍵を開けて、新聞を玄関マットの上に放り出し、まっすぐ洗面所に向かう。お化粧を落とす前に、いつもよりもじっと鏡に見入る。ほら見えてくる、鏡の向こうから、彼女が私を怖い顔で睨んでる。彼女はこうまでしても、もっとも重要な真実に気付くことはない。考えてみると、一番の夢想家は、もしかしたら彼女の方かもしれない。

そう、現実主義者の仮面をかぶった彼女に、ひとつ、わけのわからないことを言ってみようか。彼女は怒り、いかにも現実主義者ぶって私に対する悪意をすべてさらけだしてくれるだろう。ああ、想像しただけで、唇が微笑に歪む。……そうして私は言った。

2007年7月16日公開

© 2007 谷田七重

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