殺人者

地獄に寄り道、曲がり角(第2話)

TURA

小説

2,720文字

雨降りの深夜に、今日という包み紙に包んで男が捨てた、全ての物。

雨降りのせいで、原野との境界の乱れた庭の中央に、二階建ての家屋があった。丸窓やレンガ壁に雫が垂れる。街に並ぶ家屋とは、外壁や装飾においてやや趣が異なり、施主の変わった嗜好が窺えた。人々の寝床とは毛色の違うその家は、街から転げ落ちた様に辺鄙な土地に建っていた。
特異でありながら暖かみを湛えたその家とは対照的に、家の周りには、闇と霧のまとわりつく林が迫っていた。街の活気からは遠く、独自の色彩だけが水たまりに艶やかに映えた。
最新式のエアコンで十分に暖められた家の中では、男が静かにコーヒーを啜っていた。彼はこだわりがある割に濃いコーヒーが苦手で、自宅でしかコーヒーは飲まなかった。いつもの時間に、いつもの濃さ。庭に広がる闇と同じだけの、23時の様な濃さのコーヒー。例え風呂に入り損ねたとしても、これだけは欠かさなかった。二人暮らしには大きめな机の対面には、同じ型のティーカップから、同じ様に湯気が立っている。彼女の不在以外、いつもと変わらない、いつも通りの光景を、暖気のある照明が照らした。男は考えていた。今後の生活のこと、そして、二人のこと。天然木製長机の木目を撫で、机の淵で終わるその曲線を、穏やかに見つめた。
「きっと大丈夫さ。」
男は、そう呟いて立ち上がった。木製のコートハンガーからコートを取り、年相応の鈍重さで袖を通す。寝る前に、仕事がまだ残っていた。
男は、肌に感じる寒さに肩をすくめ、コートの首元を締める。玄関外の脇に置いてあった金属製のシャベルを手に取った。先ほど掘った穴の方を見つめる。香気の混じる白い息を吐きながら、先に庭に出ていた彼女と目が合った。彼女は、細い首を伸ばし星を見上げ、涙を流していた。男は、どう話しかけようか、切り出し方を迷っていた。彼女は、男に向かって手を伸ばす。男は何度か頷き、一歩踏み出す。
鼻で息を吸い込み踵に力を込めた。シャベルの先端を頭の後ろまで振り上げると、穴の中にいる彼女のこめかみ目掛けて振り抜いた。女が腕を振り上げ、制しようとした。そのせいで、シャベルは彼女の左肘に当たり、目標をずれて側頭部の上あたりを叩く。見当違いの、高音が出た。小雨で濡れている彼女の側頭部から、液体が飛び散った。女は、頭を手で覆い、飛び散った血が、ブラウスを汚した。
「今日の日記は、一体、何と書いたことか。予定調和か。生活の転倒か。」
男が、彼女と暮らし始めて、10年が経とうとしていた。出会いはなんて事はない、地元零細の主催する菜園教室だった。隣で作業する男の手際と知識が見事で、女は気になり、話しかけたのが始まりだった。きっかけは簡素なものだったが、関係としては複雑なものだった。年齢的にも、互いの目論み的にも、恋と簡単に名状する事は出来ない。しかし、その流れをもし表現するとしたら、男が女に取り入った、が恐らく一番近い。男と出会ってからは、女は舞踊の習い事もやめ、親の残した遺産で以前にも増して、平穏に暮らした。この家の鍵が、複製され、男のキーホルダーに移った頃、正式に、二人は共に暮らし始めた。
女はやがて、浮雲の様な男の生き方に気付いたが、自分の鎖の様な生き方を嫌っていたが為に、憧れこそすれ、蔑む事はなかった。雲と鎖の生活は、意外にも噛み合った。男は時折ふらりと消えたが、同じ様にふらりと戻ってくる。女はそれで良いと思った。雲をつなぐ鎖。鎖を浮かす雲。破綻を見る程の、不満は何もなかった。今日のこの日までは。
「君は偶然、いや、必然か。僕の罪を知った。そこまでは、いいだろう。ちっとも構わない。ただその答えが、警察は違うだろう。バッテン以下、0点以下の間違いだ。」
「君は見たことはないか。罪と罪悪感を人質に取り合い、互いを無限に許しあう男女を。そして、等しく無限に堕落していく2人を。そんな関係では、なぜ駄目なんだ。今更、何を夢見た?」
「それが、完成形だったはずだ。僕たちは、スクラップアンドビルドを企む程若いだろうか。君は、何度も言った。これでいいと。このままでいいと。その条件は、そんなにも低かったのか?放火ぐらい、なんだ。」
女は、口を動かす。しかし、言葉にはならなかった。
「風呂にも入らず、外行きの服から着替えもしない。なるほど、そんな事だったか。」
男には自信があった。こんな光景、誰にも見られてなどいない。そして、社会と隔絶した女は、決して見つからない。庭の中で、やがて朽ちる。日常は、家出少女の様に素知らぬ顔で戻ってくる。
「森は、森林火災という宿命を負っている。増え過ぎれば葉が擦れ合い自然に着火する。燃え上がり、そして減るんだ。それが宿命だ。人間は、人体は、燃えないね。しかし、いつからか布を纏った。住居を構えた。それなら、燃える。足を踏み込んだんだ。火と灰の世界に。森の、樹木の宿命に。人間はどんな灼熱にも、どんな凍結にも足を踏み入れる。わざわざ、宿命を負ったのさ。同じ事だ。君もまた、血と破滅の中に、足を踏み込んだんだ。向こうから眺めておけばいいものを。」
「前もしたろう。宿命の話だ。前の例は、核物質だったね。」
男は、眠る記憶を揺り起こす様に、目を細める。
男は、シャベルの先端を眺めた。滴る血を眺めた。誰の血も当然赤いが、長く暮らした女の血は、格別に鮮やかだった。
「何一つ、仕方がないとは思わないか。結局は、あるべき場所に戻るらしいな。知ってるかい?チューリップの種は、チューリップの花を結局は咲かせるのさ。種がそれを求めるなら、咲かさざるをえない。」
「君は抗い、僕もまた抗った。その先にあるのがこの場所ならもう仕方がないじゃないか。だからせめて、君の言った通り、宿命通り置かれた場所で花を咲かせよう。」
男は再び、シャベルの先端を振り上げる。吹き出物を見る様な目つきで、女を見た。
「そう。それなら僕は、トリカブトの花を咲かせることにするよ。」
皮肉めいたニュアンスを交えて男はそう言った。言い終わるか否かのタイミングで、男は掲げたシャベルを振り下ろす。
鋭く音がして、しばらくすると、この辺りの本来の静けさが戻ってきた。半ば泥と化した土を、穴に向かって投げていく。春には芽吹くであろう、次の生活を想像しながら。
男は、空を見上げた。死体の様に横たわる雲のせいで、何も見えなかった。しかし、シャベルで空を掘っていけば、天国が見つかる様な、神秘的な夜だった。
コートを脱ぎ部屋に入ると、コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。向かいにある取手は左に向いている。一人になった今、コーヒーカップだけに嗜好と利き手が、女の痕跡として残っていた。左利き用の鋏と包丁。あれを捨てよう。男はそう考え、カップをシンクに置いた。

2022年5月2日公開

作品集『地獄に寄り道、曲がり角』第2話 (全9話)

© 2022 TURA

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