クズどもの価値

蒼城アタル

小説

48,731文字

舞台は東北・仙台。見捨てられて傷ついた青年たちが、復讐のために起業。「王国」をつくるが、暴力と権力闘争にまみれ、破滅へと突き進む。

 

 

 

 

仙台市営地下鉄・五橋駅のかすかにアンモニア臭い階段をのろのろと登る。早く歩こうとすると、後ろにいる翔がいらだつのだ。振り返ると、ダビデ像のような面長の深い顔をした翔は、黒くてブカブカのチェスターコートを着て、出口へ向かって指をさした。

「奏太、見ろよ。ひでえ雪。死ねばいいのに」

翔はガキみたく大げさに舌打ちをしたあと、階段を踏み外して転倒しかけた。うんざりする。図体ばかりデカい、二十七歳児。そんなクズでも腐れ縁の仲。そして、仙台で一番注目されている起業家だ。

「アホかよ。スーツを汚すなんて、それでも社長かよ」

翔を嘲る。気持ちいい。よろよろと立ち上がる翔の左胸には、金色の社章に憎たらしく光っている。「S」の字の中央に目が一つ。これが、翔の創設した会社・『スガワラ王国』のロゴマークだ。

会社で扱っている商材は、現実にない架空の国家・スガワラ王国での肩書だ。国営企業の正社員なら三千円、国家公務員なら五千円、社長なら一万円、国会議員は三万円、大臣なら五万円。たとえ子どもでも、公式ウェブサイトから大臣の肩書を購入すれば、一週間後に自宅に辞令が届き、その日から大臣を名乗れる。もちろん、その肩書は現実の社会で価値がない。辞令もただの紙クズ。だが、肩書を買う人間は、スガワラ王国が実在しないことを承知して買っているし、購入規約にも「この肩書は現実の社会では使用できません」と明記されている。

ただの紙クズも、相手が納得すれば売れるのだ。

階段を登りきって、五橋のオフィス街へ出る。一面の銀世界。仙台でも、十一月の大雪は珍しい。大粒の丸い雪が絶え間なく、空から降り注いでいた。

出口の目の前、愛宕上杉通の向かい側には、NTT東日本・東北支社の鈍色で低いビルが立っていて、外壁に掲げられた大型ディスプレイには、スガワラ王国のCMが流されていた。

 

朝の小学校。男子が教室に駆け込む。男子は勢いよくランドセルを開けると、大臣の任命辞令を取り出し、先生に見せびらかす。

「先生! 俺、スガワラ王国の大臣になったよ!」

「そんなこといいから、早く宿題を出しなさい」

 先生は呆れ顔で注意する。画面の脇から翔が現れて、視聴者へ優雅に語りかける。

「私、菅原翔は、スガワラ王国の国王として、国家の明日を担う人材を募集しています。みなさんも、私の国の一員になりませんか? 『スガワラ王国』で検索!」

 画面の中央に会社のロゴマークが現れる。「S」の字の中央に目が一つ。端には、「※スガワラ王国は実在する国家ではありません」と注意書きが添えられている。

 

CMが流れ終わった直後、一台のタクシーが愛宕上杉通りを走ってきた。ボンネットにはスガワラ王国のステッカーが貼られている。ステッカーには「S」の字の中央に目が一つのロゴマークの下に大きく「スガワラ王国・運輸大臣」と書かれていた。ステッカーは、たしか定価で八〇〇〇円だったはずだ。市販の同サイズのステッカーにくらべ、はるかに高額だ。

その「運輸大臣」のタクシーが目の前を通って雪を撒き散らし、国王である翔のチェスターコートへかかった。

「うわあ、クソ! 雪が着いた。最悪!」

翔は顔を真っ赤にして、歩道に積み上げられた雪山をウィングチップの革靴で思い切り蹴った。昔から、何も考えず本能のままキレるヤツだ。今も、気の荒さは改善しない。経営者として成功してからはむしろ、悪化している。

「クソ! 死ね!」

バカみたいに叫ぶ。呆れる。みっともない。

「ほら、さっさと打ち合わせるぞ」

翔によびかける。叫び終わった翔は肩で息をし、すこし一呼吸置くと「これから打ち合わせをしたい」と言って、出口横のセブンを指さした。

店に入ってホットコーヒを買って、イートインスペースに座る。コーヒーを飲みながら、二人で資料を読んだ。翔は喋りながら、やや神経質そうにペンを走らせていた。

店を出る。数ブロック北、東二番丁通と北目町通の交差点近くまで歩くと、白北新聞社の古めかしい本社ビルがある。地元の有力な新聞社で、県内でのシェアは全国紙を抑えて堂々の一位。県内シェアは、約七〇パーセントの高さを誇っている。

ビルの外観はゴツゴツと角張っていて一面が暗褐色に塗られている。あまりに保守的で面白みがない。仙台の街と同じだ。まったくつまらない。

エントランスへ入ると、さっそく社員が出迎え、会議室まで腰を低くして案内した。コートを脱いで会議室へ入る。席には既に数人が座っていた。自分たちが最後のようだった。ここにいるのは皆、仙台で活躍する二十代から四十代の起業家たち。新聞社が、仙台在住の若手起業家たちを呼びよせて座談会を開き、各企業のビジネスや東北の経済について議論させ、記事にするという。

「菅原社長、こんにちは。あれ、副社長はどこにいます?」

家電メーカー社長の磯が話しかけてきた。北欧風の洗練されたコーヒーメーカーがヒットし、有望な起業家として名を馳せている。家が近く、近所の西友やカレー屋で見かけて挨拶をする仲だ。

いきなり翔が割り込んできて、磯へ話しかける。

「副社長は、別の取材に出て欠席です。今日は代わりに社長室の榎本を連れています」

磯は納得したように首を縦に振ったが、実は嘘だ。副社長の莉久が欠席しているのは、コスプレの撮影会に参加しているからだ。そもそも、副社長は名誉職。翔が、彼女の莉久へ役員報酬が渡るように就かせているだけだ。

テーブルに座る起業家たちは皆、表情はニコニコしているが、目つきが据わっていて、瞳の奥は笑っていない。この笑顔はあくまで営業用なのだろう。

席に座ると、上座にいる司会が挨拶を始めた。

「こんにちは。白北新聞社・地域経済部の會田です。今回は、弊社の企画・『街のイノベーター』にご参加していただき、誠にありがとうございます。それでは、座談会の前に、自己紹介と会社の概要についてご説明よろしくおねがいします」

司会の會田のことはよく知っていた 真っ白い肌、のっぺりした顔、鷲鼻。高校のころから全く変わっていない。同級生で、バレー部のいけすかないキャプテン。冷酷、無慈悲。一ヶ月前にあった企画の打ち合わせで久しぶりに会ったときはお互い再会を喜んだが、すぐに、高校の卒業式直後に「国立大に行けないのは人間じゃない」と俺と翔へ面と向かって言ってきたのを思い出し、腹立たしくなった。それ以降、距離をとっている。そんなに国立大を出ているのがいいのか。なんにもない、山の上にある金沢大のくせに。人間性まで否定する権利があるのか。

そう思って會田を睨みつけていると、途端に翔が立ち上がった。

「私は『スガワラ王国』代表取締役社長の菅原翔です。年齢は二十七歳。出身は仙台市青葉区ですが、本籍は黒川郡大衡村です。出身高校は一応、川内高校です」

周囲の社長たちが皆、どよめいた。田舎には、出身高校で人間の価値を値踏みする奇妙な因習がある。県民同士が初めて会うと最初に「高校はどこ?」と聞いて、マウントを取り合う。県庁、市役所、電力会社など地元の大組織には高校の派閥があって、就活のエントリーシートにも「出身高高校を記入してください」という質問欄が、わざわざ独立して設けられている。そんな宮城県の高校でも、川内高校はヒエラルキーのトップに君臨する。県内トップの進学校で、偏差値は七十二。OBは各業界で活躍し、県知事、大学教授、国会議員、中央省庁の事務次官、大臣など国家の重要な役職を経験した者も大勢いる。社長たちがどよめくのも、無理はなかった。

「會田くんとは高校の同級生で、学校帰りによく一緒に広瀬通のラーメン二郎へ行きました。何かの縁だと思い、ここは一番先に自己紹介をさせていただきました。それでは、弊社のビジネスモデルを説明させていただきます。

私は、昭和に流行した『ミニ独立国』を現代に復活させようとし、四年前に会社を立ち上げました。ミニ独立国とは、地域の商工会議所や青年団、地方自治体などがパロディー化した独立国家を作り、その国家の運営を通して行う地域起こし運動です。この東北地方ですと、福島県二本松市・岳温泉の旅館協同組合が建国した『ニコニコ共和国』が有名ですね。ニコニコ共和国は独自の憲法、パスポート、標準時や通貨を設けていましたが、もちろん、パロディーの国家なので、国際機関に承認されていませんし、現実に日本国からの分離独立を主張していません。本当の意味での独立を宣言したら、井上ひさしの『吉里吉里人』や、西村寿行の『蒼茫の大地、滅ぶ』みたいに日本国政府と戦争をしなければなりませんからね。

最初のミニ独立国は一九七六年、大分県宇佐市で建国された『新邪馬台国』だと言われています。八一年に、先ほど触れました井上ひさしの『吉里吉里人』がヒット。東北の貧しい村が日本国からの独立を宣言するストーリーに影響され、日本各地でたくさんのミニ独立国が建国されました。八六年には東京都八王子市のミニ独立国『銀杏連邦』が主催となり、五十のミニ独立国が参加するオリンピックが開催。それぞれのミニ独立国同士での交流も盛んに行われました。ですが、九〇年代後半になると活動が沈静化。多くの国が自然消滅したり、日本国への「併合」を宣言したりして活動が停止。現在も活動している国はごく僅かです。

弊社では、ミニ独立国のアイデアを現代に復活するため、架空の国家・『スガワラ王国』を建国しました。国王は私。女王は副社長の高橋。「領土」は、あすと長町にある本社ビルです。SNSによる広告宣伝が功を奏し、いまでは東北・北海道・北陸・中部地方を中心に登録者数は約百万人。来年春から、本格的に首都圏への進出を計画しています」

翔は堂々と言い切った。短時間で資料を読み込んで発表するスキルは、いつも舌を巻く。

「菅原社長、ありがとうございます。実は、弟が中学で体育教師をしていて、スガワラ王国でスポーツ省大臣の肩書を買ったと自慢していました。菅原社長のビジネスは広く評価されているようですね。ですが、さきほど話された内容からすると、社長はミニ独立国を金儲けの手段として考えたってことですよね? 私もこの座談会前に社会学の論文を読んでミニ独立国について調べたのですが、ミニ独立国の特徴は五つあるそうです。具体的には、『地域らしさを示すものをシンボルとする』、『活動の目的が明確』、『地域住民を連帯している』、『即効性のある経済的効果を期待しない』、『中核メンバーが確立している』。あなたの会社は、即効性のある経済的効果を期待してミニ独立国を作ったんじゃないですか。それは、本来のミニ独立国ではないですよね? 社長は私の疑問について、どう思われます?」

會田が早口で質問した。あてつけにしかきこえない。金儲けとは、汚い言葉だ。腹が立つ。昔から會田はこうだった。どっかの権威が言った言葉をそっくりそのまま信じこみ、他人のすることにいちいち茶々を入れて、激怒させるタイプ。

翔を見ると、眉間にシワが寄っていた。無言で、會田を睨みつけている。テーブルの下に隠した拳が震えている。激しく懲らしめてやらないと。

「社長室の榎本です。金儲けって言い方は、はっきりいって失礼ですね。ビジネスですよ。あくまで我々は昭和のミニ独立国の単なるモノマネでなく、現代にふさわしいミニ独立国をつくろうとしているんです。株式会社は、慈善団体じゃありません。私達の商材を買ってくださるお客様のために、毎日生きるか死ぬかの戦いをしているんです。會田さん、我々の企業努力を『金儲け』って汚くて雑な言い方にまとめられると、大変困るんですがね」

「下品、ってなんですか。私はあなたたちのやり方が汚い金儲けと、本当のことを言ったまでで……」

會田は声を荒らげた。白い顔が真っ赤に染まる。翔が間髪入れずに口を挟んだ。

「社長の菅原です。私事で恐縮ですが、會田さん、高校の卒業式で『国立大に行けないのは人間じゃない』と私と榎本に向かって言ったこと、覚えていますか? 私立大へ行く、人間じゃない私どもと違って、會田さんは人間ですから、国立大へ行ってしっかり勉強をして、新聞社へ就職し、経済部で活躍されているのだと思います。もう少し、企業活動に物分りがいいと思っていましたが、あまり理解できていないようですね。とても、残念です」

會田は何も言わず、こちらを凝視した。全身が震えている。翔も顔を歪ませながら、席についた。それから、他の企業家が挨拶し座談会が始まったが、翔の言葉数は少なく、不機嫌そうな表情でメモを取ることにほとんどの時間を費やした。會田の司会は、終始ぎこちなかった。

 

白北新聞のビルから出て、五橋駅を通りすぎる。翔は会社に戻らず、そのまま家に帰ってリモートワークをしたいのだという。

荒町通との交差点まで行くと、翔は突然、指をまっすぐ彼方へ向かって差した。

「ほら、奏太。明日も天気が悪いぞ。テレビ塔が緑に光ってる」

指差す先へ目を向ける。広瀬川を挟んだ対岸、低く角張った大年寺山の山頂には、巨大なテレビ塔があり、たしかに緑色にライトアップされていた。テレビ塔の色は、明日の天気予報を表している。晴れならオレンジ、曇りなら白、雨か雪なら緑だ。

「うわ、クソかよ。このままずっと雪かよ。家に引きこもりてえよ」

「いいんじゃね? あと、どうせ家に、莉久がいるだろ? 三人でゲームして、セックスして、ブロンを飲んでキメる。それがいい」

翔はケラケラ笑うと、カバンから瓶を取り出した。小さい瓶に青いラベル。中身は純白の錠剤。ブロン錠だ。薬局に売っているせき止め薬だが、一気に数十錠、胃袋へ流し込めば、高揚感と多幸感が全身を駆け巡る。早い話、麻薬みたいにキマる。昔は三人でマリファナやMDMAをヤッていたけど、値段が高いし、持っているだけで逮捕される。いろいろ面倒臭い。気持ちよくなれるなら、市販のクスリのほうがいい。欲しいときに薬局へ行けば必ず棚にあるし、ただの市販薬だからどれだけ飲んでも捕まらない。

「おっしゃ、そうするか。夜通し、飲みまくろうぜ」

翔は周囲を見渡した。雪の中、歩いている人は誰もいない。瓶を開けると口をつけた。そして、中身を一気に口へ流し込んだ。ブロン錠を飲む翔の大きく丸い瞳は、虚無のように黒くて澄みきっていた。口の脇から、錠剤が数粒こぼれ落ちる。雪の上に錠剤が散らばる。純白の錠剤は、雪よりも白かった。

少しすると翔はキマッてきたらしく、足取りがふらついている。翔を肩で抱いて、滑らないように慎重に歩く。路地を歩き、行きつけのインドカレー屋を通り過ぎると土樋の静かな住宅街に入る。東北学院大学図書館脇の細い坂を下ると、十二階建てのマンションが立っている。ここに俺の家がある。今は翔と莉久と一緒に暮らす。家族はいない。両親は死んだ。

八〇二号室のカギを開けて入ると、予想通り、リビングには莉久がいた。

莉久はソファーに寝そべりながら、シーシャを吸っている。鼻と口から大量の煙をだらしなく吐き出している。ソファーの下には、ブロン錠の空き瓶が十個程度転がっていた。

莉久が、ゆっくり顔を向けてきた。透き通った目、ぷっくりとした涙袋、若干エラの張った頬、真っ白な肌。儚くて、蠱惑的。ちょっと乱暴に扱ったら壊れてしまいそうだ。

莉久は口から塊上の白煙を吐き出すと、いきなり文句を言ってきた。

「奏太、翔、ブロンがもうないんだけど。早く持ってきてよ」

莉久はブロン錠の瓶を見せつけてきた。中身はほとんど残っていない。

「なんだよ。労ってやろうと思ったのに。てめえはブロンより、俺の舌でも口にツッコんでおけよ」

翔はソファーへ歩み寄り、莉久の手から瓶をひったくって取り上げると、中身をすべて口へ放り込んだ。

「あ、なにすんの! わたしのなのに!」

莉久が騒ぐ。翔は莉久に覆いかぶさって、ねちっこくキスをした。

唇を離すと、翔は嘲るように笑った。

「『女王』は国王の夜の相手もお仕事だろ?」

莉久は株式会社・スガワラ王国の副社長であり、女王の肩書を持つ。肩書の女王は莉久しか使用できない。翔が持つ国王と同じ、非売品だ。

歯がゆい。翔は、何もかも欲しがって平然と奪う。莉久も、もともと俺の彼女だった。ここから歩いて三十分、川内高校の狭くて汚い文芸部室でダベっていた頃から、あいつは傲慢なヤツだった。一緒にゲームして、ゴミみたいな下手な小説を書いて、お茶を飲んで、ポテチを食べて……。いつの間にか、莉久を奪いやがった。

「おい、なんだ、その間抜けな顔は。文化庁長官?」

翔が振り向いて呼びかけてきた。俺の身分は所詮、四万円で買った文化庁長官。

これ以上、見たくない。キッチンへ行く。引き出しを開けると、ブロン錠がある。翔と莉久にバレないよう、瓶を開けて一気に飲んだ。ふわふわする。幸せ。高ぶって、体が浮くようだ。どこまでも、どこまでも遠くへ飛んでいけそう。

 

目が覚める。気分がどんよりと沈む。背中がびっしょりと濡れている。汗をかいたようだ。ブロンを飲んだ後はいつもこうなる。起き上がろうと身体を起こすと、あちこちが痛い。キッチンの床にそのまま寝ていたようだった。痛みが走る腰をかばい、ゆっくり歩いてリビングへ行く。

翔はヘッドセットをつけて、パソコンへ向かって喋っていた。画面を覗く。オンライン会議をしているようだった。東海地方での売上が落ち込んでいて、翔は経理部長の阿部へ原因を分析するよう指示を飛ばしていた。その横で莉久は、その横でブルーのロングウイッグを丁寧にブラシで梳かしていた。ウィッグスタンドの脇に、ボロボロの文庫本が転がっている。

「莉久、それってなんの本?」

「ん? 太宰の『惜別』。久しぶりに小説を読んでるの。仙台が舞台なんだよ?」

「へー、そうなんだ。そういや、お前、昔から太宰が好きだったよなあ。文芸部にいたときもずっと読んでいた気がする」

「……よく覚えてたじゃん。見直した。なんか、嬉しい」

莉久の声が、妙に弾んで聞こえた。

すると突然、翔がヘッドセットを外しながら会話に割り込んできた。

「お前、太宰なんて読むのかよ。バカじゃねえの」

翔はベルトを外して、莉久を押し倒しながら言った。

「え、やだ、やめて。明日から会津で撮影があるんだけど。忙しいの」

莉久は本気で嫌がっていた。莉久は東北大学理学部を中退後、コスプレイヤーとして活動して人気を得ていて、Twitterのアカウント「RIKU」のフォロワー数は優に十万を超えている。だが、翔は莉久がコスプレイヤーとして活動するのが気に食わないらしく、株式会社『スガワラ王国』として黙認。莉久も、「RIKU」名義で活動するときはスガワラ王国について一言も触れない。

「嫌ならキャンセルすれば? 撮影前にメンヘラを起こして、いっつもドタキャンするくせに、なにいまさら真面目ぶってるの?」

翔が嫌味ったらしく言った。

「あんた、うるさい。わたしの邪魔をしないで」

莉久ははっきり言ったが、いつの間にか上半身を裸にした翔は無視して、長くて骨太な指を莉久の小さな口へ突っ込んだ。

翔がこちらをじっと見る。その瞳はどす黒く、底が見えない。ふと、鳥肌が立った。

翔が指をねじこみながら、莉久へ笑いかける。莉久を嘲笑っているようだが、ろれつが回っていない。目が異様にギラギラと輝いていた。

翔が妬ましい。地元から一歩も出ないくせに、人生がうまくいっている。許せない。

心の中で翔を侮蔑し、リビングを出て、寝室へ入る。デスク脇の壁に、貼り付けた大学の学位記。本棚の隅には卒業論文と、学術誌へ投稿するはずだった書きかけの論文。みんな、過去の栄光。

本当は、古典文学の研究者になりたかった。高校卒業後に上京して、古典文学の研究で有名な國學院大學に入り、必死に努力した。ゼミの指導教官に認められ、「教授になって跡を継いでくれ」と言われたときは本当に嬉しかった。なのに、大学院へ進学した途端、両親が突然、交通事故で死んで、精神的におかしくなった。あの頃は、ほとんど記憶がない。薬に手を出したのもその頃だった。研究がまともにできなくなり、休学してそのまま退学。地元に帰って、学校の非常勤講師や家庭教師をして食いつないでいたが、給料が低い。翔に誘われ、社長室の仕事をかけもちでやっているが、実態は翔のかばん持ち。

こんなはずじゃなかった。悔しい。

家庭教師は不安定だ。明日の収入も雇用も約束されない。到底食べていけない。翔の会社の給料に頼らないと、まともに生活できない。自分が翔へ経済的に依存しいることぐらい、わかっている。

「おい、奏太。どうした」

翔が呼びかけてきた。そのまま、寝室へ入ってきやがった。

「うるせえ。黙れ」

強がって返事した。翔の顔は少し驚いているようだった。

 

朝日が光り輝く。眩しくて、目がえぐられるようだ。

地下鉄・長町駅を出て、東北本線のねずみ色でダサく高架を東へくぐり抜けると、新しい街、『あすと長町』に入る。ここにスガワラ王国のオフィスがある。どこまでもまっすぐ伸びる大通り。スタイリッシュな高層マンション、オフィスビル、ローカルテレビ局、東北唯一のイケア、ゼビオスポーツ、レクサス、フォルクスワーゲン。上流階級のための街なのに、味気がない。文化がない。殺風景。シムシティで初心者が作れそうな。単純な街並み。

「俺には土樋がちょうどいい。ここに住んだら、いろいろ忘れるから。それと、おいしいカレーが食べられなくなる」。

マクドナルドでコーヒーを買いながら翔が言う。店を出るとすぐ隣、ドラッグストアの真新しい居抜き物件がスガワラ王国の本社ビルだ。一階には公式グッズの販売ブースがあり、二階は社長室、管理部門、企画部門、会議スペースがある。技術部門は存在しない。すべて外注しているからだ。

二階へ上がる。壁には金色の額縁が飾られ、スガワラ王国の憲法が収められていた。

 

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スガワラ王国憲法

前文

スガワラ王国臣民は、自由意志に基づく契約のもと、愛すべき国王陛下がソファーで寝っ転がりながら思いつきで作った国家・スガワラ王国の一員となり、自由と平等に満ちたスガワラ王国を、全力を挙げて守ることを決意し、この憲法を確定する。

 

第一章 国王

第一条 スガワラ王国は、日本国の株式会社『スガワラ王国』が指導・監督をして運営する。また、同社の代表取締役社長である菅原翔を国王とする。

第二条 スガワラ王国は、国王を元首とする。みんな大好き、国王陛下。

第三条 臣民は、申請をすれば愛すべき国王陛下から地位を賜ることができる。なお、その際の手続きは株式会社『スガワラ王国』公式ウェブサイトを通じて行うものとし、手続きに関わる費用は日本円にて支払うものとする。

 

第二章 臣民

第四条 臣民は国王陛下の言葉を聞いて行動してもよいし、しなくてもよい。

第五条 ……

 

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ユーモアを中途半端に混ぜようとしていて、逆にスベっている。憲法といっても、何の法的効力もない。こんな憲法、紙クズだ。続きを読もうとしたが、翔が壁の反対側、総務部の方向へ進んでいったので、急いでついていった。

「今日の予定は?」

翔が総務部長の鈴木へ聞く。アフロヘアーの鈴木は、その髪を指でもじゃもじゃといじっていた。

「十一時から定例の企画会議、十六時から白北新聞の記者が来社されるようです。『街のイノベーター』の企画で、個別にインタビューしたいのだそうです」

「了解。今日はそこまで予定はないね。そういえば、昨日の経営会議の続きを八時半からしたいって言ったはずだけど、部長たちってもう集まってる?」

「経理部長の阿部以外、全員着ています。阿部は体調不良で休みを取りました」

「あいつ、いつも肝心なときに休むんだよな。阿部を抜いてやろう。頼りにならない。あ、今日も副社長は休みだから。よろしく」

翔は落ち着いた様子で答えて、コーヒーを飲み始めた。社長としての風格がある。

だが、鈴木は、やや青ざめながら言葉を続けた。

「それと、例の大塚さんが今すぐ会いたがっています……」

心臓が止まりそうになった。大塚は技術部門の外注先『オオツカ・ミライ』の社長だ。外注先といっても、主従関係はオオツカ・ミライのほうが上。スガワラ王国の大株主だ。公式ウェブサイト、辞令など公式グッズの流通網の管理を一手に管理する大塚がいないと、翔の会社はたちまち崩壊する。そして、翔と俺は、大塚に重大な弱みを握られているのだ。

「鈴木、会議をキャンセルしろ。奏太、いますぐ、会社中をひっかきまわして、ありったけの資料をもってこい。こういうのはお前しかできない仕事だ」

翔がコーヒーを持つ手は、小刻みに揺れていた。

 

数分後、窓越しに駐車場を見ていると、一台の車が入ってきた。真っ白くて豪華なベンツのSクラス。大塚の車だ。

急いで駐車場へ出る。翔も一緒に走る。車が停まり、運転席のドアが開いて、大塚が出てきた。ライトブラウンのスーツに身を固めた大塚は、オールバックの髪を労るように撫でながら挨拶をしてきた。

「おはようございます。突然すいませんね、菅原社長。最近どうです?」

腕にはオーデマ・ピゲの腕時計が輝いている。五百万円もするらしい。

「あまり儲かってないですね」

「本当ですか? 私だってお人好しじゃないですよ。エビデンスがほしいですね。見せてくれます?」

大塚は嫌らしく笑った。翔がこちらをちらりと見て、脇腹を小突いてきた。急いで手元の決算書を大塚へ差し出す。大塚はひったくるように受け取り、資料を舐めるように眺めた。

「あー、これは儲かってないですね。東海地方の売上が下がってますね。嘘をつかれなくて、安心しました。開発費の見積もり金額を下げていいかなって思います。あ、そうそう最近、お二人からマリファナの注文をいただけなくて、困ってるんですわ。あと、MDMAもそろそろ買ってくれないと。在庫が余ってしょうがない」

大塚はにっこり笑った。

「さあ、お寒いでしょうし、中へどうぞ」

呼びかける翔の声は震えていた。

 

社長室のドアを開けるやいなや、大塚はなんのためらいもなく上座の応接ソファーに腰を落とした。翔と俺は、頭を下げながら下座へ座った。

「菅原さん、榎本さん、いつもの仕事、お頼みしますよ。報酬は現金前払いで。こういう汚れた仕事は、現金で決済するのが一番ですからねえ」

大塚は持ってきたカバンを開け、半透明のクリアファイルと札束を取り出すと、机の上へ投げ捨てるように置いた。翔はクリアファイルを手に取り、中身を引き抜いた。

男と女がベッドで寝ている写真だ。男は狼系のイケメン。痩せていて、肌が青白い。髪はグレーのウルフカット、トップスは黒く、ぴっちりとしたスキニーパンツを履いていて、ラウンド型の縁メガネが輝いていた。

女は絵に書いたような地雷系。男よりさらに痩せていた。黒の十字架があしらわれた刺繍襟のブラウスを羽織り、下半身はガーターベルトに網タイツ。靴はピンク色で厚底のリボンパンプス。二人とも、むき出しにされた腕に、注射痕があった。火傷のあとのように、赤くて醜い。

「この二人は東北大学文学部の学生。エリート様なのに、メンヘラ。どうしようもないバカ。今朝、立町のラブホで死んでいたのを清掃員が見つけました。死因はオーバードーズによる心不全。近くに注射器がゴロゴロ転がっていました。おそらく、覚せい剤を打ってキメセクしたんでしょう。ホテルのオーナーとして、死体を隠していただくようお願いしに来ました。菅原さん、榎本さん。二人の遺体、今日中に隠せます?」

「今日中ですか。突然ですね。本音を言うと、明日の明け方まで待ってほしいです。なんで、そんなに急ぐのですか?」

「女の両親が捜索願を出しています。父親が、よりによって県警の幹部らしく、警察が全力で捜査しているそうです。見つかるのも時間の問題です。ホテルとしては、遺体が見つかると悪評が立って、売上が落ちる可能性が大きいので……」

大塚は発言だけは丁寧で、眼光は鋭く、言い終えると椅子へふんぞり返って座り、足を組んだ。

「わかりました。ただ、突発の業務のため、料金は割増でいただきたいのですが」

「嫌ですね。いつもどおり、一人あたり五十万円、計百万円で手を打っていただきたいですね。おまけとして、余っているMDMAを無料であげますよ。それでどうでしょう。おっと、あなたたちが薬をヤッてるってこと、警察に言ってもいいんですからね」

大塚は口角を歪めて笑うと、胸ポケットからマルボロを取り出して吸い始めた。

 

 

 

 

世の中には、公に出ることのない死がある。名家での家庭内殺人。ラブホテルの変死体。会社員が社屋で自殺。工場でのうしろめたい死亡災害。スガワラ王国では、秘密裏にそのような死体を隠す仕事もしている。翔が大塚から仕事を受託し、俺と莉久との三人で隠す。

翔に誘われてこの仕事を始めたのは三年前、家庭教師でなんとか食いつないでいた頃だった。会社を作ったばかりの翔から「会社を立ち上げたばかりで家賃を払えない。うちの会社で仕事をあげるから、土樋のマンションに莉久と居候させてほしい」と頼まれたのだ。もちろん、死体を捨てることが犯罪だとわかっていた。だが、とにかく金が欲しかった。それと、翔と一緒にやってきた莉久と、一緒にいられる。まだ、莉久に未練があるのだ。いつか、翔から奪い返したい。そういう不純な動機で、死体隠しをしている。

 

深夜三時。土樋のマンションから広瀬川を挟んだ対岸、愛宕山の崖の下に、莉久と二人で立っていた。天気予報は外れ、夜空には雲ひとつもない。西の空の満月は、ほのかに黄色みがかった光を放ち、夜空をくまなく照らしていた。

漁業用のだぶついたマリンスーツを着ながら、翔が来るのを待つ。すぐ背後には、愛宕山のゴツゴツとした崖が迫っている。崖には大きな穴が空いていた。脇に立つ看板は月の光に照らされ、「元 仙台愛宕下水力発電所 導水トンネル」の文字がはっきりと見える。大正時代の水力発電所の跡だ。広瀬川の上流から山の地下へトンネルと通し、川の水を流して発電していたらしい。その水路の奥に、死体を捨てる。マリンスーツがないと、まともに入れない。

山の端、国道二八六号線をプロボックスが疾走し、愛宕大橋を猛スピードで渡ってきた。翔が「仕事」に使う車だ。

車は国道から逸れて、愛宕山の麓、越路の住宅街を乱暴に走り、俺たちの隣、オンボロの公務員宿舎の駐車場へ堂々と停まった。運転席のドアが勢いよく開く。翔がやや疲れを見せた顔をして出てきて、無言で車両の後ろ側を指さした。急いでバックドアを開ける。そこには、ブルーシートで覆われたなにかがあった。

おそるおそる、開ける。裸にされた男女二体の遺体があった。実物は写真で見るより、美しい。二体とも、瞼と口をぽっかりと開けている。

「遺品は俺の方ですべて回収した。ほら、行くぞ」

三人で遺体を抱える。遺体からは何の温かみも感じない。崖の穴へ入り込んで、頭上のヘッドライトの照明を頼りに、どんどん奥へ進む。

水路は昭和初期に発電所が操業を停止したあと廃墟となり、平成になる寸前になるまで数多の業者がビジネスに使おうと勝手に掘り進めた。その結果、おそろしく複雑に入り組んだ構造をしている。翔はその構造を知っているが、俺と莉久はいまだに理解していない。

水路までやってきた。水へ足をつっこむ。水の冷たさが、マリンスーツ越しに、刺すように襲ってくる。凍える。震える。こんなこと、本当はやりたくない。だが、金のためだ。そして、この仕事をやっている限り、莉久とずっと一緒にいられる。

莉久は黙って震えている。翔は大声で愚痴を言い始めた。

「冷てえ! こりゃ、奥まで行けねえ。そしたら、この近くの『キノコ部屋』に捨てて、さっさと引き上げるぞ!」

翔が怒鳴りつけ、急に左へ旋回して進み始めた。少し歩いて分岐を左に曲がると、広い通路が見えた。水路からあがって、その通路へ行く。通路には道を塞ぐように、ブロック塀が立っていた。少し進む。同じようなブロック塀が、奥に向かって等間隔に並んでいた。戦後すぐ、ある業者がキノコで一儲けしようと栽培用の部屋をつくったのだ。塀が仕切り板になり、コの字状の小さい空間が何個できていた。その一つに、ホームレスが住んでいた跡があった。

「ここに捨てるぞ。どうせ冬になれば、こんな廃墟なんて誰も入ってこない。春になったら勝手に腐って骨になる。それでいい」

翔がブツブツと言いながら、遺体にホームレスの服を着せていた。

「ったく、マジで自己責任だよ。シャブやりすぎて死ぬなんて、クズだ。こんな奴ら、最初から生きる価値、ないだろ。よし、これで心中したカップルみたいに見えるかな?」

翔は遺体同士を抱き合わせた。二体の遺体の唇が重なる。すると、翔が突然叫んだ。

「てめえらみたいなバカ、とっとと死ねばよかったんだ! 東北大学を出ても、バカはバカ! 俺なんて、Fラン大学を出ても、社長! お前らより価値がある!」

叫び声は、水路に虚しく響いた。

仕事は終わった。あとは帰るだけ。すぐ水路から出て、三人でプロボックスに乗り込む。後部座席に座る。莉久は助手席。プロボックスは愛宕大橋を渡って、信号を待っている。莉久と、運転席の翔とが、温め合うように抱き合った。腹立たしい。舌打ちをして、翔のシートを足で軽く蹴った。

 

仕事帰り、五橋のカレー屋『キッチンON』へ行くと、テーブル席に磯社長が座っていた。磯社長からカレーを食べようと誘われていたのだ。

「高級なフレンチよりも、学生時代に食べなれたメシのほうが好きだな。たまには、フォーラス地下の南京餃子を貸し切って、名物の一キロつけめんを食べ散らかしたい」

磯社長は、カレーに浸したナンを食べた。ここからすぐ近く、東北大学工学部で学生生活を過ごした磯社長は卒業後、気に入った仙台の街でメーカーを立ち上げた。本社は五橋駅のすぐ隣。工場すらも、仙台市の東、仙台湾の工業地帯に建てた。

「いいじゃないですか。それで、今日は何の用です?」

「話があるんだが」

「それは会社のことですか? それならお答えできません。社長へ直接聞くか、総務部の広報担当へかけあってください」

「違う、違う。君に用があるんだ。うちの会社で、君のことを、引き抜きたいんだ」

磯社長は真剣な眼差しで言った後、チャイをすすった。

「それはだめですよ」

「なんでだ? 奏太くん、聞いたよ。まだ、契約社員なんだってね。そろそろ、正社員になってもいいのにって、思ったことないかい? この前座談会で菅原社長をフォローする君、カッコよかったよ。社長は、それでも君を正社員にしないんだってね? ひどい人だ」

だめだ。やめたくない。まだ、莉久と一緒にいたい。だけど、言えない。磯社長のことだ。すぐ翔に言ってしまうだろう。別の理由を言わないといけない。

「……本気で目指したいことがあるんです。古典文学の研究者になりたい。研究を続けるには、契約社員のままがいいんです」

半分でまかせで言った。磯社長は不敵に笑った。

「へえ、それはおもしろい。けど、学者の道って厳しいよ。私も、大学院で理系の研究者を目指していたから、よくわかる。博士になっても、ほんの一握りの人間しか大学に残れず、他は全部ポイ捨て。食い詰めて、失踪や自殺が関の山。文系なんてもっとひどいんじゃない? それでもなりたい?」

「なりたいです」

「それじゃあ、いますぐうちに来てよ。君って、社長室でよくわかんない仕事をしているんじゃない? うちのところ、社長室はやりがいもあるし、給料も高くできるよ。うちの会社でやりたいことを見つければ、学者になりたいなんて血迷いごと、忘れちゃうんじゃない?」

「すみませんが、この話は見送らせていただきます」

そういった瞬間、磯社長の顔が歪んだ。顔が赤くなる。

「……チャンスを握らせているのに、おじけづく人間って、はっきりいって、クズだよ」

磯社長は財布から一万円札を抜くとテーブルに叩きつけて、店を出ていった。しばらく呆然とした。

「俺は、クズか……」

磯社長の言葉がやたら耳に残って、痛い。

 

 

 

 

次の朝、リクルートスーツを着て、鏡を見ながらひげを剃るが、なかなか剃れない。ひげ剃り器の刃を見ると、ところどころ欠けていた。刃を買い換えようかなと思ったその瞬間、玄関から、ドアが勢いよく開く音がした。

「ただいま。撮影会、マジでよかった!」

莉久が甲高い声を出しながら、洗面台にやってきた。撮影会を終えて、会津から帰って来たのだ。莉久は満面の笑みでスマホの画面を見せつけてきた。人気アニメキャラのコスプレをした莉久は、会津・磐梯高原の真っ白な雪原で、全身を赤くぴったりした服を着ながら、長さ二メートル弱の赤い二又の槍を天に突き出していた。

「どう、私、いいでしょ?」

莉久が聞いてきた。手元の袋は、異様に長い袋。おそらく、槍が入っているのだろう。

「うん、いいね。カッコいいし、しかもとっても可愛いよ」

ふと、言葉が出てしまった。恥ずかしくなる。莉久の顔が、一気に赤く染まった。言い終わった瞬間、心の底から悶えた。

「い、いや。違うんだよ。莉久のコスプレが可愛いってことで、別に変な意味じゃないよ?」

莉久は、じっと俺を見ていた。目が潤んでいる。莉久が不意に体を寄せてきた。

そのとき、翔が大声を出しながらやってきた。

「おい、バカども! この前の仕事、給料をやるぞ。一人、二〇万円だ。ほら、さっさと受け取れ!」

翔は、持っている二つの汚い茶封筒で莉久と俺の頭を叩いた。ふざけるんじゃねえ。悔しい。だが、このお金がないと生きていけないのだ。莉久は、じっと翔を睨みつけていた。

翔は封筒を床に叩き捨てた。封筒を拾い上げ、中を見る。札束だ。数えると、確かに二〇万円が入っていた。

翔を見上げる。ブライトネイビーのスーツから自信が漂う。

「お、そういえば、約束通り、大塚さんからMDMAをもらったぞ。夜、一緒にヤるか」

翔は無邪気に笑った。

結局、翔は心が壊れているのだ。翔だけじゃない。ここにいる三人、全員が壊れている。俺は両親の事故死で壊れて院を中退、莉久は父の病死で壊れて東北大学を中退。翔は新卒で入社したネット回線の訪問販売会社で、上司に殴る蹴るパワハラを受けて壊れて退職。そして、世の中には、壊れた人間が勝手に集まって、傷を舐め合う場所がある。この土樋のマンションがまさにそれだった。

 

地下鉄に乗りながら、惰性でYouTubeを見る。ふざけた動画をずっと見ていると、将来の不安を考えなくて済むのだ。

会社と逆方向に向かっている。家庭教師の派遣会社から紹介をされて、週二日で私立大学の非常勤講師をしているのだ。話を受けたとき、学士しか持っていない俺が大学生を教えていいのかと最初はとまどったが、実際に教え始めて理解した。授業内容が、中学校に毛が生えたレベルなのだ。予備校の講師のほうがよっぽど高度なことを教えている。

ビジネスバッグの中には講義に使う中学生向けの漢字ドリルが入っている。ここの学生の学力はひどく、自分の名前すら漢字で書けない学生も多い。はっきり言って、底辺だ。『源氏物語』や『伊勢物語』を教えるより、漢字を教える方が先だし、役に立つ。学生からも、「先生のおかげできちんと名前が漢字で書けるようになった!」と感謝されたこともある。

たまに真面目な学生もいる。劣悪な環境に生まれ育ち、力が発揮できないだけだ。とにかく、教育に対する親の理解が圧倒的に足りていない。ひどい学生の場合だと、親が「子どもを大学に出したら奨学金を借りられる」と考え、子どもに数百万円の奨学金を借りさせ、その奨学金のほとんどを親が巻き上げてパチンコや風俗に費やした例もある。その学生は、すぐ退学し、いまでは行方がわからない。

だが、もしその学生が社会へ復帰できたとしても、はたしていい人生を送れるのだろうかと心配になる。思春期の終わりに大切な人生を深く傷つけられた人間は、社会的に復帰したり成功して評価されたりするだけでは、到底癒やされない。俺達は仲間同士で傷を舐め合って、ごまかそうとしている。だが、そんな仲間もいない人間は、救われるために何かを追い求めたあげく、他人を傷つける。大塚がまさにそのタイプだった。実家の書店がネット通販サイトにおされて倒産し、両親と弟が無理心中。残された大塚は必死に、金、暴力、快楽を必死に求めている。そして、邪魔をする人間は容赦なく潰す。おそらく末路は、孤独、破滅、悲劇。哀れだ。

 

黒松駅で降りて、住宅街を少し歩くと、オレンジ色の建物がいくつも見えてきた。仙台文芸大学のキャンパスだ。職場は、その地域環境学部だ。

キャンパスは細い道路を挟んで、東西に分かれている。東キャンパスはリハビリテーション学部があり、西キャンパスは、経済学部、地域環境学部、付属高校が建つ。学生は、希望も目標もなく、ただ人生を生きているようなタイプが多い。

西キャンパスのメイン通りを歩く。経済学部の建物が目に入る。翔はここの経済学部を出ている。母校の高校からこの大学に進学する人間は、十年に一度のひどい落ちこぼれだ。しかも、翔は推薦入学すらできなかったから、この大学に裏口入学した。翔の父が東北大学医学部の教授で、リハビリテーション学部に人脈があったから、温情で入れてもらったのだ。

地域環境学部の校舎に着く。狭くて小さい職員通用口から入ってしばらく進むと、小さなドアがある。黄色でところどころ欠けたテプラで「非常勤講師室」と貼ってある。ここが、居室だ。

ドアを開ける。暗い部屋がいくつものパーテーションに仕切られていて、講師たちの机が置かれていた。ふと、愛宕山のキノコ部屋に似ていると思った。

机には、小学生、中学生、高校生向けの教材が山のように積んである。

脇にある小さな給湯室の洗い場で手を洗った後、部屋の奥へ進みながら、講師たちを横目で見る。みな、うつむきながら、神経質そうに黙々とノートに書きこんでいたり、教科書へ付箋を貼りつけたりしていた。

奥の席について、荷物を下ろす。ここが、自分の席だ。ここで働いて二年半、一番の古参。コミュニケーション学科の運営にも参加し、学生の就活指導の補助もしている。

手前の空席は、もともと佐藤という四十代の英語講師がいた。二番目に古参だったが、先週クビになった。教え方がうまく、学生に人気だったが「学校の経営戦略の都合」という曖昧な理由で解雇された。本当の理由は、まったく知らされていない。クビにする理由は、必ずごまかされる。自分も、いつクビになるか、わからない。この非常勤講師室は、不安が常に充ちている。

空席の椅子の下に、名刺が一枚落ちていた。拾い上げると、佐藤の名前の上に、「スガワラ王国 王立大学 文学部教授」と書かれていた。王立大学の教授の肩書を買った人だけが買える名刺。一〇〇枚で五〇〇〇円だ。スガワラ王国のなかだけでも、学者になりたかったのかもしれない。そっと椅子の下に名刺を戻した。

 

一限目の講義が始まる。建物の一階、小教室へいくと、コミュニケーション学科の一年生がそろっていた。欠席が多いと単位をもらえないので、みな、真面目に出席をしていた。大半は寝ていた。寝ている学生は起こさないことにしているし、成績も甘くつけている。生活費を稼ぐため、毎日夜遅くまでバイト漬けなのだ。問題は、起きている方の学生だ。堂々とスマホをいじっている。こういうヤツに限って、実家が金持ちで、バイトをしていないし、遊んでばっかりなのだ。同情する余地がない。

今日は学校の要望で、現代社会を教えることになっている。

「そしたら、今日はアメリカの政治の仕組みをやるぞ。プリントを配るから、後ろに回せー。それと、なんか質問あるかー?」

「ねえ、榎本。今度、アメリカに行くんだけど、アリアナ・グランデってホワイトハウスに住んでいるの?」

教卓の目の前の席から、結亜が話しかけてきた。これぐらいの勘違いは日常茶飯事だから気にしないし、呼び捨てされるのにも慣れているから、叱らない。

「ホワイトハウスにはな、大統領が住んでいる。アメリカで一番偉い人だぞ」

「それなら、アリアナ・グランデじゃん。一番偉いんじゃないの?」

「おいおい、どうしてそう思うんだ?」

「え、だって、私がそう思うからそうじゃないの?」

結亜は真剣に言い放った。さすがに頭を抱えそうになった。結亜は、自分の興味のあることしか学習しようとしない。非論理的で、主観だけで生きている。

だが、俺は結亜のことを、一番気に入っている。講義に最前列で参加しようとする姿勢があるだけ、この学科で一番の優等生だからだ。

結亜の後ろの席で、男子学生の半田と奈良坂が、喧嘩をし始めた。

「ハルトの髪の毛、キモい色してんな」

「バカ、うるせえ。つーかお前、早く金を返せよ」

「はあ? キモい奴に何言われても平気だし。バカ、死ね」

二人はお互いに小突きあっていた。二匹の犬がじゃれあっているようだった。失望はしていない。そもそも、こんな学生たちに最初から望みなんて持てない。無意味だ。なんのために、教えなければならないんだろう。やるせなさに、腸が煮えくり返りそうになる。

それでも、金を稼ぐためだ。耐えなければ。

「それじゃあ、プリントの説明をするぞ。まず、アメリカって国がどうやってできたかだな……」

そう言った瞬間、何かが頭に当たった。振り返ると、紙飛行機が落ちていた。拾い上げる。ついさっき配ったばかりの、プリントで作られていた。

心の中で、何か糸のようなものが切れた。限界だった。今まで溜めていた我慢を縛り付けていた、その糸が切れたのかもしれない。この紙飛行機で、これまでの自分の苦労が全部無駄にされた気がした。腹が立つ。きちんと、学生たちを叱らなければならない。そう、心の底から感じた。

顔を上げて、学生たちをじっと見渡す。学生たちが、一気に黙り込む。

ゆっくり、丁寧に、話しかける。

「……てめえら、紙飛行機を作って遊ぶ暇があったら、もう少し、将来を真剣に考えろよ。もう大学生だろ? 周り、見てみろよ。寝ている奴らはさ、何百万って奨学金を抱えて、この学校へ来ているんだぞ。ずっとバイト漬けで疲れている。俺が寝ているヤツらを見逃しているの、そういう理由なんだからな? 起きているヤツらのなかに、金借りてここに来ているヤツ、いねえよな? なあら、本気で何をやりたいか、てめえらの頭で考えて、行動しろよ」

学生たちの顔面が、一気に青くなる。

「……まあ、先生も、他人に言えた身分じゃないけどさ。でも、その歳でやりたいことすらないヤツって、正直言うと、救いようのないクズだよ」

黒板の方を向き、チョークで丁寧に文字を書く。自分で言った言葉が、そのまま跳ね返る。俺も、救いようのないクズだ。やりたいことがなく、腐って生きていて、翔に依存しないと生きていけない。クソ!

講義が終わるまで、教室はずっと静まり返っていた。

 

非常勤講師室に戻る。その後は、席に戻り、講義用のプリントや、就活指導用の資料を作ったり、他の学科で講義したりして、一日が終わった。

夕方、家に帰るため、講師室から出る。廊下は、暗く赤い夕陽に照らされているせいで、ひどく不気味だった。通用口へ向かう、足取りが重くなる。週二日、フルタイムで働いて給料は六万円強。翔の会社は固定給で手取り八万円。家賃を払って光熱費と食費を払えば、残りは微々たる金額。どちらかの仕事がなくなれば、途端に生活が成り立たなくなる。

大学での意味のない仕事。結果を出せても、都合が悪ければ、クビ。金の奴隷になりさがっている。学校と、翔に、金のため、こきつかわれている。

辛い。だが、ブロン錠をキメれば、忘れられる。早く飲みたい。バッグの中からブロン錠の瓶を取り出して開けようとすると、結亜の声が聞こえてきた。

「あ、榎本! ちょっと手伝って!」

慌てて瓶をしまい、声のした方に顔を向けると、結亜は大きな寸胴鍋を持って歩いていた。

「結亜、なにやってるんだ?」

驚きすぎて、間の抜けた声で話しかけてしまった。

「わたし、料理サークルに入ってるじゃん? で、『みんなでラーメンを作りたい』って話になったから、買ってきたんだよ」

鍋を持つ結亜の手が、ぷるぷると震える。結亜に近づいて、鍋を持つ。ずしり、と重さが伝わった。

「うわ、お前、これ何キロあるんだよ」

「十二キロって言ってたかなあ」

結亜が買ってきたのに、まるで他人事のように言い放った。

「なんで他人事のように言うんだよ。ほら、手伝うから、どこまで行けばいいんだ?」

「サークル棟までもっていって。榎本、ありがと」

生意気な結亜が珍しく感謝の言葉を放つ。なぜだか嬉しくなる。そのまま、二人で寸胴鍋を運んでいった。

「なあ、結亜。今度、ラーメン食べさせてよ」

「うん、いいよ。榎本っ」

榎本は何の屈託もなく笑った。夕陽が沈みかけ、空はだんだんと、深い青に染まる。

 

土樋のマンションに帰る。リビングには莉久だけがいた。ソファーに座って、シーシャを虚ろな目をしながら吸っている。

「ただいま。今日はもう終わり?」

「おかえり。そう、もう、終わったの」

莉久の側へ行く。莉久の目の焦点があっていない。

「どうしたの……?」

「私の報酬、少なくて、本当に嫌になる。スガワラ王国はまだまだ中小零細。儲けは大塚が奪っていく。報酬二〇〇万円。どうやって生きていけばいいの」

莉久の口から煙が立ちのぼる。莉久は震える声で言葉を続けた。

「わたし、本当はやりたいことがあるの。プロのコスプレイヤーになりたくて、いろんなコンテストに応募しているけど、どこも声をかけてくれない。この前の会津で撮った写真、コンテストにさっき送った。けど、返事、来ないんだろうな」

胴体にもたれかかった。莉久の涙がこぼれおちる。

突然、熱した油のような、熱く、危険な感情が沸きだした。驚く。その感情は、冷え切った心を、ぐるぐると執拗にかき乱しながら、加熱していった。

莉久を俺のものにしたい。

目の前に、錠剤がある。オレンジ、紫、青、緑。MDMAだ。

気が狂いそうだ。莉久の腰に手を回して、抱きしめるべき人間は、翔ではない。俺だ。

錠剤を手にとって、口へ頬張る。

「莉久、飲む?」

莉久へ錠剤を差し出す。

「飲むよ。飲まなきゃ、やっていけない」

莉久は目を伏して、かじるように錠剤を口へ入れた。

今だ、と思った。俺は莉久の身体を抱きしめて、唇を重ねた。莉久は動かなかったが、しばらくして、小さな腕を腰へ回し、抱き返した。ずっと抱きしめあう。だんだんと、薬がキマってくる。気持ちいい。このまま、ぐちゃぐちゃに溶けあっていく。

 

 

 

 

朝のあすと長町のオフィスは、翔の怒鳴り声が響き渡っていた。翔は恐ろしい形相で、管理部門のオフィス、総務部長・鈴木の胸ぐらを右手でつかんでいる。さすがに止めなればいけない。

「翔、お前、やめろって。それはパワハラだ」

鈴木は青ざめながらカタカタと震え、まっすぐおろした太い指が、小刻みに揺れている。

「うるせえ。俺のこと、パワハラで労基署に訴えてもいいぞ。だがな、鈴木、本当にこんな記事が出るって知らなかったのか? メディア対策も、総務部長の仕事だろ?」

「ほ、本当に知らなかったんです。許して、ください……!」

翔の左手には、白北新聞の朝刊が握られていた。一面のコラムに、スガワラ王国の批判が掲載されていたのだ。

 

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白北日誌

 

「東北とはなにか?」を生涯にわたり追求した井上ひさしさん(1934~2010)が、東北の寒村が日本から独立を宣言するという奇想天外な話を描いた小説・「吉里吉里人」。片田舎の大学に通っていたころに学校の図書館で読み、ストーリーの壮大さに心を打たれた思い出がある。▼独立国家「吉里吉里国」には国営の放送局がある。名前は吉里吉里放送協会。通称KHKだ。アナウンサーのミドリ橋本はあどけない少女。だが、国を想う彼女は吉里吉里国の大人たちと対等に話しあい、国政へ積極的に参加する。政策の決定権を大人たちだけで握り、子どもの意見を取り入れない政府に対する皮肉が込められている。▼最近、巷では、架空の「王国」の肩書を買うのが流行しているという。正社員は3000円、公務員は5000円、国会議員になると3万円、大臣はなんと5万円で売られている。たとえ子どもでも、お金を払えば、大臣を名乗ることができる。▼わが社の近くにある宣伝用の大型ディスプレイでは、その王国のCMが毎日流れている。小学生が、大臣の肩書を買って先生に辞令を見せるという内容だ。架空の国家とはいえ、金銭を払っただけで肩書を買える。そんな卑怯なことを日本の未来を担う子どもたちへ刷り込むなど、まさに言語道断としか思えない。▼少子高齢化、人口流出、産業の空洞化。地方が抱える問題に対して、県民の危機意識は非常に強い。将来、子どもたちには、これらの課題を金の力ではなく、意見をぶつけあって実行することで解決してほしい。「王国」の国王も、知恵を出して、架空の国でなく、現実の国家での課題を解決してはどうだろうか。

 

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本当に汚い、と思った。おそらく、會田が何かしらの形で絡んでいるのだろう。一見すると正論に聞こえる言葉で、相手を殴りつける人間。意地汚い、虎の威を借る狐。あいつの考えは、『吉里吉里人』に登場する編集長・佐藤久夫にそっくりだ。「私立より公立がエライ、しかしその公立より国立のほうがもっとエライ」。そんな、幼稚な定理を証明もせずに信じている、クズ。

「もういい。今すぐ白北新聞へ乗り込むぞ。奏太、ついてこい!」

翔は総務部長の椅子を蹴りとばし、社長室へ向かっていった。

 

タクシーに乗りこんだ。翔が急かすのでタクシーは渋滞しがちな国道二八六号線を避け、裏道を猛烈なスピードで走り、のっぺりした広瀬橋を渡っていた。

車窓を眺めながら考えた。世の中にはとんでもないクズを商材として売るビジネスがある。そんなクズも、商材を買う人間がいると、たちまち価値がつく。ただの金ピカな缶を二五〇万円で売ったり、月の土地一エーカーを三〇〇〇円弱で売ったりする。「スガワラ王国・運輸大臣」のステッカーだって、市販品よりも高いのに、飛ぶように売れている。特に、タクシー業界で流行している。振り返ると、このタクシーのリアガラスにもしっかりとステッカーが貼ってあった。スガワラ王国で働く身として言っていけないんだろうが、なんでこんなものを買う気になれるんだろう。あまり理解できない。

「なあ、運輸大臣のステッカー、もう少し値下げしないか?」

「うるせえ。お前、そんなことより、今日は会社の代表なんだろ? そんな安っぽいスーツ着て、恥ずかしくないの?」

翔が指をさしてくる。喪服のような暗い黒のリクルートスーツ。袖のボタンが、いつもの間に欠けていた。就活のときから使っているスーツは、くたびれてしまっている。腕時計も、どこのメーカーだかわからない。これ以上機嫌を損ねたくないので黙っておく。翔はため息をつきながら、資料を神経質そうにめくった。

橋を渡ったあともタクシーは裏道をぐねぐねと曲がった。運転中、年老いた運転手がうずうずしながら、こちらを何度も振り返りそうになった。おそらく声をかけたかったのだろう。だが、翔は運転手の様子に気づくことなく、ずっと黙っていた。

白北新聞社へついた。エントランスに入り、受付に詰め寄った。

「地域経済部の會田を出せ! 川内高校の同級生、菅原翔と榎本奏太だ。そう言えばわかるはずだ! いますぐ!」

「失礼します。私どもは、株式会社スガワラ王国社長の菅原と、社長室の榎本と申します。朝刊のコラムについて、會田様へ問い合わせたいことがありまして……」

「會田ですか、少々お待ち下さい……」

受付は目を見開き、少し青ざめながら受話器を取ってボタンを押し、ぼそぼそとしゃべると、首を縦に振った。

「すみません、誠に恐縮ですが、會田は突発の出張で今から東京へ行くため、対応ができないとのことでした」

「ふざけんじゃねえよ! 逃げるために思いつきで作った口実だろ、そんなの!」

翔はエントランスを抜け、エレベーターへ向かおうとしたが、警備員が走り寄って、翔を羽交い締めにした。警備員は、俺たち二人を外へ追い出すと、警棒を手に持って、ぼそっとつぶやいた

「川内高校を出ているエリート様のくせに、無様だな。バーカ」

 

会社に戻る。社長室へ行くと、いつのまにか、大塚が上座のソファーに座っていた。

「お、大塚さん? いつの間に?」

「社長が怒鳴っていた最中ですわ。ああ、怖い、怖い。それと、忠告しておきますけど、マスコミをナメたらいけません。白北新聞社の朝刊は毎日四〇万部も売れています。全国的にも、一〇〇年以上小説家たちの活動を支えたり、東日本大震災での報道姿勢が評価されたりして、有名です。菅原社長、東京へ本格的に進出したいんでしょ? 東京の全国紙が、白北新聞に便乗してあなたを責めてきたら、どうします? 白北新聞には系列のテレビ局・ラジオ局の白北放送だってあります。東京のキー局も、白北放送を守るため、全力で潰してきます。誰だって、身内がかわいいんです。あなたは、敵にされます」

大塚はにったりと笑うと、マルボロのメンソールを吸い始めた。

「大塚さん、どうすればいいですか?」

「電光石火。他の新聞社を通して今すぐに文句を言う。経済に強い新聞がいいですね。今のうちに、あなたに同情する新聞社が一社でもあれば、うかつに手をだせなくなります。全面広告を出せばいいんでしょうけど、あんたら、そういうお金もなさそうだし。確か、大型ディスプレイのCMも、今月でやめるんでしょ?」

ぐうの音も出なかった。

「私のツテで新聞記事を書いてもらいます。死体遺棄の仕事、たんまりあげます。お金も、たんまりあげます。しばらくそっちをメインにして働きませんか? ただし、条件がありますよ」

 

二人でキッチンONへ行く。莉久は寝込んで、起き上がれない。コスプレイヤーのプロデビューを賭け、コンテストへ応募したが、準決勝で敗退し、ショックを受けたという。

「これでもう何回目?」

若干呆れながら聞く。

「十回は超えている。この前、会津で撮った写真、コンテスト用だってね。自信満々に送ったけど、だめだったらしい」

翔の口調がどことなく重い。

「大塚さん、うちの会社をどうするんだろ」

「部長を総入れ替え。オオツカ・ミライから、新しい人間を送るらしい」

「断れないの?」

「大塚さんはウチの大株主。無理。あと、新しい総務部長は、マスコミ対応の経験がある人材らしい。そいつにしっかり任せようと思う。それに、経理部長の阿部を切るいい口実もできた」

翔がナンをちぎってマトンカレーに浸す。翔はマトンカレーしか食べない。

「で、今日のブツは?」

「四十代の男。塾の経営者で、仙台の塾業界では 『ゴッド』ってあだ名がつくほどのカリスマだったらしいが、同業他社に次第にシェアを奪われ衰退。給料も下がり続けて、優秀な講師は、逃げるように他の塾へ転職。経営者は資金繰りに悩んで、塾の本部で自殺したんだとさ。自殺の噂が出ないように、塾のスタッフが総出で死体を隠したいらしい。スタッフも、さっさと転職を考えている。なるべく、身内の不祥事を隠したいんだとさ」

「ひっでえなあ。使えなくなったら、経営者でもポイ捨てかよ」

その瞬間、翔がじっと見つめてきた。キレて怒鳴り散らかすと思った。だが、翔は、ひどくしんみりとした口調で語り始めた。

「奏太、お前は甘い。ヒトっていう生き物は、自分勝手な期待を身内にかけて、その期待が裏切られたら、平気で切り捨てるんだよ」

翔は店員を呼びつけて、コーヒーを注文した。恰幅のいい店員は、にこやかに「国王陛下、今日もいい食べっぷりね!」と大げさに褒めた。

「ああ、お前、そういえば父親に……」

「一方的に捨てられた。今でも、夢に出てきて思い出す。仙台文芸大の学長室で、親父と一緒に学長へ頭を下げて入学させてくれたあと、隣のトイレに連れ込まれて、親父が殴ってきたんだ。『十八歳のときの俺は、黒川のなにもない山奥で血反吐を吐くほど勉強したんだぞ。東北大医学部へ受かって、仙台に出てきたあとも必死に努力したんだ。俺は白い巨塔の財前五郎だ。医局員を何人も潰して、同僚の准教授どもを蹴散らし、自殺させたこともある。稼いだ金を政治家や官僚どもにバラまいて、やっと医学部の教授になれたんだ。手塩にかけて育てたお前が医学部へ入ったら、すべてが上手くおさまるって期待していたのに。こんなバカだと思わなかった。裏切られた。四年分の学費は出してやる。けど、今日限りで勘当だ。二度と顔を見せるな。出ていけ』って感じで怒鳴られた。その晩、大塚さんのサイトで初めてマリファナを買った」

翔は他人事のように淡々と語りながら、キッチンを見ていた。店員が慣れた手つきでコーヒーを淹れていた。

 

深夜、プロボックスは愛宕山・公務員宿舎の駐車場に停まった。バックドアを開けると、ラゲージにゴッドの遺体が横たわっている。遺体は痩せていたが、全身がくまなく筋肉で覆われている。そして、驚くことに、全身のいたるところにサタンのタトゥーが掘られていた。

「ゴッドなのに、サタンのタトゥー。ジョークかよ」

「ちがう、多分、これはマジだよ。経営者は善良な神じゃできねえ。悪魔そのものにならないといけない」

翔はつぶやくと、遺体をラゲージから引きずりだした。ヘッドライトに照らされた遺体の首には、太くて青い痣。首を吊ったロープの痕。

翔は上半身、俺は下半身を抱きかかえる。崖の穴へ入り、水路へ侵入する。水路の水面は、どこからか入ってきた落ち葉が覆い尽くしている。無言の翔についていき、複雑な水路を何回も曲がる。水路が行き止まる。陸へあがると、目の前に錆びついた金属の扉があった。

「今日はここに捨てる」

翔が扉を押して開ける。奥には広い空間が広がっていて、その空間には数え切れないほどの木の棚がびっしりと並んでいた。その棚のところどころに、半分崩れかけの大きな樽や割れたビンが転がっていた。

部屋の中を少し進んで、翔は棚を指さした。その棚の中段に、遺体を納めた。

「スガワラ王国の国葬だ。このゴッドは、王立大学の総長。丁重に葬らないと」

翔は持ってきたアメスピを箱ごと、遺体に脇にそっと置いた。

「生前、アメスピが好きだったらしい。あの世でも、いっぱい吸ってくれればって思う」

「翔、お前らしくねえぞ。普段、遺体に同情しないよな。なんでこんなことしてるの?」

「経営者はね、孤独なんだよ。経営者同士じゃないと、その孤独は理解してくれない」

翔は手を合わせて、小さく合掌した。

 

朝。ほぼ徹夜で疲れが溜まり、身体がずっしりと重い。今日は大学へ行かねばならない。カフェイン二〇〇mg錠の錠剤を飲んで、眠気をごまかす。翔はもう出ていった。

大きくあくびをする。玄関で靴を履こうとしたら、莉久がぱたぱたと駆け寄ってきた。

「ねえねえ、奏太、奏太! わたし、スカウトされたよ!」

莉久がスマホの画面を見せつけてきた。メールの文面が映し出されていた。

 

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RIKU様

 

ポアソン株式会社 メディア事業部の桜岡と申します。

突然のご連絡、失礼します。

 

弊社は、日本最大級のコスプレイヤー様専門のプロダクションです。

RIKU様がSNS上で活躍される姿を拝見しました。RIKU様には、私たちとともにエンタメ業界を盛り上げていただけたらと存じます。

 

面接を希望される場合は、氏名・連絡先・年齢・これまでのコスプレ活動の経緯を簡潔に

まとめていただき、ご返信ください。

 

なにとぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

ポアソン株式会社 メディア事業部 桜岡大介

 

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スマホで会社名を検索した。確かに、実在する芸能事務所だ。しかも、大手の事務所らしい。

「やった、おめでとう! 面接、受けちゃいなよ!」

嬉しい。素直に、嬉しい。

すると、突然、莉久が抱きついてきた。

「奏太。ありがと。翔にも言ったけど、何にも言ってくれなかったの……」

莉久は寂しそうに言った。

莉久を、守らなければいけない。莉久を抱きしめる。莉久は、優しく抱き返してきた。

 

非常勤講師室の暗い席で、黒松駅のファミマで買った新聞を広げる。日経新聞の片隅に、スガワラ王国の特集が組まれていた。記事は概ね好意的な内容。大塚の力のおかげだ。おそらく、これで白北新聞は黙るはずだ。

その横に、オオツカ・ミライの特集も組まれていた。三年前、オオツカ・ミライは流通業界に参入し、様々な企業の流通網をコンサルティング。現在では日本の流通網を変革する会社として注目を浴びて、新聞やテレビで特集がよく組まれる。だが、オオツカ・ミライが流通業界へ参入した理由は、はっきりいって汚れている。麻薬、ドラッグ、向精神薬物の販売サイトを運営していた大塚は、警察や厚労省麻薬取締部に逮捕されないよう、自分にしか管理できない複雑で独自の流通網を一から構築した。その経験とノウハウが金になると大塚が気づいたからこそ、オオツカ・ミライは流通業界へ参入したのだ。

講師室から出て、教室へ向かう。窓ガラスの隙間から、冷たい風が入る。教室へ入ると、相変わらず結亜が最前列に座っていた。教壇にプリントを置こうとしたとき、結亜の可愛らしいカバンが目に入った。アニメキャラのアクリルキーホルダーをじゃらじゃらとつけていたが、その中に「ナゴヤ王国」と書かれたキーホルダーがあった。丸っこくデフォルメされた金のシャチホコがプリントされている。

「結亜、その『ナゴヤ王国』ってなんだ?」

「ん? 今、名古屋で流行っているんだ」

結亜の父親は、名古屋の出身。仙台に移住し、寿司屋の経営をしている。結亜自身も中学生の頃まで住んでいて、今でもよく遊びに行くと聞いたことがある。

「へー、ナゴヤ王国ってどういう国?」

「こっちでいうところのスガワラ王国みたいなかんじ? 名古屋でも流行っていたけど、もう飽きられちゃったっぽい。今は、みんなナゴヤ王国のグッズを持っているよ」

結亜はキーホルダーを見せつけると、茶目っ気たっぷりに舌を出してウインクした。

 

夜七時、大学での仕事が終わって地下鉄に乗っていると、翔から「本社へ来るよう」にとのメッセージが届いた。急いであすと長町の本社へ行き、二階中央の会議スペースへ入ると、莉久と翔、新しい部長が総出で据わっていて、重苦しい表情をしていた。

「なんでみんな暗い顔をしているんだ……?」

「いよいよ赤字だ。東海地方の売り上げが、ほとんど消えた」

新しい経理部長の大友が席から立ち上がる。

「榎本さんに説明します。東海地方はわが社の経営戦略条、重要な拠点です。昨年の売上高の四〇%は、東海地方からのものです。東海地方はわが社のドル箱と言っても過言ではありません。ですが、今年春に名古屋市で立ち上がった半官半民の企業・ナゴヤ王国が、じわじわと成長。十月以降は愛知県庁、名古屋市役所、地元の有名企業やマスコミを巻きこんだタイアップ戦略により、シェアを拡大。東海地方におけるわが社の売上が前年比六割減です」

「俺は知らなかったんだ。ナゴヤ王国がそんなに力をつけていただなんて! もっと早く気付けばよかった! そうしたら、名古屋に行って市場調査をしたのに!」

翔が机を叩く。

莉久がすかさずフォローに入る。

「翔のせいじゃない。前の経理部長があまりに無能だったの。東海地方で売上が落ちても、何一つ、原因を分析できなかったのよ」

「いや、違う。あれは無能じゃない。策士で、しかもクズだ。何度もクビを切ろうとしたけど、クビにすべき根拠がない。勤怠は良好、しっかり報告書を出して仕事はしていた。会議でもそこそこ発言。だけど、今考えると、それは全部、あいつがクビを回避するための策。会社のためを思って提言したことなんて、俺の記憶にない。そういう人間に経理部長を任せた、俺の責任だ。それより、莉久、奏太、これを見ろ」

翔はスマホの画面を見せつけた

「ナゴヤ王国とタイアップしてるこのコーヒーメーカー、磯社長の会社だよな? この前、フレンチレストランで磯社長とサシでメシを食べたとき、『スガワラ王国とタイアップしてくれ』って頼んだら、磯社長、すぐオッケーした。でも、それから会ってくれない。なんでかなって思ったら、これだったのかよ。俺を裏切って、同業他社とタイアップするなんて、卑怯にもほどがあるだろ」

翔は深くうなだれていた。

「翔、聞いてくれ。俺も磯社長とサシでキッチンONのカレーを食べたんだ。磯社長、その席で俺をヘッドハンティングしようとした。もちろん、俺は断った。」

「……磯の野郎。俺たちの信頼をズタズタにしやがって。芯まで腐った、クズだな」

翔は椅子を蹴りとばした。会議室に、重苦しい沈黙が漂う。

 

 

 

 

二月初めの昼下がり、マンションのリビングで、翔と莉久と俺は床に座り込んでいた。

カラダがひどく重い。ブロン錠が効きすぎるとこうなる。飲んだ直後は万能感と幸福感に満たされるが、しばらくするとひどい反動が来て、自殺したくなるほど気分が落ち込む。辛い、苦しい。死にたい。何もかも、虚しい。そんな考えが、延々と頭をよぎる。

首を吊って死のうと思った。まず、台が必要だ。そう思ってダイニングテーブルを見ると、翔がテーブルの脚にもたれかかって、スマホをいじっていた。目は虚ろだった。昨日、大塚に殴られたという。理由は教えてくれない。マンションに帰ってきた翔は、肩を落としてずっと下を向いていた。

普段の傲慢さが、まったく消えていた。ブライトネイビーのスーツがひどくしわらだけになっていて、醜かった。スマホを見る翔の顔面に、生気がない。すると突然、翔の表情が一気に険しくなり、顔面が一気に青ざめた。翔の手が震え、スマホを投げつけて叫びだした。スマホはテーブルの脇、莉久がいつも吸うシーシャに当たった。

「う、うるさい! 危ないじゃない!」

莉久がろれつの回らない声で言った。翔は莉久を無視して、慌ててスマホを拾った。

「ああ、あああ!! 莉久、奏太、こっちに来て。画面を見て。やばいよ、ついに見つかったよ。俺、もうダメかもしれない」

莉久と俺は、身体をゆっくりと動かして、画面を見た。

 

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白北新聞 オンラインニュース

 

仙台・愛宕山 地下水路に2体の死体 若者の男女か 宮城県警

2月1日 13:34

 

 

先月29日午後3時半頃、仙台市太白区越路の愛宕山で、山を探索中のグループが、腐敗した2体の死体を発見し、警察に通報した。仙台南署が身元と詳しい死因、事件性の有無について調べている。

 

現場は愛宕山の地下、大正時代に建設された水力発電所の跡地。グループは廃墟を巡る愛好家で、発見当日も趣味の一環で山を探索していたという。

検死の結果、死体は十代から二十代の男女。現場に服などの遺留品は残されていなかった。

 

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「なんでこんなクソ寒い時期に、趣味であの水路を探索するんだよ! わけがわからねえ! 白北新聞も報道するな! あいつら、『街のイノベーター』の記事、まだ一個も出してねえじゃん! なんでだよ!」

ついにバレてしまった。いつか、死体は見つかるだろうと思っていた。だが、それは十年後か二十年後の未来の話で、今だとはまったく思っていなかった。

捕まるんだろうか。どうやれば、警察から逃げられるだろうか。まったくわからない。金のためやったこととはいえ、自業自得なのはわかっている。不安だ。嫌だ。死にたい。

皆、恐怖に取り憑かれたようだった。翔は、目を異様に丸くして、ぶつぶつと小声で何かを言い始めた。莉久は黙っていたが、肩を抱いて震えて、顔面は真っ青になっていた。

 

それから雪の降る日が何回かあった。次第にみぞれが降るようになった。春も近い。

死体についての報道はオンラインニュースのあの一件だけで、ひとまず安心した。翔と莉久と俺は冷静さを取り戻していた。そして、嬉しいことがあった。莉久がプロデビューして、マンガ雑誌の表紙と巻頭グラビアを飾ったのだ。発売当日、莉久と俺は、翔に黙って二人でコンビニに行った。雑誌を手に取る。表紙に映った莉久は水着を着て、猫耳のカチューシャを片手でおさえながら笑っていた。嬉しい。横にいる莉久も、笑っていた。

その晩、翔と一緒にまた死体を捨てに行く。今日はまた一段と冷える。防寒用のタイツを履いていても、マリンスーツ越しに冷たさが伝わった。

「寒みぃなあ! 早く終わらせるぞ!」

翔が悪態をつきながら、死体をしっかりと両手でつかむ。

今日の死体は老婆だった。小学校の教員を定年退職後、支倉町の小さくて洒落た高級マンションに独り暮らしをしていたが、孤独死をしたという。大家が大塚の高校の同級生なのだという。孤独死がバレたら事故物件になって、物件の価値が下がってしまい借り手がつかなくなってしまい、家賃収入が減ってしまう。どうしても、死んだことを隠したいと翔に依頼したらしい。

老婆の長い白髪が、水に浸かって広がっている。髪に水の抵抗がかかるせいで、前に進みづらい。早く捨てたい。だが、見つかりやすい場所には、もう捨てられない。

奥へ進むと、横目に通路が見えた。以前、メンヘラカップルの死体を捨てた場所だ。その通路を横切るように、黄色いテープが何重にも執拗に巻かれ、テープに書かれた「立入禁止 宮城県警」の文字が、ヘッドライトに照らされてはっきりと見えた。

「グズグズすんな!! ここに捨てるのも最後だ。別のところを探さないといけない! 八木山橋から、死体を竜ノ口渓谷に落とそうか? 自殺の名所だから、そんなに怪しまれないんじゃね?」

べらべら喋る翔についていき、水路を何回か曲がると、目の前は袋小路になっていた。白い骨が山のように積まれている。みな、翔と莉久と俺が捨てた死体だ。

翔は、老婆の死体を置くと、落ちていた頭蓋骨を拾い上げ、いきなり壁へ叩きつけた。

「金だ、金! みんな、金だ! 金しか信じられねえから、こんなクッソみたいなことやるんだよ! みんな、俺に黙って活躍しやがって! 裏切られた、クソ!」

 

帰宅したあと、翔はリビングで莉久の肩をつかむと、突然怒鳴りつけた。

「お前みたいな、エロいコスプレで男をたぶらかすバカ女が、なんでプロデビューできるんだ? なあ、どうせ、汚い手でも使ったんだろ? 芸能事務所の人間とセックスしたんだろ、そうだよな? なあ、答えろよ?」

「……はあ? あんたの方がバカじゃん。ちゃんとスカウトされてデビューしたんだよ。なに、ふざけたことを言っているの?」

「じゃあ、証拠を見せろよ。事務所の人間と寝てないって証拠を、な」

翔は、肩にかけた手を動かし、莉久の首を思い切りつかんだ。

「翔、やめろよ!」

急いで翔の手をつかむ。

「うるせえ、奏太! 黙ってろ!」

「寝てないって。当たり前でしょ? 会社の連絡先を教えるから、聞いてみてよ?」

「事務所の人間は全員お前の味方。ウソをつく」

「じゃあ、どうやって証明しろっていうの?」

「そんなの、お前で考えろ! 殺すぞ!」

翔はいきなり莉久の顔面を殴った。莉久は床に倒れた。莉久のもとに近寄る。唇が切れて、血が流れていた。

「翔、ひどいぞ。お前はクズだ!」

「ふざけんじゃねえ、お前らのほうがクズだ! 俺より能力が低いはずに、東北大学とか國學院大學に行きやがって! これぐらい、俺が受けてきた痛みよりもマシだろ!」

「なによ、私だって辛いよ! 本当なら私だって、お父さんが心筋梗塞で死ななければ、心が壊れずに大学へ通えて卒業できたはず! ふざけないで!」

莉久が叫び、すすり泣きはじめた。翔は一気に黙り込んだ

「なんか、お前らに失望したわ。ダメだ。イライラする。JRビルのジムに行って、身体を動かしてくる。あのジム、こんな夜中にもやっているから、マジで神」

翔は、床に落ちていたボストンバッグを拾い上げると、ゆっくりと玄関へ行き、外へ出ていった。

それから夜が明けるまで、ソファーに座りながら、泣き続ける莉久を抱きしめた。莉久を守らないといけない。そのためには、努力しなければ。お金を稼いで、偉くなりたい。

 

 

 

 

朝、会社へ行く時間になっても、翔は家に帰ってこなかった。LINEにメッセージを送ったが、既読すらつかない。

「探しましょ? 会社にいるかもしれないし、今から行くわ」

メイクをした莉久は、慌ててモスグリーンのスーツに着替え、カルティエのネックレスを首にかけた。

「そんなに急がなくていいんじゃね? どうせ、スマホをろくに見ないで会社へ向かっているんだろうし」

すると、鏡越しに映る莉久の顔がみるみるうちに真っ赤になった。

「よくないよ。私、翔にいなくなられたら、困る!」

莉久は震えた声で言うと、あろうことか俺の胸ぐらをつかみあげてきた。

「うわ、お前、離せ!」

「もういい、話にならない。一緒に会社へ行くよ」

にらみつける莉久の目は鋭い。何も言えなくなった。

そのまま莉久と一緒にマンションを出る。近くの駐車場に行くと、ダークエメラルドのキャストがある。莉久の車だ。

「あんたはそこでおとなしくして」

莉久は後部座席へ俺を押しこんで、運転席に座るとプッシュボタンを勢いよく押した。

 

莉久の運転は荒い。キャストは、愛宕大橋を猛スピードでかけていった。右側に愛宕山、正面には大年寺山がそびえる。山頂のテレビ塔は、気味が悪いほど大きい。

「奏太さ、なんで運転しないの? てか、少し震えていない?」

莉久が呟いた。キャストは橋を渡りきり、愛宕山脇の急カーブへ突っ込む。

「親がここで事故死したんだよ。車には怖くて乗れない」

「……ごめん。そういえば、ここだったね」

莉久は申し訳なさそうに言うと、すぐにスピードを緩めた。両親は四年前の四月、春にしては珍しい猛吹雪の夜に、このカーブを曲がりきれず、対向車のトラックと正面衝突して死んだのだ。

キャストはゆっくりと走った。数分後、オフィスの駐車場へ着く。車から降りて二階のオフィスへ行くと、見慣れない男たちが会社の書類をかきあつめ、ダンボールへ詰めていた。社員は、隅に集まって呆然としていた。

「どういうことだ。何があった」

社員へ話しかける。

「榎本さん。高橋さん。お、大塚さんが………」

企画スタッフの尾形が震えた声で社長室を指さした。すぐ社長室へ向かった。

ドアを開ける。大塚がいた。あろうことか社長の椅子に堂々と腰掛けている。

「大塚さん、なんで社長の椅子に座っているんですか!?」

「決まってるじゃないですか。私がこのスガワラ王国の社長だからですよ。今朝、うちの取締役会で菅原さんを解任し、今日付けで私が社長に就任したんです」

「か、解任? 大塚さん、突然すぎませんか。そんな大事なこと、私たちに何も知らせずに決めるってずるくないですか?」

「いえ、あんたらのほうがよっぽどずるいです。この会社、脱税しようとしてるでしょ? 国税局にバレて捜査されるといろいろ厄介なので、私が火消しをしにきました」

大塚は、拳を振り上げると、思い切り机を叩いた。

「この会社、一度も出勤したことのない取締役の菅原良雄ってヤツに、創業した五年前から役員報酬を毎年二〇〇〇万円も払っていたらしいですね。しかも、その二〇〇〇万円を損金として計上して税務署へ申告。もし、税務署がこれを知ったらどう思いますかね? 架空の役員報酬で損金を作り、法人税を不当に安くしようとしている。つまり、スガワラ王国は脱税しているかもしれない。そう疑われたら、国税局が必ず捜査しに来ます。マスコミも騒ぐ。信用ガタ落ち。親会社の私の会社にも、なにか捜査の手が入るかもしれない」

大塚は立ち上がった。近くのライトスタンドを持ち上げると、壁に向かって思い切り叩きつけた。

「なあ、てめえら、俺の面に泥を塗る気か? ふざけんじゃえねよ。死んでしまえ! そもそも、菅原良雄って誰だ? 本人と会って話をしたいから、すぐ呼んで来い! ここで殺してやる!」

戦慄が走る。生きた心地がしない。逃げたい。だが、ここで嘘をついたり、ごまかしたりすると、余計に事態が悪くなる。しっかり答えなければいけない。それに、菅原良雄のことはよく知っていた。

「菅原良雄さんは、菅原社長の……」

「前社長と言いなさい。社長は私です」

大塚はもう一度、ライトスタンドを壁に叩きつけた。壁には穴が開いた。

「失礼しました。菅原良雄さんは、前社長の父です」

「へえ、そうなの。あれ、菅原さん、お父さんを憎んでいたはずなのに、なんで?」

大塚は驚いたような甲高い声を出した。心底驚いたようだった。

そのとき、社長室に大友が入ってきた。山のような資料を抱えている。

「大塚社長! 菅原のヤツ、役員報酬をそっくりそのまま自分の口座に突っ込んでいたそうです。一番上の資料が証拠ですのでお読みください」

大友はそう言うと、ペコペコと頭を下げながら資料を机に置き、すぐに出ていった。大塚は一番上の資料を読み始めると、顔を歪めて、震える手でポケットからマルボロを取り出した。

「落ち着きたいので、タバコを吸います。とにかく、この会社は腐っている。役員も総入れ替えしましょう。もちろん、高橋さんも退任してもらいます。榎本さんは契約社員でしたが、社長に一番近い人でしたし、消えてもらいます。本日付けで契約終了です」

ついにクビ。目の前が暗転した。

莉久は冷静な口調で大塚に向かって言った。

「いいですよ。役員報酬がなくなっても、働いてお金を稼ぎます。大塚さんのことはもう知りません。それより、翔はどこです? 知りませんか?」

「知りません。これは本当です。探すならあんたらが勝手にやってほしいです。私たち、子会社の元社長でも、使えなくなったクズには関心がないので。ああ、そういえば、あんたら、捕まりたくないでしょ? 警察に捜索願を出さない方がいいと思いますよ? まだ、愛宕山の件も、本当に落ち着いたどうか、わからないですし」

大塚は、ライターで火をつけたマルボロを口に咥えた。息を吸った大塚は、やや気だるげに煙を吐き出した。

「まあ、いいでしょう。これから、死体を捨てるのは他の人に任せます。菅原さんにまだ払っていない報酬は、ここであんたらに渡します。この報酬は、手切れ金も兼ねています。私たちからあんたらを裁判所へ訴えたり警察に通報したりすることはしません」

大塚はカバンから札束を取り出した。

「ほら、これを受け取って、今すぐここから出ていけ!」

大塚は叫ぶと札束を机に叩きつけた。

「莉久、行くぞ。これからのことは、家に帰って考えよう」

「そうね、行きましょう」

右手で札束を、左手で莉久の腕を掴み、社長室を出ていった。壁にかかるスガワラ王国の憲法にはドライバーが突き刺さり、その隣には新しい憲法が掲げられていた。文章は手書きで、大塚の神経質で細く、形が歪んだ字で書かれている。

 

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新スガワラ王国憲法

修正前文

スガワラ王国臣民は、自由意志に基づく契約のもと、スガワラ王国の一員となり、憎むべき菅原翔が腐敗させたスガワラ王国を、全力を挙げて再建することを決意し、この憲法を確定する。

 

第一章 国王

修正第一条 スガワラ王国は菅原翔を追放したたうえで、一切の主権を剥奪する。スガワラ王国の運営は、日本国のオオツカ・ミライ株式会社の指導と監督のもと行われる。

修正第二条 スガワラ王国はオオツカ・ミライ株式会社代表取締役社長・大塚レオを国王とする。みんな大好き、国王陛下。

修正第三条 国王は地位の贈与、売買を一切しないものとする。また、臣民も、地位の贈与、売買をしてはならない。

……

 

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莉久を連れて一階に立ち寄る。公式グッズコーナーは、普段通りに営業していた。グッズを買いに来る「臣民」は、名刺やアクリルキーホルダーを眺めながら楽しそうに喋っている。王国の国王が追い出されたが、臣民は全く気づかず、いつも通り暮らしている。

駐車場へ出ると、みぞれが激しく降っている。急いでキャストに乗った。

「スガワラ王国が大塚に乗っ取られた。これって正真正銘のクーデターだよ」

「クーデターとは違うよ。もともと、スガワラ王国はもともとオオツカ・ミライの操り人形。最初から、この王国の国王は大塚だったのよ」

莉久は切り捨てるように言うと、プッシュボタンを押し、ワイパーのスイッチを一番下まで下げた。

「これからどうする?」

「なんとかなるさ」

「ホント、高校のときから奏太って、大事なところで適当になるよね。私が文芸部で、太宰の『お伽草子』を貸したの、ゼッタイ忘れてそう」

「あれ、そんなことあったの?」

「あったの。貸したものを返さない奏太にうんざりしたから、翔と付き合いだしたの。まあ、いまさらどうでもいいけど」

莉久は不意に笑った。頬を少しあからめている。心の底から可愛いと思った。

そのとき、コンソールボックスにある莉久のスマホが鳴り出した。

「あ、着信だ。ん、マネージャー? なんでだろ……。もしもし? はい、RIKUです。お疲れ様です。どうしましたか。え、これから東京……?」

莉久の声が弾む。雨粒がガラスに叩きつけられ。ワイパーがガラスに擦れる摩擦音が車内に鳴り響く。

 

 

 

 

八月の末、東北の夏はすぐ終わる。すでに風が冷たく、長袖の服を着なければならない。

夜、広瀬通の銀杏並木を莉久と歩く。交差点を曲がって国分町通へ入ると、目の前の街は宝石箱をひっくり返したように、煌びやかに輝いていた。東北一の夜の街・国分町だ。

セブンへ入る。棚に並ぶ漫画雑誌の表紙はそのほとんどが、莉久のコスプレ写真で飾られていた。浴衣を着て、縁日のりんご飴を頬張る莉久。砂浜で真っ青な海に向かって駆けるワンピース姿の莉久。プールサイドでビキニを着て微笑む莉久。みんな、可愛かった。

「わたし、ここまできたんだ……」

雑誌を手に取った莉久は、じっと表紙を見ていた。

「ほら、今日は祝賀会でしょ。もっと元気だして」

「うん。そうね。今日はいっぱい飲みたい」

セブンのある建物の二階、結亜の父親が経営する寿司屋へ行く。店に入って席に座ると、薄紫の着物を着た結亜が、一番搾りの中ビンを持って立っていた。

「榎本、おそーい!」

結亜はむくれながら、ビンの栓をあけると、テーブルのグラスに注いだ。

「莉久、この子が教え子の佐々木さん」

「ホントに呼び捨てされているんだね」

席に付いた莉久は少し困った顔をしながら笑った。

「この人がRIKUさんね?」

「そうそう。てか、莉久にはさん付けするんだな。それじゃ、乾杯するか」

「東京への引越しを祝して、乾杯!」

三人でビールを飲む。祝杯だ。

莉久はこの半年でプロコスプレイヤーの仕事が激増。漫画雑誌のグラビア撮影、イベント出演などで頻繁に仙台と東京を行き来していたが、東京で本格的に活躍するため、九月に引っ越すことになった。そして、俺も莉久と一緒に上京すると決めた。

どうせ天涯孤独だ。土樋のマンションも売れた。教え子で唯一気がかりだった結亜は、家業を継ぐと決めたらしく、学生生活のかたわら、親の寿司屋で女将として張り切って働いている。

翔は行方不明になっていた。失踪届は大塚の命令で出せない。俺たちは何回も探したが、見つからなかった。そして、株式会社スガワラ王国は大塚が社長になってから一ヶ月もしないうちに公式ウェブサイトとすべてのグッズ販売店を閉鎖。会社はオオツカ・ミライが精算中。今ではほとんど忘れ去られていた。

仙台に思い残すことは、何もない。

「寿司屋だけど、ラーメンもあるんだよ。結亜、持ってきて」

結亜は立ち上がると厨房へ行き、ラーメンを持って戻ってきた。

「はい、名古屋名物・台湾ラーメンだよ。榎本、私、仙台で絶対流行らせるからね!」

結亜は明るく笑った。結亜は仙台に残って、このまま逞しく生きるんだろう。安心した。

 

散々飲んで、酔っ払った。店から出て莉久と千鳥足になりながら、広瀬通に出る。車道には、飲んだ客を捕まえようとタクシーが何十台も駐車している。どのタクシーにも、翔のステッカーは貼られていなかった。

タクシーを拾う。どっと疲れが襲う。

「土樋まで走ってください」

「学院大のところね?」

運転手は早口で言うと、タクシーが一気に走り出した。広瀬通を曲がって東二番丁通を南に走る。

「仙台の街もあと一週間で見納めか」

「ねえ、奏太」

「ん?」

振り向くと、莉久が急に迫ってきた。カラダが密着する。吐息を感じる。暖かい。唇が、近づく。

そのとき、スマホが鳴り出した。

「なんだよ、こんな時に。誰からだよ……って、うわあ!」

画面を見て驚いた。半年行方不明だった翔から、メッセージが届いたのだ。

「明日の夜七時、キッチンONに来い。カレーをおごってやる」

 

 

 

 

指定された夜七時、キッチンONの分厚い扉を開くと異様な光景が広がっていた。店のテーブルはホールの中央にある一つを残してすべて隅に追いやられ、中央のテーブルの背後、壁に掲げられていたインドの地図を、スガワラ王国の、Sの字に一つ目の国旗が覆っていた。

テーブルの席に莉久と一緒に座る。国旗の目は、黒目が少し下がっている。椅子から国旗を見ると、その目が俺たちをじっと見下しているかのような錯覚を感じる。

「なにこれ。こわい。やっぱり、ここに来るべきじゃなかった」

莉久は怯えたように言って、不安げな目でじろじろ辺りを見渡した。

「ここまで来たから、仕方ない。翔にあってしっかり話そう」

莉久の肩を優しく抱く。体温が、妙に冷えているようだった。

店の扉が開く音がした。振り向くと、扉の向こう側に翔が立っていた。半年ぶりに見た翔の外見はあまりに変化していて驚いた。髪は乱れ、肩の下まで伸び、たくわえた顎ひげは胸元まで届いている。肌は浅黒く、温厚な目つきをしていたが、瞳の奥からは何の感情も読み取れない。

この顔つきに、元社長という肩書きはふさわしくない。今の翔は、修行僧だ。

「翔、今までどこに行っていたのよ? ジムへ行ったっきり、半年も行方不明だったのよ。私たちもできるかぎり探したけど、見つからなかった。私たちに迷惑をかけて、なにも謝ることないの?」

莉久が険しく問いつめると、翔は少し間をあけてから喋りだした。

「声に導かれたんだよ」

「どういうことよ。さっぱり訳が分からない」

莉久が翔へ聞いても、翔は黙っていた。俺たちを見る目が、だんだんと蔑みに満ちるように、冷たくなってくる。

翔は店に入ると席にどっしりと座り、ポケットからマルボロを取り出した。箱はボロボロに傷んでいた。

「ライターが見つかんねえや。クソッ。そういや、お前ら、薬ってどこから買ってるんだ? オオツカ・ミライ、薬物を相当値上げしたって聞いたぞ」

「もう買ってないぞ。俺たち、二度と薬をやらないことに決めた」

「へえ、なんで急に? お、ライターがあった」

翔はライターを取り出すと、テーブルに置いた。

「莉久を応援してくれる人たちを、悲しませたくないんだ。莉久のファン、事務所、出版社、イベント会社、スポンサー。いろんな人たちが、莉久を信じている。薬をやったことがバレたら、そうあう人たちを裏切ることになる。だから、俺たちはやらない。禁断症状が辛いけど、二人で励まし合いながら、なんとかやっていってる」

「キレイゴトだな。奏太、バカじゃないの? 人間はね、最後は裏切るんだよ。お前のこと、もう少し、賢い人間だと思っていたけど、失望した」

翔はマルボロに火をつけた。

「店長。いつものマトンカレー、三人前!」

「ハイ……。持ってくるね」

店長は、怯えたように返事をした。翔はマルボロを吸うと、口から大きく煙を吐いた。

「ジムへ行ったあの日は、大塚から解任を伝えられて、頭の中が混乱していた。これからどうすべきか頭の中を整理したくて、JRビルのジムへ行って、ルームランナーを走っていたんだ。走っていると、だんだんと精神が統一されて、心がすっきりするからな。

それで、しばらく走ったら、ガラス越しに見える夜の闇が急に真っ二つに裂け、人ひとりが入れるサイズの裂け目ができた。気になったからその裂け目に入ったんだ。すると、目の前に真っ赤な森が広がっていた。辺りは、たくさんの死体が転がっている。不気味だった。少し歩くと、森が開けて玉座のような巨大な椅子があった。そこに、蛇の頭に一つ目の巨人が座っていたんだ。その巨人は俺に『翔、お前は人類を救う神に任命する』って話しかけてきたんだ。

ふと気づくと、ジムのルームランナーの上に倒れていた。辺りを見渡すと、ジムのマシンたちが声を出しはじめた。みんな、俺に『菅原翔は選ばれし神様だ』って話しかけてきた。俺は悟ったんだ。俺がやるべきことは、株式会社スガワラ王国の再建じゃない。人類の救済なんだってね。

人類を救済するためには悪い存在と戦わなきゃいけない。すぐに軍隊をつくることにしたよ。次の日には土地を探し回って、泉ヶ岳の森の中に軍の施設を作るって決めた。親父名義の役員報酬を騙し取って作った裏金がとても役になった。軍の名前は『神聖軍スガワラ』。軍の隊員も数百人まで増えて、そろそろ、本格的に決起しようかと思ってる」

翔は無邪気に笑うとまた一服し、頬を赤らめながらコップの水を美味そうに飲んだ。

「……お前、それは本気で言ってるのか? 何を言いたいか、まるで訳が分からない」

「わからないのはお前らが悪い。俺は、人類救済のために選ばれた『神』になった。この穢れた地球を神聖軍スガワラで制圧して浄化するんだよ。どうしてわからない? お前を参謀に入れてやろうかと思って面接しにきたんだけど、どうもわかってないようだし、やめておこうかな」

店長が厨房から出てきてマトンカレーをテーブルに置いた。なぜか手が震えていた。

「なにからなにまでわからねえよ。神? 人類の救済? 軍を決起? ふざけたこと言ってんじゃえよ。お前は、俺たちの高校の同級生で、文芸部で一緒だった菅原翔。国王までなら出世したかもしれないけど、神じゃない。単なるやべえヤツじゃん。第一、あの国王だって株式会社スガワラ王国の宣伝のためだったし……」

すると突然翔は立ち上がり、拳を構えると、俺の胸ぐらをつかんできた。

「俺のことをバカにしやがって! なんで俺の言うことを聞かないんだよ。まだ俺が神じゃなかったときも、みんなからバカにされた。親父にも、学校にも、大塚どもにも、お前らにも! だけど、今は神になった! 全知全能! これで誰からもバカにされないと思ったのに!」

そう言うと翔はけたたましく笑いだして俺の腹を殴った。目は完全にイッていた。

鳥肌が立つ。恐ろしい。このままだと、殺されるかもしれない。逃げなければいけないと察した。

「店長、翔を捕まえてくれ!」

店の奥にいる店長へ叫んだ。店長は顔を強ばらせて、首を横に振った。

「ムリね。私、翔さんに逆らったら殺される……」

「逃げるぞ。翔はおかしくなった!」

翔を勢いよく突き飛ばす。翔は床に倒れた。頭を抱えて、うなっている。急いで莉久の手首をつかんで立ち上がり、店の外へ思い切り走った。

「翔はマンションの合鍵を持っている。帰るのは危ない! タクシーをつかまえて、遠くへ逃げるぞ!」

通りかかったタクシーを拾って、車内へ入る。

「運転手さん! とにかく走って! どこまでもいって!」

ドアが勢いよく締まり、タクシーは走り出した。マンションの脇の坂を下る。振り返ると、走って追いかけくる翔がリアガラス越しに見えた。そのリアガラスには、皮肉にもスガワラ王国のステッカーが貼られていた跡があった。

「お客さん、警察に通報しましょうか? たぶん、酔っ払って喧嘩したんでしょ?」

運転手が慣れたように事務的な口調で言ってくる。

警察に通報されたら、俺たちが薬をヤッていたり死体を捨てていたりしたことも、バレるかもしれない。それだけはダメだった。

「いいです。話がまともに通じる相手じゃないですし、警察に出てこられたら、私たちも捕まるかもしれませんし」

運転手は何かを察したかのように黙った。。

「翔が! 翔がおかしくなった! なんでああなったの?」

「わからねえ。あと、あいつの話、どこからどこまで本当か、さっぱりわからねえ。調べないと」

「誰に相談すればいいの?」

莉久が目を擦る。

「思いつくのはあの人しかいない」

 

翌日、勾当台公園駅の長く真っ直ぐ伸びた階段を登って、仙台市役所の南側、一番町のオフィス街へ向かう。駅の出口、定禅寺通の欅並木の向こう側に、全面ガラス張りの十二階建てのビルが立っている。ここにはオオツカ・ミライの本社がある。

「大塚は忙しくて、十五分しか時間が取れないらしい」

「話を聞いてくれるかな」

「わからねえ。正直、賭けだ。けど、やるしかない」

ビルへ入って、真っ白いロビーを通り過ぎ、エレベーターに乗って登る。十二階で降りると、目の前にはすでに大塚が立っていた。

「お久しぶりです。大塚さん。私の無茶なお願いを聞いてくれてありがとうございます」

「メールを見ましたけど、榎本さん、最後まで読まないと何が言いたいかわからないメールは嫌われますよ。メールの打ち方を忘れるほど、恐ろしいのはわかりますけどね」

大塚の背後には重厚な鉄の扉がある。この先が、オオツカ・ミライの本社だ。銃撃戦にも耐えられるというその扉には、いくつもの丸い凹みがあった。おそらく銃痕だろう。

「さすがに本社のなかには入れさせません。信用していたヤツを本社へ入れさせて、金や情報を盗まれたことなんてザラですからね。エレベーターの脇に応接室を作っています。そっちで話しましょう」

大塚に連れられて、エレベーターの脇の応接室へ行く。応接室は狭く暗い。椅子に腰掛けると、大塚は真剣な眼差しをしながら重い口調で話し始めた。

「菅原さんを救うのは、私の役割ではありません。あんたらの役割です。それと、榎本さんはメールの中で『翔は薬のやりすぎで頭がおかしくなった』と書いていますが、それは違うと思います。販売履歴から調べると、榎本さんと菅原さん、高橋さんは同じぐらい薬を使用しています。でも、榎本さんと高橋さんは平気で、翔さんだけおかしくなった。菅原さんは薬のせいでおかしくなったわけではないと私は考えます」

「じゃあ、なんなんですか! あんなの、薬で脳がぶっこわれた以外、何物でもないじゃないですか!」

大塚へ叫ぶ。すると、大塚は珍しく悲しそうな顔をした。

「いろんな人に裏切られたから、おかしくなったんです。辛い現実を認めたくなくて、あちらの世界に行ってしまった、というところでしょうね。榎本さんも高橋さんも、いろんな人に裏切られておかしくなった時期があったんじゃないですか?」

「……あります。私は、大学をやめた時、絶望しました。友人たちに『学校を辞めるなんて心が弱い』とに見捨てられました。その時に救ってくれたのが、翔でした」

「だったら榎本さん、今度は菅原さんを救ってあげなさい。榎本さんに協力するカタチなら私どももできます。部下の大友を手伝わせましょう。スガワラ王国で経理部長をさせていたヤツです。あなたがたも、よく知っていると思います」

「ありがとうございます!」

莉久の顔色が明るくなった。

「菅原さんは強迫観念を抱えて生きているんですよ。結果を出さないと、生きる価値がない。そう本気で思ってるから、死ぬ気で仕事にうちこんで成功するんです。そういう人にとって、仕事を取り上げられるのは、実際に死ぬより辛いことなんです」

大塚は下をうつむいた。かすかに震えている。

「私も、あんたらみたいな友達思いの人が身近にいたら、もう少しマシな人生を歩めたんです。菅原さんを、私のような哀れな人間にしてはいけません」

大塚の目からは、涙がこぼれていた。

 

 

 

 

ビルから出て少し待つと、黒塗りのキャラバンが走ってきた。窓が開き、運転席から大友の顔が見えた。莉久と二人で乗り込むと、度肝を抜かれた。荷台に銃やボーガンなど武器が整然と並べられていたのだ。

「榎本さん、莉久さん。お久しぶりです」

大友が丁寧に挨拶して、微笑んだ

「大友さん、これって……」

「そこの武器ですか? 万一のことがあったら自分で自分の身を守らないといけませんからね。今の翔さんはマトモじゃないですし」

大友は淡々と言った。キャラバンが発進して一気に加速する。

数十分後、キャラバンは仙台市の郊外、泉区の山奥を走る。目の前には、黒くて角張った、台形の山がそびえている。泉ヶ岳だ。

運転しながら大友がしゃべり出した。

「ウチの社長、実は前々から『菅原が泉ヶ岳に覚せい剤の製造プラントを作っている』って言っていたんですよ。我々の競争相手ですから、ある程度監視をしているんですよ」

目の前で道が分岐している。道の脇に、寂れたラブホテルがあった。真四角で低い建物で、外壁は一面汚れていて、茶色の線が何本も走っていた。その駐車場にキャラバンは停まった。

「ここが私どものアジトです」

車を出て、ホテルの玄関に近づく。大友が玄関脇の端末へカードを当てると鍵の開く音がした。大友がドアを開けて中へ入り、そのままホテルの管理室へ入る。管理室には、テレビモニターが並び、そのモニターを老人がじっと眺めていた。

「オヤジ、今日のスガワラは何をやっている」

「おお、大友ちゃん。あいつ、今日はずっとシャブの製造プラントにいるぞ」

老人はケタケタと笑った。

モニターを覗くと、画面中央の奥に、寺のような建物がある。左には、真新しいプレハブ小屋が数個並んでいて、小屋の窓越しに数人程度の人影が見えた。

大友が画面を見つめながら説明し始めた。

「軍はここから森を一キロ突っ切った場所にあります。部下を軍に忍び込ませて偵察をしています。この映像は部下がつけた監視カメラの映像です。中央が軍の本部。古い寺を改築したらしいです。あのプレハブ小屋がシャブを製造するプラント。売ると金になりますからね」

「そこまでして金を稼いで、翔は何をしたいんです?」

「『人類の救済』だそうです。手段として、オオツカ・ミライ及び日本国を徹底的に破壊するそうです。ちなみに、これはふざけているわけでなく、本気で語っているそうです」

訳が分からない。だが、翔を正気に戻したい。

「どうします? こんなヤバい人間のところへ今から行きます?」

行くしかない。そう思って声を出そうとしたら、莉久が声をあげた。

「行きます」

莉久の目ははっきりと大友を見つめていた。

 

翔へ「泉ヶ岳まで来ている。会って話がしたい」とメッセージを送ると、あっさり許可が出た。すぐに翔から軍までの地図が送られてきた。

もちろん、大友は道のりを知っている。大友は地図が送られる前にすでにキャラバンを発進させた。後部座席には、アジトにいる部下たちが数名乗り込んでいた。

少し走ると、森の中に突然開けた土地が現れた。中央に寺、プレハブ小屋が並んでいる土地は、周囲を金網と有刺鉄線で覆われている。

「ここが翔のアジトです。そしたら私は隠れていますので」

莉久と降りた後、大友はそう言ってキャラバンを停めに森の奥へ行った。

少しして、プレハブ小屋から翔が出てきた。翔はやや煤けた白衣を着ていて、疲れが溜まっているかのように足取りをふらつかせながら、金網の門へやってきた。

「あれ、お前ら。ここまでどうやってきた?」

「知り合いに送られてきたんだよ」

「まあ、いいや。それじゃあ、門を開けるぞ」

翔はポケットから鍵を取り出し、門の南京錠を開けた。門は軋みながらゆっくりと開く。

「ようこそ、神聖軍スガワラへ!」

翔は両手を広げ、俺たちに抱きつこうとした。目はギラギラと輝き、何の感情も読み取れない。翔の中身が、わからなくなった。鳥肌が立つ。根源的な恐怖が襲う。

翔の手を払い除けた。翔は、意外そうな目付きをした。

 

翔に連れられて、寺の広間へあがると、度肝を抜かれた。仏像があるはずの空間には、翔の巨大な写真が飾られていて、その周りを真っ白いバラの造花で覆っていた。

「俺は神だ。神は神らしく、崇められるべきだろ?」

翔は優しげな目付きで造花を触った。

「翔、私たちはあんたを説得しに来たの。いい加減、目を覚まして。翔は神じゃない」

翔へ語りかける莉久は腕組みをして、眉間にシワが寄っている。

「はいはい、それは俺が神だって気づいていないから言うんでしょ。ここで働けばわかsるから」

翔は嘲笑するように言うと、当然のように莉久の頭に手を伸ばした。

莉久に手を出すな。怒りがわく。

「ふざけんな。お前は人間だよ。それに、ここで働く気なんてない」

翔の手を強く払い除ける。

「また俺の手を払いやがって。お前ら、俺が怖いのか?」

翔は写真を背に、俺と莉久へ向かって語りかけた。

「まだ来たばかりだから、仕方ない。俺の意志に賛同してくれた人間はここで共同生活を送る。そのうち、俺が神だと気づいて、しっかりと俺に尽くしてくれる。神聖軍スガワラは人類の救済のため、闇を抱えて堕落した日本国を打倒することを目的とする。戦闘するためには金がいる。今のところは覚せい剤を作って売りさばいているな。奏太と莉久には、覚せい剤工場で働いてもらう。こちらが覚せい剤工場の長、大崎だ。原材料の調達もしている。東北大学の工学部で清掃員をしているから、研究室から薬品を盗んできてくれる」

翔の脇の男が軽く会釈をした。顔の彫りが異様に深くて、古代ローマ時代の彫刻のようだった。目つきはおそろしく冷たくて、鼻はおそろしく突き出ている。しわひとつない作業着をきっちり着こなしていた。

その側には、痩せた男が立っていた。スクエア型の銀縁の眼鏡をして、そわそわしながら手を握っている。

「あの方は?」

「医療部門担当の若生さん。俺たち、臓器売買もしてるんだよね。山を降りたところに寂れたクリニックがあるんだけど、この方はそこの院長。俺に賛同してくれて、臓器を取り出す手術をしてくれるんだ。ドナーは俺の信者の中でも、俺に反抗するヤツだったり、特に出来の悪いヤツ。俺を信じてくれない人間は大嫌いだし、要らない。殺したい。そいつらの臓器を売って、その金で俺に貢献してほしいんだよ。俺は人じゃなくて神だから、殺していい」

「ちょっと待て。お前は人を殺してるのか?」

理解が追いつかない。

「奏太、お前はバカだなあ。死体を捨てていた時とやってる事、そんなに変わらねえだろ?」

「変わってるよ。あの時は人を殺していない。だけど、今のお前は人を殺している」

「人殺しの何が悪い? 戦争なんてどうだ? 軍隊が百万人単位の人間を殺しても、正義のために行えば、罪に問われないし、国から勲章さえもらえる。人殺しが悪いのはね、認められないやり方で殺すからだよ。川内高校を出ているんだから、そんな簡単なこと、理解出来るはずなのに。お前ら、俺に逆らいたいのか?」

「違う。お前を説得にしにきたんだよ。こんなバカげたことやめろ!」

「神の俺に楯突くなんて、お前らは悪いヤツだな。ダメだ。俺たちと働きたくないんだな。それなら生産性がないし、要らない。臓器を売って金にしよう」

翔は閃いたように言うと、満足気に腕組みをした。若生が、カバンから注射器を取り出す。

助けを求めないといけない。大友を呼び出すため、素早くスマホを取りだし、表示させていた通話ボタンを急いで押した。

次の瞬間、遠くから銃声が聴こえた。

「お前ら、謀りやがったな! 殺すぞ!」

翔が叫ぶ。若生が注射器を持ってこちらに近づいてくる。

莉久の手を引いて、逃げようとした。そのとき、大崎が胸元から拳銃を取り出し、翔へ向けた。若生の動きが止まる。

「大崎、お前、なんで俺に銃を向ける……?」

「菅原、あんたは間抜けだ。仙台で覚せい剤の製造をするなんて、オオツカ・ミライが黙ってるわけねえだろ。俺は大塚社長から派遣されたスパイだ。榎本さんと高橋さんに何かあったら、お前を殺していいと大塚社長から許可をとっている。麻薬工場で半年間黙々と働いたけど、ようやく拳銃をぶっぱなせるから俺は嬉しいんだ」

大崎がこちらへ一瞬だけ目線を送った。莉久と一緒に下がる。

背後、寺の入り口側から銃声が聞こえる。大友が乗り込んできたようだ。

大崎は銃口を真上に向けると引き金を引いた。乾いた音が広間に広がる。

「おとなしくここで殺されるか、大塚社長の前に引きずり出されて殺されるか、どっちか選べ」

刹那、翔はけたたましく笑い出した。

「俺はやりたいことをやって生きたいんだ! みんな、俺のことを邪魔しやがって。誰も、俺のことをわかってくれない。親からも、学校からも、ビジネスの世界でも結果が出せなくてポイ捨てされた。もうダメだ。俺みたいなクズには、最初から生きる価値がなかったんだな!」

翔は、後ろに下がり、柱にかかった消火器をいきなり開け、煙を撒き散らした。

「若生! こうなったら、自決するぞ!」

「はい、菅原様!」

煙の奥から、翔の叫ぶ声がする。

柴田は冷静に銃を放った。

乾いた破裂音、薬莢の落ちる音、硝煙の匂い。消火器の煙の埃っぽい匂い。莉久の手を握る。ひどく冷たい。莉久を見る。青ざめていた。

「やだ、やめて……」

「神には生贄が必要だな」

翔の声がした。瞬く間に、莉久は煙の中へ姿を消した。

「り、莉久ーーー!」

急いで手を伸ばした。だが、煙の中からゴツゴツとした手がすっと出てきて、弾かれてしまった。その手は翔のものだった。

 

煙が晴れた。大友の声が聞こえる。

「榎本さん、高橋さん! 大丈夫ですか!?」

「大友さん、莉久が連れ去られた!」

刹那、広間の奥から銃声が数発聞こえた。

「まさか……!」

すぐに音のした方へ駆け寄ると、信じられない光景が広がっていた。

寺の奥まった部屋、バラの造花が数輪転がっていて、そのバラの脇に、翔と莉久が倒れていた。側には若生も倒れている。翔は左手で莉久に抱きつき、右手には拳銃を握っていて、銃口から硝煙がゆらゆらと立ち上っている。翔のこめかみに穴が開いて、その穴からどす黒い血がどろどろと流れ出していた。莉久は恐怖に怯えた顔のまま目を見開き、胸、喉、こめかみを撃ち抜かれていた。

翔が自殺した。そして、翔は莉久を道連れにした。そう、理解するのに時間がかかった。

膝から崩れ落ちた。

嘘だ、嘘だ。こんなの、認めたくない。

「う、うわああああああああ! 莉久、死なないで! 俺はお前がいなきゃ生きる価値がないんだ!!」

一人になるのは嫌だ。俺も死ななきゃいけない。そう思って、翔の手が拳銃を取り出し、こめかみに突きつけた。

すると背後から柴田の悲しげな声が聞こえた。

「榎本さん、その銃、弾が切れてます。銃スライドが下がりっぱなしで、ホールドオープンになってます」

死にきれなかった。俺は、死にぞこないのクズだ。銃を落として、その場にうずくまった。

 

 

 

 

オオツカ・ミライによって、翔と莉久の遺体は処理された。

翔は覚せい剤の製造でオオツカ・ミライの業務を妨害していたため、逆鱗に触れた大塚社長が直々に復讐をした。翔の存在をこの世界から抹消するため、翔の遺体は大塚みずからが解体。何十個にも分割され、東北大学青葉山キャンパスの裏に広がる広大な原生林に捨てられた。

莉久は翔の自殺に巻き込まれて亡くなっただけだが、有名人の莉久が殺されたと発覚すると、社会的影響が大きい事件とみなされ、警察の入念に捜査すると考えられる。オオツカ・ミライにも捜査の手がおよぶかもしれない。大塚社長の命令で、莉久を事故で死んだと見せかけることになった。

真夜中、オオツカ・ミライの社員たちとともに、愛宕山脇のカーブにいた。社員たちはそのカーブに莉久の遺体を載せたキャストを停車させた。そのカーブにめがけ、全長十八メートル、総重量二十八トンコンテナトレーラーが猛烈なスピードで走ってくる。運転手は、オオツカ・ミライの金融部門の子会社から数千万円単位の借金があったが、返済できず、オオツカ・ミライは借金の回収のため、多額の保険金をかけた運転手を事故死させ、その保険金をとろうという算段だ。

LSDで錯乱した運転手は、なんの迷いもなくカーブに突っ込んだ。莉久のキャストは文字通り潰れて、その潰れた車体から莉久の肉片が見えた。その場で嘔吐した。あっけない最期。おぞましかった。両親はここで死んだ。莉久は肉の塊にされた。大事な人はみな、いなくなった。絶望が目の前を覆う。

 

翌朝、警察がカーブへやって来て事故の捜査をしたが、遺体の損壊が激しく死因の特定すらままならなかったという。昼過ぎ、シワひとつない制服を着た、同年代の警察官が土樋のマンションへ来て、事故の参考人として警察署へ連れていかれた。真っ白い取調室で、年老いた刑事たちに囲まれて事情聴取をされた。事件に何の関係もないことを説明するため、大塚から事前にもらった想定質問集にしたがい、機械的に回答した。全員、なんの疑いもなく納得し、俺を家に送り返した。大塚に「警察から帰ることができた」と事務的なメールを送ったが、全く返事が来なかった。仕事で付き合い出して四年、すべてのメールを三十分以内に送り返すはずの大塚が、このメールを送り返さなかったということは、俺のことを無視したということと同じ意味だった。

夜、なにもない土樋のマンションで、ただ呆然と天井を眺めていた。翔は狂って死んだ。莉久は翔の道連れにされ、殺されたあげく、肉の塊にされた。理解が追いついていない。他人事のように思えた。

そのとき、チャイムが鳴った。玄関をあけると、會田がいた。シワだらけのスーツを来て、顔を真っ赤にして、目を腫らしている。

「會田、なんで俺の家を知ってる?」

「同窓会のツテで知ったってところかな」

會田はそう言うと、手提げ袋から、ピンク色の箱を取り出した。

「莉久、シーシャ吸うんだったよな。たしかストロベリーのフレーバーが好きだって、グラビアの記事に乗っていた。これ、置いていくわ」

會田は力が抜けたように座り込んだ。

「社会部のヤツに聞いたよ。莉久、ひでえ死に方をしたんだってな」

「ああ、カーブでトレーナーに追突されて、ミンチにされた」

莉久が死んだことが、いまだに自分の中で消化できず、淡々と言ってしまう。

「まあ、社会部の連中、あれが本当に事故だったか疑わしいって騒いでいたぞ。偶然の事故にしては、できすぎている。まず、トレーラーの運転手は職を失って失業中。トレーラーはオオツカ・ミライが所有しているもので、運転手は多額の借金をオオツカ・ミライ関連の金融業者から借りている。運転手にかけられた保険、名義人は株式会社SG。お前らの会社、スガワラ王国の精算会社だ。そして、莉久はスガワラ王国の副社長。なあ、奏太。あれは本当に事故だったのか?」

「……ああ」

弱々しく呟く。會田は哀愁と憎悪そして、失望が混じりあった、複雑な表情をした。

「疑わしいことがたくさんありすぎて、とても困る。新聞社にいる人間としては、お前を地の果てまでも追ってでも、真実を知らないといけない。けど、同級生が容疑者になるのは、嫌だ。それに、莉久のコスプレ、すごく好きだったんだよね。あいつのキレイなイメージを、永遠に残しておきたい」

「そうだったら、俺のことをこれ以上追求するな。俺も、莉久をキレイなまま、記憶に残しておきたい」

「仙台にいたら、うちの新聞社も系列のテレビ局もうるさくなるぞ。悪いことは言わない。仙台から出ていけ」

「そうするさ。どうせ、あと数日でこの家を引き払って東京へ行くし」

「そうか、ならいい。ところで、莉久の葬式はどうなるんだ?」

「芸能事務所が主催して密葬。表向きは突然の引退にするんだって」

「死んだことすら隠されるってわけか。ほら、このフレーバー、置いておくぞ。莉久にささげてほしい。それが俺からの願いだ」

會田はそう言うと、玄関から出ていって、扉を閉じた。そして、扉の向こうから、思い切り何かを叩きつける音が響いた。

 

数日後、警察から莉久の骨を引き取った。回収できた骨はほんのわずかな量だった。

夕方六時、その骨が入った骨壷を持って、仙台駅の東北新幹線上りホームへやってきた。この骨壷を東京まで持っていって、明日事務所が開く葬式へ行く。

莉久は家族がいない。俺と結亜が葬式に出る予定だったが、莉久の死にショックを受けた結亜はもう何日も寝込んでいて、葬式には参加できる状態でなかった。結亜の家に見舞いにいったが、ベッドに伏す結亜はうわごとのように「莉久さん、私もそっちにいくからね」とつぶやいていた。

莉久が結亜をひっぱろうとしている。そう思った。だが、なんで俺じゃないんだと思った。葬式が済んだら、何もすることも無い。職もない。もともと上京したら莉久の芸能事務所で働くことになっていたが、莉久が死んだ以上、雇われるかどうかわからない。

ふと、階段から、太くしわがれた声が聞こえた。この声はよく知っていた。翔の父で、翔が死んだまさにその日に東北大学の総長に就任した、菅原良雄だった。今では仙台の有名人。毎日、何かしらのニュースに取り上げられている。

良雄は取り巻きに囲まれて、げすびた笑い声を上げていた。

「俺の息子は生きる価値のないクズ中のクズ。家の恥。生まなきゃよかった! あんな奴、行方不明になってくれて、正解だ。もうこのまま死ねばいいのに!」

取り巻きは引き気味に愛想笑いをした。

こんな親に生まれて来なければ、翔はもっといい人生を送れたに違いないだろう。無念だった。

新幹線に乗り込む。後方の座席には、良雄が座っていて、延々と翔の悪口を言っている。気分が悪い。こいつを黙らせないといけない。

良雄は席から立ち上がり、歩き出した。軽く足を伸ばす。良雄は足にひっかかり、思い切り転倒した。良雄は床にうずくまっている。

「す、すいません、大丈夫でしたか?」

良雄に声をかける。

「ああ、失敬。私も年でね。つまづくんだよ」

良雄は立ち上がり、さらに前方は歩く。そして、俺は良雄の背中に向かって、聞こえるか聞こえないかの音量で言った。

「クズにも生きる価値があるんだよ。ふざけんじゃねえよ」

良雄は一瞬だけ立ち止まったかのように見えたが、そのまま歩き出した。

発車ベルが鳴る。新幹線はゆっくりと動き出して、東京を目指す。嫌なことだらけのクソ田舎から離れられる。上京しても、嫌なことだらけかもしれないが、こんな街よりはマシだろう。

すぐに、大年寺山のテレビ塔が見えた。緑色にライトアップされている。明日の仙台はおそらく雨だろう。だが、もう仙台の天気なんて、どうでもよかった。明日の東京の天気を調べるため、スマホを取り出そうと胸ポケットへ手を入れようとした。手の甲に大粒の涙がこぼれ落ちた。翔と莉久が死んで、初めて流した涙だった。

(了)

 

2022年4月24日公開

© 2022 蒼城アタル

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